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高句麗2026年09月01日 00:21

高句麗(こうくり.고구려)は古代中国の東北部から朝鮮半島北部にかけて存在した国家である。その住民や周辺集団は、中国史料で濊貊などと関連付けられることがある。当時の『日本書紀』によれば当時の倭国は高句麗を「高麗」(コマ)と呼んでいた(日本書紀巻第廿二推古紀「高麗僧慧慈歸化、則皇太子師之」)。

概要

高句麗は古代の朝鮮の三国時代に、中国東北地方から朝鮮半島にかけて支配した強国であった。最盛期には中国東北地方南部から、ロシア沿海地方の一部、朝鮮半島の大部分に勢力を及ぼした。

最も古い記録は『漢書』「地理志」に玄菟郡の首県として高句驪県が言及されているもので、玄菟郡の設置は前漢の武帝の時代、紀元前107年であった。

『三国史記』の伝承では、紀元前37年に扶余出身の朱蒙(東明聖王)によって建国されたと伝わるが、史実であるかは疑わしいとの見解もある。第三代大武神王は『三国志』高句麗伝に記載があるので、実在性を想定可能であるが、単一資料のため実在が確実ではないとの意見もある。

紀元前1世紀頃、鴨緑江中流域の集団が地元の部族を統合し、連盟体(部族連合)を形成した。高句麗では消奴部・桂婁部・絶奴部・順奴部・灌奴部などからなる五部が政治的・社会的な基盤となったとされる(『三国志』魏書 巻30 東夷伝 高句麗条)。漢代(紀元前?紀元後)における高句麗五部の動向は『後漢書』東夷列伝に記録されている。

『三国史記』によれば、高句麗は、後漢末に遼東の太守公孫氏に追われ、209年に鴨緑江流域の国内城へ遷都し、丸都城を築くなど、部族連合的な性格から次第に王権が強化され、中央集権的な国家に移行したとされる。これを実質的な建国とする見解がある(『三国史記』「高句麗本紀」)。

三韓は古代の朝鮮半島南部に存在した「馬韓」「辰韓」「弁韓」の3つの部族連合をいう。馬韓地域では後に百済が成立し、辰韓地域には新羅が成立した。4世紀後半以降、高句麗・百済・新羅が朝鮮半島の主要な政治勢力として並立し、これを朝鮮史では一般に三国時代という。一方、半島南部には加耶諸国も存在した。

本来の国名は「高句麗」であるが、金石文と歴史記録をもとにして金石文や中国・朝鮮の史料には「高麗」の表記もみられ、長寿王の時代頃に「高麗」が広く用いられるようになったとする見解がある。

韓国の英文国号の「Korea」という名称は高麗(Goryeo)に由来する。 4世紀以降、仏教を受容し、太学を設置するなど、中国の制度や文化を取り入れながら国家体制を整備した。広開土王碑文などの記録では、高句麗の始祖である鄒牟王(チュモン)は北夫余の天帝の子(천제지자)であり、母は河伯(水の神)の娘であるとされている。高句麗の建国神話には、始祖王を天上世界や河川の神と結び付ける王権神話がみられる。このような始祖の神聖性と系統性を強調する観念は、日本の王権神話と比較されることがある。

初期の建国地とされる卒本川地域から、3世紀初頭には鴨緑江中流域の国内城・丸都山城を中心とする地域へ政治的中心を移し、5世紀の長寿王の時代には平壌へ遷都した。

歴代の代表的な王

瑠璃明王(第2代。在位前19年 - 後18年)

AD12年、新(漢)の皇帝である王莽は匈奴の侵略のため、高句麗に出兵を要求したが、高句麗は従わなかった。王莽は怒り、王莽は、高句麗王の称号を下句麗侯に改め、高句麗を「下句麗」と格下げした。新朝の皇帝である王莽には、中華王朝の冊封秩序のなかで高句麗侯の名称・封号を変更する権力があり、その措置は新朝の公的決定として正式なものであった。『三国史記』によれば、高句麗はその後、国名を元の「高句麗」に戻すよう求めたとされる。

大武神王(第3代、在位18年 - 44年)

『三国志』魏書東夷伝高句麗条によれば、漢の光武帝の建武8年(AD32年)に高句麗王が献使したと伝える。『三国史記』によれば、このときの高句麗王は第3代大武神王(在位18年から44年)である。光武帝から「高句麗王」の称号を回復された(前代の王莽の時代に高句麗との対立や称号の格下げがあった)。 『三国史記』にはAD37年に高句麗が楽浪郡を攻めて滅ぼしたとの記事がある。一方、『後漢書』東夷伝には7年後のAD44年に後漢の光武帝は海を渡って兵を派遣し、高句麗を討って楽浪郡を奪還し、再び漢の支配を回復したとされる。

山上王(第10代、在位:197年 - 227年)

第9代王・故国川王の弟とされる(『三国志魏書』は、第6代太祖王の曾孫とする)。第10代の山上王はAD197年、丸都城を築いた(井上秀雄(2004))。なお『三国史記』では198年とする。山腹に築かれた、巨大な山城である。城壁は切石積で、総長6950メートルを超える。『三国史記』によれば、209年に都を丸都城に移したとする。王后は故国川王の王后の于氏だったとされる。

東川王(第11代)

東川王は236年7月には呉の使者を斬りその首を魏に送ったとされる。237年(景初元年)に魏に使者を送り、年号の改正を祝賀した。244年(『三国史記』では246年)魏の魏の幽州刺史・毋丘倹は高句麗の国都である丸都城に来襲し、陥落させた。

美川王(第15代、在位300年 - 330年)

中国史料との対応関係から、4世紀以降の王については実在性を比較的確実に確認できるとする見解がある。具体的には第15代の「美川王)以後は実在性が確実との見解がある。これは中国の正史である『魏書』『梁書』などにおける同時代の記録や、歴史書『三国史記』などの記述を根拠とする。 第14代の烽上王の暴政により300年9月、国相の倉助利らは烽上王を廃位して、乙弗を王位に就け、高句麗王(美川王)とした。 美川王は遼東郡に出兵し、さらに313年に楽浪郡を滅ぼし、翌314年には帯方郡も攻略した。 342年に前燕の侵攻によって墓が暴かれたという記録(『三国史記』など)があり、安岳3号墳については、美川王の墓と関連付ける説がある一方、墓誌にみえる冬寿を被葬者とする説などもあり、被葬者をめぐる議論がある。

故国原王(第16代、在位331年から371年)

369年、2万の軍隊で百済を攻めたが敗北した。371年、故国原王は百済を攻めるため大同江を渡ったが百済の伏兵に破れた。百済の近肖古王は兵3万を率いて高句麗に攻め込み、故国原王は防戦したが流矢に当たって戦死した。

小獣林王(第17代。在位371~384年)

371年、前代の故国原王が百済との闘いで戦死したため、子の小獣林王が第17代の王位に就いた。文教政策を重視し、小獣林王は国力の充実を図った。372年、華北を統一支配していた前秦(五胡の一つ氐が建国した)の苻堅は高句麗に僧順道や仏像・経典を高句麗に送り、これが高句麗における仏教公伝の始まりとされる。

広開土王(第19代、在位394~412年)

4世紀の第19代広開土王のとき、高句麗は最盛期を迎えた。395年8月、百済と闘い、8000人を捕虜とした。396年に百済と闘って勝利し、王の弟を捕虜とした。 広開土王碑には、百済・新羅・倭などとの軍事関係を示す記事が記されている。倭の活動や高句麗との関係については、碑文の解釈をめぐって様々な議論がある。その他、周辺に盛んに遠征して領土を広げ、広開土王の事績を記した広開土王碑は、子の長寿王によって建立された。

宝蔵王(第28代、在位642年から668年)

高句麗の第28代・最後の宝蔵王は中国の唐の侵攻に強く抵抗したが、668年の第3次侵攻で平壌長安城を落とされ、高句麗は滅亡した。

高句麗が軍事的に強かった要因

いくつかの要因が考えられる。

  1. 山岳地帯や河川を利用した防衛に適した地理的条件がある。
  2. 騎馬軍団など強力な軍事力を保持していた。
  3. 周辺諸国との継続的な戦争経験(戦場の豊富な経験)
  4. 山城・都城の防御体系
  5. 高句麗に王の天孫思想があり、団結力が強化した(人的・物的資源の動員)。

高句麗の地形条件

高句麗は周囲が山に囲まれた険しい地形であり、山岳地帯を利用した優れた防衛力を持っていた。

騎馬軍団

鉄の鎧を着た兵士や馬に乗る騎馬軍団は強力であった。戦車も活用した。高句麗は戦争経験が豊富で、兵士の訓練が行き届いていた。高句麗古墳群の壁画には、完全武装した騎馬や兵士の姿が描かれている。4世紀から5世紀頃の東アジアでは最強クラスの精鋭部隊とされている。4世紀末から5世紀初頭に朝鮮半島へ進出した倭軍(大和政権)は、この高句麗の騎馬軍団と遭遇して大敗を喫した。これを契機として日本列島でも馬の生産や騎馬文化、河内の牧のような国内拠点を整備した。

高句麗の継続的な戦争経験

隋の対高句麗の遠征回数は第一次遠征(598年)、第二次遠征(612年)、三次遠征(613年)、第四次遠征(614年)と続く。

第一次遠征

高句麗の嬰陽王は598年に万余の騎兵を率いて隋の遼西へと先制攻撃し、激怒した隋の文帝は水陸30万の大軍を動員して高句麗へ侵攻したが、悪天候(大雨や台風)や疫病、補給の失敗により隋軍は大きな損害を出して敗退した。

第二次遠征

612年正月、隋の煬帝は高句麗討伐の詔書を下した。総勢113万3800人の遠征軍である。迎え撃つ高句麗軍の将軍乙支文徳は、後退しながら、投降すると偽り隋軍の気が緩んだところを攻撃して大勝した。隋軍は疲労と補給不足に陥っていたと言われる。

第三次遠征

613年4月の第三次遠征は皇帝の煬帝が自ら軍を率いて遼東城を包囲したが、高句麗の抵抗に遭い、楊玄感の反乱もあって撤退することとなった。 高句麗側は食糧などを残さないように農民に伝達して、後方に避難させたとされる(『三国史記』(高句麗本紀))。食糧などの物資を残さないよう住民に徹底させ、城に立てこもらせた戦術を「清野作戦」という。中国側正史『隋書』にも同様の記述がある。

第四次遠征

614年の第四次遠征では随の煬帝は再び親征を行い、平壌城の近郊まで軍を進めた。高句麗の嬰陽王は使者を送って形式的な降伏を申し出たため、これを受け入れた。

高句麗の防御体系

高句麗の都城と山城は強固な防御体系を築いた。その最大の特徴は、「平地城(政治・生活の場)」と「山城(戦時の籠城・防御の場)」を組み合わせて運用する「一対構造」として一体化する「羅城(らじょう)体系」へ進化させた。「平地城」と「山城」を互いに近くに配置し、連動させて国内を防衛した。普段は利便性の高い平地の国内城で暮らしていたが、敵が攻めてくると頑丈な城壁と広い収容力を持つ丸都山城へ王宮ごと避難して徹底抗戦した。

高句麗の天孫思想と団結力

高句麗の天孫思想が最も端的に現れるのが、『三国史記』に記される朱蒙(東明聖王)の誕生・建国神話である。高句麗王家が「天(天帝)」と直接つながる血統であることを示し、支配の正統性を神格した。5世紀(414年)に建立された広開土王碑の冒頭部分に、高句麗の天孫思想が公式な国家記録として「朱蒙が国基を創りたもうた。北夫余より出づ。天帝の子にして、母は河伯の女郎なり)」と記される。中国皇帝の権威を借りず、高句麗王が「天の子(天孫)」として独自の天下を治める権利を持つと主張した。広開土王が中国の元号を使わずに「永楽」という独自の元号を使用したことは、「中国皇帝(天子)とは独立した独自の天の世界(天下)を持つこと」を意味していた。高句麗では、この天孫思想を物語にとどめず、毎年秋に「東盟(とうめい)」と呼ばれる大規模な国家祭祀(収穫祭)を行った。国家的儀礼は、支配階級と民衆の心理的距離を近づけ「同じ天の軍勢である」という連帯感を醸成した。

倭国との関係

4世紀頃に倭国は百済や加耶諸国と結びついており、百済・新羅・加耶諸国を含む朝鮮半島の政治情勢のなかで、高句麗と倭が軍事的に対立する局面があった。5世紀には「倭の五王」は、中国の南朝(宋)に対して高句麗との競合を背景の一つとして、宋に遣使し官爵を求めたと考えられている(『宋書』倭国伝)。6世紀・7世紀になると、この関係が変化し、高句麗僧を通じた仏教や文化の伝来がなされた。

7世紀後半、高句麗は唐の軍事的圧力を受け666年や668年などに倭国に使者を送り、友好関係を求めた(『日本書紀』巻第27・天智紀)。『日本書紀』には666年の献使について「冬十月に、高麗、臣乙相奄鄒(おっしょうあんすう)等を遣わして調進る」と書かれる。高句麗の最高官位層である「乙相」の奄鄒らが来日したことは重要な意味がある。高句麗が唐・新羅によって滅亡させられる直前(668年9月滅亡)の、最後の遣使は唐軍に包囲され、通常の黄海ルートを塞がれて高句麗使は、日本海を渡る「越の路(北陸・東北ルート)」を命がけで航行した。激しい大荒れの海により多くの貢納船が沈没し、大使である南部久の船だけが命からがら倭国にたどり着いた(『日本書紀』巻27天智7年条)。

推古天皇の時代に、『日本書紀』に登場する高麗僧の慧慈は聖徳太子の師となり、仏教思想の受容に大きな役割を果たしたとされる。『日本書紀』によれば、610年に来日した高句麗僧曇徴は、紙・墨の製法や彩色、研磨などの技術を伝えたとされる。

高句麗の滅亡後は、高句麗からの亡命者(渡来人)が倭国に受け入れられ、のちに武蔵国に「高麗郡」が置かれるなど、歴史的つながりが深まった。高句麗系渡来人を率いた高麗王若光は、高麗郡の成立と深く関わった人物として知られ、埼玉県日高市の高麗神社の祭神となる。埼玉県飯能市の堂ノ根遺跡から、高麗郡への移住者との関連が指摘される須恵器が出土しており、考古学的な裏付けもなされている。

参考文献

  1. 石原道博(1985)『新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝: 中国正史日本伝 1』岩波書店
  2. 一然、金思火華(1997)『完訳 三国遺事』明石書店
  3. 井上秀雄(2004)『古代朝鮮』講談社
  4. 金富軾(撰)、鄭早苗(訳注)、井上秀雄(1988)『三国史記』平凡社
  5. 坂本太郎,井上光貞,家永三郎,大野晋(1994)『日本書紀』岩波書店
  6. 藤堂明保・竹田晃(2010)『倭国伝』講談社

上野毛稲荷塚古墳2026年09月02日 00:05

上野毛稲荷塚古墳/筆者撮影

上野毛稲荷塚古墳(かみのげいなりづかこふん)は東京都世田谷区上野毛に所在する古墳時代中期初頭の前方後円墳である。

概要

国分寺崖線上の高台、上野毛から尾山台にかけて広がる野毛古墳群のなかの1基である。 4世紀末頃に造られたと考えられている。野毛古墳群では最初に出現した古墳と推定されている。 前方部は削平されている一方、後円部は比較的良好に残存している。全長約33メートル、後円部の高さは3メートルと推定されている。西岡秀雄による荏原台古墳群の分布調査では「西岡5号墳」の名称とされていた(西岡秀雄(1936))。 1995年(平成7年)と2009年(平成21年)の2回の発掘調査によって、周溝や粘土槨による埋葬施設と割竹形木棺が確認され、鉄刀や管玉などが出土している(世田谷区教育委員会(2009))。1995年(平成7年)に上野毛稲荷塚古墳と名称が変更された。

1997年(平成9年)9月10日に世田谷区指定史跡に指定された。現在は上野毛2丁目緑地内に保存されているが、古墳への立ち入りはできず、緑地の外から見学することになる。墳丘上にあったとされる「稲荷祠」は墳丘の裾付近に移されている。 古墳の土地は、吉良家家臣の末裔とされる世襲名主の家などから世田谷区へ寄付され、現在は区有地として保存されている。 これらの副葬品などから、野毛古墳群で最初に出現した古墳と考えられており、多摩川流域における古墳群の形成過程を知る上でも重要な古墳とされる。

主体部

遺物

  • 鉄刀
  • 管玉

築造時期

  • 4世紀末頃

指定

アクセス等

  • 名称:上野毛稲荷塚古墳
  • 所在地:東京都世田谷区上野毛2丁目12番
  • 交通:大井町線上野毛駅下車 徒歩5分

参考文献

  1. 西岡秀雄(1936)「荏原台地に於ける先史及び原始時代の遺跡遺物」『考古学雑誌 第26巻 第5号』,pp.301-325
  2. 世田谷区教育委員会(2009)『2008年度 世田谷区埋蔵文化財調査年報』世田谷区教育委員会