小見真観寺古墳 ― 2026年01月20日 00:24
小見真観寺古墳(おみしんかんじこふん)は、埼玉県行田市にある古墳時代の前方後円墳である。日本百名墳に選出されている。
概要
1634年(寛永11年)、真観寺観音堂の創建の時、第1主体部(後円部石室)が露出し、発見された。埼玉県北部、星川西岸の加須低地の沖積地に南面する低い台地上に位置し、真観寺境内の本堂の背後に所在する古墳である。古墳の規模は墳長112m(102m説もある)、前方部高さ7m、後円部高さ7.6mの前方部を北西方向に向ける大型前方後円墳である。 墳長の違いは、測量時期や測定方法の違いによる差と推測される。 後円部南側に横穴式石室1基と、その北側の後円部中腹に石榔1基、2基の主体部がある。 行田市内で最後の前方後円墳とされる。築造時期は6世紀後半と考えられ、行田地域における前方後円墳築造の終末段階を示している。前方部が北西を向く点は、埼玉古墳群の主墳(丸墓山・稲荷山)とは異なる志向性を示している。秩父産の緑泥片岩による石室に巨大な石材を用い、玄門を一枚板をくり抜いてつくるなど、当地域では特異な構造である。
埋葬施設
埋葬施設は後円部と鞍部の2か所に設けられている。後円部には横穴式石室(第1主体部)が、鞍部には箱式石棺を主体とする埋葬施設(第2主体部)が存在する。石室は秩父産の緑泥片岩である。これは埼玉古墳群の多くの横穴式石室に共通する石材である。前室は奥行2.7m、幅2.2m、高さ2.1m、玄室は2.4m、幅2.2m、高さ2.1mである。
調査
1880年(明治13年)、狐が穴に逃げ込んだため鞍部にある石室が発見され、次いで発掘調査が行われ、金環(3)、圭頭大刀、頭椎大刀(2)、刀子、鉄鎌、桂甲小札、銅椀、有蓋脚付銅鏡、竪矧広板鋲留衝角付冑(甲冑)、須恵器などであり、出土品は東京国立博物館に保管される。 金環・東椎太刀・甲冑・銅椀などの出土は、被葬者が武人的性格を有する有力首長層であったことを示している。 発掘調査で周溝が確認され、その底付近から埴輪の破片が多数発掘された。埴輪の詳細な構成については不明な点が多い。
考察
6世紀末から7世紀にかけて、古墳が後世の寺院境内に取り込まれる事例は各地に認められる。例として弘法寺古墳(千葉県市川市、弘法寺境内、6世紀後半、)、正善寺古墳(栃木県足利市、正善寺境内、6世紀後半)、久野部1号墳(滋賀県野洲氏、円光寺境内、5世紀末から6世紀初頭)、姉崎妙経寺古墳群(千葉県、妙経寺境内、4世紀後半から7世紀後半)などがある。古墳は寺院に先立って造られたであろうが、寺院の境内に所在することにはメリットとデメリットがある。寺院境内に所在することにより、墳丘が大規模な破壊を免れてきた点は大きな利点である。一方で、信仰施設としての性格上、全面的な発掘調査が困難であること、既存建物が調査の制約となる点は大きな課題である。
規模
- 形状 前方後円墳
- 築成 前方部:2段、後円部:2段
- 墳長 112m
- 後円部径 径55m 高7.6m
- 前方部 幅48m 長57m 高7m
埴輪
- 円筒埴輪 円筒Ⅴ式
葺石
遺構
- 前方後円墳
- ①1号主体(後円部南側)
- ②2号主体(北側くびれ部後円部寄り)
遺物
- 金環3
- 圭頭大刀
- 頭椎大刀
- 鉄鏃 細身式
- 衝角付冑 竪矧広板鋲留衝角付冑
- 挂甲小札
- 刀子
- 鉄刀
- 銅鋺
- 蓋付高脚鋺
築造
- 6世紀末から7世紀初め (八世紀初頭説もある)-行田市内最後の前方後円
展示
- 東京国立博物館
考察
指定
- 1931年(昭和6年)3月30日 国の史跡指定
アクセス等
- 名称 :小見真観寺古墳
- 所在地 :埼玉県行田市小見1124-1
- 交 通 :秩父線武州荒木駅 徒歩 15分/行田市田駅市内循環バス 北東循環コース(右回り)15分 「小見武蔵橋」下車 徒歩 5分
参考文献
- 筑波大学歴史・人類学系(1991)「古墳測量調査報告書 Ⅰ」
本郷埴輪窯跡 ― 2026年01月19日 00:12
本郷埴輪窯跡(ほうごうはにわかまあと)は群馬県藤岡市に所在する古墳時代の埴輪窯跡である。
概要
群馬県は、古墳時代における埴輪生産の一大拠点として知られており、なかでも太田地域と藤岡地域の2地域が主要な生産地であった。藤岡地域では、神流川流域に位置する本郷埴輪窯跡と、鮎川流域の猿田埴輪窯跡の2地点が確認されている。
本郷埴輪窯跡は1906年(明治39年)に考古学者(東京帝国大学教授)の柴田常恵によって発見された。その後の発掘調査により、本遺跡は5世紀後半から6世紀末にかけて操業していたことが明らかとなっている。窯は登り窯形式で、前部(燃焼部)と後部(焼成室)からなる二室構造をもち、焼成室は約30度の傾斜をもつ筒状の構造である。これまでに30基以上の窯が検出されており、一つの古墳の専属窯にとどまらず、広域的な埴輪供給を担った大規模生産拠点であったと考えられている。本郷埴輪窯跡は、古墳時代における埴輪窯の構造や生産体制を具体的に示す重要な遺構である。現在は遺存状態の良かった1基が覆屋で覆われて保存されており、ガラス越しに見学が可能である。
群馬県内で埴輪を伴う古墳として最も早い例は、太田市の朝子塚古墳とされる。群馬県における埴輪の出現が近畿地方よりやや遅れた背景には、埴輪製作を担った土師部(はじべ)の成立や定着が相対的に遅れたことが一因と考えられている。土師部は、祭祀を担う場を中心として集住し、埴輪や土器の製作に従事した集団であった。
本郷埴輪窯跡の南約100メートルには、埴輪起源神話の主人公である野見宿禰を祭神とする土師神社が鎮座しており、後世において本地域が埴輪生産と結び付けて認識されてきたことをうかがわせる。また、藤岡地域の土を用いて製作された埴輪は、綿貫観音山古墳や洞山古墳群(伊勢崎市赤堀地区)などでも確認されている。本郷埴輪窯跡が東国における埴輪文化の展開に重要な役割を果たしていたことが示されている。
調査
1943年(昭和18年)、1944年(昭和19年)に群馬大学教授・尾崎喜左雄による発掘調査が行われ、2基の窯址が発掘調査された。窯跡では埴輪の馬、埴輪武器破片など各種の形象埴輪片が散乱していた。
考察
本郷埴輪窯跡から綿貫観音山古墳へ直接埴輪が供給されたと断定することはできないが、両者の道路距離は約9kmに及ぶ。また、洞山古墳群(伊勢崎市赤堀地区)に含まれる洞山古墳と本郷埴輪窯跡との距離は約20kmに達する。これらの事例は、埴輪が必ずしも古墳の近傍で製作されたとは限らず、一定の距離を隔てた生産拠点から供給されていた可能性を示している。
埴輪は中空で破損しやすい製品であることから、多数の埴輪を遠隔地へ運搬するには相当の労力と周到な計画が必要であったと考えられる。そのため、埴輪の搬送には道路や河川などの交通路が利用され、また製作・運搬・設置に関しては、首長層の統率のもとで組織的な労働動員が行われていた可能性が高い。こうした点から、本郷埴輪窯跡の存在は、古墳時代における埴輪生産が単なる地域的営みにとどまらず、広域的な政治的・社会的ネットワークのもとで展開していたことを示す一例として位置付けることができる。
遺跡
- 埴輪窯跡
遺物
- 人物埴輪
- 盾形埴輪
- 戈形埴輪
- 家形埴輪
- 太刀形埴輪
築造時期
- 5世紀後半
展示
- 現地保存
指定
- 1944年11月13日 国指定史跡、「本郷埴輪窯跡」
アクセス等
- 名称:本郷埴輪窯跡
- 所在地:群馬県藤岡市本郷字塚原304-1
- 交通:JR八高線「群馬藤岡駅」よりバス
参考文献
- 立正大学博物館(2019)「東国の埴輪と埴輪窯 展示図録」
蛇穴山古墳 ― 2026年01月18日 00:38
蛇穴山古墳(じゃけつざんこふん)は、群馬県前橋市にある古墳時代の方墳である。
概要
前橋蛇穴山古墳は、群馬県前橋市周辺に広がる洪積台地上に立地する。蛇穴山古墳は、愛愛宕山古墳・宝塔山古墳に続く三代にわたる首長墓系列の最終段階に位置づけられる大型方墳である。宝塔山古墳と至近の場所に位置する。 総社町中央の市立総社小学校校庭南端に接する。
伝説的な資料
蛇穴山古墳は古くから知られていた古墳である。南北朝時代の『神道集』には「蛇喰池の中島にある蛇塚の岩屋」と書かれ、『伊香保記』には「八郎権現の岩屋」と記載され、『山吹日記』などに記載されている。『上毛古墳綜覧』に総社町第8号墳と記載される。これらはいずれも中世に成立した宗教的・紀行的文献であり、古墳の実態を歴史的に直接伝えるものではないが、石室の存在や霊場化の過程を知るための手がかりとなる。
調査
従来は一辺約30m規模の円墳と誤認されていたが、、2010年の発掘調査により発掘調査の結果、墳丘は東西約39.2m、南北約43.5mの方墳であることが判明した。前橋市教育委員会(1976)によれば、基準尺度は墳丘を高麗尺で設計し、玄室および前庭部を唐尺を基準尺度に用いたとみられる。高麗尺の1尺は35cmである。壁から墳丘北葺石板石間距離は、南北距離よりも4.3m長く、43.47mとなる。これは唐尺145尺で10cm不足する(144尺で20cm余る)、高麗尺で124尺±0となる。蛇穴山古墳の墳丘設計には高麗尺が基準尺度として用いられていた可能性が高いとされる。このことは、墳丘全体と石室・前庭部とで異なる設計尺度を使い分ける高度な設計思想が存在したことを示している。 墳丘下部には段葺石が存在し、川原石による化粧的な段葺石構造を有していた可能性が高い。古墳の大きさを外周溝で復元すると東西・南北とも82mとなった。中堤の葺石は0.5~0.2mの河原石であった。墳丘長44m、周濠を含めた全長は82mの広大な範囲を占め、良好な保存状態であることが判明した石室は、卓越した石材加工技術により製作され、他に類をみないものである。巨大な切石を精緻に加工・組み合わせた構造は、北関東地方でも類例が少ない。周濠は残りが悪いが、僅かな情報から平均的な幅は11mであり、深さは1.1~1.9mであったと推定されている。蛇穴山古墳は、北関東における大型方墳の終末像を示すとともに、設計尺度・石材加工・葺石構造のいずれにおいても高度な築造技術を示す重要な古墳である。
考察
古墳の築造に際し、異なる基準尺(造営尺)が使い分けられた、あるいは結果的に混在した可能性については、前期から中期の大型前方後円墳や、特殊な構造を持つ古墳を中心に一部研究者によって指摘されている。中国の漢代から晋代の尺度(漢尺・晋尺)や、朝鮮半島経由で伝わったとされる「古韓尺(こかんしゃく)」が用いられているとされ、設計箇所によって異なる尺度が結果的に用いられていると解釈される事例がみられる。いわゆる「古韓尺(こかんしゃく)」は、実測値が文献的に確定している尺度ではなく、考古学的計測から推定された仮称となっている。たとえば誉田御廟山古墳については、円部の直径や前方部との比率に古韓尺的な尺度が認められ、墳丘全体の基本寸法やテラス幅には魏尺・晋尺系の尺度が用いられていると解釈する説が提示されている。3世紀から4世紀にかけては、魏・晋系の尺度や古韓尺的尺度が併存していた可能性が高いと考えられている。古墳時代の早期段階では、設計技術や尺度体系が完全に制度化されておらず、複数の伝統的・外来尺度が併用された可能性がある。これは設計思想および造営技術が制度として確立される過程における過渡的状況を反映している可能性があるのではないか。 しかし蛇穴山古墳は7世紀後葉から8世紀初頭頃の築造と推定されており、前期古墳にみられる設計尺度の過渡的混在という説明を、そのまま当てはめることは難しい。この時期にあえて高麗尺と唐尺という異なる基準尺が用いられた背景については、設計思想の継承、造営技術集団の系譜的連続性(復古的要素、渡来系技術者の関与)、あるいは象徴的・儀礼的意味を含め、今後なお検討を要する課題である。
規模
- 形状 方墳
- 築成 2段
- 墳丘規模 1辺44m
葺石
- あり
遺構
- 方墳
- 両袖型横穴式石室
遺物
- S字口縁台付甕の口縁部片
- 円筒埴輪の胴部片
- 土師器坏の口縁部片
築造
- 8世紀初頭(7世紀末とする説もある)
展示
- 前橋市総社歴史資料館
指定
- 令和5年10月20日 国指定史跡 「総社古墳群」
アクセス等
- 名称 :蛇穴山古墳
- 所在地 :群馬県前橋市総社町総社1587-2
- 交 通 :群馬総社駅 徒歩 15分
参考文献
- 前橋市教育委員会(1976)「蛇穴山古墳調査概報」
- 橋市埋蔵文化財発掘調査団(2010)「蛇穴山古墳・宝塔山古墳 総社公民館建設に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書」
- 前橋市教育委員会(2023)「総社古墳群範囲内容確認調査報告書Ⅱ」
総社二子山古墳 ― 2026年01月17日 01:13
総社二子山古墳(そうじゃふたごやまこふん)は群馬県旧総社町(現・前橋市総社町)にある古墳時代の前方後円墳である。
概要
総社古墳群のなかで最大の規模の古墳である。前方部と後円部の区別が明確でなく、外観上は二つの円墳状に見える。主軸は東西方向にある。群馬県内の横穴式石室古墳の代表例であり、墳丘部は国有地になっている。墳丘は二段築成で、全長は89.8m、高さは前方部8m、後円部7.5mである。石室は南に開口し、前方部の石室は自然石主体であり、後円部石室は切石を多用している。封土の周囲に周溝の痕跡が認められる。堀幅は22.3 m以上と考えられる。慶長期以降、盗掘や探索的な掘削がたびたび行われたことが記録に残る。江戸時代後期の学者吉田芝渓の『上毛上野古墓記』(文化7年(1810))に記載されている。豊城入彦命(崇神皇子)の墓とする伝承があるが、これは考古学的に裏付けられたものではない。前方部石室から頭椎大刀が出土したと伝えられるが、現在は所在不明である。令和2年度調査では円筒埴輪が周堀から多量に出土している。円筒埴輪の透かしは円形で、外面の調整は縦ハケのみである。形象埴輪として馬形ないし家形埴輪片が出土しているが、出土量は少ない。
石室
前方部と後円部の両方に石室がある珍しい古墳である。前方部の石室は丸石組みの横穴式石室で羨道と玄室からなり、総長8.8m、玄室の長さ5.5m。後円部の石室は切石組の横穴式石室で羨道と玄室からなり、総長8.8m、玄室の長さ7m余である。石室規模やプラン構成など綿貫観音山古墳との共通性が指摘されている。石室壁面は榛名山から噴出した角閃石安山岩を加工したものである。 両方に石室があるのは群馬県内では総社二子山古墳だけである。後円部石室は群馬県内で最大級規模の石室である。円筒埴輪の特徴(縦ハケ・円形透かし)は築造年代を6世紀後半とする根拠の一つとなっている。
総社古墳群
総社古墳群の築造順序は以下である。 見山古墳(5世紀後半)→ 王山古墳、王河原山古墳(6 世紀初頭)→総社二子山古墳(6 世紀後半)→愛宕山古墳(7 世紀前半)→宝塔山古墳(7 世紀中葉)→蛇穴山古墳(7 世紀後半) 総社古墳群では6世紀後半に総社二子山古墳が最大規模として築造され、首長墓の更新が確認できる。
調査
考察
一つの古墳に二基の石室をもつ意味としては、被葬者が複数(主・副)であった可能性や、時期差による追葬・改修の可能性が指摘されている。加えて、前方部と後円部とで石材の種類や施工精度、石室規模に顕著な差が認められることから、両石室が同時期に築かれた場合であっても、被葬対象や儀礼的役割に差を設けた機能分化の可能性も考えられる。 また、このような構造は首長権力の継承や系譜の連続性を墳墓構造として表現したものと理解する見方も成り立つ。 綿貫観音山古墳との関係については、石室規模や切石の使用、羨道・玄室構成に共通性が認められ、同一系統の石工集団の関与が想定されている。これらの共通性は、首長層間の結びつきを背景とした広域的な築造ネットワークの存在を示すとともに、石室規模の差異からは両者の政治的序列関係を反映している可能性も考えられる。
規模
- 形状 前方後円墳
- 築成 前方部:2段、後円部:2段
- 墳長 89.8m
- 後円部径 径44.2m 高7.5m
- 前方部 幅60m 長45.6m 高8m
外表施設
円筒埴輪 円筒Ⅴ式
- 円筒埴輪 あり
葺石
- あり 河原石使用
遺構
- ①横穴式石室(両袖型・自然石乱石積み)
- ②横穴式石室(両袖型・削り石互目積)
- 棺 ①木棺
遺物
- 鈴釧1(六鈴)
- ①金環1
- 銀環1
- <メノウ>①勾玉4
- ①頭椎大刀1 直刀
- 鉄鏃 2
- 刀子2
- ①脚付長頸坩1
- 瓶1
- 提瓶1
- はそう1
- 高杯3
- 須恵器台付直口壺 -(東京国立博物館)
- 六鈴釧 - (東京国立博物館)
指定
- 1927年(昭和2年)4月8日 国指定史跡
- 令和5年10月20日 複数の古墳と統合し、「総社古墳群」となる。
被葬者
築造時期
- 6世紀後半
展示
アクセス等
- 名称:総社二子山古墳
- 所在地:群馬県前橋市総社町植野字二子山368
- 交通: 群馬総社駅 から徒歩 10分。
参考文献
- 前橋市教育委員会(2023)「総社古墳群範囲内容確認調査報告書Ⅱ」
- 前橋市教育委員会(2023)「総社古墳群総括報告書」
- 前橋市教育委員会(2025)「総社古墳群範囲内容確認調査報告書Ⅲ」
五斗米道 ― 2026年01月16日 00:20
五斗米道(ごとべいどう)は中国後漢時代の順帝末から桓帝初年頃(2世紀中頃)に成立した新興宗教で、後の道教成立に大きな影響を与えた教団である。天師道とも呼ばれる。
概要
教団は現在の四川省から陝西省南部にかけての地域で広まり、創始者は張陵(ちょうりょう、または張道陵)とされる。張陵は自らを「天師」と称し、人々が天・地・水の三神に対して罪を悔い改め、正しい道を守ることで、病や災いから救われると説いた。教えを受ける際に信者が五斗の米を納めたことから、「五斗米道」と呼ばれるようになった。この米は布施であると同時に、教団共同体を維持するための重要な財源でもあった。
張陵の死後、教団は子の張衡、孫の張魯へと三代にわたり継承された。とくに張魯の時代(2世紀末から3世紀初頭)には、漢中地方を拠点として、宗教的規範にもとづく自治的な政権が形成された。215年(建安20年)、魏の曹操が漢中に進出すると、張魯はこれに降伏し、五斗米道による政治的支配は終焉を迎えたが、宗教としての教団は魏の支配下で存続を許され、その後も発展を続けた。後世、宋代から元代にかけて教団制度が整えられ、「正一道(正一教)」として再編される。
教え
五斗米道の教えは、当時のさまざまな道教的思想を取り入れつつ、信者の倫理と生活を重視する点に特徴がある。『三国志』巻八「張魯伝」や『典略』によれば、病は人の過ちによって生じると考えられ、病者は静かな部屋(静室)にこもり、自らの罪を省みて悔い改めることが求められた。教団の役職者は符を用いた祈祷を行い、符水を飲ませることで治癒を祈った。こうした儀礼の一つに「三官手書」があり、病人の姓名と懺悔文を書いた三通の文書を、天・地・水の三神にそれぞれ奉納した。
五斗米道は、後に体系化される道教に先行する段階の宗教であることから、原始道教、あるいは初期道教と位置づけられている。
考察
懺悔しただけで病気が治るという考え方は、現代の感覚では理解しにくいが、当時は病気の原因を個人の罪科や過失の結果と捉える世界観があり、懺悔は精神的ならびに社会的な回復・救済を意味していたのであろう。 五斗の米は現在では約9リットル前後の量とされるが、それをすべての人が一律に寄進できたのかは疑問であり、実際には象徴的な入信料であった可能性も考えられる。五斗米道が広まった四川・漢中地域ではすでに稲作が定着しており、米を基準とする制度が成り立ちやすかったのだろう。北方よりも米食比重が高い中国南方では「米を納める宗教」が成立する地域的な条件があったと考えられる。五斗米道は貧しい人々には住居や生活の場を提供した(住居の提供や食料の配給など)とされ、宗教であると同時に、国家の統治が弱体化した時代を背景として、社会不安に満ちた時代において意義のある救貧・互助組織(古代的な福祉制度)としても重要な役割を果たしていたように思われる。このような機能は、後漢末の国家統治の限界を補完する役割を宗教が担っていたことを示しているとも言えよう。
参考文献
- 都築晶子(1978)「後漢末の社会秩序形成について」『名古屋大学東洋史研究報告』
- 澤章敏(2007)「五斗米道研究の現状と課題」三國志研究
水子貝塚 ― 2026年01月15日 00:29
水子貝塚(みずこかいづか)は、埼玉県富士見市に所在する縄文時代の貝塚である。
概要
埼玉県、東京都を流れる荒川右岸の武蔵野台地上②所在する縄文時代前期の大規模な貝塚である。縄文時代前期の縄文海進の時期に、内陸部に形成された代表的な貝塚である。 直径約160メートルの広場を中心として約50個所の小貝塚が分布する。各小貝塚は主として淡水産の貝塚で構成される。*調査 1894年(明治27年)10月25日にこの地を訪れた遺跡探索を趣味としていた元棚倉藩主の阿部正功によって発見され、『東京人類学会雑誌』第10巻、第106号に紹介された。 1937年(昭和12年)秋、酒詰仲男は安部立郎の報告した地名表から水子貝塚を認識し、和島誠一等とともに2カ所の貝層を伴う竪穴住居を発掘した(第1次調査)。 1939年(昭和14年)10月、東京考古学会による発掘調査が行われ、最大の貝塚の竪穴住居が発掘された(第2次調査)。 1967年(昭和42年)1月に行われた第3次調査では貝塚の下から縄文時代前期の竪穴住居前期黒浜式の竪穴住居1軒、諸磯b式の竪穴住居1軒などを発見した。1967年までの3回の調査により縄文時代前期の小貝塚が環状に分布していることを発見した。遺跡から約60ヵ所の小さな貝塚が発見された。貝の種類はヤマトシジミが大部分であった。ほかにハマグリ、サルボウ、カキなどがある。 廃棄された竪穴住居の跡地に形成された貝塚と見られる。1939年(昭和14年)10月には東京大学人類学教室の調査が行われ、最大の貝塚とその下の住居跡が発掘された。江坂輝弥は「水子式土器」の土器型式名を提唱した。 煮炊きに使われた煤けた土器が見つかった。1つの住居跡から、屈葬された30代女性の人骨と、若い雄犬の骨がみつかった。
遺跡公園
史跡指定地39,346.85 ㎡のうち、98.4%を公有地化し、1994年(平成6年)6月に「縄文ふれあい広場 水子貝塚公園」が開園した。隣接地に水子貝塚資料館があり、資料館と史跡、自然が一体となった野外博物館である。
遺構
- 貝塚
- 竪穴住居
遺物
- 縄文土器
- 石器
- ケツ状耳飾
- 軽石製品
- 鮫歯製垂飾
- 犬牙製垂飾
- 埋葬人骨
展示
- 水子貝塚公園(資料館)
考察
指定
- 1969年9月9日 - 国の史跡指定
アクセス等
- 名称 :水子貝塚
- 所在地 :埼玉県富士見市大字水子2003番地1
- 交 通 :東武東上線みずほ台駅東口 徒歩 15分/1.2km
参考文献
- 富士見市教育委員会「史跡水子貝塚整備基本計画」
総社二子山古墳 ― 2026年01月14日 00:33
総社二子山古墳(そうじゃふたごやまこふん)は群馬県前橋市にある古墳時代の前方後円墳である。
概要
総社古墳群のなかで最大の規模である。前方後円墳であるが両円が結合した形となっている。東西方向に主軸がある。群馬県内の横穴式古墳の代表的なもので、墳丘部は国有地になっている。墳丘は二段築成で、全長は89.8m、高さは前方部8m、7.5mである。前方部は自然石、後円部は加工石が使われる。石室は南に開口する。封土の周囲いに周溝の跡が残る。堀幅は22.3 m以上と考えられる。本古墳の発掘は慶長からたびたび行われたと記録に残る。江戸時代後期の学者吉田芝渓の『上毛上野古墓記』(文化7年(1810))に記載されている。豊城入彦命(崇神の皇子)の墓とする伝承がある。前方部石室から頭椎大刀が出土したが、行方不明である。令和2年度調査では円筒埴輪が周堀から多量に出土している。透かしは円形で、外面の調整は縦ハケのみである。形象埴輪として馬形ないし家形埴輪片が出土しているが、出土量が少ない。
石室
前方部と後円部の両方に石室がある珍しい古墳である。前方部の石室は丸石組みの横穴式石室で羨道と玄室からなり、総長8.8m、玄室の長さ5.5m。後円部は切石組の横穴式石室で羨道と玄室からなり、総長8.8m、玄室の長さ7m余。石室規模やプラン構成など綿貫観音山古墳との共通性が指摘されている。石室壁面は榛名山から噴出した角閃石安山岩を加工したものである。 両方に石室があるのは群馬県内では総社二子山古墳だけである。後円部石室は群馬県内で最大級規模の石室である。
- 総社古墳群 築造順序は以下である。 見山古墳(5世紀後半)→ 王山古墳、王河原山古墳(6 世紀初頭)→総社二子山古墳(6 世紀後半)→愛宕山古墳(7 世紀前半)→宝塔山古墳(7 世紀中葉)→蛇穴山古墳(7 世紀後半)
調査
規模
- 形状 前方後円墳
- 築成 前方部:2段、後円部:2段
- 墳長 89.8m
- 後円部径 径44.2m 高7.5m
- 前方部 幅60m 長45.6m 高8m
外表施設
円筒埴輪 円筒Ⅴ式
- 円筒埴輪 あり
葺石
- あり 河原石使用
遺構
- ①横穴式石室(両袖型・自然石乱石積み)
- ②横穴式石室(両袖型・削り石互目積)
- 棺 ①木棺
遺物
- 鈴釧1(六鈴)
- ①金環1
- 銀環1
- <メノウ>①勾玉4
- ①頭椎大刀1 直刀
- 鉄鏃 2
- 刀子2
- ①脚付長頸坩1
- 瓶1
- 提瓶1
- はそう1
- 高杯3
- 須恵器台付直口壺 -(東京国立博物館)
- 六鈴釧 - (東京国立博物館)
指定
- 1927年(昭和2年)4月8日 国指定史跡
- 令和5年10月20日 複数の古墳と統合し、「総社古墳群」となる。
被葬者
築造時期
- 6世紀後半
展示
アクセス等
- 名称:総社二子山古墳
- 所在地:群馬県前橋市総社町植野字二子山368
- 交通: 群馬総社駅 徒歩 10分。
参考文献
- 前橋市教育委員会(2023)「総社古墳群範囲内容確認調査報告書Ⅱ」
- 前橋市教育委員会(2023)「総社古墳群総括報告書」
- 前橋市教育委員会(2025)「総社古墳群範囲内容確認調査報告書Ⅲ」
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