Bing
PVアクセスランキング にほんブログ村

銅鐸博物館2026年06月01日 00:10

大岩山銅鐸/銅鐸博物館/筆者撮影

銅鐸博物館(どうたくはくぶつかん)は銅鐸の成立や変遷、弥生時代の文化について学ぶことができる、滋賀県野洲市に所在する歴史民俗博物館である。「銅鐸博物館」は通称であり、正式名称は「野洲市歴史民俗博物館」である。

概要

1988年(昭和63年)11月1日に開館した。JR野洲駅の北東約3kmにあり、大岩山から1881年(明治14年)に14口、1962年(昭和37年)に10口が発見された大岩山銅鐸群を中心として、銅鐸に関する資料を展示する。2008年(平成20年)にリニューアルオープンし、市内の大型航空写真の展示や常設展示「野洲の歴史と民俗を整備した。

館内には、常設展示室2つと企画展示室1つがあり、企画展・特別展では銅鐸だけでなく、野洲市に関する歴史や民俗資料を展示する。常設展示1(1階)は「銅鐸の謎」として銅鐸の誕生、銅鐸の作り方、銅鐸に描かれた絵を解説する。映像「銅鐸発見のてんまつ」も上映する。常設展示2(1階)は「大岩山銅鐸」として、滋賀県出土の銅鐸を展示する。日本最大級として知られる高さ約134cmの大型銅鐸を展示している。

企画展示室(2階)は企画展示室では野洲市の歴史や民俗に関する展示が行われる。古代史関係では十八田遺跡出土の手焙形土器、装飾壺(弥生時代)、御明田古墳出土馬形埴輪・人物埴輪(古墳時代)が展示された。

銅鐸博物館の前面に広がる「弥生の森歴史公園」は高床倉庫1棟と竪穴住居3棟が復元された「弥生のムラ」であり、そのほか赤米を栽培する水田、古代の大賀ハスを入場無料で見学できる。 大岩山から出土した銅鐸群は国宝に指定されており、野洲市は全国有数の銅鐸出土地として知られる。

アクセス等

  • 名称:野洲市歴史民俗博物館(銅鐸博物館)
  • 所在地:滋賀県野洲市辻町57番地1
  • 入館料:個人(大人)300円(2026年5月時点)
  • 交通:JR琵琶湖線「野洲駅」南口から近江バス「銅鐸博物館」前下車 徒歩約1分

参考文献

  1. 銅鐸博物館 パンフレット

狐塚古墳(調布市)2026年06月02日 00:05

狐塚古墳 (調布市)(きつねづかこふん)は東京都調布市布田六丁目に所在する古墳時代後期(6世紀後半頃)の円墳である。

概要

調布市の多摩川中流域にある左岸に展開する下布田古墳群の中の円墳である。多摩川と野川の崖下には天然の湧水がみられるため、古代人には良好な居住地であった。この付近に古墳が造営されるのは5世紀中頃からであった。周辺には下布田遺跡・染地遺跡・杉森遺跡・原山遺跡・飛田給遺跡などが分布し、古くから人々の生活の場であったことが知られている。、ほとんどは整地されてしまい、遺構は残っていない。東京都調布市の狐塚古墳は、多摩川左岸に展開する下布田古墳群を構成する古墳の一つである。下布田古墳群では13基の円墳が確認されており、狐塚古墳はそのひとつである。 狐塚古墳は昭和19年頃、照空隊陣地(高射砲陣地)設営のため大半が掘り崩され、平成12年の調査時点では、中央部分に80センチ程の高まりを残すだけであった。発掘調査後に史跡公園「歴史の広場」として保存された。発掘調査後は史跡公園「歴史の広場」として保存・公開されている。古墳の近くには調布市郷土博物館分室(旧遺跡調査会施設)があるが、通常は一般公開されていない。狐塚古墳から出土した大刀のうち1点は、刀身に孔を穿つ特殊な構造をもつ刃関孔大刀であった。

調査

狐塚古墳の調査は、調布市布田六丁目土地区画整理事業に伴い、平成12年10月から13年3月にかけて行われた。天井部分が破壊された半地下式の横穴式石室から、羨道に近い石室西壁下から鉄製大刀3点、小刀1点、鍔2点、刀子1点、鉄鏃1点が出土した。大刀3点のうち最長は、全長94.5cmの直刀で、刀身に径約5mmの孔を穿つ「刃関孔大刀」であった。石室は、現状で羨門から奥壁まで8.7m、石室床面長6.8mの大きさで、羽子板状(玄室奥部が広がる形態)であった。

規模

  • 形状 円墳
  • 径 約44m
  • 周溝外径約60.5m 
  • 高さ

遺構

半地下式の横穴式石室

遺物

  • 鉄製大刀3点、
  • 小刀1点、
  • 鍔2点、
  • 刀子1点、
  • 鉄鏃1点
  • 須恵器
  • 土師器

築造時期

  • 古墳時代後期(6世紀後半頃)

指定

  • 平成30年3月15日 - 東京都指定史跡

展示保管

  • 調布市郷土博物館で保管

アクセス等

  • 名称:狐塚古墳(下布田6号墳)
  • 所在地:東京都調布市布田6-53-1・2・3・4
  • 交通:京王線 布田駅から 徒歩11分 /800m

参考文献

  1. 調布市史編集委員会(1990)『調布市史 上』

石山古墳2026年06月02日 00:29

石山古墳(いしやまこふん)は、三重県伊賀市に所在する前方後円墳である。 「日本百名墳」に選出されている。

概要

木津川上流域の比自岐支盆地の丘陵縁に所在する古墳である。後円部を東北東に向けて築造されている。洪積丘陵の一端を利用して造られている。墳丘には葺石が顕著に見られる。粘土槨墳としては古式であり、出土遺物から判断して4世紀後葉の築造と見られている。 1948年(昭和23年)から1951年の4年間、5次にわたって京都大学文学部考古学教室の小林行雄により発掘調査がなされ、その成果は日本考古学研究の発展に大きく寄与した。

墳長は121m、後円部径71m、後円部高12.5m、前方部幅40m、前方部長56m、前方部高5mである。前項部高さ比7.5mである。築成は前方部2段、後円部3段である。 内部主体は後円部の多量の副葬品を納める3体の粘土槨である。棺は①箱形木棺、②③割竹形木棺である。京大の調査以降も埴輪片・鏡片等の遺物が採取されており、その一部は伊賀市教育委員会が保管している。

後円頂部に長方形の円筒埴輪列を設け、その内側に、家形埴輪、盾形埴輪、蓋形埴輪、靫形埴輪などの形象埴輪が立てられる。円筒埴輪列は3重に巡らされている。

副葬品として鏡は神獣鏡1、小形鏡1、三角縁の鏡片、内行花文鏡1がある。装身具は鍬形石・石釧・車輪石、竪櫛がある。石製模造品は琴柱形石製品・玉杖形・刀子形・斧形・鎌形・鑿形・紡錘車、刀子形・斧形・鎌、琴柱形石製品、刀子形・斧形・鑿・・鎌・剣形・異形品である。 武器は鉄剣、素環頭大刀、鉄鏃、鉄剣、鉄刀、鉄鏃、銅鏃である。武具として小札革綴冑・革製楯、長方板革綴短甲・楯・弓・靫・草摺がある。農工具等は、鍬・鎌・斧・鑿・針・扠漁具としてヤス・銛がある。ほか巴形銅器が出土する。

墳丘東南側の造出状の遺構は家形‧囲形埴輪などが出土しており、古墳の祭祀儀礼がうかがえる場所である。

遺物

指定

  •  

展示

アクセス等

  • 名称  :石山古墳
  • 所在地 :三重県伊賀市才良
  • 交 通 :伊賀線丸山駅から徒歩32分。(2.3km)

参考文献

  1. 小林行雄(1951)「三重県石山古墳調査略報」日本考古学協会第8回総会研究発表会
  2. 小林行雄編(1974)「石山古墳」『図解 考古学辞典』東京創元社
  3. 白石太一郎(2009)「三重県石山古墳西槨」『考古学から見た倭国』青木書店

海北塚古墳2026年06月03日 00:09

海北塚古墳(かいぼうづかこふん)は、大阪府茨木市に所在する古墳時代後期(6世紀後半頃)の円墳である。

概要

大阪府北部の茨木市に所在し、段丘上に立地する古墳である。墳丘の大部分は削平されている。石室の巨石が地上に露出しており、間に竹や木が繁茂している。

1909年(明治42年)および1927年(昭和2年)に遺物が出土し、梅原末治らによる調査が行われた。墳丘は古くから削平されており、外部施設は不明である。

内部構造は片袖型横穴式石室で、西方向に開口する。石室は玄室長4.6m、幅2.5m、高さ3.3m、現存羨道長6.3mを測る。石室内には、6枚の緑泥片岩を組み合わせた組合式箱形石棺1基が据えられていた。石材には紀ノ川流域産とみられる緑泥片岩が用いられている。 石室内からは、袖石・奥壁付近から鉄刀、鉄槍、単龍環頭柄頭、鉄鏃、鉄地金銅張製鏡板付轡、金銅装パルメット文杏葉、金銅装花形座雲珠、金銅装花形座辻金具など3組の馬具類、銀製勾玉、須恵器杯蓋が出土した。

墳丘・周辺出土品として獣帯鏡、銀製鍍金勾玉、銀製鍍金山梔玉、高坏、須恵器𤭯(はそう)、金銅製三輪玉、長頸壺、銀装矛などがある。これらの遺物は東京国立博物館と京都大学文学部博物館に保管されている。

銀装矛は表面に銀装飾を施した矛であり、当時の有力首長層の威信財として副葬された可能性が高い。当時大和政権下において、特別な権威を示す威信財として副葬されたと考えられている。

日本列島出土例のなかでも最古級として知られる装飾付大刀の単龍環頭柄頭、古墳時代後期後半(6世紀後半)における新羅系馬具への転換をよく示す馬具、昭和30年代以降、「海北塚式須恵器」として知られるようになった須恵器が知られている。「海北塚式須恵器」は、高杯脚端部や器台口縁部に韓半島・栄山江流域系の成形技法が認められる須恵器である。須恵器の定型化以前の過渡的様相を示し、日本在来技術と渡来系技術の融合を示す資料として重要視される。6世紀後半(古墳時代後期後半)における年代編年の重要な基準資料となる。

単龍環頭柄頭は、日本列島出土例としては最古級の装飾付大刀である。銅製の環頭部に金箔を施し、別鋳・鍍金した龍頭をはめ込む構造である。龍頭を別作りとする例は少なく、注目される。新羅系馬具の副葬は、6世紀後半における朝鮮半島との交流や畿内武人的文化の変化を示す資料として重要視される。

石室には大型石材が用いられており、北摂地域後期古墳の中でも比較的大規模な横穴式石室とされる。出土遺物の編年的特徴などから、築造時期は6世紀後半と推定される。

遺物

  • 獣帯鏡
  • 銀製鍍金勾玉
  • 銀製鍍金山梔玉
  • 高坏

指定

  • 1970年(昭和45年) 大阪府指定史跡 

展示

  • 東京国立博物館
  • 京都大学文学部博物館

アクセス等

  • 名称  :海北塚古墳
  • 所在地 :大阪府茨木市西福井1丁目19番
  • 交 通 :JR東海道本線「茨木駅」より阪急バス 茨木サニータウン行「福井」下車徒歩約5分

参考文献

  1. 梅原末治(1937)「摂津福井の海北塚古墳」日本古文化研究所報告4

石棺2026年06月04日 00:05

石棺/鴨稲荷山古墳/筆者撮影

石棺(せっかん)は石材で作られた棺や埋葬施設である。

概要

直接遺体を納めるものだけでなく、内部に木棺を収める外棺として用いられる場合もある。古代の棺には石棺のほか、木棺・陶棺・甕棺などがある。古代の棺の素材には石の他、木製(木棺)、陶器製(陶棺)、甕棺などがある。 石棺には、石材をくり抜いて作る刳抜式石棺や、板石を組み合わせる組合式石棺などがある。 組合式石棺は板石を組み合わせて構築する石棺であり、箱式石棺や長持形石棺などがある。 箱式石棺は組合式石棺の範疇であり、板石を組み合わせて箱を作り、その中に遺体を納める埋葬施設である。

長持形石棺は組合式石棺の1種で、4枚の側壁石と上部の蓋石を組み合わせた箱式石棺である。長持(ながもち)という家具に似ることに由来する。棺や蓋に「縄掛突起」と呼ばれる突起が着く。「縄掛突起」は運搬用実用説と装飾説とがある。

刳抜式石棺は巨大な石材の中をくり抜いて「身」と「蓋」を造り出した石棺である。

家型石棺は蓋が屋根の形状をとり、蓋石を屋根状に加工し、全体を家屋のような形状にした石棺である。家形石棺には刳抜式・組合式の両方が存在する。

割竹形は竹を縦に二つに割った形状の半円形・かまぼこ型の石棺である。

舟形石棺は舟形石棺は船形に加工された石棺で、割竹形石棺と類似した形態を持つ。

石棺の例

ツタンカーメン王の石棺(エジプト、紀元前14世紀)は花崗岩をくり抜いて作られた刳抜式石棺である。石棺の内部に複数の木棺が納められていた。 アレクサンドロスの石棺(現在のレバノン・シドン出土、紀元前4世紀)は、アレクサンドロス大王本人の棺ではなく、彼の戦闘場面が彫刻されていることで知られる。蓋は神殿屋根状を呈する。 快天山古墳の石棺(香川県、4世紀中葉)は割竹形石棺である。石材は阿蘇溶結凝灰岩製である。

参考文献

  1. 高橋健児(1915)「石棺の研究」類學雜誌 30 (6),pp.203-205

筒形銅器2026年06月05日 00:32

筒形銅器(つつがたどうき)は、主に古墳時代前期から中期に用いられた、断面円形の筒状青銅製品である。

概要

長さはおおむね10~20cm程度である。下端がやや膨らみ、上端より太くなるものが多い。底は平面と中高とがある。内部には棒状の金属片を納めたものがあり、振ると音を発する構造を持つと考えられている。 上端近くの対向する位置に2つの円孔を穿つものが多い。筒形銅器は古墳への副葬例が多く、その用途や機能については未だ定説がないが、日本列島と朝鮮半島南部との交流を考える上で重要な考古資料とされている。

発祥地

主に日本の古墳時代前期から中期(4世紀から5世紀)の遺跡から出土するため、かつては日本列島固有の遺物と考えられていたが、最近では朝鮮半島南部の原三国時代末から加耶地域の遺跡、特に金海市の良洞里古墳群や大成洞古墳群といった朝鮮半島南部の大規模遺跡から出土する。朝鮮半島南部の加耶系遺物との関連が注目されている。 このため朝鮮半島南部起源説も有力となっている。現在では、朝鮮半島南部を主要な生産地とみる説や、日本列島と朝鮮半島南部との交流の中で成立したとみる説が有力である。日本では関東から北九州までの遺跡から出土し、大部分は近畿で出土する。

用途

用途については定説がなく、剣の柄頭や石突など武器・儀杖の付属金具とする説、杖頭とする説、祭祀・呪術に用いた鳴り物とする説などがある。

出土例

  • 筒形銅器 - 山猫塚古墳、香川県高松市、古墳時代・3~4世紀、東京国立博物館
  • 筒形銅器 - 四ツ塚1号墳、岡山県真庭市、古墳時代(6世紀)

参考文献

  1. 森本六爾(1943)「筒形銅器に就いて」『日本考古学研究』、桑名文星堂
  2. 岩本崇(2006)「筒形銅器の生産と流通」『日本考古学』日本考古学協会編 (22),pp.15-45

千網谷戸遺跡2026年06月06日 00:14

千網谷戸遺跡(ちあみがいどいせき)は、群馬県桐生市に所在する縄文時代晩期末葉から古墳時代の複合遺跡である。

概要

足尾山地から流れる渡瀬川が平野部に流入する地域の左岸に形成された河岸段丘上の端部付近に所在する。 縄文時代晩期終末を代表する土器群は「千網式土器」と命名されており、北関東における縄文時代晩期終末の標識遺跡として知られる。

竪穴住居跡からは多数の土製耳飾りが出土した。これらは透かし彫りを施した大型の栓状耳飾りである。 出土した土製耳飾りは1984年(昭和59年)6月6日に重要文化財に指定され、群馬県立歴史博物館に寄託されている。

このほか勾玉、独鈷石、石剣、小玉なども出土している。1947年(昭和22年)から考古学者の岡田芳郎による調査が行われた。1977年(昭和52年)以降の調査では縄文時代後期・晩期の竪穴住居跡、祭祀に関わるとみられる配石遺構や石棺墓群が確認された。

アクセス等

  • 名称:千網谷戸遺跡
  • 所在地:群馬県桐生市川内町3丁目
  • 交通:

参考文献

  1. 桐女社会科研究部(1967)『群馬県桐生市千網谷戸遺跡調査報告』桐生女子高等学校
  2. 桐生市教育委員会(1980)「千網谷戸遺跡発掘調査報告」桐生市教育委員会
  3. 桐生市教育委員会(1988)「千網谷戸遺跡にみる縄文時代」桐生市教育委員会