二上山 ― 2023年07月29日 10:22
二上山(にじょうさん)は奈良県北葛城郡、金剛・葛城山脈の北端に位置する双耳峰の山である
概要
二上山は雄岳と雌岳で構成され、雄岳の標高は517m、雌岳の標高は474mである。双耳峰で、大阪みどりの百選に選定される。奈良県葛城市と大阪府南河内郡太子町にまたがる山である。2万5千地形図は「大和高田、古市」である。金剛生駒紀泉国定公園の地域である。西側の太子町付近は、古来から「近つ飛鳥」と呼ばれており、陵墓・古墳などの遺構が多く残る。
火山の名残
元は活火山であったが、現在は死火山と考えられている。二上山の火山活動時期は放射年代測定から約1400万年前と推定されている。 雌岳 およびその東部には流紋岩溶岩や流紋岩質岩脈が存在している。雄岳山頂に大津皇子の墓がある。
凝灰岩の産地
古代では二上山から産出する凝灰岩を好んで使用した。 二上山周辺には、火山岩(流紋岩・デイサイト・安山岩・玄武岩)や凝灰岩(火山礫や火山灰の堆積物、火砕流堆積物)がみられる。噴火によって多くの火成岩が分布するが、なかでもサヌカイト・凝灰岩・金剛砂はその後の人類文化の発展に大きく貢献した。 二上山の凝灰岩は、粗い白色の素地に黒い大粒の角礫が混ざることが特徴である。 高松塚古墳の石槨、キトラ古墳の石室、藤ノ木古墳の石棺などに二上山の凝灰岩が使用されている。雌岳山頂ルートの途中に石切場跡がある。
サヌカイト
二上山の北麓から西麓にかけて、旧石器時代から弥生時代までのサヌカイト製石器の原産地遺跡群がある。その流通はほぼ近畿地方全域に及ぶ。
金剛砂
二上山産の金剛砂は鉄分が多く、硬度は6.5~7.5(ダイヤモンド10)と硬いので研磨剤として利用されていた。
大津皇子
雄岳と雌岳が寄り添って並び、 雄岳山頂に大津皇子の墓がある。天武天皇を父に、天智天皇の長女・大田皇女を母にもつ皇子である。謀反の嫌疑をかけられ、24歳の若さで自害に追い込まれた。「大津皇子 二上山墓」と呼ばれ、宮内庁が管理する。 大津皇子には、石川女郎という、愛する女性がいた。あしひきの山の雫に妹を待つとて私は立ちつづけて、山の雫ですっかり濡れてしまったとうたっている。男が女のもとに通う風習があった時代であるが、男が女の来るのを待つことは。
- あしひきの山のしづくに妹待つと
- 我れ立ち濡れぬ山のしづくに (万葉集巻二 107)
- 大津皇子の石川女郎に贈りし御歌 番歌) 辞世の唄と言われる歌は、百年に伝わる磐余の池に鳴く鴨を見るのも今日を限りとして、私は雲の彼方に去ろうとしている。
- ももづたふ 磐余(いはれ)の池に 鳴く鴨(かも)を
- 今日(けふ)のみ見てや 雲隠(がく)りなむ (万葉集 巻三 416番歌)
- 大津皇子の死されし時に、磐余の池の堤に流涕して御作たまひし歌 大津皇子は朱鳥元年(689年)10月2日に逮捕され、翌2日に死を賜った。娘鸕野皇女(持統天皇)が草壁皇子の立太子決定後も危険人物とみなしたようである。雲隠るは、敬避表現なので、自分のことでいうのはおかしいので、皇子の周辺人物が辞世の句として伝世したものと考えられている。
アクセス
- 名称 :二上山
- 所在地:〒639-0271 奈良県葛城市加守
- 交通 :近鉄南大阪線「二上山駅」下車、南へ徒歩約15分(約1km)
参考文献
- 森本良平,藤田和夫,吉田博直,松本隆,市原実,笠間太郎(1953)「二上山の地質」地球科学1953 巻 (1953) 11 号、pp. 1-12
蛍光X線分析 ― 2023年07月29日 14:17
蛍光X線分析(けいこうえっくすせんぶんせき, XRF: X‐ray Fluorescence)はX線を用いる物質の分析手法である。
概要
X線は容易に物質を透過し、その程度は物質に含まれる原子の原子番号が小さくなるほど強くなる。X線を物質に照射すると、照射したX線が物質構成原子の内殻電子を外殻にはじき出し、空いた空間(空孔)に外殻電子に落ちてくる。余ったエネルギーは電磁場として放射される。外殻電子が移る際に内殻と外殻のエネルギー差に対応する固有X線(蛍光X線)が放出される。内殻と外殻のエネルギー差は元素ごとに固有であるため、蛍光X線のエネルギーは元素ごとに固有となる。蛍光X線は、元素に固有のエネルギーを持っているので、そのエネルギーからモズレー則により定性分析ができる。そのエネルギーのX線強度(光子の数)から定量分析ができる。 対象試料の蛍光スペクトルを見ることにより構成元素の分析ができる。各スペクトルの強度を測定すると、対象試料中の特定元素の濃度が判明する。
特徴
- 測定範囲の全エネルギー(Na~U)を同時に短時間で測定が可能である。
- 特殊な試料を除いて前処理不要であり、大気中での分析ができる。
- 未知試料の分析に適する。
- 固体、液体、粉体を非破壊による分析ができる。
- 材料の成分管理、異物・不純物などの微量成分検出、めっきなどの膜厚計測などができる。
適用事例
- 金属材料の組成評価
- 部品のめっき膜厚の測定
- セラミックスの元素分布の可視化
- ウェハ上金属膜の膜厚分布評価
- 液体の元素分析
参考文献
- 「蛍光X線分析:原理解説」日立ハイテク
埋蔵文化財 ― 2023年07月29日 14:54
埋蔵文化財(まいぞうぶんかざい)は遺跡などに埋もれていた文化財である。略称を「埋文」という。
概要
埋蔵文化財は集落跡・古墳・城跡などの「遺跡」、住居跡・井戸跡・墓跡などの「遺構」、土器・石器などの「遺物」を指す。有形文化財、有形民俗文化財および記念物の一部などである。 埋蔵文化財がある土地(周知の埋蔵文化財包蔵地)は全国で約46万カ所あると言われる。
文化財保護法
文化財保護法は1950年(昭和25年)5月30日に公布され、8月29日施行された。 文化財保護法は、それまでの「国宝保存法」「史跡名勝天然記念物保存法」などを統合し、保護対象に無形文化財・埋蔵文化財を新たに加えた。文化財保護法は、文化財を「有形文化財」「無形文化財」「民俗文化財」「記念物」「文化的景観」「伝統的建造物群」の6種類に分けて定義する。 文化財保護法によれば周知の埋蔵文化財包蔵地において土木工事などの開発事業を行う場合には、都道府県・政令指定都市等の教育委員会に事前の届出等(文化財保護法93・94条)が必要である。また新たに遺跡を発見した場合にも届出等を行うよう求めている(同法96・97条)。出土品は所管の警察署長に提出する必要がある(同法100条)。 各市町村は、その周知の徹底を図るため、「遺跡地図」「遺跡台帳」の整備などに努めている。埋蔵文化財に関連して、土地の所有者・占有者は、出土品の出土等により貝塚・古墳・住居跡などの遺跡を発見した場合には、その現状を変更することなく、遅滞なく文化庁長官に対して届け出なければならない、とされている(同法第96条)。
出土品
出土品は所管の警察署長に提出する必要がある。これが文化財らしいと認められる場合は、都道府県・政令指定都市及び中核市の教育委員会が文化財であるかどうかの鑑査を行う。文化財であると認められたもので所有者が判明しないものは、原則として都道府県に帰属される。
参考文献
唐物 ― 2023年07月29日 15:02
唐物(からもの, imported goods)は、奈良時代、平安時代から中世、近世における舶載品をいう。
概要
「唐物」用語の初出は平安時代の808年(大同3年11月)であった(参考文献1)。すなわち大嘗会の楽では禁制のひとつとして「唐物」が挙げられている。『大嘗会の雑楽伎人等、専ら朝憲にそむき、唐物をもって飾となす」と書かれ、大嘗会で唐物で飾ることを禁じられていた。雑楽は「風俗楽(六位以下)」に該当するので、6位以下の身分のものはどこから唐物を入手したかが問題となりそうだ。8世紀の「新羅物」と10世紀の「唐物」はほぼ同一のものを指しており、新羅物の代わりに唐物が「舶来品」の意味で使われるようになったと考えられる(参考文献1)。8世紀半ばまでは「新羅物」も使われることから、外来品を総称する「からもの」は成立していなかった。9世紀には「唐物」は異国(中国、朝鮮半島を含む)から日本にもたらされた品を総称する用語となった。10世紀以降は中国に比重がシフトした。すなわち、「唐物」の内容は時代ごとにフレキシブルに変化する概念であったといえる。
「唐」とは
「唐」の用語は唐王朝が滅んだあとでも、中国を指す用語として使われていた(参考文献5)。 鎌倉時代には唐物と和物とが区分されていた。『新猿楽記』において、商人の八郎真人の取扱商品は、唐物と和物とが列挙されている。鎌倉時代は香薬、顔料、陶磁器、ガラス器などの工芸品、動植物などが輸入されていた。
唐の範囲
9世紀末から10世紀初めの「唐」の読みは「もろこし」である(河内春人(2022))。「から」は加羅、韓、唐を指し、日本の外の包括的な概念と思われる。『古事記』仁徳天皇巻では、「暫し筒木の韓人(からびと)、名は奴理能美(ぬりのみ)の家に入りましき(暫入坐筒木韓人・名奴理能美之家也)」と書かれるから、韓を「から」と呼んでいた。
新羅物
「唐物」以前に「新羅物」の用語が使われた。752年、新羅と日本との交易で「買新羅物解」の文書が作られた(参考文献3,4)。「買新羅物解」は752年(天平勝宝四年)六月の新羅の使節がもたらした種々の物品について、貴族らがその購入を申請した文書である。もとは正倉院の鳥毛立女屏風の下貼に用いられていた文書であった。現在も正倉院に残る十通余と一連のもので、七通が残される。それぞれ購入すべき品目とその全体の価直を掲げる。、購入品目は、香料、薬物、顔料や鏡などの金属器が多く、人参、松子など新羅特産品とみられるものもある。奈良時代の新羅との文物の交流をめぐる稀有な史料として古代史研究上に価値が高い。
唐物の品物
唐物の対象は、香料・ガラス・紙・陶器・布・毛皮・文具・調度・書籍・薬・茶・楽器・珍獣など幅広い品物であった(参考文献6)。
徒然草
吉田兼好は唐物は薬以外はなくとも困らない、書物は書き写せばよい、中国船が渡航困難な海路を沢山来るのは愚かなことだ、と書く。鎌倉時代の末期には中国船が多数、到来する状況であったことを示している。海外ブランド信仰を苦々しく思ってみていたのであろう。
- 原文「唐の物は、薬の外は、なくとも事欠くまじ。書どもは、この国に多くひろまりぬれば、書きても写してん。唐土船(もろこしぶね)のたやすからぬ道に、無用の物どものみ取り積みて、所狭く渡しもて来る、いと愚かなり。」(『徒然草』第百二十段)
Wikipediaの誤り
Wikipediaの説明は間違っている。説明に「(唐物は)中世から近世にかけて尊ばれた中国製品の雅称である」と書かれるが、「中世から」ではなく、「唐物」はそれ以前からある用語である。また「中国製品の」だけとは限らない。「唐物」が「雅称」かどうかは検討を要する。Wikipedia記事に参考文献が1つしかないのは問題である。
参考文献
- 河内春人(2022)「唐物の成立」『唐物とは何か』(河添房江編)勉誠出版
- 森公章(;2016)「奈良時代と「唐物」」河添房江・皆川雅樹編『唐物と東アジア』勉誠出版
- 東野治之(;1977)『正倉院文書と木簡の研究』塙書房
- 皆川完一(;2012)『正倉院文書と古代中世史料の研究』吉川弘文館
- 大塚紀弘(2022)「鎌倉時代の唐物と文化伝搬」『唐物とは何か』(河添房江編)勉誠出版
- 河添 房江(2014)「平安物語の唐物をめぐる文化史」専修大学人文科学研究所月報272,pp.1-10
- 河添 房江(2014)『唐物の文化史――舶来品からみた日本』岩波書店
奈良時代 ― 2023年07月29日 15:41
奈良時代 (ならじだい)は、平城京に都があった時代である。おおむね、710年(和銅3年)から784年(延暦3年)までを指す。
概要
日本の基礎的政治文化が確立した時期である。701年に[[大宝律令]]ができあがり、律令制に基づく中央集権の国家体制が国家運営の基盤となる。[[平城京]]は東西約4.3キロメートル、南北約4.8キロメートルの規模である。鎮護国家の思想すなわち仏教により国家統治を行う思想が主流となった。
| 西暦年 | 和暦年 | 出来事 |
| 710年 | 和銅3年 | 平城京に都を移す |
| 712年 | 和銅5年 | 古事記完成 |
| 717年 | 養老元年 | 遣唐使派遣 |
| 720年 | 養老4年 | 日本書記完成 |
| 723年 | 養老7年 | 三世一身法 |
| 724年 | 養老8年 | 元正天皇は皇太子(聖武天皇)に譲位 |
| 729年 | 神亀6年 | 長屋王の変 |
| 739年 | 天平10年 | 法隆寺夢殿 |
| 740年 | 天平11年 | 藤原広嗣の乱 |
| 741年 | 天平12年 | 聖武天皇、全国に国分寺や国分尼寺を建立 |
| 743年 | 天平15年 | 聖武天皇、大仏建立の詔 |
| 743年 | 天平15年 | 墾田永年私財法を施行 |
| 745年 | 天平17年 | 行基、大僧正に任ず。東大寺三月堂 |
| 749年 | 天平勝宝元年 | 聖武天皇は阿倍内親王に譲位,孝謙天皇として即位 |
| 752年 | 天平勝宝4年 | 東大寺大仏開眼,天平勝宝4年遣唐 |
| 754年 | 天平勝宝6年 | 唐僧鑑真が来日 |
| 756年 | 天平勝宝8年 | 聖武太上天皇、崩御 |
| 756年 | 天平勝宝8年 | 光明皇太后は宝物を[[正倉院]]に施入した |
| 757年 | 天平宝字元年 | 養老律令を施行 |
| 759年 | 天平宝字3年 | 鑑真、奈良に唐招提寺を建立,天平宝字3年遣唐使 |
| 764年 | 天平宝字8年 | 恵美押勝の乱 |
| 765年 | 天平神護元年 | 道鏡、太政大臣禅師となる |
| 777年 | 宝亀8年 | 遣唐使 |
| 780年 | 宝亀11年 | 大伴家持ら『万葉集』編纂 |
| 781年 | 宝亀12年 | 桓武天皇(山部親王)が即位 |
| 784年 | 延暦3年 | 桓武天皇、長岡京に遷都 |
| 794年 | 延暦13年 | 桓武天皇、平安京に遷都 |
参考文献
1. 木本 好信(2022)『奈良時代-律令国家の黄金期と熾烈な権力闘争』中央公論新社
2. 青木和夫(2004)『日本の歴史〈3〉奈良の都』中央公論新社
平安時代 ― 2023年07月29日 16:47
平安時代 (へいあんじだい)は、平安京に政治の中心があった時代である。おおむね、794年(延暦13年)から鎌倉幕府の成立までの期間を指す(異説もある)。概ね390年間である。
概要
奈良時代の中央集権的な律令体制を基盤として平安時代は開始された。
なお平安時代の開始時期は794年説のほか、784年(延暦三年)の長岡京遷都、または781年(天応元年)の桓武天皇即位を平安時代平安時代の開始とみる説もある。
時代区分の説明
平安時代は3期ないし4期に分けられる。3期説の区分を次に示す。
①天皇親政の時代
②摂関政治と国風文化の台頭
③院政の開始と武士の台頭
それぞれの特徴は次の通りである。
①天皇親政の時代
桓武天皇による[[天皇親政]]の時代である。平安遷都は、奈良時代の旧弊を改め、天皇の権威を高めようとしたと言われる。寺院勢力が強い平城京から平安京に遷都したともされる。政治を司る太政官の筆頭官は親王が占めていた。律令制の再編成するため令外官が置かれた。次代の平城天皇も親政による改革を行った。嵯峨天皇は百姓撫民(貧民救済)、権門(有力貴族・寺社)抑制の政策を取った。
②摂関政治と国風文化の台頭
平安時代中ごろから、政治の実権を貴族が握るようになっていた。貴族の中でも藤原北家すなわち藤原良房の一族が、天皇の外戚として摂政や関白あるいは内覧を占めた。飛鳥・奈良時代における摂政は、皇位継承権のある皇族・皇太子が就任することになっていた。ところが、天皇の親戚関係を利用し、866年[[藤原良房]]が摂政に就任し、「人臣摂政」となった。良房の養子の[[藤原基経]]は歴史上最初の関白となった。摂政と関白の違いは、摂政は天皇が幼少であるあるいは病気がち、ないしは女性の場合に天皇に代わり政務を取り仕切ることをいう。関白は天皇が幼少でも病気がちでもない場合に、摂政と同様の役割を果たすのが関白である。
③院政の開始と武士の台頭
1086年(応徳3年)、白河天皇は「院政」を開始した。弟の輔仁親王への皇位継承を嫌い、幼少の堀河天皇に譲位して、上皇(院)として院庁を開き、天皇を後見しながら政治の実権を握った。院の御所に北面の武士や武者所を組織し、政治の実権を行使した。院政は天皇の実父という立場に基づくものである。後三条天皇の治世下において摂関家は力を失っていた。藤原氏は堀河天皇の摂政に就いたものの、摂関政治の能力を喪失していた。大江匡房はその日記に「今の世のことは、まず上皇の御気色を仰ぐべきか」と書く。人事権(除目・叙位)の掌握が大きな力の源泉となった。白河上皇は権力基盤として、独自の警護組織である「北面の武士」を設け、軍事貴族の平正盛を北面の武士に任命して重用した。白河上皇の時代から院宣や院庁下文が重視され、天皇の位も形骸化した。院政期は1086年(応徳3年)から平氏政権が確立するまでに間の時期とみることができる。しかし、平氏政権のあとも形式的には院政は幕末まで続くが、政治的実権があったの時期は限定される。
地方の豪族や中央の武官の中から、武士が誕生した。武士団を形成し、平将門が北関東、藤原純友が瀬戸内海で反乱を起こすなど、独自の勢力を持つようになる。東日本は源氏、西日本は平氏が有力な武士団として台頭した。京都政界の貴族内の政争から保元の乱、平治の乱がおき、武力で解決した平清盛が武家の棟梁とみなされた。1160年に[[平清盛]]は正三位参議に補任され、武士として初めて公卿となった。1167年(仁安2年)には[[平清盛]]は武家として初めて太政大臣従一位の地位を得た。
摂関政治の期間には諸説ある。
(1)100年説
967年(康保4)冷泉天皇の践祚後に藤原実頼が関白となり、1068年(治暦4)後三条天皇が皇位につくまでの約100年間を指すとする説。
(2)228年説
--藤原良房の人臣摂政に就任した858年から院政が始まる1086年まで228年間とする説。
平氏政権
平氏政権の開始時期も諸説ある。
(1)1179年説 - 治承三年、[[平清盛]]による後白河院政の停止、クーデター
(2)1160年説 – 平治2年、清盛(正四位下)が正三位となり、参議を兼ねた。
(3)1167年説 - 仁安3年、清盛が太政大臣従一位となった。
平安時代の出来事
| 西暦年 | 和暦年 | 出来事 |
| 794年 | 延暦13年 | 平安京へ遷都 |
| 799年 | 延暦18年 | 遣新羅使 |
| 800年 | 延暦19年 | 富士山、大噴火 |
| 804年 | 延暦23年 | 7月、空海、最澄、遣唐使船で出航 |
| 806年 | 延暦25年 | 桓武天皇崩御、平城天皇即位 |
| 809年 | 大同4年 | 平城天皇が譲位し、嵯峨天皇即位 |
| 729年 | 神亀6年 | 長屋王の変 |
| 810年 | 弘仁1年 | 薬子の変 |
| 820年 | 弘仁11年 | 遠江・駿河の新羅人700人が反乱を起こす |
| |823年 | 弘仁14年 | 嵯峨天皇譲位し、淳和天皇即位 |
| 827年 | 天長4年 | 京で大地震 |
| 833年 | 天長10年 | 淳和天皇譲位、仁明天皇即位行 |
| 836年 | 承和3年 | 第19回遣唐使、出航後遭難し漂着 |
| 838年 | 承和5年 | 最後の遣唐使派遣 |
| 842年 | 承和9年 | 承和の変 |
| 857年 | 天安1年 | 唐天安1年が来日 |
| 866年 | 貞観8年 | 応天門の変 |
| 869年 | 貞観11年 | 東北で貞観三陸沖地震 |
| 878年 | 元慶2年 | 元慶の乱 |
| 887年 | 仁和3年 | 仁和地震、光孝天皇崩御、宇多天皇即位 |
| 888年 | 仁和4年 | 阿衡の紛議 |
| 894年 | 寛平6年 | 菅原道真の建議により、遣唐使が廃止 |
| 901年| | | 延喜1年 | 菅原道真、大宰府に左遷(昌泰の変) |
| 939年 | 天慶2年 | 平将門の乱、藤原純友の乱 |
| 976年 | 貞元1年 | 山城・近江地震 |
| 1017年 | 寛仁1年 | 藤原道長が太政大臣、子の頼道が摂政/藤原氏全盛時代 |
| 1167年 | 仁安2年 | 平清盛 太政大臣に |
| 1086年 | 応徳3年 | 堀河天皇即位、白河上皇、院庁で政務をみる(院政開始) |
| 1096年 | 永長1年 | 永長地震、東海、東南海の地震 |
| 1099年 | 承徳3年 | 南海地震 |
| 1159年 | 平治1年 | 平治の乱 |
| 1167年 | 仁安2年 | 平清盛、太政大臣に就任 |
| 1179年 | 治承3年 | 治承三年の政変 |
| 1180年| | | 治承4年 | 安徳天皇即位、治承・寿永の乱、源頼政挙兵、南都焼き討ち |
| 1181 | 養和1年 | 安養和の大飢饉 |
| 1185 | 文治元年/寿永4年 | 壇ノ浦で平家滅亡、文治地震、文治勅許 |
| 1192年| | | 建久3年 | 源頼朝、征夷大将軍 |
参考文献
1. 北山 茂夫 (2004)『平安京』中央公論新社
2. 川尻 秋生(2011)『平安京遷都』岩波書店
3. 古瀬 奈津子 (2011)『摂関政治』岩波書店
興福寺 ― 2023年07月29日 17:08
興福寺(こうふくじ, Kofukuji Temple)は南都七大寺のひとつで、法相宗の大本山である。正式名は「金光明四天王護国之寺」である。
概要
前身の開山
645年(皇極4年)藤原鎌足は乙巳の変のクーデターが成功することを祈り、成功した暁には釈迦三尊像と四天王を作る願いを立てたという。クーデターの成功後、病を得たとき妻鏡女王の勧めにより山科に釈迦三尊や四天王などの諸仏を安置するため「山階寺」を造営しした。『興福寺流記』所引「宝字記」に「鎌足は改新の成功を祈って、釈迦三尊像・四天王像を造ることを発願した。事が成就した後、山階の地で造像を行った。やがて重病になり、妻の鏡女王の勧めで伽藍を建て仏像を安置した。これが山階寺の始まりである」と書かれる。 「山階寺」の所在地は長く不明であったが、JR山科駅西南、御陵大津畑町を中心とした地域にあったとする説が有力である(京都府山科区御陵大津畑町に「山科寺跡」の碑がある)。
厩坂への移転
壬申の乱(672年)の後、飛鳥に都が戻ったとき山階寺を大和国高市郡厩坂(うまやさか)に移し、「厩坂寺」と称した。その正確な位置は不明とされているが、候補地として大軽町の北、現奈良県橿原市久米町と奈良県橿原市石川町の境の小字丈六とする説がある。『 日本書紀』によれば軽坂の上に建てられた厩に起源がある地名で、軽坂と厩坂は同地に存在していた。福山敏男は(橿原市石川町字 ウラン坊で発見された円形の造り出しを持つ礎石 6個 と重弧文軒平瓦が出土したことから、軽池北遺跡付近に比定している(参考文献3)。
興福寺の開山
710年(和銅3年)、平城遷都の際に藤原不比等によって厩坂寺を平城京左京3条7坊に移し、興福寺と命名された。藤原氏の氏寺であった。最近では山科寺と興福寺は別の寺とする説もあるが、正倉院文書の経典の貸出記録に同じ経典の借用先が山科寺と興福寺と書かれており、同一の寺と見られる。
奈良時代の興福寺
興福寺は平城京の東端南北東西各四町の16町の敷地に、東六坊大路の西側4町、南側4町園池(現猿沢池)も興福寺の敷地であったから、合計24町という広大な敷地であった。東大寺以前では、大安寺・薬師寺をしのぎ、当時としては最大の寺院であった。興福寺の敷地は平安遷都の計画段階から決まっていたと思われる。 藤原不比等が亡くなると妻の三千代の願いで、中金堂内に弥勒仏の浄土を再現する彫像群が作られた。その後も、聖武天皇による東金堂(726年)、光明皇后による五重塔(730年)、西金堂(734年)が作られた。奈良時代の造営の最後に講堂(746年)を建築した。 奈良時代は四大寺、平安時代は七大寺の一つとされた。730年(天平2)光明皇后は五重塔を建立した。813年(弘仁4年)藤原冬嗣は南円堂を建立した。 平安時代には本地垂迹説に基づいて、興福寺は春日大社を支配下に収めた。
鎌倉時代・室町時代
鎌倉幕府・室町幕府は大和国に守護を置かず、興福寺がその任にあたった。1595年(文禄4年)の検地では「春日社興福寺」合体の知行として2万1千余石と定められた、
明治時代
1868年(慶応4年)4月7日、大和国鎮撫総督府から春日大社における権現などの神号の廃止命令が出された。大乗院と一乗院は連名で鎮撫総督に「復飾(還俗)願い」を提出した。神祇局は還俗を許可し、興福寺の僧侶に「新宮司」の地位を与えた。春日大社の仏具類は、興福寺に引き取らせ、完全に神仏を分離させた。堂塔は破却処分となり、境内と七堂伽藍が残った。一部の千体仏は、民間に流出し、藤田美術館(大阪市)やMIHOミュージアム(滋賀県)などに流出した。他に快慶作の木造弥勒菩薩立像はボストン美術館、乾漆梵天・帝釈天立像はアジア美術館(サンフランシスコ)、康円作の木造文殊菩薩・侍者像(重要文化財)は東京国立博物館に行ってしまった。興福寺の廃仏毀釈においては五重塔(国宝)も破却の危機にあった。
五重塔
730年(天平2年)、興福寺の創建者である藤原不比等の娘の光明皇后の発願で建立された。その後、5回の焼失・再建を繰り返した。現在の塔は1426年(応永33年)頃に再建されたものである。薬師三尊像、釈迦三尊像、阿弥陀三尊像、弥勒三尊像が初層のそれぞれ須弥壇四方に安置されている。塔の高さは50.1メートルあり、日本の仏塔として京都、東寺の五重塔に次ぐ規模である、奈良県内における建築物の中でも最も高い建築物である。
注・参考文献
- <多川俊映・金子啓明(2018)『興福寺のすべて』小学館
- 大協潔(1977)「遺跡の位置と環境」『軽池北遺跡発掘調査報告』(軽池北遺跡調査会)、奈良文化財研究所、pp.3-8
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