八戸市博物館 ― 2026年10月21日 00:04
八戸市博物館(はちのへしはくぶつかん)は青森県八戸市に所在する市立の歴史博物館である。八戸の歴史・考古・民俗・無形文化資料を収集・保存・展示するとともに、国史跡根城跡のガイダンス施設としての役割も担っている。
概要
1983年(昭和58年)、「八戸市制施行50周年記念事業」の一環として1983年7月に開館した。初代館長は郷土史家の正部家種康である。 縄文時代から近世・近現代に至る八戸地域の考古・歴史・民俗資料を収蔵しており、丹後平古墳群出土品などの重要文化財、農具・漁具などの民俗資料、えんぶりや八戸三社大祭など地域の祭礼・芸能に関する資料を収蔵している。2025年現在で、常設展示室に約1,000点、収蔵庫内に約74,000点(あわせて約75,000点)の文化財を有する。 現在はリニューアル工事のため長期休館している。
主な特徴と構成
根城跡の敷地内立地
中世に南朝方の一大拠点として南部師行が築城した「根城」の跡地(史跡 根城の広場)に隣接する。1994年10月に「史跡 根城の広場」を開設した。主殿のほか、工房・板蔵・納屋・馬屋などが復原整備された。ボランティアの史跡ガイドが史跡の案内を行う。
丹後平古墳群出土品
7世紀後半から8世紀前葉に築造された丹後平古墳群から出土した資料で、金装獅噛三累環頭大刀柄頭などを含む。東北北部における古墳文化の展開や、古代の地域社会と中央との関係を考える上で重要な資料であり、一部が重要文化財に指定されている。
時期と性格
飛鳥時代中頃から平安時代前期(律令制の支配が及ばない東北北部における「末期古墳」)にかけて作られたものである。
装身具・刀剣類
- 勾玉(132個を含む約18,00個の玉類)やガラス玉、鈴、錫(すず)製の腕輪など。
- 蕨手刀(わらびでとう)や方頭大刀などの鉄製武器。
- 朝鮮半島(新羅)製とみられる黄銅製の「金装獅噛三累環頭大刀柄頭」は象嵌と鍍金を併用した極めて精緻な作りである。
4つの常設展示室(リニューアル前の展示構成)
「よみがえる歴史・ひらけゆく未来」をメインテーマとして、「考古展示室」「歴史展示室」「民俗展示室」「無形資料展示室」の4つの展示室で構成される。
- 考古展示室
- 八戸の縄文時代から中世までの歴史を、遺跡から出土した資料によって紹介する。
- 縄文時代
- 重要文化財に指定された「丹後平古墳群出土品」が展示される
- 長七谷地遺跡、田面木平遺跡、蟹沢遺跡、松ヶ崎遺跡、町畑遺跡、八幡遺跡など、八戸地域の主要遺跡から出土した資料を展示する。
- 縄文の部屋
- 歴史展示室
- 中世の根城を拠点とした南部氏の歴史から、江戸時代の八戸藩成立と城下町の形成、さらに近代以降の八戸までを、古文書・武具・絵図などの資料によって紹介する。
- 民俗展示室
- 八戸地域の人々の暮らしや生業、衣食住などに関する民俗資料を展示し、近代以降の地域生活の変化を紹介する。
- 無形資料展示室
- 八戸地方に伝わる民話、わらべ唄、民謡、方言、祭りなどの無形文化を、音声や映像などによって紹介する。
八戸市博物館の意義・位置づけ
八戸市博物館は、縄文時代から近現代までの八戸地域の歴史を、考古・歴史・民俗・無形文化の各分野から総合的に紹介する地域博物館である。特に、丹後平古墳群出土品に代表される古代北東北の考古資料、根城南部氏と中世城館、八戸藩と城下町に関する歴史資料、えんぶりや八戸三社大祭などの地域文化を一体的に扱う点に特色がある。また、国史跡根城跡に所在し、隣接する史跡根城の広場と一体となって、中世八戸の歴史を体験的に理解できる拠点となっている。
アクセス等
- 名称:八戸市博物館
- 所在地:青森県八戸市大字根城字東構35-1
- 休館:2025年10月6日~2027年6月30日(予定)
- リニューアル工事のため長期休館中。なお、隣接する史跡根城の広場は通常どおり開場している。
- 交通: JR八戸駅から市営バス・南部バスの田面木経由に乗車し、根城バス停下車、徒歩約1分。
参考文献
- 八戸市博物館・史跡 根城の根拠地 収蔵資料目録
お亀石古墳 ― 2026年10月20日 00:05
お亀石古墳(おかめいしこふん)は大阪府富田林市に所在する終末期古墳である。
概要
市内中央部を北流する石川の西岸に南北方向にのびる羽曳野丘陵上標高約97mに位置する。北側にオガンジ池瓦窯跡が2基ある。 南側は谷地形となっており、築造当時は谷沿いに流水が存在した可能性がある。
北・西・東を尾根に囲まれ、南に谷が開く立地であり、風水思想を意識した地形選択の可能性が指摘されている。中世に改変を受けて古墳の形が変わっていましたが、墳丘東側と北東側では古墳築造時の墳丘盛土が古墳の裾部まで残っていた。その裾部が石槨の中心から10.5mの位置にあることから、古墳の東西幅が一辺約21mと推定された。また古墳の裾が直線的に伸びることから、方墳と推定された。
妻面に開口部を設けた横口式石槨の特異な構造である。石棺は刳抜式の横口式家形石棺である。 横口式石槨の周囲には横口式石槨の外周には平瓦を立て並べた護壁状施設が築かれている。用いられた平瓦は、新堂廃寺所用瓦と同笵・同系統で、近接するオガンジ池瓦窯跡で焼成されたものと考えられている。露出している凝灰岩製の家形石棺の蓋に縄掛突起があり、その形が亀に似ていることから「お亀石」と呼ばれる。 横穴式石室から横口式石槨への移行段階を示す古墳として評価されている。
-調査
1960年(昭和35年)に発掘調査を行い、石棺周囲に平瓦を立て並べた護壁状施設であった。この瓦は新堂廃寺創建に用いたものである。2002年(平成14年)には墳丘等の発掘調査を行い、従来は径15mの円墳と想定されていたが、実は一辺21mの方墳であり、羨道入口は本来、河原石による閉塞施設で封鎖されていたことが判明した。
意義
歴史的・学術的な意義は、7世紀後半の終末期古墳において、仏教寺院の造営(瓦の生産・使用)と豪族の墓制が直接結びついている実態を具体的に示す稀有な遺跡である。
見所
最大の見どころは、玄室に相当する空間を設けず、家形石棺そのものを埋葬主体とした横口式石槨である。家形石棺をそのまま主体部とした特異な「横口式石槨」の構造である。墳丘に登ると間近に石棺の蓋や突起を観察できる。横穴式石室と異なり、部屋にあたる「玄室」はなく、大型の家形石棺の妻面(正面)に直接開口部(入り口)と羨道を接続している。
遺構
- 方墳
- 横口式石槨
- 墳丘盛土区画溝
- 平坦面(墳丘周辺)
- 土壙(後世の遺構を含む)
遺物
- 須恵器 短頚壺1点、坏身1点、甕口縁部1点
- 土師器
- 瓦器
- 鉄器
- 瓦器・銅銭(中世の改変に伴う出土)
展示
- なし
指定
- 文化財指定: 「指定なし」
アクセス等
- 名称 :お亀石古墳
- 所在地 : 大阪府富田林市大字中野
- 交 通 : 近鉄長野線「富田林駅」から徒歩約10〜15分
参考文献
- 富田林市教育委員会(2002)『富田林市埋蔵文化財調査報告33:平成13年度富田林市内遺跡群発掘調査報告書』富田林市教育委員会
青田遺跡(新潟県) ― 2026年10月19日 00:05
青田遺跡(新潟県)(あおたいせき)は新潟県新発田市に所在する縄文時代の遺跡である。
1.概要
紫雲寺潟は江戸時代に干拓されるまでは水深3m、面積2,000haを有していたとされている。東西長(縦)約6km、南北長(横)約4kmの潟とされている(日本史広辞典編集委員会(2016))。 青田遺跡は、1733年(享保18年)に干拓された紫雲寺潟の底から1998年に発見された。発掘調査は1999年から2001年にかけて行われた。 当時の木材が残り掘立柱や木の実や漆製品などの有機質遺物が検出された。
2.発掘調査
新潟県教育委員会が発掘調査主体となり、財団法人新潟県埋蔵文化財調査事業団(以下、埋文事業団)に調査を委託し、1998年(平成10年)に確認調査、1999年(平成11年度)から2001年度(平成13 年度)に本発掘調査を行った。発掘調査対象面積は14,160 ㎡であり、複数層で行った調査面積は延べ48,260 ㎡である。
3.縄文時代の集落
縄文時代晩期終末の大規模な集落遺跡である。低湿地という環境条件により、当時の生活面が良好に保存されていた。木柱が残る掘立柱建物や丸木舟をはじめ、多くの木製品が出土し、河川沿いに暮らした縄文時代の人々の生活を具体的に知ることができる。 縄文時代の集落は河川の両側210mに渡り広がっていた。
4.大規模な掘立柱建物と高度な建築技術の解明
掘立柱建物58棟が検出され、このうち42棟では柱根が残存していた。大型建物の柱の材質は栗のみであった。径6cmの桁材に沿って、径2cmの横材を等間隔に並べ、それらと直交する縦桟を組み合わせていた。柱の材質は栗、クヌギ、コナラ、ヤマグワなどであった。 柱根の残存状態から、建物の柱位置、配置や柱の太さ、規模、構造を具体的に分析検討することができた。 これらを分析することで、建物の平面形や規模、柱の配置を復元し、上部構造を具体的に検討することができた。その結果、縄文時代晩期の建築構造や、低湿地における高度な建築技術を明らかにするうえで重要な成果が得られた。
さらに土坑79基、杭列2個所、埋設11基、火を焚いた後と見られる炭化物集中は269個所が検出された。貯蔵穴からはクルミが出土した。
5.簾状編み物
簾状編み物は竹笹類を樹皮でもじり網で作成されており、寸法は長さ27.3cm、幅348cmである(新潟県教育委員会(2004))簾状編物の類例は神奈川県池子遺跡(山本・谷口(1999))において認められるとされた。
6.簀子状材
簀子状材を壁体として用いた例が確認された。2004年刊行の発掘調査報告書では、奈良県纏向遺跡の例[橋詰1988]、岡山県津島遺跡の例[宮本2003]が弥生時代に属することを挙げ、青田遺跡の例をその最古例としている。
7.出土遺物(時代別整理)
- 土器は下層で鳥屋2a式土器、上層で鳥屋2b式土器、大洞式土器が出土した。
- 石器は打製石斧、磨製石斧、礫器、石錐、石匙、石鏃、石皿、磨製石斧未製品が出土した。
- 土偶は下層からのみ出土した。
- 鉄器・鍛冶関連遺物→ 弥生後期からの社会階層化が継続した可能性がある。
- 赤と黒の漆塗り水差し、装飾された木製容器が出土した。
- 赤漆塗りの糸は漆を塗って乾燥した後に結んだり、丸く糸玉にしていた。
8.年代測定
新潟県新発田市で見つかった縄文時代晩期の青田遺跡で出土した集落の建物の柱約280本に刻まれた年輪について、年単位の正確さで測定したと新潟県立歴史博物館などが2009年3月12日に発表した(嵜大真、小林謙一、坂本稔(2007)、四国新聞社(2009))。「S5 層の鳥屋 2a式古期は紀元前700年頃以降の時期 で550 年より以前までとされた。その次のS4から3層の鳥屋 2a式新期は前550年頃を含みそれより古い年代の可能性」(新潟県教育委員会(2004))があるとされた。木村勝彦(2013)はBC477年前後とBC530年前後の2回に渡り、それぞれ短期間(集中的タイミング)で10棟以上の建物が造営されたことを実年代で解明した。
年輪年代分析により、青田遺跡では紀元前530年前後と紀元前477年前後の2時期に、それぞれ10棟以上の建物が短期間に集中的に造営されたことが明らかにされた(木村勝彦 (2013))。この年代分析の結果は、放射性炭素年代測定による年代とも矛盾せず、土器型式による相対編年を実年代に結びつけ、集落形成の時間的な推移を具体的に検討するうえで重要な成果となった。
さらに現生の森林での実験を加えた詳細な花粉分析により、青田遺跡集落の数十m近傍でクリ林が存在しており、人為的な維持管理がなされていたことが解明された。
9.青田遺跡の意義
低湿地による有機質遺物の「タイムカプセル」化
- 紫雲寺潟の底(低湿地)に埋もれていたため、水分が豊富で酸素に触れないため、木製品や植物質などの有機物が腐敗せずにそのまま残っている。
大規模な掘立柱建物と高度な土木技術の確認
- 掘立柱建物58棟が検出され、そのうち42棟では柱根が残存していた。木柱の位置や太さなどを確認できたことから、建物の平面形や規模、柱の配置を具体的に復元するための重要な資料が得られた。軟弱な低湿地に建物を建てるための土台作りなど、縄文人の優れた土木技術が確認された。
- 出土したクリの木の年輪研究から、当時のクリが現代よりも非常に早いスピードで成長していることがわかり、クリの管理・栽培(または半栽培)が行われていた証拠となった。 クリ材の成長速度とクヌギ節・コナラ節材の成長速度には違いがあることが判明した。年輪年代分析により成長の速いクリは20 年ほどで柱材に使用できる太さになっている。 出土したクリ材の年輪分析では、現代のクリと比較しても速い成長が認められている。これは、縄文時代の人々がクリを単に採集するだけでなく、生育環境を人為的に管理し、栽培していた可能性を示す重要な証拠であり、縄文時代の植物資源管理を考えるうえで注目される。
新潟県内初の縄文時代丸木舟と大型の櫂(かい)の出土
- 丸木舟はトチノキ製で、長さ5.47m、幅75cm、深さ24cm(埋文にいがたNo33では深さ16cmとし、荒川隆史(2025)は深さ14.5cmとする)のものが出土した(荒川隆史(2026))。舟底外面中央に川底との接触による摩耗が確認されている(荒川隆史(2025))。櫂は6点出土した。長さ220cmのクリ製、長さ124cmの杉製などがある(荒川隆史(2026))。 荒川隆史(2025)は内水面用と海面用の丸木舟の特徴が異なることを明らかにした。 出土した丸木舟は、新潟県立歴史博物館で展示されている。 これらの資料は、縄文時代の水上交通や物資の運搬、水域の利用を考えるうえで重要である。
豊かな植物利用と生業の解明
- オニグルミの貯蔵穴とみられる川岸の土坑や、各種の木製品(弓、籠、漆製品など)が多量に出土し、川辺に暮らす縄文人の生業が見えてきた。
10.展示・保管
- 新潟県立歴史博物館(長岡市):青田遺跡で出土した木製品(丸木舟や木柱など)や縄文土器などを研究・展示する。
- 新潟県埋蔵文化財センター: 青田遺跡で出土した掘立柱建物の柱や木柱、木工品、アスファルトが付着した石鏃を保管する。
11.指定
- 2009年(平成21年)3月24日 新潟県指定有形文化財(考古資料)
- 指定名称:青田遺跡出土品
- 員数:2,076点
- 附指定:柱根8点、草壁材1点、アスファルト塊2点、赤色顔料塊1点、堅果集積土坑2基
12.所在地等
- 名称:青田遺跡
- 所在地:新潟県新発田市金塚字青田(旧:北蒲原郡加治川村大字金塚字青田)
- 交通:JR「長岡駅」からバス、発掘調査後に埋め戻されたため、現地遺跡自体は見学できない。
13. 参考文献
- 赤塚亮(2000)「青田遺跡」埋文にいがたNo33
- 荒川隆史(2014)「新発田市青田遺跡の掘立柱建物と復元図の訂正」埋文にいがたNo89
- 荒川隆史(2025)「縄文時代における丸木舟の形態と利用_ 新潟県青田遺跡を中心に」國學院大學大学院紀要巻 56,pp.83-108
- 荒川隆史(2026)「青田遺跡の調査が残したもの」講演資料(新潟県埋蔵文化財センター)
- 木村勝彦(2013)「縄文集落の集落形成と森林利用に関する考古学・年輪年代学・民俗学的研究」、科学研究費助成事業(科学研究費補助金)研究成果報告書、pp.1-5
- 嵜大真、小林謙一、坂本稔(2007)「炭素 14年代法による新潟県青田遺跡の年代研究」名古屋大学加速器質量分析計業績報告書 18,pp.182-186
- 新潟県教育委員会(2004)「青田遺跡―日本海沿岸東北自動車道関係発掘調査報告書5」新潟県埋蔵文化財調査報告書 第133 集
- 「速報 新潟県指定文化財 青田遺跡出土品」埋文にいがたNo68,2009年
- 「丸木舟 -青田遺跡からのメッセージ-・調査中の遺跡の位置」埋文にいがたNo68,2003
- 「縄文時代における漆利用システムの検討-青田遺跡・野地遺跡の漆製品・漆用具を中心に」研究紀要第10号,2009
- 「新潟・青田遺跡、年輪測定に成功」四国新聞社、2009/3/12
- 「正保越後国絵図(元禄年間写)」原図:正保2年(1645年)頃、写本:元禄年間、新発田市立歴史図書館蔵。
- 日本史広辞典編集委員会(2016)『山川 日本史小辞典』山川出版社
- 山本・谷口(1999)『池子遺跡群9』(かながわ考古学財団調査報告 第45巻
月見野上野遺跡 ― 2026年10月18日 00:05
月見野遺跡群上野遺跡(つきみのいせきぐん かみのいせき)は大和市(神奈川県)に所在する、旧石器時代から縄文時代草創期・早期の遺跡である。また、平安時代の遺構・遺物も確認されており、長期間にわたって土地利用が行われた複合遺跡である。境川水系目黒川流域の台地上に立地し、関東ローム層中に複数の文化層が確認され、旧石器時代から縄文時代草創期にかけての石器群や土器の変遷を層位的に検討できる。
1.立地と層位
遺跡は相模野台地に位置し、境川の支流である目黒川西岸の台地縁辺部に立地する。第1地点では、約12,000㎡を対象とした発掘調査が行われ、関東ローム層中から旧石器時代の文化層が確認された。また、最上部付近からは縄文時代草創期の土器・石器を含む第Ⅰ文化層が検出されている。 月見野遺跡群では、複数の遺跡・地点から文化層が確認されており、それらを比較することによって、後期旧石器時代から縄文時代草創期にかけての石器群の変遷を層位的に検討することができる。月見野遺跡群の調査は、関東地方における旧石器時代研究の基礎資料を提供した点でも重要である。
2.旧石器時代の石器群
旧石器時代の文化層からは、ナイフ形石器、尖頭器、細石刃・細石刃石核、スクレイパー、彫器、礫器、石核、剥片など多様な石器が出土している。これらには時期による組成の変化が認められ、ナイフ形石器から尖頭器、さらに細石刃を主体とする石器群への変化を検討することができる。大和市も、旧石器時代の八つの時期に分けられる地層から豊富な石器が出土し、狩猟具がナイフ形石器から尖頭器、さらに細石刃へ変化する過程を知ることができるとしている。 また、大和市域の旧石器資料では黒曜石製石器などについて産地推定が行われており、箱根・伊豆・神津島・信州などを含む広域から石材がもたらされたことが明らかにされている。こうした分析は、旧石器時代の人々の移動や石材獲得の範囲を考えるうえで重要である。
3.縄文時代草創期の土器
上野遺跡第1地点では、縄文時代草創期の土器が出土している。とくに隆起線文土器がまとまって出土し、二個体が完形に復元されている。これらは縄文土器の出現過程を考えるうえで重要な資料である。 また、隆起線文土器に先行する可能性がある非常に古い土器片も出土しており、その年代的位置づけは縄文土器の起源を考えるうえで注目されてきた。現在では「日本最古」と一律に断定するのではなく、日本最古級あるいは日本最古に位置づけられる資料の一つとして、その年代と位置づけを検討するのが適切である。大和市は、この土器片を「日本最古に位置づけられる土器片」と説明している。
4.調査史
月見野遺跡群では、1968年に相模考古学研究会による分布調査が行われ、土地区画整理事業に伴う造成によって露出したローム層から多数の石器が発見された。その後、1968~1969年には明治大学によって月見野遺跡群の発掘調査が行われ、複数の遺跡・地点について調査が進められた。 上野遺跡第1地点では、1979年7月から1981年7月にかけて本格的な発掘調査が行われ、約12,000㎡が調査された。第1地点の調査成果は、その後刊行された『月見野遺跡群上野遺跡第1地点』などの報告書にまとめられている。 月見野遺跡群の調査は、旧石器時代の遺跡を単独で捉えるだけでなく、同一地域に分布する複数の遺跡・地点を比較する研究を進展させ、石器群の編年、旧石器時代の遺跡群のあり方、縄文時代草創期への移行過程などを考えるための重要な資料を提供した。 第2地点も約1,440㎡が調査されている。
5.意義・位置づけ
月見野遺跡群上野遺跡は、旧石器時代の複数の文化層から出土した石器群と、縄文時代草創期の土器を同一地域で検討できる重要な遺跡である。とくに1968~1969年の月見野遺跡群の調査は、複数の遺跡・地点を比較する視点を旧石器時代研究に導入する契機となり、石器群の編年や旧石器時代の遺跡群のあり方を考える基礎資料となった。さらに上野遺跡第1地点から出土した非常に古い土器片や隆起線文土器は、縄文土器の出現過程と旧石器時代から縄文時代への移行を考えるうえで重要な資料となっている。
① 月見野遺跡群という「遺跡群」研究の重要性
- 1968年の分布調査によって多数の遺跡が把握され、複数地点を比較できたことが重要です。これは、旧石器時代の人々の活動を単独の遺跡だけでなく、地域内の遺跡群として捉える研究につながった。
② 石器群の編年研究
- ナイフ形石器→尖頭器→細石刃という大きな変化を、文化層との関係から検討できる点が重要である。
③ 縄文土器の出現を考える資料
- 非常に古い土器片と隆起線文土器が出土しており、旧石器時代から縄文時代への移行過程を考えるうえで重要であり。
④ 自然科学分析の蓄積
- 第1地点については自然科学分析の報告書も別に刊行されており、年代測定や土器付着物、石材産地推定などを含めて検討されてきた点も付記できる。大和市の刊行物には、第25集『自然科学からのアプローチ』が掲載されている。
遺構
- 遺構:縄文時代草創期の第Ⅰ文化層では明確な遺構は確認されていない。
遺物
- ナイフ形石器、尖頭器、細石刃・細石刃石核、スクレイパー、石核、剥片など、多様な石器が出土している。
指定
- 1987年(昭和62年)2月20日 出土品1,058点が「大和市上野遺跡出土品」として神奈川県指定重要文化財に指定されている。先土器時代から縄文時代草創期の出土品である。
展示
- 大和市つる舞の里歴史資料館(神奈川県大和市つきみ野7-3-2)
アクセス
- 名称:月見野上野遺跡
- 所在地:神奈川県大和市つきみ野1-4-5/3-13/5-1-2/5-3ほか
- 交 通:東急田園都市線つきみ野駅から徒歩約7分
参考文献
- 大和市教育委員会(1986)『月見野遺跡群上野遺跡第1地点』大和市文化財調査報告書第21集
- 大和市教育委員会(1987)『月見野遺跡群上野遺跡第1地点 自然科学からのアプローチ』大和市文化財調査報告書第25集
横口式石槨 ― 2026年10月17日 00:07
横口式石槨(よこぐちしきせっかく)は古墳時代後期から終末期にかけて発達した埋葬施設の一種で、石材を加工して組み合わせた小型の石槨に、側面から出入りするための開口部(横口)を設けたものである。とくに大和・河内を中心に分布し、終末期古墳を特徴づける埋葬施設の一つとなっている。大和では、二上山産の凝灰岩などを加工した石材を用いた例が知られている。床石・側壁・天井石などを組み合わせて構築した例が多い。横口から棺を納め、埋葬後に閉塞する構造をとる。 白石(1998)は7世紀の終わり頃から8世紀になると、日本の最高支配者層の墓制として受け入れられたと指摘する。
概要
横口式石槨の特徴は以下の通りである(山本彰(1998))。
- 石材を加工して組み合わせ、棺を納めるための小型の石槨を構築する。
- 石槨の側面に横口と呼ばれる開口部を設け、そこから棺を搬入する。
- 横穴式石室の玄室に比べて内部空間が狭く、基本的に単葬を目的とする。
- 石材には凝灰岩などが用いられ、表面を平滑に加工した例もある。
- 横口や閉塞施設、石槨の構造には地域・時期による多様性がある。
横口式石槨の構造
横口は、石槨の側面に設けられた出入口で、ここから棺を搬入したと考えられている。埋葬後には、石材などによって開口部を閉塞する。石槨は横穴式石室の玄室より著しく小型で、棺一基を納めることを基本とする。
横穴式石室との違い
横口式石槨は、横穴式石室と同じく側面に開口部をもつが、規模と構造が大きく異なる。横穴式石室では、玄室内部に人が入ることができる程度の空間を設け、複数回の埋葬や追葬を想定したものも多い。一方、横口式石槨は棺を納めることを主眼とした小型の施設で、内部空間が狭く、基本的に単葬を目的とする点に特徴がある。
横口式石槨の源流
横口式石槨の成立については、日本列島内の横穴式石室・石棺などとの関係だけでなく、朝鮮半島を含む東アジアの墓制・石造技術との関連も論じられてきた。そのため、その起源・系譜については現在も重要な研究課題となっている。 白石太一郎(1998)は、古い横口式石槨が律令期の安宿郡を中心とする地域に分布することに注目し、この地域には百済系渡来人が多く居住していたことから、横口式石槨の成立について朝鮮半島の墓制との関係を検討する必要があると論じている。 広瀬和雄(1998)は横口式石A型は日本で生まれたとは考えにくいと指摘する。中国、新羅、百済では系譜を追求できず、高句麗の土浦里1号墳が最も近いとする。E型の源流は百済陵山里東下塚古墳の石室に求められると主張する。
型式分類と編年
横口式石槨については、石槨の形態や石材の構成、横口の構造などに基づく型式分類が行われ、それぞれの型式について年代的位置づけが検討されている。林部均(1998)は大和の横口式石槨をⅠ式・Ⅱ式・Ⅲ式に分類しており、これらは型式・構造上の区分であるため、Ⅰ・Ⅱ・Ⅲの番号をそのまま年代順の段階とみなすことはできない。
横口式石槨については、型式分類や年代観について研究者によって見解が異なる。林部均は大和を中心として型式分類と編年を提示し、広瀬和雄(1998)はより広い地域の資料を対象として変遷を検討している。両者の編年は区分方法や年代観が異なるため、単純に対応させることはできない。
林部均の編年(林部均(1998))
林部均(1998)は、大和の横口式石槨について石室構造を基準として、Ⅰ式・Ⅱ式・Ⅲ式に分類し、それぞれの年代と事例を示している。なお、Ⅰ式・Ⅱ式・Ⅲ式という区分は型式分類に基づくものであり、番号そのものが単純な年代順を示すものではない。
Ⅰ式期
- 年代 675年頃から730年頃
- 事例:平野塚穴山古墳、牽牛子塚古墳、マルコ山古墳、石のカラト
Ⅱ式期
- 年代 660年頃から680年頃
- 事例:お亀石古墳、仏陀寺古墳、松井塚古墳
Ⅲ式期
- 年代 641年頃から675年頃
- 事例:鉢伏山西峰、巨勢山323、舞谷304、オウコ8、ホウジ1
広瀬和雄の編年(広瀬和雄(1998))
広瀬和雄(1998)は編年を1期から6期に分け、さらに玄室の構造をもとにしてA型からE型に分類した。型と期は1対1対応ではない。A型は複数の石材を組み合わせて石槨を構築するもの、B型はくり抜き式または組み合わせ式の石棺を利用するもの、C型はくり抜いた石材によって石槨を構築するもの、D型は榛原石を積み上げて構築するもの、E型は凝灰岩の切石を組み合わせて構築するものとした。
広瀬和雄の編年による事例
1期
- 年代 7世紀初頭
- 事例:平尾山13-1(平尾山古墳群13支群1号墳)(A型)
2期
- 年代 7世紀前半
- 事例:雁多尾畑(平尾山古墳群雁多尾畑支群)(A型)
***3期
- 年代:7世紀中頃
- 事例:巨勢山323号(A型)、お亀石古墳(B型)、平尾山西峰(C型)、花山西塚(D型)
4期
- 年代 7世紀後半
- 事例:白木(A型)、塚廻(A型)、小口山古墳(B型)、石宝殿古墳(C型)、平尾塚穴山(E型)
5期
- 年代:7世紀末
- 事例:徳楽山古墳(B型)、石のカラト(E型)、鬼の俎・雪隠古墳(C型)
6期
- 年代:8世紀初頭
- 事例:益田岩船(C型)、中尾山古墳(E型)
河内の横口式石槨
河内では、横口式石槨が集中して分布する地域があり、終末期古墳を考える上で重要な地域となっている。
- 石宝殿古墳
- 道明寺山古墳
- 観音塚古墳
- 小口山古墳
- 徳楽山古墳
- お亀石古墳
- 春日古墳
- 仏陀寺古墳
研究上の問題
横口式石槨については、編年、型式分類、成立過程・系譜などをめぐって研究者によって見解が異なる。
第一に編年である。横口式石槨には複数の型式・形態が認められ、その出現から終末期古墳の展開に至る過程について、研究者によって異なる編年案が提示されている。
第二に成立の系譜である。横口式石槨が日本列島内の横穴式石室・石棺などからどのように発展したのか、また朝鮮半島を含む東アジアの墓制・石造技術との関係がどの程度あるのかについて議論されている。
第三に型式分類である。石槨の形状、石材の構成、横口の位置・構造、閉塞方法などを基準として、複数の分類案が提示されている。
参考文献
- 羽曳野市教育委員会編(1998)『河内飛鳥と終末期古墳』吉川弘文館
- 白石太一郎(1998)「終末期古墳と横口式石槨」『河内飛鳥と終末期古墳』吉川弘文館
- 林部均(1998)「大和の横口式石槨」『河内飛鳥と終末期古墳』吉川弘文館
- 広瀬和雄(1998)「横口式石槨の変遷」『河内飛鳥と終末期古墳』吉川弘文館
- 山本彰(1998)「河内の横口式石槨」『河内飛鳥と終末期古墳』吉川弘文館
- 山本彰(2007)『終末期古墳と横口式石槨』吉川弘文館
鬼の俎・雪隠古墳 ― 2026年10月16日 00:05
鬼の俎・雪隠古墳(おにのまないた・せっちんこふん)は、奈良県明日香村野口・平田に所在する7世紀後半頃の終末期古墳である。墳丘は大きく失われているが、横口式石槨の床石と蓋石と考えられる「鬼の俎」と「鬼の雪隠」が残る。
概要
「鬼の俎」と「鬼の雪隠」は、現在は数十m離れているが、もとは一つの横口式石槨を構成していた石材と考えられている。「鬼の俎」が石槨の床石、「鬼の雪隠」が蓋石にあたり、墳丘の崩壊・削平などに伴って蓋石が移動し、現在の位置に残ったと考えられている。 「鬼の俎」は長さ約4.5m、幅約2.7m、厚さ約1m、「鬼の雪隠」は内部の幅約1.5m、高さ約1.3mを測る。石槨には角閃石黒雲母石英閃緑岩が用いられている。石槨の内部規模は約2.75m×1.59mと推定され、大化2年(646)のいわゆる薄葬令に示された墓室規模との関連も指摘されている。 また、「鬼の俎」の東方約9mから、これと同様の別の床石が明治10年(1877)頃に発見された。この石は分割されて民家の庭石などに転用されていたが、のちに回収され、現在は奈良県立橿原考古学研究所附属博物館で屋外展示されている。このことから、鬼の俎・雪隠古墳は、二つの横口式石槨を一つの墳丘に納めた古墳であった可能性が指摘されている。 「鬼の俎」と「鬼の雪隠」は、宮内庁によって梅山古墳(欽明大王の墓とされ、現在は欽明天皇陵に治定されている古墳)の陪塚に治定されている。梅山古墳、カナヅカ古墳、鬼の俎・雪隠古墳、野口王墓古墳(天武・持統天皇陵)は、明日香村の東西方向に近接して分布している。こうした古墳の配置については、飛鳥の王墓域や王統との関係からも論じられている。
調査
西光慎治(2002)は、地籍図や墳丘規格などの検討から、鬼の俎・雪隠古墳を二段築成の長方形墳と推定し、墳丘規模を東西約35.4m(120尺)、南北約20.7m(70尺)、高さ約5mと復元している。 また西光慎治(2002)は鬼の俎・雪隠古墳を二段築成の長方形墳と復元案を示している。すると、復元案では一つの墳丘に二つの石槨の図を作成できる。
築造年代
広瀬和雄(1998)は築造年代を横口式石槨5期(680年から700年)のC型に位置づけている。西光慎治(2002)は、鬼の俎・雪隠古墳の調査は実施されていないため断定できないとしながらも、羨道がなく、羨道が退化したⅠ-b類と考え、石宝殿古墳よりやや遅れる7世紀第三四半期と想定している。両者の年代観には差があり、築造年代についてはなお検討の余地がある。
被葬者
被葬者は明らかになっていない。西光慎治(2002)は、古墳の規模・構造や周辺の王墓との関係などから、鬼の俎・雪隠古墳を斉明天皇と建王の初葬墓とする説を提示している。一方、被葬者については確定しておらず、現在も複数の説がある。
歴史
「鬼の俎」と「鬼の雪隠」は江戸時代にはすでに知られていた。林宗甫の『和州旧跡幽考』(1681年〔延宝9年〕)には、野口王墓古墳の西に「鬼の魚板」および「鬼の雪隠」と呼ばれる石があったことが記されている。 『大養徳國山陵記録』(1697年〔元禄10年〕)にも、これらの石に関する記録がある。東側にあった古墳の俎の部分は明治時代に、個人の屋敷の庭石として使用されていたものが発見されており、1889年(明治22年)には、「鬼の雪隠」を分割して持ち帰ろうとする計画があったが、宮内省から梅山古墳(欽明大王墓とされ、当時は欽明天皇陵に治定されていた)の陪塚として保護する旨の中止命令が出され、破壊を免れた。の屋外に展示されている。鬼の俎2号墳(亀田(1988)) あるいは鬼の俎・雪隠東古墳(関川(1999))と呼ばれている。1889年(明治22年)に同様に鬼の雪隠を分割して持ち帰ろうとしたところ、宮内省から欽明大王檜隈坂合陵(梅山古墳)の陪塚であることから中止命令が出されて中止され、それ以上の破壊を免れた(辰巳俊輔(2018))。 ウィリアム・ゴーランドは1872年から1888年の間に、飛鳥地域で鬼の俎・雪隠古墳の写真撮影や測量を行い、その記録が残されている(ハリス・後藤編(2003))。特に古墳の石室のプラン(平面図)や断面図を精密に測量し、当時の最新技術の写真機で記録を残した。調査図面、測量資料、写真は大英博物館に保存されている。
遺構
- 長方形墳と推定される墳丘
- 二段築成とする墳丘復元案
- 横口式石槨
- 床石(鬼の俎)
- 蓋石(鬼の雪隠)
- 東側から発見された別の床石
- 二つの石槨をもつ古墳とする復元案
遺物
- 本格的な発掘調査が実施されておらず、出土遺物についての情報は乏しい。
展示
- 現地に展示施設はない。東側から発見された別の床石は、奈良県立橿原考古学研究所附属博物館で屋外展示されている。
陵墓関係
- 宮内庁は欽明天皇陵(梅山古墳)の陪塚として治定(「は号」)(正確には欽明大王)
アクセス等
- 名称 :鬼の俎・雪隠古墳
- 所在地 : 奈良県高市郡明日香村野口・平田
- 交 通 : 近鉄吉野線「飛鳥駅」から950m(徒歩約15分)
参考文献
- ヴィクター・ハリス、後藤和雄編(2003)『ガウランド 日本考古学の父』朝日新聞社
- 西光慎治(2002)「今城谷の合葬墓」明日香村文化財調査研究紀要 2,pp.1-32
- 辰巳俊輔(2018)「飛鳥地域における古墳研究の軌跡(上)」明日香村文化財調査研究紀要 17,pp.23-49
- 広瀬和雄(1998)「横口式石槨の変遷」『河内飛鳥と終末期古墳』吉川弘文館
礎石建物 ― 2026年10月15日 05:16
礎石建物(そせきたてもの)は地表や基壇などに据えた礎石の上に柱を立て、礎石を介して建物の荷重を地盤に伝える構造の建物である。柱を地面に直接埋め込む掘立柱建物とは異なり、柱脚を地面から離して設置することが特徴である。
概要
礎石には、上面を平らに加工したものや、柱を据えるための「柱座」と呼ばれる造り出し(突出部)を設けたものがある。柱座をもつ礎石では、その径から柱の太さを推定できる場合がある。奈良文化財研究所の目黒新悟による研究では、円形の柱座をもつ現存古代建築12棟を分析した結果、柱径は柱座径の6割強~7割強程度で、平均すると約3分の2となることが示されている(目黒 新悟(2019))。したがって、柱座径から柱径を推定する際の一つの目安として、柱径を柱座径の約3分の2とすることができる。ただし、これは分析対象となった古代建築について得られた傾向であり、すべての礎石建物に一律に適用できるものではない。 礎石には、柱の荷重を安定して地盤に伝え、柱の沈下や位置のずれを抑える役割がある。また、柱脚を土壌から離すことで、柱の根元が土壌中の水分に直接触れることを避け、木材の腐朽を抑える効果もある。ただし、礎石建物であっても雨水や床下の湿気などによって木材が腐朽することはある。 飛鳥時代の寺院建築では、基壇や地盤改良などと組み合わせて礎石が用いられ、瓦葺きの大型建築を支えた。飛鳥寺は588年に造営が始まった日本最古の本格的寺院の一つで、瓦葺き建築が導入された初期の代表例である。こうした寺院建築には、朝鮮半島など東アジアの建築・石材加工技術との関係が認められる。礎石建物は、特に古代寺院・宮殿・官衙などの瓦葺き建築と強く結びついて発達したが、礎石建物がすべて瓦葺きだったわけではない。
礎石建物の特徴
柱を礎石上に立てるため、柱脚が土壌中の水分に直接触れにくい。 柱の荷重を礎石から地盤・基壇に伝え、柱の沈下や位置のずれを抑える。 礎石の形状や柱座から、柱径や柱配置など、失われた建物の構造を推定できる場合がある。 礎石の採取・加工・運搬・据え付けなどが必要となるため、大規模な建築では多くの労力と組織的な施工を必要とした。
掘立柱建物と礎石建物との関係
柱の立て方
- 掘立柱建物:地面に柱穴を掘り、柱を直接地中に立てる。
- 礎石建物:地表や基壇上に礎石を据え、その上に柱を立てる。
柱脚と耐久性
- 掘立柱建物:柱脚が土中に入るため、土壌中の水分などによって腐朽する場合がある。
- 礎石建物:柱脚を地面から離すことで、土壌中の水分に直接触れにくくする。
施工
- 掘立柱建物:柱穴の掘削と柱の据え付けが基本となる。
- 礎石建物:柱脚を地面から離すことで、土壌中の水分に直接触れにくくする。
礎石からわかる建物の構造
発掘調査で礎石が残っている場合、礎石の配置から柱間寸法や建物の平面規模を復元できる。また、柱座の形状・径や礎石の加工痕などを調べることで、柱の太さや柱の構造、建物の規模などを推定できる場合がある。礎石、基壇、瓦などを総合して検討することで、失われた建物の上部構造を復元する手がかりとなる。奈良文化財研究所でも、礎石に残された情報を古代建築の復元研究に利用している。
時代別変遷
飛鳥時代・奈良時代
6世紀末以降、仏教寺院の建立とともに、東アジアの建築技術を取り入れた新しい建築技術が発展した。飛鳥寺をはじめとする初期寺院では、基壇・礎石・瓦葺きなどを組み合わせた建築が成立し、その後、寺院だけでなく宮殿や官衙などにも礎石を用いた建築が広がった。飛鳥寺では588年の造営開始時から、朝鮮半島から来た技術者による建築技術の導入があったと考えられている。 現存する法隆寺西院伽藍は、670年の焼失後、7世紀後半から8世紀初頭に再建されたもので、金堂などに飛鳥時代の礎石建築の技術を見ることができる。 奈良時代には、平城宮などの宮殿・官衙や寺院で礎石建物が広く用いられ、地方でも国府などの官衙や寺院に礎石建物がみられるようになった。
平安時代・鎌倉時代
平安時代には、寺院や官衙だけでなく、貴族住宅などにも礎石上に柱を立てる建築がみられた。中世には寺院建築や武家の建築などで礎石を用いる構法が広く用いられ、建物の種類や構造に応じてさまざまな形式が発達した。
室町時代から江戸時代
中世から近世にかけても、寺社建築だけでなく、民家や町家などの木造建築で礎石の上に柱を立てる構法が用いられた。伝統的な木造建築では、礎石の上に柱や土台を載せる「石場建て」が代表的な構法の一つである。
近代以降から現代
近代以降は、コンクリート基礎とアンカーボルトなどによって建物と基礎を緊結する近代的な基礎構法(「布基礎」や「ベタ基礎」)が普及し、石場建ては一般的な住宅では少なくなった。ただし、石場建てが完全になくなったわけではなく、現在でも伝統構法による住宅などで採用例がある。
遺跡・遺構例
- 東大寺の大講堂跡 大仏殿北側の芝生の場所に大きな礎石が整然と並んでいる
- 東大寺東軒廊 奈良市、推定幅9メートルの巨大な廊下(東軒廊)の礎石
- 平城宮・東院南方遺跡、奈良市、公的施設の可能性が高い礎石建物跡
- 毛原廃寺跡 奈良県山添村、奈良時代前半の仏堂とみられる礎石建物跡
参考文献
- 青木敬(2011)「掘立柱建物の検討視点」奈良文化財研究所紀要2011,pp.46-47,
- 目黒 新悟(2019)「古代建築における礎石の柱座径と柱径との関係」奈良文化財研究所紀要,pp.8-9
- 「平城宮南東に公的施設か 礎石建物跡出土」産経新聞、2026/7/2
- 竹島喜芳、加藤薫(2022)「レーザ測量の反射強度情報を用いた建物礎石検出法の検討」中部大学工学部紀要 57,pp.31-36
- 佐々木健ー(2021)「全国の仏教寺院本堂の基礎の実態調査」日本建築学会技術報告集,第 27 巻,第66号,pp.855-858
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