加曽利E式土器 ― 2024年11月21日 00:15
加曽利E式土器(かそりいーしきどき)は関東地方の縄文中期後半の土器である。
概要
深鉢型を主体とし、丸みのある口縁、くびれた頸部、そして膨らみを持った胴部で構成される。器形のバラエティは少なく器種は深鉢と浅鉢に限定される。千葉市の加曽利貝塚のE地点で出土した土器を標識とする。 装飾表現は過度では無く、隆帯と沈線によって比較的簡素な文様を呈する。 加曾利 E1 式は丸みのある口縁部とくびれた頸部を持ち、筒状の胴部から口縁部に向けて広がる深鉢型である。対応して文様帯は口縁部と胴部に分かれ、口縁は渦巻き、胴部は撚紐を縦方向に転がす縄文で装飾される。加曾利 E 2 式は隆帯と撚紐により比較的簡素な文様となる。加曽利E2式は口縁部、頸部、胴部に3帯の文様帯を持ち、特に頸部の無文帯の形成が特徴である。加曾利 E 3 式 は胴部の沈線間の縄文のすり消しが発達し、さらに口縁部文様帯の衰退と胴部文様帯との一体化が進む。底部は小さくなり、不安定化が進む。 縄文中期の派手な隆帯文は形式変化の過程でなくなる。古いものは土器の口縁部から底部まで隆帯文がつくが、やがて口縁部だけに集約され、胴部の文様はなくなる。
出土例
- 加曽利E式土器 - 丸山遺跡、狭山市柏原、縄文時代中期
- 加曽利E式土器 - 浅間東遺跡、埼玉県北葛飾郡松伏町、縄文時代中期
考察
参考文献
堺市立みはら歴史博物館 ― 2024年11月20日 23:13
堺市立みはら歴史博物館(さかいしりつみはられきしはくぶつかん)は大阪府堺市にある「河内鋳物師」と「黒姫山古墳」を、メインテーマとした市立の歴史系博物館である。
概要
2003年(平成15年)3月30日に旧美原町立みはら歴史博物館として開館した。美原町は2005年2月1日に隣の堺市に編入合併され、堺市立みはら歴史博物館となった。 黒姫山古墳は長114メートル、前方部幅65メートル、前方部高さ11.6メートル、後円部径64メートルの二段築成の前方後円墳である。黒姫山古墳は古墳時代中期(5世紀中頃)に、この地域で勢力を誇っていた丹比氏によって築造されたと考えられている。1947年(昭和22年)ころに末永雅雄博士らによって発掘調査が行われ、前方部中央から堅穴式石室が発見された。石室の中からは24領の甲冑など大量の鉄製武具、武器が出土した。 中世・鎌倉時代には、河内鋳物師(かわちいもじ)と呼ばれる鋳造技術者集団が、東大寺再興や鎌倉大仏の鋳造などで活躍し、全国の鋳物師発祥の地として知られる。河内鋳物師はその高い技術を評価され、堺に移り住み、鉄砲を製造するようになった。ホールを併設しており、講演会・音楽会・映画会等の催しが開催される。
展示
黒姫山古墳
- 冑 24個
- 三角板鋲留短甲
- 横矧板鋲留短甲
- 襟付短甲
- 眉庇付冑 13個
- 鉄刀14本
- 鉄剣 約10本(以上)
- 鉄鏃 56本
- 鉄刀子5本
- 鉄鉾ほこ9本
- 衝角付冑
- 円筒埴輪
- 蓋形埴輪
河内鋳物師
- 旧新楽寺梵鐘 大工 丹治国則作
アクセス等
- 名称: 堺市立みはら歴史博物館
- 観覧料:常設展:200円
- 休館日:月曜日(祝日のときは開館し火曜日休館)、祝日の翌日(土曜・日曜日、祝日のときは開館)
- 開館時間:午前9時から午後5時15分(ホールの利用が有る場合は、午後9時まで)
- 所在地:〒587-0002 大阪府堺市美原区黒山281
- 交通: 近鉄南大阪線河内松原駅から近鉄バス余部(あまべ)行き・「大保(だいほ)」下車徒歩すぐ
参考文献
臼玉 ― 2024年11月20日 23:03
臼玉(うすだま)は小さい臼形の玉のアクセサリーである。
概要
滑石でつくられた直径5mm前後、厚さ3mm前後の小さな玉である。勾玉や管玉・小玉と組み合わせて用いられる。滑石製で祭祀用として大量に出土する例が多い。丸玉の上下を研磨し平坦にしたもの。 稲生遺跡ではほとんどの竪穴建物の埋土から臼玉が出土しており、各住居において玉を使った祭祀が行われていたとみられる。 駒沢祭祀遺跡では祭祀遺構である4か所の土器集積遺構のすべてから出土し、特に出土量の多い1号址では900個以上を出土した。
出土例
- 臼玉 - 三重県伊勢市宇治舘町皇大神宮境内出土、
- 臼玉 - 稲生遺跡、三重県鈴鹿市稲生町字稲生山、古墳時代後期
- 臼玉 - 駒沢祭祀遺跡、長野市大字上駒沢 駒沢新町、古墳時代前期末から後期
- 滑石でつくられた直径5mm前後、厚さ3mm前後の小さな玉
- 臼玉 - 中原第1号墳、 静岡県富士市、古墳時代
- 臼玉 - 城泉遺跡
- 土坑(穴)の土の中から臼玉が5点出土した。子持勾玉が見つかったのと同じ層位(上層)で出土しており、子持勾玉と一緒にマツリで使われたと考えられる。
参考文献
- 大塚初重(1996)『古墳辞典』東京堂出版
埼玉県立さきたま史跡の博物館 ― 2024年11月20日 22:09
埼玉県立さきたま史跡の博物館(さいたまけんりつさきたましせきのはくぶつかん, Museum of The Sakitama Ancient Burial Mounds)は国指定史跡「埼玉古墳群」及び「菅谷館跡」の保存と整備・活用をはかり、埼玉の考古資料の収集保管・調査研究・展示公開・普及啓発等を行う博物館である。風土記の丘公園の一角にある。
概要
展示室は「国宝展示室」、「将軍山古墳展示館」と「企画展示室」の3つである。 国宝展示室の稲荷山古墳金錯銘鉄剣(稲荷山古墳出土鉄剣)は、剣身の両面に計115文字の銘文が金象嵌で記されており、古代史研究上の一級資料である。銘文中に「辛亥年」の年紀と「獲加多支鹵大王」の人名が書かれる。 企画展示室は「家形埴輪」、「二子山古墳の発掘成果」、「鴻巣市 新屋敷遺跡―埴輪工人の奥津城―」などテーマを定めて、関連資料を展示する。2023年9月1日から2024年4月1日までリニューアル工事(屋上防水や館内の空調設備、電気設備などの改修)のため閉館していた。「稲荷山古墳金錯銘鉄剣」の実物はしばらく展示されず、レプリカが展示されている。
展示室
国宝展示室
埼玉稲荷山古墳の埋葬施設から出土した出土品を展示する。
- 国宝 稲荷山古墳金錯銘鉄剣(稲荷山古墳出土鉄剣)
- 画文帯環状乳神獣鏡
- 弾琴男子人物埴輪
- ヒスイの勾玉や鏡などの副葬品
- 将軍山古墳から出土した馬冑
- 蛇行状鉄器
- 将軍山古墳の横穴式石室から出土した副葬品。行田市酒巻14号墳出土の馬形埴輪の一つに旗指物を付ける金具が描かれており、その形状は蛇行状鉄器に類似していることから、この鉄器が旗竿を差す金具と判明した。
- 鞍金具
- 竜文透彫帯金具
- 龍と唐草文様を組み合わせた図像を透かし彫りにする。中国の晋式帯金具の影響を受けて朝鮮半島で作られたとみられる。
- 弾琴男子人物埴輪
- 瓦塚古墳の中堤に並ぶ形象埴輪群の中心的な埴輪の一つ。長い下げ美豆良と後ろに垂らした髪、胡座、右膝上の琴と右手の撥、腰に佩く刀などの所作は当時の高貴な人物を表す。
- 水鳥埴輪
- 瓦塚古墳の中堤に並んでいた形象埴輪群の中で動物埴輪が集中する範囲から出土した埴輪である。
- 装飾付須恵器・高坏形器台
- 奥の山古墳の造出しから集中して出土した須恵器。
- 須恵器大甕
- 鉄砲山古墳の横穴式石室の近くから出土した甕。
- 奥の山古墳の造出しから集中して出土した須恵器
- 須恵質埴輪壺
- 中の山古墳の内堀から出土した壺である。埴輪の代替品として古墳の周りに樹立された、須恵器の製作法による壺である。
将軍山古墳展示館
- 馬冑
- 将軍山古墳から出土した馬の頭に着ける冑。朝鮮半島では新羅や伽耶の古墳から出土している。元は高句麗の系譜である。日本国内は将軍山古墳のほか和歌山県和歌山市大谷古墳と福岡県古賀市船原古墳の3例のみ。
企画展示室
- 埼玉古墳群や古墳時代に関連するテーマの企画展示を開催する。
2024.10.05-2024.12.01 企画展
- 令和6年度 企画展「古墳時代の装い-おしゃれな古代人-」
- 古墳時代の人々の「装い」や「おしゃれ」に関する資料を展示する。
- プロローグ おしゃれな古代人
- 第1章 古墳時代のファッション
- 第2章 古墳時代のヘアメイク
- 第3章 古墳時代のアクセサリー
- エピローグ 「おしゃれ」から古墳時代を考える
アクセス等
- 正式名称:埼玉県立さきたま史跡の博物館
- 開館時間 : 9時~16時30分(入館受付は16時まで)
- 入館料 : 一般 200円
- 休館日 : 月曜日(祝日、振替休日、埼玉県民の日(11月14日)を除く)
- 所在地 :〒361-0025 埼玉県行田市埼玉4834
- 交通 : 吹上駅または行田駅
- JR吹上駅(北口)から朝日バス 佐間経由 行田折返し場・総合教育センター・行田工業団地行 乗車(乗車時間約10分)
- 行田駅から市内循環バス市内循環バス「観光拠点循環コース」 乗車時間約25分 (150円)
参考文献
- 金井塚良一(2008)『馬冑が来た道』吉川弘文館
- 神谷正弘(2006)「中国・韓国 ・8本出士の馬冑と馬甲」東アジア考古学論叢: 日中共同研究論文集
- 太田博之(1994)「埼玉将軍山古墳 出土馬冑資料の基礎研究」日本考古学
面縄貝塚 ― 2024年11月20日 00:47
面縄貝塚(めんなわかいづか)は鹿児島県大島郡伊仙町面縄に所在する貝塚時代前1期(縄文時代早期~前期並行期) からグスク時代( 中世並行期) にかけての遺跡である。
概要
1928年(昭和3年)に発見され九州島と沖縄地域を繋ぐ土器群と位置付けられる徳之島最南端部の海岸砂丘と琉球石灰岩の丘陵崖下に立地する。琉球列島の代表的な遺跡である。発見以来、著名な考古学者や人類学者が学術調査をした。面縄小学校の周囲に4つの遺跡(第一貝塚から第四貝塚)が確認された。縄文時代における海岸砂丘上及び石灰岩地帯に立地する奄美・沖縄地域の典型的な集落遺跡である。建物、炉、貝塚などの生活の痕跡があり、洞窟や岩陰を利用した埋葬跡が検出された。約3500年前以降は、遺跡が南側海岸に広がった。平成19年から平成27年の調査では、遺跡の範囲が従来より大きく広がることが判明し,遺跡の形成過程が見えてきた。出土した貝類や魚類の鑑定では、大半が珊瑚礁に生息するものであった。
調査
戦前調査
戦前の調査では縄文時代の南九州や沖縄諸島と類似した土器が発見され、奄美群島が両者の結節点であると見られた。昭和5年、早稲田大学学生であった小原一夫は、昭和5年10 月と翌年7月徳之島を訪れ、面縄尋常高等小学校の裏手畑地に新たな貝塚を発見し、伊仙町在住の研究者の廣瀬祐良によって調査された貝塚を「面縄第一貝塚」、新発見の貝塚を「面縄第二貝塚」と命名して両遺跡の発掘調査を行なった。これらの土器は「面縄前庭式」「前縄東洞式」「前縄東洞式」と命名された。昭和に入ると九州での発掘調査が進展し、南九州と沖縄本島における出土土器の類似性が指摘され(山崎1924)、九州と沖縄本島の間に位置する奄美諸島における土器様相が注目されていた。
第一次調査
第一次調査は昭和57年10月4日から11月9日実施。 第一貝塚は大村行長により発見され、昭和5年、10年に調査が行われた。第二貝塚は昭和5年に小原一夫が発見し、、昭和10年、昭和28年、昭和29年の調査を経て、昭和31年に九学会連合会奄美大島共同調査委員会考古班が本格的な調査を行った。
第二次調査
第二次調査は昭和59年11月12日から12月9日実施。第三貝塚は河口貞徳が発見した場所である。第四貝塚は第二貝塚の150m北の珊瑚礁の崖地にある。昭和29年8月に国分直一と三友国五郎により発見された。昭和31年8月に9学会の調査が行われた。
第一貝塚
第一貝塚は貝塚、洞穴、開地の遺跡である。遺構として第一洞穴に埋葬施設が発見された。石棺は第四層に埋葬され、箱式石棺墓であり、左側石に大型石灰岩塊、右側に14個の石灰岩塊を使用し、両小口には扁平な石灰岩塊を使用し、頂部は中央部を削った状態である。 土器は兼久式、面縄前庭式、市来式、爪形文が検出した。多量の貝製品が出土し、用途により装飾品と実用品がある。石器は砂岩を用いた抉りのある石斧である。
第二貝塚
縄文時代後期の居住域である海岸砂丘上にある。土器は嘉徳Ⅰ式土器、嘉徳Ⅱ式土器が出土する。
第三貝塚
奄美地域の古墳時代後半期から古代にかけて分布する兼久式土器の標識遺跡である。面縄第l・第2貝塚の発掘調査のときに河口貞徳氏によって発見され,地名をとって兼久貝塚と名づけられた。特徴のみられる土器の器形は深鉢形平底、口縁部は外反する。底部に木葉の圧痕を呈す。文様は沈線文が主であり、粘土紐をはりつけた凸帯を頚部に施し,凸帯上に刻目を施す。第二貝塚の東方230m にある。第三貝塚は、洞窟と貝塚からなる遺跡である。 石器は,円礁を利用した磨石・石皿・チャー卜剥片が出土した。
第四貝塚
第四員塚は昭和29年8月、国分直一が三友国五郎と共に面縄第2員塚を調査したときに発見された。貝殻条痕文を施す土器片・小形石斧、大型石斧・凹石・石皿・貝器等の人工遺物の他多量の獣・魚骨が出土した。
遺構
- 集石遺構 - 火を扱う炉と見られる、中央に深さ50cm程度の彫り込まれた穴がある。
- 箱式石棺墓
- 貝塚
遺物
- 貝製品 - 線刻を施す。
- 貝製腕輪 - オオツタノハ製の腕輪、長さ7.5cm。
- 鏃状貝製品 - ヤコウガイ製、長さ2.9cm
- 縄文土器(宇宿上層式+宇宿下層式)
- 兼久式土器
- 深鉢形平底土器
- 石器 - 磨石、石皿、小形石斧、大型石斧・凹石
- 骨器
- 貝器
- サメ歯製品 - ペンダントのように下げるアクセサリー
展示施設
指定
- 2017年02月09日 - 史跡名勝天然記念物「貝塚、集落跡、古墳その他この類の遺跡」
考察
アクセス等
- 名称: 面縄貝塚
- 所在地: 鹿児島県大島郡伊仙町面縄2357
- 交通:
参考文献
- 鹿児島県大島郡伊仙町教育委員会(2016)「面縄貝塚 総括報告書」平成19 ~ 27 年度町内遺跡発掘調査等事業に係る発掘調査報告
- 文化庁(2017)「発掘された日本列島」共同通信社
七道駅路 ― 2024年11月19日 14:20
七道駅路(しちどうえきろ)は古代の官道である。
概要
七道は北陸道・東山道・東海道・山陰道・山陽道・南海道・西海道の7つである。 それぞれの国府を最短距離で結んだ道路である。七道駅路の幅員は、初期は12m、その後は9mまたは6mと変更された。幅員が広い道路である。見通しの良い2点を結んで直線的に敷設されており、最短距離をとるため少ない勾配はあまり気にしない。 古代律令制で駅使が通行する官道を定めた。
駅家
駅家は、いまで言う「駅」に相当する。中央もしくは国府が発給した駅鈴を携行する駅使のみが駅馬(やくか)を用いることができた。 七道の各幹線道路に沿って駅家を30里(約16キロメートル)ごとに設置することを基本としていた。険しい山岳地帯や馬の食事となる牧草がないところは16キロメートルごととされた。京と地方を往還する急使では、駅ごとに馬を乗り換え、食料の提供を受けていた。
七道駅路制定の目的
迅速な伝令の必要性から作られた道路網である。中央政府の命令・地方国司の報告・緊急事態の文書連絡など、駅使は七道を用いて駅馬を乗り継ぎ文書を運んでいた。軍団の移動が千人から数万人の規模で行われるなど大量移動の必要性があった。
幅員縮小
797年の胆沢城設置により、大規模な征夷はほぼ集結した。維持管理のやりやすさから、適切な幅員に再編成された。
参考文献
- 木下良他(2018)「古代の道と考古学 (季刊考古学」雄山閣
- 武部 健一,他(2004)『完全踏査 古代の道』 吉川弘文館
玳瑁 ― 2024年11月19日 13:30
玳瑁(たいまい,tortoiseshell)はウミガメ科に分類される亀である。玳瑁の甲羅からつくった装身具や装飾品も玳瑁という。
概要
玳瑁の甲羅は透明の黄色地に黒褐色の斑が入った模様が特徴となる。 ほかの亀に比べて模様が美しく、熱をかければ細工ができる。玳瑁の背甲は「鼈甲細工」「べっこう」の材料として古来から珍重されており、装身具・美術工芸品の材料として使われた。中国ではこの玳瑁細工の工芸品が6世紀末頃にはすでに作られており、8世紀の唐時代に盛んに制作されている。ワシントン条約の発効により、日本への輸入は停止されている。国内においても、玳瑁の全形を保持した物や原材料の甲羅を取引する事業者には経済産業省の「特定国際種事業者」届け出が必要となる。日本の法律では、ベッコウ製品の国内取引は、剥製や全形の甲羅など一部を除いて、規制がされていない。、製造業者の手に渡った密輸由来のタイマイの甲羅は、製品へと姿を変えると、合法なものとして市場に流通することになる。
生息地
南方の海域やカリブ海、インド洋の海域に生息するウミガメである。昭和56年1月の長崎県発行のべっ甲製品についての調査書によれば、次の産地がある。
- カリブ海産 - キューバ、パナマ、ケイマン諸島、その他十六カ国
- 太平洋産 - インドネシア、マレーシア、フィリッピンなどその他八カ国
- インド洋産 - ケニヤ、タンザニヤ、などその他十二カ国
日本での使用
日本でのべっ甲の歴史は、飛鳥・奈良時代に始まる。聖徳太子は小野妹子を隋に遣わし玳瑁をもたらしたという伝説がある。 1975年にワシントン条約が発効し、日本への輸入は現在、停止されている。
鼈甲の由来
1841年(天保12年)、十二代将軍徳川家慶の時、老中首座の水野忠邦は天保の改革により贅沢を制限する奢侈禁止令を出した。華美な祭礼や贅沢・奢侈はことごとく禁止された。 そこである藩主が婚礼に際し「是非ともタイマイ製品は必要である」と考え、幕府に対して「玳瑁は唐より渡来した高価品であるが、わが日本内地の亀の甲で作る品は差し支えなきや」と苦肉の上申を行い、「鼈甲(すっぽんのこう)で作る品ならば一向に差し支えなし」と許可を得た。以来玳瑁の名称は鼈甲(べっこう)と改称されたという説がある。別説として、徳川幕府は贅沢禁止令で玳瑁の甲羅の細工物を禁じたため、商人はこれを「鼈(すっぽん)の甲」と称して売った。ここから「たいまい」を「べっこう」とも言うことになったとされる。
正倉院宝物
- 玳瑁螺鈿八角箱 第19号
- 玳瑁竹形如意 第1号
- 沈香把玳瑁鞘金銀荘刀子 第17号
- 螺鈿紫檀五弦琵琶
- 「正倉院珍宝帳」に「亀甲鈿 捍撥。 納 紫綾袋 浅緑﨟纈裏」と書かれる。
- 金銀亀甲盒
- 長方形の箱に玳瑁が貼り付けられる。金銀箔の上に玳瑁のうすい板を亀甲型に成形しはりつける。
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