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高句麗 ― 2026年09月01日 00:21

高句麗(こうくり.고구려)は古代中国の東北部から朝鮮半島北部にかけて存在した国家である。その住民や周辺集団は、中国史料で濊貊などと関連付けられることがある。当時の『日本書紀』によれば当時の倭国は高句麗を「高麗」(コマ)と呼んでいた(日本書紀巻第廿二推古紀「高麗僧慧慈歸化、則皇太子師之」)。

概要

高句麗は古代の朝鮮の三国時代に、中国東北地方から朝鮮半島にかけて支配した強国であった。最盛期には中国東北地方南部から、ロシア沿海地方の一部、朝鮮半島の大部分に勢力を及ぼした。

最も古い記録は『漢書』「地理志」に玄菟郡の首県として高句驪県が言及されているもので、玄菟郡の設置は前漢の武帝の時代、紀元前107年であった。

『三国史記』の伝承では、紀元前37年に扶余出身の朱蒙(東明聖王)によって建国されたと伝わるが、史実であるかは疑わしいとの見解もある。第三代大武神王は『三国志』高句麗伝に記載があるので、実在性を想定可能であるが、単一資料のため実在が確実ではないとの意見もある。

紀元前1世紀頃、鴨緑江中流域の集団が地元の部族を統合し、連盟体(部族連合)を形成した。高句麗では消奴部・桂婁部・絶奴部・順奴部・灌奴部などからなる五部が政治的・社会的な基盤となったとされる(『三国志』魏書 巻30 東夷伝 高句麗条)。漢代(紀元前?紀元後)における高句麗五部の動向は『後漢書』東夷列伝に記録されている。

『三国史記』によれば、高句麗は、後漢末に遼東の太守公孫氏に追われ、209年に鴨緑江流域の国内城へ遷都し、丸都城を築くなど、部族連合的な性格から次第に王権が強化され、中央集権的な国家に移行したとされる。これを実質的な建国とする見解がある(『三国史記』「高句麗本紀」)。

三韓は古代の朝鮮半島南部に存在した「馬韓」「辰韓」「弁韓」の3つの部族連合をいう。馬韓地域では後に百済が成立し、辰韓地域には新羅が成立した。4世紀後半以降、高句麗・百済・新羅が朝鮮半島の主要な政治勢力として並立し、これを朝鮮史では一般に三国時代という。一方、半島南部には加耶諸国も存在した。

本来の国名は「高句麗」であるが、金石文と歴史記録をもとにして金石文や中国・朝鮮の史料には「高麗」の表記もみられ、長寿王の時代頃に「高麗」が広く用いられるようになったとする見解がある。

韓国の英文国号の「Korea」という名称は高麗(Goryeo)に由来する。 4世紀以降、仏教を受容し、太学を設置するなど、中国の制度や文化を取り入れながら国家体制を整備した。広開土王碑文などの記録では、高句麗の始祖である鄒牟王(チュモン)は北夫余の天帝の子(천제지자)であり、母は河伯(水の神)の娘であるとされている。高句麗の建国神話には、始祖王を天上世界や河川の神と結び付ける王権神話がみられる。このような始祖の神聖性と系統性を強調する観念は、日本の王権神話と比較されることがある。

初期の建国地とされる卒本川地域から、3世紀初頭には鴨緑江中流域の国内城・丸都山城を中心とする地域へ政治的中心を移し、5世紀の長寿王の時代には平壌へ遷都した。

歴代の代表的な王

瑠璃明王(第2代。在位前19年 - 後18年)

AD12年、新(漢)の皇帝である王莽は匈奴の侵略のため、高句麗に出兵を要求したが、高句麗は従わなかった。王莽は怒り、王莽は、高句麗王の称号を下句麗侯に改め、高句麗を「下句麗」と格下げした。新朝の皇帝である王莽には、中華王朝の冊封秩序のなかで高句麗侯の名称・封号を変更する権力があり、その措置は新朝の公的決定として正式なものであった。『三国史記』によれば、高句麗はその後、国名を元の「高句麗」に戻すよう求めたとされる。

大武神王(第3代、在位18年 - 44年)

『三国志』魏書東夷伝高句麗条によれば、漢の光武帝の建武8年(AD32年)に高句麗王が献使したと伝える。『三国史記』によれば、このときの高句麗王は第3代大武神王(在位18年から44年)である。光武帝から「高句麗王」の称号を回復された(前代の王莽の時代に高句麗との対立や称号の格下げがあった)。 『三国史記』にはAD37年に高句麗が楽浪郡を攻めて滅ぼしたとの記事がある。一方、『後漢書』東夷伝には7年後のAD44年に後漢の光武帝は海を渡って兵を派遣し、高句麗を討って楽浪郡を奪還し、再び漢の支配を回復したとされる。

山上王(第10代、在位:197年 - 227年)

第9代王・故国川王の弟とされる(『三国志魏書』は、第6代太祖王の曾孫とする)。第10代の山上王はAD197年、丸都城を築いた(井上秀雄(2004))。なお『三国史記』では198年とする。山腹に築かれた、巨大な山城である。城壁は切石積で、総長6950メートルを超える。『三国史記』によれば、209年に都を丸都城に移したとする。王后は故国川王の王后の于氏だったとされる。

東川王(第11代)

東川王は236年7月には呉の使者を斬りその首を魏に送ったとされる。237年(景初元年)に魏に使者を送り、年号の改正を祝賀した。244年(『三国史記』では246年)魏の魏の幽州刺史・毋丘倹は高句麗の国都である丸都城に来襲し、陥落させた。

美川王(第15代、在位300年 - 330年)

中国史料との対応関係から、4世紀以降の王については実在性を比較的確実に確認できるとする見解がある。具体的には第15代の「美川王)以後は実在性が確実との見解がある。これは中国の正史である『魏書』『梁書』などにおける同時代の記録や、歴史書『三国史記』などの記述を根拠とする。 第14代の烽上王の暴政により300年9月、国相の倉助利らは烽上王を廃位して、乙弗を王位に就け、高句麗王(美川王)とした。 美川王は遼東郡に出兵し、さらに313年に楽浪郡を滅ぼし、翌314年には帯方郡も攻略した。 342年に前燕の侵攻によって墓が暴かれたという記録(『三国史記』など)があり、安岳3号墳については、美川王の墓と関連付ける説がある一方、墓誌にみえる冬寿を被葬者とする説などもあり、被葬者をめぐる議論がある。

故国原王(第16代、在位331年から371年)

369年、2万の軍隊で百済を攻めたが敗北した。371年、故国原王は百済を攻めるため大同江を渡ったが百済の伏兵に破れた。百済の近肖古王は兵3万を率いて高句麗に攻め込み、故国原王は防戦したが流矢に当たって戦死した。

小獣林王(第17代。在位371~384年)

371年、前代の故国原王が百済との闘いで戦死したため、子の小獣林王が第17代の王位に就いた。文教政策を重視し、小獣林王は国力の充実を図った。372年、華北を統一支配していた前秦(五胡の一つ氐が建国した)の苻堅は高句麗に僧順道や仏像・経典を高句麗に送り、これが高句麗における仏教公伝の始まりとされる。

広開土王(第19代、在位394~412年)

4世紀の第19代広開土王のとき、高句麗は最盛期を迎えた。395年8月、百済と闘い、8000人を捕虜とした。396年に百済と闘って勝利し、王の弟を捕虜とした。 広開土王碑には、百済・新羅・倭などとの軍事関係を示す記事が記されている。倭の活動や高句麗との関係については、碑文の解釈をめぐって様々な議論がある。その他、周辺に盛んに遠征して領土を広げ、広開土王の事績を記した広開土王碑は、子の長寿王によって建立された。

宝蔵王(第28代、在位642年から668年)

高句麗の第28代・最後の宝蔵王は中国の唐の侵攻に強く抵抗したが、668年の第3次侵攻で平壌長安城を落とされ、高句麗は滅亡した。

高句麗が軍事的に強かった要因

いくつかの要因が考えられる。

  1. 山岳地帯や河川を利用した防衛に適した地理的条件がある。
  2. 騎馬軍団など強力な軍事力を保持していた。
  3. 周辺諸国との継続的な戦争経験(戦場の豊富な経験)
  4. 山城・都城の防御体系
  5. 高句麗に王の天孫思想があり、団結力が強化した(人的・物的資源の動員)。

高句麗の地形条件

高句麗は周囲が山に囲まれた険しい地形であり、山岳地帯を利用した優れた防衛力を持っていた。

騎馬軍団

鉄の鎧を着た兵士や馬に乗る騎馬軍団は強力であった。戦車も活用した。高句麗は戦争経験が豊富で、兵士の訓練が行き届いていた。高句麗古墳群の壁画には、完全武装した騎馬や兵士の姿が描かれている。4世紀から5世紀頃の東アジアでは最強クラスの精鋭部隊とされている。4世紀末から5世紀初頭に朝鮮半島へ進出した倭軍(大和政権)は、この高句麗の騎馬軍団と遭遇して大敗を喫した。これを契機として日本列島でも馬の生産や騎馬文化、河内の牧のような国内拠点を整備した。

高句麗の継続的な戦争経験

隋の対高句麗の遠征回数は第一次遠征(598年)、第二次遠征(612年)、三次遠征(613年)、第四次遠征(614年)と続く。

第一次遠征

高句麗の嬰陽王は598年に万余の騎兵を率いて隋の遼西へと先制攻撃し、激怒した隋の文帝は水陸30万の大軍を動員して高句麗へ侵攻したが、悪天候(大雨や台風)や疫病、補給の失敗により隋軍は大きな損害を出して敗退した。

第二次遠征

612年正月、隋の煬帝は高句麗討伐の詔書を下した。総勢113万3800人の遠征軍である。迎え撃つ高句麗軍の将軍乙支文徳は、後退しながら、投降すると偽り隋軍の気が緩んだところを攻撃して大勝した。隋軍は疲労と補給不足に陥っていたと言われる。

第三次遠征

613年4月の第三次遠征は皇帝の煬帝が自ら軍を率いて遼東城を包囲したが、高句麗の抵抗に遭い、楊玄感の反乱もあって撤退することとなった。 高句麗側は食糧などを残さないように農民に伝達して、後方に避難させたとされる(『三国史記』(高句麗本紀))。食糧などの物資を残さないよう住民に徹底させ、城に立てこもらせた戦術を「清野作戦」という。中国側正史『隋書』にも同様の記述がある。

第四次遠征

614年の第四次遠征では随の煬帝は再び親征を行い、平壌城の近郊まで軍を進めた。高句麗の嬰陽王は使者を送って形式的な降伏を申し出たため、これを受け入れた。

高句麗の防御体系

高句麗の都城と山城は強固な防御体系を築いた。その最大の特徴は、「平地城(政治・生活の場)」と「山城(戦時の籠城・防御の場)」を組み合わせて運用する「一対構造」として一体化する「羅城(らじょう)体系」へ進化させた。「平地城」と「山城」を互いに近くに配置し、連動させて国内を防衛した。普段は利便性の高い平地の国内城で暮らしていたが、敵が攻めてくると頑丈な城壁と広い収容力を持つ丸都山城へ王宮ごと避難して徹底抗戦した。

高句麗の天孫思想と団結力

高句麗の天孫思想が最も端的に現れるのが、『三国史記』に記される朱蒙(東明聖王)の誕生・建国神話である。高句麗王家が「天(天帝)」と直接つながる血統であることを示し、支配の正統性を神格した。5世紀(414年)に建立された広開土王碑の冒頭部分に、高句麗の天孫思想が公式な国家記録として「朱蒙が国基を創りたもうた。北夫余より出づ。天帝の子にして、母は河伯の女郎なり)」と記される。中国皇帝の権威を借りず、高句麗王が「天の子(天孫)」として独自の天下を治める権利を持つと主張した。広開土王が中国の元号を使わずに「永楽」という独自の元号を使用したことは、「中国皇帝(天子)とは独立した独自の天の世界(天下)を持つこと」を意味していた。高句麗では、この天孫思想を物語にとどめず、毎年秋に「東盟(とうめい)」と呼ばれる大規模な国家祭祀(収穫祭)を行った。国家的儀礼は、支配階級と民衆の心理的距離を近づけ「同じ天の軍勢である」という連帯感を醸成した。

倭国との関係

4世紀頃に倭国は百済や加耶諸国と結びついており、百済・新羅・加耶諸国を含む朝鮮半島の政治情勢のなかで、高句麗と倭が軍事的に対立する局面があった。5世紀には「倭の五王」は、中国の南朝(宋)に対して高句麗との競合を背景の一つとして、宋に遣使し官爵を求めたと考えられている(『宋書』倭国伝)。6世紀・7世紀になると、この関係が変化し、高句麗僧を通じた仏教や文化の伝来がなされた。

7世紀後半、高句麗は唐の軍事的圧力を受け666年や668年などに倭国に使者を送り、友好関係を求めた(『日本書紀』巻第27・天智紀)。『日本書紀』には666年の献使について「冬十月に、高麗、臣乙相奄鄒(おっしょうあんすう)等を遣わして調進る」と書かれる。高句麗の最高官位層である「乙相」の奄鄒らが来日したことは重要な意味がある。高句麗が唐・新羅によって滅亡させられる直前(668年9月滅亡)の、最後の遣使は唐軍に包囲され、通常の黄海ルートを塞がれて高句麗使は、日本海を渡る「越の路(北陸・東北ルート)」を命がけで航行した。激しい大荒れの海により多くの貢納船が沈没し、大使である南部久の船だけが命からがら倭国にたどり着いた(『日本書紀』巻27天智7年条)。

推古天皇の時代に、『日本書紀』に登場する高麗僧の慧慈は聖徳太子の師となり、仏教思想の受容に大きな役割を果たしたとされる。『日本書紀』によれば、610年に来日した高句麗僧曇徴は、紙・墨の製法や彩色、研磨などの技術を伝えたとされる。

高句麗の滅亡後は、高句麗からの亡命者(渡来人)が倭国に受け入れられ、のちに武蔵国に「高麗郡」が置かれるなど、歴史的つながりが深まった。高句麗系渡来人を率いた高麗王若光は、高麗郡の成立と深く関わった人物として知られ、埼玉県日高市の高麗神社の祭神となる。埼玉県飯能市の堂ノ根遺跡から、高麗郡への移住者との関連が指摘される須恵器が出土しており、考古学的な裏付けもなされている。

参考文献

  1. 石原道博(1985)『新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝: 中国正史日本伝 1』岩波書店
  2. 一然、金思火華(1997)『完訳 三国遺事』明石書店
  3. 井上秀雄(2004)『古代朝鮮』講談社
  4. 金富軾(撰)、鄭早苗(訳注)、井上秀雄(1988)『三国史記』平凡社
  5. 坂本太郎,井上光貞,家永三郎,大野晋(1994)『日本書紀』岩波書店
  6. 藤堂明保・竹田晃(2010)『倭国伝』講談社

上野毛稲荷塚古墳 ― 2026年09月02日 00:05

上野毛稲荷塚古墳/筆者撮影

上野毛稲荷塚古墳(かみのげいなりづかこふん)は東京都世田谷区上野毛に所在する古墳時代中期初頭の前方後円墳である。

概要

国分寺崖線上の高台、上野毛から尾山台にかけて広がる野毛古墳群のなかの1基である。 4世紀末頃に造られたと考えられている。野毛古墳群では最初に出現した古墳と推定されている。 前方部は削平されている一方、後円部は比較的良好に残存している。全長約33メートル、後円部の高さは3メートルと推定されている。西岡秀雄による荏原台古墳群の分布調査では「西岡5号墳」の名称とされていた(西岡秀雄(1936))。 1995年(平成7年)と2009年(平成21年)の2回の発掘調査によって、周溝や粘土槨による埋葬施設と割竹形木棺が確認され、鉄刀や管玉などが出土している(世田谷区教育委員会(2009))。1995年(平成7年)に上野毛稲荷塚古墳と名称が変更された。

1997年(平成9年)9月10日に世田谷区指定史跡に指定された。現在は上野毛2丁目緑地内に保存されているが、古墳への立ち入りはできず、緑地の外から見学することになる。墳丘上にあったとされる「稲荷祠」は墳丘の裾付近に移されている。 古墳の土地は、吉良家家臣の末裔とされる世襲名主の家などから世田谷区へ寄付され、現在は区有地として保存されている。 これらの副葬品などから、野毛古墳群で最初に出現した古墳と考えられており、多摩川流域における古墳群の形成過程を知る上でも重要な古墳とされる。

主体部

遺物

  • 鉄刀
  • 管玉

築造時期

  • 4世紀末頃

指定

アクセス等

  • 名称:上野毛稲荷塚古墳
  • 所在地:東京都世田谷区上野毛2丁目12番
  • 交通:大井町線上野毛駅下車 徒歩5分

参考文献

  1. 西岡秀雄(1936)「荏原台地に於ける先史及び原始時代の遺跡遺物」『考古学雑誌 第26巻 第5号』,pp.301-325
  2. 世田谷区教育委員会(2009)『2008年度 世田谷区埋蔵文化財調査年報』世田谷区教育委員会

松岳山古墳 ― 2026年09月03日 00:05

松岳山古墳(まつおかやまこふん)は松岳山古墳は大阪府柏原市に所在する古墳時代前期(4世紀前半頃)の前方後円墳である。わが国最古の墓誌として国宝に指定されている『銅製船氏王後墓誌』が松岳山古墳群から出土したと伝えられることで知られている。

概要

大和川左岸の断崖上に築かれた前方後円墳である。 墳丘や石室には約500m東の芝山で産出するカンラン石玄武岩の板石が用いられている。石棺には香川県産と推定される柘榴石角閃石安山岩などが使用されている。 墳長は130m、後円部径は72m、後円部高さ16m、前方部幅は32m、前方部長さ56m、 前方部高さ5mである。岸本直文(2013)は、墳丘裾をもう少し大きく考え、墳丘長を約150mと復元している。前方部は2段築成以上、後円部は4段築成以上である。

円筒埴輪は円筒Ⅱ式とされる。円筒形の胴部にタタキ目や刷毛目が残り、2条から4条の突帯がめぐらされている。 墳丘の調査は1985年に前方部前面、1986年には墳丘南側の後円部・くびれ部・前方部が行われた。

松岳山古墳の後円部の石室は1878年に当時の堺県令の税所篤によって発掘され,その際に石棺内から管玉と石製品、棺外から鏡2、勾玉、管玉、刀剣片などが出土している。さらに1955年の大阪府教育委員会の調査の際に管玉や石製品などのほか、鏡破片、鍬形石片1点,石釧片27点以上、多数の刀剣,鉄鏃片,銅鏃のほか鉄鎌・鉄鍬などの農工具片などが採取された(白石太一郎(2003))。石室の主軸は北西向きで、内法は長さ約1.6m、幅約0.35m、床面は北西部に高く南東部に低くなっている。石棺の側石には、香川県産と推定される柘榴石角閃石安山岩や凝灰岩が使われた。

後円部墳頂には、板石を積み上げた竪穴式石室が築かれ、その内部に組合式の石棺が置かれていた。石棺は底石・側石・蓋石を組み合わせたもので、内面には朱が塗られている。組合式の石棺が置かれており、後の長持形石棺につながる形式と評価されている。 白石太一郎(2003)は、茶臼塚古墳は松岳山古墳の前方部前面の第1段(前方部の茶臼塚古墳に面する墳裾)に、約20mの間隔で築かれ、墳丘端を板石を垂直に積み上げる共通の手法が見られるとした。

松岳山古墳の意義

大和川と龍田道が交わる交通上の要地に位置することから、水運や陸上交通と関係する首長の墓と推定する見解がある。

交通と物流の要衝

大阪府柏原市にある古墳時代前期(4世紀前半頃)の全長130mの前方後円墳ある。大和と河内を結ぶ水路(大和川)と陸路(龍田道)の双方が交わる要地に立地する。

水運の監視

大和川水運を統括した首長の墓と推定する見解がある。

特異な構造

近隣の山で採れる板石を積み上げて墳丘や石室を造る。 大型の楕円筒埴輪が出土しており、長径70cm・短径40cm・高さ143cmの個体や、高さ158cmの個体がある。柏原市指定文化財の楕円筒埴輪は、楕円筒埴輪として日本最大とされる。

見どころ

①板石を積み上げた特異な墳丘構造、②後円部墳頂に残る石棺、③石棺の前後に立つ円孔をもつ巨大な立石、④大型楕円筒埴輪、が見どころである。

築造時期

  • 古墳時代前期

被葬者

  • 被葬者は不明

展示

  • 柏原市立歴史資料館で楕円筒埴輪や壺形土器、家形埴輪を所蔵(展示される場合もある)
  • 船氏王後墓誌は三井記念美術館所蔵

指定

  • 1922年(大正11年)3月8日 国の史跡指定

アクセス等 

  • 名称  :松岳山古墳
  • 所在地 :大阪府柏原市国分市場1-6-21
  • 交 通 :近鉄大阪線 河内国分駅から1.4km(徒歩21分)

参考文献

  1. 柏原市教育委員会(1987)『柏原市文化財概報1986-2:松岳山古墳墳丘範囲確認調査概報:1986年度』柏原市教育委員会
  2. 岸本直文(2013)「玉手山古墳群・松岳山古墳と河内政権論」百舌鳥・古市古墳群出現前夜(大阪府立近つ飛鳥博物館図録 60)
  3. 白石太一郎(2003)「考古学から見た聖俗二重首長制」国立歴史民俗博物館研究報告 第108集

帯広百年記念館 ― 2026年09月04日 00:05

帯広百年記念館(おびひろひゃくねんきねんかん)は北海道帯広市にある博物館と創造活動センターからなる複合施設である。

概要

旧帯広町が十勝監獄用地を購入し整備した公園である緑が丘公園の中にある博物館である。 緑ヶ丘公園には現在も十勝監獄石油庫が残っている。これは帯広市指定文化財で、明治33年築、帯広市に現存する最古の建造物である。 帯広百年記念館は十勝の自然や人と文化、アイヌ民族などを歴史的に紹介する。開拓期の十勝の自然や人々の生活ぶり、十勝の自然や人々の生活ぶり、農機具類の開発と改良から冷害問題、収穫物などを展示する。先史時代では旧石器、縄文、続縄文、擦文時代の資料を展示する。マンモスゾウの実物大模型が展示されている。分館の「百年記念館埋蔵文化財センター」では、市内の遺跡発掘調査で出土した土器・石器などを保管・公開・活用している。

開館

晩成社が1883年(明治16年)に、帯広へ入植してから100年目に当たる1982年(昭和57年)に開館した。晩晩成社は依田勉三らが結成した民間開拓団体で、1883年(明治16年)に帯広へ入植した。北海道内陸部における民間開拓の先駆的な事例となった。

意義

先史時代から晩成社による明治の開拓、近代農業の発展に至るまでの歩みを実物資料や模型で伝えているところに意義がある。 館内にはアイヌ民族文化情報センター「リウカ」が設置され、アイヌ民族の文化や歴史を学ぶことができる。十勝の自然を生態展示や剥製などを通じて紹介し、地域の自然環境への理解を深めている。創造活動センターや、分館である埋蔵文化財センターも備えた地域の文化・学習拠点となっている。

展示

第1展示室

  • 「イントロダクション」
    • 十勝平野に最初にすんだ人類が、マンモスを追うように北方から来たころを紹介する。
  • 「開拓の夜明けと発展」
  • 「十勝の自然」
  • 「十勝のくらし」 「十勝・農業王国の確立」

第2展示室

  • 「十勝のおいたち」
    • 海の底だった十勝が陸地になり、最初の人類が来る直前までを、化石や岩石などの資料で紹介する。
  • 「十勝の先史時代」
    • 旧石器、縄文、続縄文、擦文時代の順に発掘資料や分析データを紹介する。国重要文化財「北海道八千代A遺跡出土品」の土器・石器などを展示する。
  • 「十勝のアイヌ文化」

主な展示資料

  • 暁式土器(最古相) 薄手・無文で底面にホタテ貝の圧痕あり(帯広市大正6遺跡)
  • 国重要文化財「北海道八千代A遺跡出土品」の土器・石器などを展示する。
  • 石刃鏃文化の土器 三角形の型押文が施文される。(帯広市大正7遺跡)
  • 東釧路Ⅳ式 2ヵ所の頂部から短い貼付けが垂下する。(大正3遺跡)
  • モコト式土器 中央の土器が貼付けと押し引きが施文される。(若葉の森遺跡)
  • 宮本式土器 口縁部に沈線が施文される。(宮本遺跡)
  • 綱文式土器 太目の縄文が横走する。(八千代A遺跡)
  • 東釧路Ⅳ式 小型品。2種類の縄文が交互に施文される。(大正3遺跡)
  • 中茶路式 細い粘土ヒモの貼付け、細かい縄文が特徴。(大正7遺跡)
  • 石刃鏃文化の土器 波状口縁で、口縁に沈線と刺突文がある。(帯広市大正7遺跡)

指定

  • 平成30年10月31日 国指定重要文化財「北海道八千代A遺跡出土品」

アクセス等

  • 正式名称: 帯広百年記念館
  • 開館時間 : 常設展示室 9:00~17:00(入場は16:30まで)
  • 所在地 :〒080-0846 北海道帯広市緑ヶ丘2番地 緑ヶ丘公園内
  • 交通 :JR帯広駅からバスターミナル2番乗り場より(約15分)、拓殖バス:「南商または帯広の森・白樺学園線」から「緑ヶ丘6丁目」下車、徒歩8分

浅間古墳 ― 2026年09月05日 00:05

浅間古墳(せんげんこふん)は静岡県富士市に所在する古墳時代前期後半(4世紀中頃)築造の前方後方墳である。後方部の墳頂に浅間神社の社殿が鎮座することから「浅間神社古墳」とも呼ばれる(大塚初重、小林三郎(1996))。

概要

4世紀前半ごろにつくられた、全長約90.8m(約91m)の東海地方で最大規模の前方後方墳である。1957年の国史跡指定以後、本格的な発掘調査は行われていなかったが、保存管理や活用に向けた本格的な発掘調査が2026年度から開始されている。

富士市は史跡の適切な保存管理と未来への活用のための基礎資料とするため、発掘調査を、令和8年度から令和12年度までの5か年をかけて行い、令和13年度には総括報告書を作成する予定とされた。1957年(昭和32年)に国の史跡に指定されている。

2020・2021年のレーザー測量によって、南側(海側)と北側(山側)で墳丘の高さが大きく異なり、海側から見た際に大きく見えるように築造されたことが確認されている。 被葬者には諸説があるが、被葬者には諸説があるが、富士市教育委員会(2025)は被葬者を『水上・陸上交通を掌握したスルガの王墓』とする。

調査歴

  • 1921年(大正10年)、『静岡県史蹟名勝誌』に前方後円墳で、埴輪が出土したと記載される。
  • 1930年(昭和5年)『静岡縣史』第1巻に全長97mの前方後円墳と記載された、
  • 1957年(昭和32年)内藤晃による初めての本格的な測量調査が行われ、全長103mの「前方後方墳」であると指摘し、葺石は存在し、埴輪は伴わないとされた、年代は古墳時代中期の初め頃と推定された。
  • 1997年(平成9年)、静岡大学人文学部考古学研究室による測量調査が実施され、墳長約90m 、後方部長約60m・後方部高約10m の前方後方墳( 後方部二段・前方部一段築成)とされた。平面形態は非対称形で、南側が大きく、前方部が比較的短く、古い形態を残したものとされ、古墳時代前期後半(4 世紀中頃)の築造と推定された。
  • 2019年、富士市教育委員会による、埋葬施設の有無・形状把握を目的とした地中レーダー探査を実施し、後方部に建てられた社殿の西側で地表から2.0 ~ 2.5mほどの深さに、内法長辺約7.4m、短辺約2.2m、幅1~3m程度の構造物に囲まれた竪穴系埋葬施設(もしくは粘土槨)が残存している可能性が示された(富士市市民部(2022))。
  • 2020~2021年、富士市教育委員会による空中レーザー測量が行われ、全長90.8mに復元し、後方部側面に平坦部(テラス部)の存在を指摘した。後方部二段、前方部一段築成の前方後方墳とした(富士市市民部(2022))。
  • 2026年(令和8年)7月20日からの発掘調査の目的の一つは、史跡指定地外に存在する可能性が高まった墳丘盛土・周溝などを確認し、古墳の範囲を確定することである。 またトレンチ調査で埋葬施設が存在すると推定される後方部墳頂付近から過去に採集されていた赤彩高坏について製作年代を分析し、古墳の築造年代は、4世紀中ごろ(古墳時代前期後葉)の可能性が高くなったと報道された(朝日新聞(2026))。
  • 4世紀後半~7世紀の富士山噴火による火山噴出物に覆われた葺石が確認されたと報道された(朝日新聞、2026年8月30日)。

築造時期

  • 古墳時代前期後半(4 世紀中頃)

被葬者

  • 駿河湾の水上・陸上交通を掌握したスルガの王墓

展示

指定

  • 1957年(昭和32年)7月1日 国指定史跡

アクセス等 

  • 名称  :浅間古墳
  • 所在地 :静岡県富士市増川624-1
  • 交 通 :JR東海道本線 吉原駅 バス 25分/岳南電車「神谷駅」1.4km(徒歩25分)

参考文献

  1. 大塚初重、小林三郎(1996)『古墳事典』東京堂出版
  2. 富士市教育委員会(2025)『国指定史跡 浅間古墳保存活用計画 概要版』富士市教育委員会
  3. 富士市市民部(2020)「空中レーザー測量実施」埋蔵文化財ニュース
  4. 富士市市民部(2022)「空中レーザー測量実施」埋蔵文化財ニュース
  5. 「4世紀古墳から富士山噴火噴出物」朝日新聞、2026年8月18日
  6. 富士市(2026)「国指定史跡浅間古墳の発掘調査を始めます」2026年8月17日
  7. 「4世紀の古墳の葺石が当時のまま発見」朝日新聞、2026年8月30日

秋葉山古墳群 ― 2026年09月06日 00:05

秋葉山古墳群(あきばやまこふんぐん)は神奈川県海老名市に所在する6基(6号墳は未調査)の古墳群である。

概要

神奈川県のほぼ中央に位置する座間丘陵の尾根に沿って継続的に築造された古墳群である。相模川から約2km東の標高75mから80mの丘陵頂部に立地する。 前方後円墳の形状から古い時代の様相を呈する古墳群であろうと推定されていた。 発掘調査により、3世紀後半から4世紀中頃にかけて継続的に築造された、古墳時代出現期の古墳群であることが明らかになった。 墳形は前方後円墳、前方後方墳、方墳の3種類がある。 土器は庄内式期では在地色が強かったが、布留式期には畿内色が強くなるという変遷がたどれる。押方みはる(2026)によれば「3号墳では墓坑上で土器、朱を使った祭祀、2号墳では朱、円筒形土製品、火を使った祭祀」が行われていたとする。 出土品は海老名市温故館で保管、展示される。

調査歴

1969年(昭和44年)に神奈川県教育委員会による測量調査が行われた。 第1次調査は1987年(昭和62年)神奈川県教育委員会により3号墳から5号墳の調査が行われた。 第2次調査では秋葉山古墳群遺跡調査団が結成され、1988年(昭和63年)4月20日から7月18日までの期間で第1から第4号墳の発掘調査を実施した。海老名市史編纂委員会による測量調査が1992年(平成4年)に行われた。その後は2003年(平成15年)の第12次調査まで断続的に調査が行われた。

各古墳の築造順と特徴

出土した土器から築造順は「3・4号墳 → 2号墳 → 1・5号墳」と判断されている。

第1号墳

第1号墳は前方後円墳で墳長は59m、後円部径は33m、後円部の高さは4.8m、前方部長さは26m、幅は14m、前方部の高さは2mである(海老名市教育委員会(2005)。周溝は存在していないが、前方部前面/南側に溝が確認されている。墳丘は地山を削って成形している。遺物は極めて少ないくびれ部から布留式期の完形小型丸底坩と鉄鏃、前方部から壺口縁部片が出土したのみである。2号墳に比べると前方部が長くなり、定型化した前方後円墳である。4世紀前半の築造とみられている(海老名市教育委員会(2005)。

第2号墳

3世紀末から4世紀初頭の前方後円墳である。墳長50.5m、後円部径33m、後円部高さ5m、前方部幅15m、前方部長18.9m、前方部高さ3mである。後円部の大きさに比べて前方部が短い。 周濠は見られないが、前方部の正面にのみ溝が掘られる。くびれ部を中心に、埴輪状の円筒形土製品や、水銀朱の付いた片口の鉢などの土器が出土した。

第3号墳

秋葉山古墳群では最も古いとみられており、3世紀後半の築造とみられている。前方後円形であるが、前方部は削平されて残っていない。現状では径40m程度の円墳状を呈するが、大正年間の中山毎吉の記録や古写真等によれば、前方部の存在が確認でき、かつては全長50m程度の前方後円形の墳丘と見られる。周溝内の各所から大型の壺が5個体以上出土した。胴部の球形化が進み、頸部が明確に屈曲する在来系の壺である。墳頂部から出土した高坏は元屋敷系であるが、脚部透かし孔を省略し、ハケ調整をそのまま残すなど在地化が進んでいるとされる。そのほか台付鉢が出土している。出土土器は、東海系の高杯が見られるものの全体としては在地色が強く、時期は弥生時代から古墳時代の移行期にあたる庄内式期に併行する時期とみられている。後円部側には、幅7.8mの周溝が確認されている。

第4号墳

2002年~2003年の発掘調査結果により、秋葉山古墳群では唯一の前方後方墳と判明した海老名市教育委員会(2004)。弥生時代の墳丘墓的要素が見られる。第3号墳築造の前後の時期と見られる。墳長は37.5m、全長は40m、後方部長24.8m、前方部長12.7mである(海老名市教育委員会(2004))。周溝は墳丘西側で幅4m、深さ0.4mが確認されているが、全周はしていないとみられている。出土遺物はほとんどないが、壺の破片が得られている。

第5号墳

5号墳は一辺訳20m、周溝含め約26mの方墳で、1号墳と同じ特徴をもった土器の小型丸底壺、小型器台がわずかに確認されている。4世紀前半頃の築造である。

評価

弥生時代の墳丘墓的要素を残す前方後方墳(第4号墳)や不整形な前方後円墳(第3号墳)から、整った形の前方後円墳(第2号墳・第1号墳)へと移り変わる様子を見ることができる。土器では庄内式期において在地色が強かったが、布留式期には畿内色が強くなるといった変遷がたどれるため、前方後円墳の出現期に集団間の交流の在り方に変化のあったことが示唆されると指摘されている。 葬送儀礼に使われたとみられる水銀朱(赤い顔料)や、全国的に類例のない円筒形土製品などが発見されている。南関東における出現期古墳のあり方や当時の社会を考える上で極めて重要な古墳群と評価されている。

築造時期

  • 古墳時代初頭(3世紀後半)から4世紀中頃

被葬者

展示

  • 海老名市温故館

指定

  • 2005年(平成17年)7月14日 国指定史跡

アクセス等 

  • 名称  :秋葉山古墳群
  • 所在地 :神奈川県海老名市上今泉4・5丁目にまたがる
  • 交 通 :相模鉄道相鉄本線 かしわ台駅 徒歩20分

参考文献

  1. 押方みはる(2026)「秋葉山古墳群と相模川流域の古墳時代を考える」
  2. 海老名市教育委員会(2002)『秋葉山古墳群第1・2・3号墳発掘調査報告書』海老名市教育委員会生涯学習部文化財課
  3. 海老名市教育委員会(2004)『秋葉山古墳群第3・4号墳発掘調査報告書』海老名市教育委員会生涯学習部文化財課
  4. 海老名市教育委員会(2005)「海老名市温故館特別展 1700年の時を経て、今ここに」
  5. 海老名市教育委員会(2006)『史跡秋葉山古墳群』改訂新版、海老名市教育委員会生涯学習部文化財課

海老名市温故館 ― 2026年09月07日 00:05

海老名市温故館(えびなしおんこかん)は神奈川県海老名市に所在する歴史系郷土資料館である。正式名称は「海老名市立郷土資料館『海老名市温故館』」である。

概要

大正7年に建てられた国の登録有形文化財(旧海老名村役場)の洋風建築を利用し、1階で相模国分寺跡や市内の出土品などの考古・歴史資料を展示する。1921年(大正10年)に相模国分寺跡の史跡指定に合わせて作られた「遺物陳列館」が前身である。遺物陳列館は、中山毎吉らによる相模国分寺跡保存活動を背景としており、これが温故館の前身となった。1982年(昭和57年)に資料館として開館した。神奈川県内に現存する最古の役場遺構とされる。2010年(平成22年)に移築工事を開始し、2011年(平成23年)3月に現在地への移築が完了した。 現在の基本展示は「1階=考古・歴史、2階=民俗資料」の展示構成である。 1階では旧石器時代の石器、縄文・弥生時代の土器、さらに相模国分寺の瓦や復元模型、秋葉山古墳群の出土品などを収蔵する。2階では明治・大正・昭和の時代に使われた農耕具や養蚕具、昔の生活用具など、当時の人々の暮らしや「衣・食・住」を知る資料民俗資料を展示する。「郡役所様式」建築の近代洋風建築の特徴を持つ。登録有形文化財としての建築的特徴は木造洋風庁舎であること、二階建寄棟造桟瓦葺で東側に切妻造の玄関ポーチがあること、外壁は下見板張であることなどである。 1988年(平成元年)度に「かながわの建築物100選」に選定された。相模国分寺跡に隣接する。

意義

温故館は2023年に国の登録有形文化財となり、海老名市の近代史を物語る建造物として文化的価値を持つ。

展示品

常設展示

旧石器時代の石器(石斧)や石鏃、縄文時代の勝坂式土器・弥生時代の土器、丸木弓、秋葉山古墳群の資料や小銅鐸、勾玉などの出土品、相模国分寺跡の復元模型(七重塔など)相模国分寺の模型や相模国分寺の寺院の屋根を彩っていた国分寺瓦(文字が刻まれた墨書瓦など)や遺物が展示される。 秋葉山古墳の出土品として、1号墳からは土器とともに鉄製のやじりが出土した。2号墳からは水銀朱の付いた片口鉢、3号墳からは水銀朱の付いた片口鉢や高杯などが出土し、常設展示される。

企画展示

企画展示では旧石器時代の約3万年前の「柏ケ谷長ヲサ遺跡」から出土したナイフ形石器、尖頭器、剥片、石斧、「河原口坊中遺跡」などから出土した、弥生時代の木製品・金属器である木製の臼や杵、梯子、鉄斧、小銅鐸が展示されることがある。上浜田古墳群第2号墳では、2014年に墳頂部から鉄剣片が偶然発見されたことを契機として発掘調査が行われ、鉄剣・鉄鏃・勾玉・管玉・ガラス玉などの副葬品が出土した。

指定

  • 国登録有形文化財(建造物)「海老名市温故館(旧海老名村役場)」
  • 2023年(令和5年)8月7日登録

アクセス等

  • 正式名称: 海老名市立郷土資料館「海老名市温故館」
  • 開館時間 :開館時間:9時~17時15分(最終入館16時45分
  • 所在地 :神奈川県海老名市国分南一丁目6番36号
  • 交通 :海老名駅から750m(徒歩14分)