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短里説2025年03月08日 17:27

'短里説(たんりせつ)は魏志倭人伝の里程記事の距離が「短里」により書かれているとする説である。

短里説の概論

「短里説」は、『魏志倭人伝』に記された里程の「里」が、通常の中国の標準的な「里」よりも短い単位であったとする説である。倭国までにの距離(里程)を説明する際に、魏志倭人伝の記述と実際の地理的距離が大きく乖離していることから、一部の研究者が「魏志倭人伝の1里は、標準の1里(約415メートル)よりも短い」と仮定している。短里説には、1里を100メートル程度とする説や、75メートル程度とする説など、複数のバリエーションがある。

古田の短里説

古田武彦は魏志倭人伝の里程記事が「短里」で書かれていると主張する。古田は「1里約 76~77m」としている(古田武彦・谷本茂(1994))。この計算では、末盧國から伊都国まで38kmとなり、30.6kmに近くなる。しかし、漢代に「短里」が使われていた確実な証拠があるかどうかが問題となる。

短里説への反論1(山尾幸久)

山尾幸久(1986)が短里説を詳しく論じている。山尾によれば、中国の公定尺は『晋書』律歴志と『随書』律歴志が基本資料となる。中国の学者の計算では、周尺・前漢尺は23.1cm、後漢尺は23.8cm、魏尺は24.2cm、東晋尺は24.5cmになるとされる(薮田(1969))。 実際に中国の古い物差しも出土している。戦国時代から前漢までの尺はおおむね23cmで、バラツキは7mm以内とされる(山尾幸久(1986))。三国時代の魏の遺品は正始五年の銘を持つ弩機の尺(正始弩尺)が24.3cmであった。つまり3世紀の中国で使用されていた1尺は24cm前後といえる。 3世紀においても「里」は「歩」を基準とし「歩は「尺」と関係づけられていた。『春秋穀梁伝』によれば、300歩四方の土地を里といい、その1辺も「里」と称した。 この「歩」は今でいう1歩(いっぽ)ではなく、1復歩(ふたあし)を指す。つまり約1.4mである。『史記』秦始皇帝本紀に「六尺を歩となす」と書かれる。 したがって、1里の長さは以下となる。  1里=300歩=1800尺=1800×23cm=414m すなわち、これは「長里」であり、短里ではない。

短里説への反論2

近年の考古学的発見によって、魏晋時代のものさし(尺)が出土している。これにより、当時の「1尺」の長さが約24.2cmであったことが確認されている。魏晋時代の標準的な「里」は300歩=360尺とされ、この計算に基づくと、1里 は 415メートルとなる。この数値は、漢代から続く標準里の長さと整合性がある。 このように、魏の時代にはすでに標準化された里の単位が確立されており、魏の公的文書(正史)である『三国志』魏志倭人伝においても、特定の地域だけに独自の「短里」を用いたとは考えにくいとする有力な反論がある。

短里説への反論3

『魏志倭人伝』の編纂者である陳寿は、『三国志』で他の地域の距離を記述する際には、標準的な里(約415メートル)を用いている。たとえば、魏書の他の部分に見られる中国本土の地理記述において、特別な例外がない限り、通常の「里」が使用されていることが確認されている。 例を挙げると、洛陽と遼東の距離を『三国志』は「四千里」と書く。洛陽から遼東の間は、実距離で約 1800Km(図上距離 1500Km)である。したがって、1800Km÷4000により1里は450mと計算される。 「短里」を仮定すると、洛陽と遼東の距離は300km程度(4000里×76m/里=306km)しかないことになるから、現実と合わないことになる。『魏志倭人伝』の距離記述に関して、陳寿が突然「短里」を採用したと判断できる明確な証拠(史料)はなく、文脈的にはむしろ標準的な里を想定している可能性が高いといえる。 『三国志』の中で魏志倭人伝の記載部分だけが「短里」だったとする説は合理的な根拠がなく採用できない。

短里説への反論4

魏志倭人伝の距離表記における問題は、「短里」を仮定することで解決できず、他の要因を考えるべきである。 第一に、『魏志倭人伝』では、対馬・壱岐・末盧国などの地点の間の移動距離が「里」により記載されているが、これらは必ずしも直線距離ではなく、航海の実際の行程を反映している可能性を検討すべきである。また要した日数を「里」に換算した可能性もある。風や潮流の影響を受けた航海距離と、実際の地理的距離が異なることはよくある。 第二に魏の使者が実際に倭国の行程を測量しながら歩いたわけではなく、現地の情報や体感を基に記述したことも考えられる。伝聞情報による誤差により距離が誇張されたり、四捨五入されたり、実際と異なる情報による誤解が生じた可能性がある。 第三に『魏志倭人伝』の里程表記では、距離と方角が必ずしも正確な形で一致していない個所がある。たとえば、「南に〇〇里」と書かれていても、実際には東南方向や西南方向に進んでいることも見られる。結果的に現実の地理との整合性が取れなくなっている。

結論

『魏志倭人伝』における距離の記述の誤差を説明するために、「短里説」が提唱されているが、魏の時代に標準的な「里」が確立されていたことは出土したものさしによって確認されており、陳寿の記述の整合性を考慮しても、公的な文書において特別に短里が用いられたとする証拠はない。 したがって「短里説」を積極的に採用して辻褄を合わせるより、伝聞情報による誤差や航路の影響、方位の誤差、あるいは山道など歩行困難なルートの影響、など他の要因を考慮する方が妥当であろう。

参考文献

  1. 山尾幸久(1986)『魏志倭人伝』講談社
  2. 古田武彦・谷本茂(1994)は『古代史のゆがみを正す』新泉社
  3. 古田武彦(1992)『「邪馬台国」はなかった』朝日新聞
  4. 古田武彦(1977)「邪馬台国九州説10の知識」『歴史読本』新人物往来社,昭和52年8月号
  5. 須股孝信(1992)「畿内の遺構配置にみる古代の土木技術(その3)」土木史研究 12,pp.131-142

邪馬台国2024年12月31日 00:45

邪馬台国

邪馬台国 (やまたいこく、やまとのくに)は、『魏志倭人伝』に記載された倭国の国のひとつである。

概要
『魏志倭人伝』によれば、邪馬台国が当時の倭国の盟主であったとする。邪馬台国に倭の女王である卑弥呼の宮室があったとされる。二世紀後半から三世紀半ばまで女王卑弥呼が統治していた。約30の国からなる倭国連合の女王として邪馬台国に卑弥呼は居住していた。卑弥呼の没後はその宗女で十三歳の壱与(台与)が王になった。

邪馬台国の政治力
魏志倭人伝には対馬国、一支国(壱岐国)、伊都国、末盧国はすべて女王国に従うとされている(「皆統屬女王國」)。邪馬台国は統治のための官僚を現地に派遣している。邪馬台国には7万余戸の人口があり、国の以北(方位は不正確の可能性あり)にある諸国を検察するため伊都国に常駐していた一大率という官を特置し諸国はこれを畏憚していた。対馬国には官として卑狗(ヒコ)、副官として卑奴母離(ヒナモリ、夷守)を派遣していた。不弥国にも長官として多摸、副官としては卑奴母離を派遣していた。投馬国にも長官の弥弥、副官弥弥那利(ミミナリ)を派遣していた。邪馬台国には長官の伊支馬、副官の彌馬升、さらに彌馬獲支、奴佳鞮を置いた。官僚機構が各所に整備されている。
卑弥呼は専制君主ではないものの、相当な政治力を持っていたようにみえる。

邪馬台国の統治機構

国名 大官 副官 戸数
対馬国 卑狗 卑奴母離 1000余戸
一支国 卑狗 卑奴母離 3000家
末盧国 不明 不明 4000余戸
伊都国 爾支 泄謨觚・柄渠觚 1000余戸
奴国 兕馬觚 卑奴母離 20000余戸
不彌国 多模 卑奴母離 1000余戸
投馬国 彌彌 彌彌那利 50000余戸
邪馬台国 伊支馬 彌馬升 7万余戸

邪馬台国の所在地論争
邪馬台国の所在地論争は明治以来、今日まで続いている。主な説に九州説と畿内説とがあり、それぞれ邪馬台国の比定場所が異なる。

邪馬台国に至る行程は次の通りである。 -帯方郡から女王国まで一万二千里。帯方郡から韓国(馬韓)を経て狗邪韓国に至る。海を渡り対馬国につく、さらに海を渡り、一大国(一支国・壱岐)につく。そこから海を渡り末廬国につく。末廬国から東南に陸行して五百里で伊都国につく。東南の奴国までは百里。東行して不弥国まで百里。南へ水行二十日で投馬国に至る。南へ水行十日・陸行一月。邪馬台国(邪馬壹国)に至る。
「魏志倭人伝」の行程の距離と方角をそのまま読むと、日本の南方に海の中になってしまう。したがって、方角または距離が正しくないことは明白である。 邪馬台国の所在地に関しては古くから論争がある。日本古代国家の起源や大和政権の起源を考えるうえで、その位置は重要である。そこで所在地候補には多数が挙げられているが、両説の得失を比較してみる。
比較項目 畿内説 九州説 備考
距離 × 放射式説あり
方位 × 伊都国の南とされる
遺跡 × 九州に3世紀の有力な遺跡はない
古墳 × 九州に3世紀の有力な古墳はない
規模7万戸 × 九州に邪馬台国7万余戸相当の遺跡はない
近畿説の課題
坂靖(2021、p.44)は近畿説の課題として、(1)纏向遺跡の規模が北部九州、大阪湾岸の規模と比較して小さいこと、(2)楽浪系土器が纏向遺跡から出土していないこと、の2つを挙げた。
しかし、1点目について寺澤薫(2024)は出現期の纏向遺跡の規模は東西約2km、南北1.5kmと同時期の池上曽根遺跡(大阪湾岸)、板付遺跡(北部九州、環濠は東西約80m、南北約110m)に比べて大きいと主張している(寺澤薫(2024、p.67))。
2点目は楽浪系土器の出土の有無が邪馬台国の判定要因ではないと指摘できる。なぜなら、魏から邪馬台国の使者が来たのは、全部合わせても3回であり、楽浪系土器は魏の使者の経路ではない遺跡からも出土しているので、楽浪系土器の出土は判定要因にはならないと考える。また楽浪郡は314年まで存続したが、卑弥呼が献使したのは帯方郡であり、楽浪郡ではない。238年に魏が公孫氏を滅ぼしたその翌年に卑弥呼が献使したのである。すなわち公孫氏が支配してる間は献使していないのだから、公孫氏とは良好な関係を築いていなかったと考えられる。
邪馬台国の方角
邪馬台国近畿説の唯一の欠点は「方角」である、この原因は当時の中国の地理感が影響しているとみられる。渡邊義浩(2012、)は「陳壽が観念する邪馬台国は会稽郡東冶県の東方海上に位置付けられる」としている。その原因を2つ挙げている。室賀信夫(1956)を引用して、裴秀は当時としては精巧な地図である『禹貢地域図』とそれを縮小した『地形方丈図』を作ったとされる。そこに倭国が描かれていたと推測されている。『地形方丈図』は唐代まで伝えられていた。そこには倭国は会稽郡東冶県の東方海上に描かれていたと推測されている。
次になぜ陳壽が倭国を会稽郡東冶県の東方海上としたかは、政治的な理由が考えられている。当時の中国は魏・呉・蜀の3国鼎立時代であった。陳壽は魏の後継政権である斉の役人であったから、呉の背後にある倭国は戦略的な価値が大きいと認識していた。従って陳壽が『三国志』を執筆するときの種本とした『魏略』より倭国に南方的な要素を追加している。呉に対抗できる南の国として倭国を描いているから、倭国の国の人口、距離、方角は操作されているとみなければならない。したがって『魏志倭人伝』から邪馬台国の位置を定めることは不可能とみなければならない。
邪馬台国に致る距離
『魏志倭人伝』には帯方郡から邪馬台国までの距離を帯方郡から1万二千余里と書く。これは直接的には『魏略』の数字を用いたが、これは大月氏国(クシャーナ朝ヴァースデーヴァー王)との釣り合いで等距離に観念的に位置付けられたものである(渡邊義浩(2012、p.133))。大月氏国は「親魏大月氏王」と卑弥呼の「親魏倭王」と同等に対置されている。 当時は、遠くの国から使者が来訪することは、天子の徳を慕って来ることという理念があった。つまり遠ければ遠いほど皇帝の徳が高くなり、政治的な威信が高まる。それゆえ、一万二千余里は実際の距離ではなく、当時の世界観による観念的な数字である(渡邊義浩(2012、p.124))。当時の中国では『礼記』王政編の王政九州から『周礼』の方一万里の世界が観念されていた。中心に王畿があり、次に(1)侯服、(2)甸服、(3)男服、(4)采服、(5)衛服(ここまで中国)、その外側に夷狄があり、(6)蛮服、(7)夷服、(8)鎭服、(9)藩服の九服が定められていた。(6)以下が夷狄の居住地域である。その外側に荒域がある。帯方郡から狗邪韓国までの七千里は(5)衛服の範囲である。対馬国から一支国まで千里、伊都国から奴国まで百里、奴国から不弥国まで百里、不弥国から投馬国を「水行二十日」、投馬国から邪馬台国を「水行二十日、陸行一月」として合計一万二千余里とした。つまり、不弥国以降の距離を書かないのは、合計一万二千余里に収めるためであった。
纏向遺跡の土器の集積
纏向遺跡には列島の各地から人とモノが集まっている。九州の土器はほとんどない。土器の集中と移動は邪馬台国と関係があるとみてよい。邪馬台国の時代は九州より畿内が中心となっている。纏向で発見された宮殿と思われる遺構が庄内3式期のものとすれば、卑弥呼の時代と一致する。方位を一致させている建物の計画性や柵に注目される(大塚初重(2021),p.173-176)。纏向に土器の移動と集中がみられることは邪馬台国の条件を備えている。北部九州で列島の各地から土器が集中する遺跡は見当たらない。
鉄器の出土
九州説に有利な考古学的根拠は鉄器の出土数が大和を圧倒しているということを安本美典等が主張する。これについて大塚初重は3点の検討課題を挙げる。第一に九州では緊急の墳墓調査が日本海沿岸で行われているが、大和では墳丘墓の発掘があまり行われていないこと、第二に土壌の性質の違いである。シルト状の粘土質の土壌と、北部九州のような花崗岩地質の土壌とでは鉄器の遺物の保存が全く異なる(大塚初重(2021),p.94-96)。第三に大阪湾湾岸の遺跡からは鉄の遺物の出土がかなり多い。鉄が残りにくいという土壌を考慮すると、鉄器の出土数で邪馬台国近畿説は成り立たないという主張は慎重にする必要があると述べる。
しかし、3世紀中頃の前方後円墳である奈良県桜井市のホケノ山古墳からは素環頭大刀、鉄剣、鉄鏃、鉄製農工具類が出土している。また黒塚古墳からも鉄刀、鉄剣、刀子、U字形鉄器、小札革綴冑、鉄鏃が出土している。埋葬条件が良い場合(埋葬方法が適切で、盗掘被害などがない場合)は鉄器が出土しているので、鉄器が全くないわけではない。結果的に出土した数量だけでいうのは、問題である。
九州説の課題
大塚初重は「邪馬台国九州説の一番の弱点は、これといった卑弥呼の墓の候補は九州内で見当たらないことであろう」と述べる(大塚初重(2021),p.103)。かっては卑弥呼の墓の候補として平原王墓(平原遺跡)を考える研究者がいたが、現在はいないようである。渡邊義浩(2012)は、「2世紀の北部九州の弥生遺跡の優位性が、3世紀に入ると失われる」と書いている。
国制(刺吏と司隷校慰部)
当時の中国の国制では、中央に司隷校慰部を設置し、地方に刺吏を置く。伊都国には一大率が置かれ、刺吏がいたと書かれる(自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史)。刺吏がいたということは、すなわち中央(首都圏)ではないことになる(渡邊義浩(2012、p.156))。渡邊義浩は文意解釈から邪馬台国は九州にはないことが証明できるとする。
放射説と短里説
九州説の距離の克服解消法として、放射説と短里説とがある。
放射説
放射説は白鳥庫吉の弟子の榎一雄が提唱した説である。行程のうち伊都国以後は伊都国を起点としてそれ以後の国々への行路が書かれているとする説である。邪馬台国が九州にあったという結論ありきで、読み替える説である。末蘆国から一大率という女王国の入口である伊都国に入り、その先は奴国、不弥国、投馬国、邪馬台国へと順次移動する記述になっているのが、これを、伊都国を中心として放射状に記述しているとする。>
榎は「新唐書」「地理志」に引かれている「賈耽」の記述を参考にしている。しかし、倭人伝の原文を素直に読めば、伊都国以後だけを放射状に読むのは、無理な解釈にみえる。なぜなら、放射状に読むためには起点の伊都国まで戻る行程となるから、なぜ、毎回伊都国まで戻るのかを明快に説明することができない。
また榎一雄の邪馬台国比定地は、筑紫平野の御井である。現在は、福岡県久留米市に属する地域である。それまでの九州説論者が比定した福岡県山門郡では、人口扶養力がないと判断した結果である。伊都国を福岡県糸島市に比定し、邪馬台国まで南へ水行10日、陸行1月となる地点であるはずが、糸島から御井までの距離は100km足らずであるから条件に合わない。
短里説
次に短里説である。当時の中国の一里は414mであったが、古田武彦は魏志倭人伝の里程記事は「短里」で書かれていると主張し、1里が約 76~77mの「短離説」を唱える。しかし、これは成り立たない。詳しくは「短里説」の項を参照されたい。

女王国と邪馬台国は同一か
魏志倭人伝に対馬国、一支国(壱岐国)、伊都国、末盧国]はすべて女王国に従うとされる(統屬女王國」)。この表現では投馬国や不弥国は女王国に従っていないとも読める。しかし翰苑が引用する『魏略』逸文では伊都国の後に、「其の国王は皆女王に属する(其国王皆属女王也)」と記載する(石原道博編訳(1985))。すなわちオリジナルの『三国志』は対馬国、一支国(壱岐国)、伊都国、末盧国、伊都国の全部が女王に従うと書かれていたと推察される。これらの文脈からすれば邪馬台国は女王に統治されているので、女王国と邪馬台国は同一であると解釈できる。

邪馬台国か邪馬一国か
古田武彦は邪馬台国ではなく「邪馬一(壹)国」が正しいと主張する(古田武彦(1977))。確かに魏志倭人伝に「南至邪馬壹國 女王之所都」と書かれている。理由を次の様にまとめている(古田武彦(1992)。
1.現在残る『三国志』の版本はすべて「邪馬一(壹)国」である。
2.三世紀の魏晋朝で「臺」は魏朝の王宮またはそれに準ずる王宮にしか使われない「至高の文字」である。
3.「臺」(台)と「壹」(一)の字形は似ていない。
4.「邪馬壹国」表記に裴松之は何も注釈を残していない。
これに対して山尾幸久は「邪馬臺国(邪馬台国)」の表記が正しいとする(山尾幸久(1986))。その理由は次の通りである。>
1.「邪馬壹国」は11世紀初頭の北宋版で誤刻された表記である。
2.4世紀初頭から10世紀末までに執筆された諸本がすべて邪馬臺国となっている。
4.983年に成立した『太平御覧』が引用する『魏志』でも臺となっている。
5.『三国志』の最古の版本は紹興年間(1131-1162)のもので、これが現存する(南宋本)。宮内庁に現存する版本は巻4以降が残されている。しかしこれより古い写本は存在しない。 残されている刊行本は南宋本を踏襲したものである。
4世紀初頭から10世紀末までに執筆された諸本には、5世紀前半に書かれた『後漢書』、636年に完成した『梁書』諸夷伝などがある(石原道博編訳(1985))。石原道博編訳(1985)は『後漢書』の影印を掲載する。
すなわち『三国志』の南宋本より古い版本がすべて「臺」(台)になっているから、南宋本が印刷時に間違ったと考える方が合理的である。>
したがって結論として「邪馬一(壹)国」が正しいとする説は成り立たないと考える。>

里程と距離、遺跡の検討
帯方郡から邪馬台国への行程記事では帯方郡から狗邪韓国を経て1000余里を渡海して対馬国に至り、また南へ千余里渡海して一大国に至る。さらに千余里渡海して末盧国に至る。そこから東南へ五百里陸行して伊都国に至り、また東南の奴国へ百里、東行して不弥国に百里、南の投馬国へは水行二十日、南の邪馬台国へ水行十日、陸行一月で到達すると書かれる。各国を否定するにはそれぞれ3世紀代の遺跡と対応させる必要がある。以下に各国を遺跡・王墓と対応させる。

比定集落遺跡と王墓                                                 
国名 集落遺跡 王墓 現在の地名
狗邪韓国 金海貝塚 大成洞古墳 慶尚南道・金海市
対馬国 三根遺跡 下ガヤノキ遺跡 長崎県対馬市|
一支国 原の辻遺跡 原の辻遺跡 長崎県壱岐市
末盧国 菜畑遺跡、宇木汲田遺跡 桜馬場遺跡、中原遺跡 佐賀県唐津市
伊都国 三雲・井原遺跡 平原遺跡 福岡県糸島市
奴国 那珂遺跡群 須玖岡本遺跡福岡県春日市
不弥国 江辻遺跡 馬渡・束ヶ浦遺跡福岡県古賀市
投馬国 上東遺跡 楯築遺跡岡山県倉敷市
邪馬台国 纏向遺跡 箸墓古墳奈良県桜井市
狗奴国 一宮八王子遺跡 象鼻山古墳愛知県一宮市


参考文献
1.鳥越慶三郎(2020)『倭人倭国伝全釈』KADOKAWAM
2.石原道博編訳(1951)『新訂魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝』岩波書店
3.西谷正(2009)『魏志倭人伝の考古学』学生社
4.古田武彦(2014)「筑後国の風土記にみえる荒ぶる神をおさめた女王か?」歴史読本、KADOKAWA
5.古田武彦・谷本茂(1994)は『古代史のゆがみを正す』新泉社
6.古田武彦(1992)『「邪馬台国」はなかった』朝日新聞
7.古田武彦(1977)「邪馬台国九州説10の知識」『歴史読本』新人物往来社
8.山尾幸久(1986)『魏志倭人伝』講談社
9.藪田嘉一郎 編訳注(1969)『中国古尺集説』綜芸舎
10.石原道博編訳(1985)『新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝: 中国正史日本伝 1』岩波書店
11.大塚初重(2021)『邪馬台国をとらえなおす』講談社
12.坂靖(2021)『倭国の古代学』新泉社
13.寺澤薫(2024)『卑弥呼とヤマト王権』中央公論新社>
14.渡邊義浩(2012)『魏志倭人伝の謎を解く』中央公論新社>

狗奴国2024年12月21日 00:34

狗奴国(くなこく)は『魏志倭人伝』に登場する国のひとつで、3世紀に邪馬台国と戦っている国である。

概要

『魏志倭人伝』に「其の南には狗奴国有り。男子を王と為す。其の官には狗古智卑狗有り、女王に属せず」と書かれる。「其の南」とは邪馬台国の南と解釈される。ただし、『魏志倭人伝』の方角はあまりあてにならない(水野祐(1982)、p.262)。「狗(ク)」は水野祐(1982)によれば、南ツングース語の「大きい」という意味であるという。また「奴(ナ)」は国の意味とする(水野祐(1982)p.191)。両者合わせれば、「大国」の意味になる。 『魏志倭人伝』における狗奴国の説明は「其南有狗奴國、男子爲王、其官有狗古智卑狗、不屬女王」だけと解釈するのが、多数説である。しかし水野祐(1982)は「其南有狗奴國、から耳・朱崖同」までを狗奴国の説明とする(水野祐(1982)p.251)。頷ける指摘である。

狗奴国の位置論

水野祐(1982)は邪馬台国と狗奴国は地続きとするが、後漢書に「南に狗奴国(拘奴国)あり、男子が王となる。その官は狗古智卑狗がある。女王に属さず女王国の東、海を渡ること千余里。また国あり、皆、倭種なり」と書かれるので、地続きではないと読める。 これは邪馬台国の九州説には不利な点である。近畿説を取るなら、間の海は瀬戸内海あるいは伊勢湾を指すと解釈できる。

狗奴国の比定の各説

狗奴国の比定は様々に言われてきた。

九州南部説

狗奴国は、熊本県など九州南部に比定するとした説は、江戸時代の新井白石以後、白鳥庫吉、内藤湖南、井上光貞、小林行雄などが唱えている。白鳥庫吉は狗奴国を、「熊襲の国」とし、喜田貞吉は「球磨」とする。最近では山鹿市方保田東原遺跡や高森町・南阿蘇村の幅・都留遺跡のベンガラ生産遺跡の発掘成果が見られる。しかしその比定根拠は薄く、『魏志倭人伝』の記述に関連するとみられる地名の「くま」と「くくち」の両方が見られるのは「肥後の国(熊本県)」とする。地名の読みが同じだからというのはいかにも根拠が薄い。地続きでないとすれば、九州南部では地続きなので都合が悪い。王墓、王都に有力候補がないことも問題である。

四国説

本居宣長の四国伊予国河野郷説である。現在の松山市北条付近である。間に海はあるのは好条件であるが、難波奥谷古墳は円墳で古墳時代の後期の築造であるし、善応寺古墳は7世紀頃である。3世紀の有力な遺跡も見当たらない。 

尾張説

最有力候補とされる。1960年代に田辺省三が提唱し、赤塚次郎(2009)が補強した。朝日遺跡に前方後方墳の原型が弥生時代中期に登場したとし、西上免古墳(愛知県一宮市)を最古の前方後方墳とした(赤塚次郎(2009))。そのほか、伊勢湾岸部から出土するS字甕(S字状口縁台付甕)をあげる。これは庄内式の甕と同じ厚みの薄い甕で、邪馬台国時代の甕とみられる。九州には弥生時代の厚みのある「厚甕」だけであり、このような薄い甕は見られない。王都の候補地は巨大弥生集落の萩原遺跡群(一宮市)、八王子遺跡、廻間(はざま)遺跡(愛知県清須市)が揚げられている。王墓は東之宮古墳が指摘され、築造年代は3世紀後半とする(赤塚次郎(2009))。

関東説

西谷正(2009)は狗奴国をのちの毛野国に比定する(西谷正(2009)、p,368-371)。根拠は『国造本紀』に毛野国が現れること、狗奴(クナ)が仁徳の時代に毛野(ケヌ)に変わったとする。王墓(古墳)では芝崎蟹沢古墳(高崎市)に注目している。この古墳から正始元年銘の鏡(三角縁重列式神獣鏡、正始元年銘、東京国立博物館蔵)が出土していることを挙げる。王都は言及がないので、弱点がある。

考察

狗奴国の条件は(1)邪馬台国に対抗する強大な武力をもつこと、(2)人口規模がそれなりにあること、(3)弥生時代から続く集落であること(必須ではない)、(4)王都と王墓があること、(5)土器に広がりがあること、(6)邪馬台国からの経路に海があること(『後漢書』)、などであろう。後代の出来事になるが、壬申の乱においても尾張(尾張連)は重要な役割を果たしている。これらを考えれば、狗奴国の尾張比定説が最も可能性が高いと考える。

参考文献

  1. 石原道博編訳(1951)『新訂魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝』岩波書店
  2. 藤堂明保他(2010)『倭国伝』講談社
  3. 水野祐(1982)『評釈 魏志倭人伝』雄山閣
  4. 藤堂明保他(2010)『倭国伝』講談社
  5. 佐伯 有清(1981)『邪馬台国基本論文集 (1) 卑弥呼考』創元社
  6. 西谷正(2010)「邪馬台国最新事情」『石油技術協会誌』第75巻,第4号
  7. 西谷正(2009)『邪馬台国の考古学』学生社
  8. 赤塚次郎(2009)『幻の王国、狗奴国を旅する』風媒社

張政2024年12月13日 00:06

張政(ちょうせい)は邪馬台国に派遣された帯方郡の武官である。

概要

237年に壹與が帯方郡に使者の派遣したときの塞曹掾史である。

来倭は247年

「冊府元亀」巻九百六十八 外臣部 朝貢第一に「247年(正始八年)、倭国の女王である壹與は、大夫の掖邪狗たちを派遣して(洛陽の)尚書台に至らせ、男女の生口(奴隷)三十人を献上し、白珠を五千枚、青大句珠を二枚、異文雑錦を二十匹を朝貢した。」と記事がある。『魏志倭人伝』にも247年(正始八年)に塞曹掾史の張政等を派遣したと書かれるので、同じ時期である。

滞在中の出来事

張政が帰国したとの記事は、すぐには見られず、卑弥呼の死、その後の戦乱、壱与の即位を見届けてから帰国した。『魏志倭人伝』「(卑弥呼死後)「更に男王立つも国中服さず。更に相誅殺し、時に当たりて千余人を殺す。また、卑弥呼の宗女台与を立て、年十三で王と為し、国中遂に定まる」とかかれる。張政は卑弥呼の死を見届け、その後の戦乱の仲介をし、台与を擁立するなど、大活躍をしたのであろう。『魏志倭人伝』の記事は、記述がリアルなので、張政の帰朝報告によるものであろう。

張政の帰国は265年

『魏志倭人伝』に「壱与は倭の大夫で率善中郎将の掖邪拘等二十人を派遣して、張政等が帰るのを送らせた」と書かれるが、『魏志倭人伝』にはこれがいつのことかは書かれていない。 しかし、晋書に「265年(泰始1)年、倭人来り方物を献ず」と(泰始初遣使重譯入貢)書かれるので、これは「掖邪拘等二十人を派遣」した記事に該当するので、張政はこのときに帰国したと見られる。なお『日本書紀』神功紀六六年条に、「泰初二年、倭の女王、訳を重ねて貢献を遣わす」と書かれており、晋書と1年異なるが同じ献使を指しているとみられる。 『日本書紀』の泰初は泰始の誤りであるが、張政は247年に倭国に来て、265年に帰国したとすれば、18年間に渡り倭国にいたことになる。

参考文献

  1. 石原 道博(1985)『新訂 魏志倭人伝』岩波書店
  2. 渡邉 義浩(2012)『魏志倭人伝の謎を解く』中央公論新社
  3. 坂本太郎, 井上光貞 (1994)『日本書紀』岩波書店

還致録受2024年10月01日 10:49

還致録受(かんちろくじゅ)は『魏志倭人伝』に使用される語句で、倭国に帰ったら品物と目録を倭王に提出しなさい、という意味である。

概要

「皆裝封付難升米 牛利還到録受」を、水野祐(1982)は以下のように解釈する。

  1. すべてを封印を施して、使節の難升米と牛利に引き渡した、
  2. 倭国に帰ったら品物を点検して記録せよ

別の解釈

2番目は別の解釈がある。品物は封印されて渡されたので、帰国したときに、渡した目録と照らし合わせて受け取れ、と解釈する。この場合、目録を品物とともに渡していなければならない。 そのように下賜品とその目録とをセットで渡す慣習があったかどうかを他の事例などで調べる必要がある。<br/>

岩波訳

石原道博編訳(1951)の解釈がまさにこの解釈である。この部分の訳を「皆装封して難升米・牛利に渡す。(倭国に)還り到着したら目録通り受け取り、ことごとくあなたの国中に示し、魏があなたをいとおしく思っていることを知らせよ」とする。「受け取る」の主語(主体)は倭王である。<br/>

講談社訳

藤堂明保他(2010)はこの部分を「みな封印して、着いたら受け取るように。その賜り物をみな汝の国の人に見せ、魏の国が、汝をいつくしんで、わざわざ汝によいものを賜ったことを知らせよ」と解釈している。「録」を解釈していないが、注釈では「録受」は「目録と照らし合わせて受け取る」意味であると説明している。

用語の違い

同じ品物を渡す(贈与する)時でも、両者の身分関係により用語が異なる。ここでは「受」なので、同じ身分の人物から倭国で受け取ると想定されている。難升米・牛利から倭王に渡すことが想定されているのであろうか。

  1. 「賜」・・・皇帝から品物を受取る際に使用する
  2. 「受」・・・同じ身分の人物から品物を受取る
  3. 「献」・・・身分の低い者から高位のものが品物を受取る

考察

皇帝は目録だけ渡して品物は、その時点で品物を渡さなかったと解するものもあるが、これは当たらない。難升米・牛利は皇帝の面会時点で厳重に封印した品物を渡されたのである。 その証拠に賜り物を汝の国の人に見せよと指令しているので、現物(品物)がなければ示しようがない。目録だけ示しても、当時は識字率が低いので、効果が無い。 品物と同時に目録を渡したかどうかが、問題となる。帰国してから品物の目録を作成するのは違和感があるので、やはり魏の皇帝から目録と品物を同時に渡されたと解釈する。長い帰路で品物を紛失するかもしれないので、目録との照合は必要である。 かなりの分量の品物を持ち帰れたのかという意見もあるが、倭国の使者はそれなりの人数で派遣されであろうし、帯方郡の役人も同行していたので、持ち運びは問題が無かったと考える。

原文『魏志倭人伝』

  • 皆裝封付難升米・牛利、還到録受、悉可以示汝國中人、使知國家哀汝

参考文献

  1. 佐藤進・濱口富士雄(2011)『漢辞海』第三版、三省堂
  2. 石原道博編訳(1951)『新訂魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝』岩波書店<br>
  3. 藤堂明保他(2010)『倭国伝』講談社
  4. 水野祐(1982)『評釈 魏志倭人伝』雄山閣
  5. 藤堂明保他(2010)『倭国伝』講談社

景初2年・3年問題2024年09月29日 00:23

景初2年・3年問題(けいしょにねんさんねんもんだい)は邪馬台国の卑弥呼が献使を送り、その使者が帯方郡に到着した時期(年)に関する論争である。

概要

『魏志倭人伝』には「景初二年(238年)六月、倭の女王(卑弥呼)は、大夫の難升米等を派遣して帯方郡に到着し、天子にお目通りして献上品をささげたいと申請した。帯方郡太守の劉夏は官吏を派遣し、難升米等を京都(洛陽)まで引率して送りとどけさせた」と書かれる。この景初二年(238年)は景初三年(239年)の誤りとするのが通説である。 239年(景初3年)1月に魏の明帝は死去したから、景初三年とすると当時8歳の新皇帝(曹芳)が謁見したことになる。

景初三年(239年)の根拠

卑弥呼の最初の献使は景初三年(239年)であったとする学会の学会の通説とされる。 理由は次の3点である。

  1. 梁書に景初三年と書かれる。
  2. 日本書紀に景初三年と書かれる。
  3. 景初二年では公孫淵が存命であり、その時点で倭の使者は洛陽に行けない。
  4. 景初二年は戦乱が激しく通行できないとする。

梁書

『梁書』は「景初三年に公孫淵が滅びて後、卑弥呼が遣使した」(至魏景初三年公孫淵誅後卑弥呼始献使朝貢)と書く(石原道博(1985)l巻末影刻)。

日本書紀

『日本書紀』神功三十九年記事に「是の年太歳己羊。魏志に曰く、明帝の景初三年の六月倭の女王(卑弥呼)、大夫難斗米等を遣わして、郡(帯方郡)に詣りて、天子に詣らむことを求めて朝献する」と書かれる。『日本書紀』記載の太歳己羊は景初三年と整合する。 『日本書紀』が引く『魏書』は『魏志倭人伝』の宋の版本の刊行よりはるかに古いから、その記述の方が正確とも見られる。

公孫淵の障壁説

魏から独立した勢力として楽浪郡・帯方郡を支配していた公孫淵が滅びていないから、その時点では洛陽に使者は到達できないとするのが一般的理解とされる。 鳥越憲三郎(2020:p.129-130)は「公孫淵の父子を誅殺したのが景初二年八月である。それ以前の六月に帯方郡の役所に行くことは絶対に不可能であった」とする。倭の献使は景初三年六月に皇帝への謁見を願い出て、郡の太守が役人を洛陽に行かせて願い出て、倭国の使者を同行することの許可を得て、郡に帰り太守に報告する。太守は倭の使者と同行者を伴い、洛陽に上京する。そこまで五ヶ月を要した。この時系列で、最初を景初二年とすると間が1年5ヵ月となるので間が開きすぎるとする。

戦乱説

佐伯有清(2000)は慶元版の『太平御覧』の『魏志』に「景初三年、公孫淵死す。倭の女王、大夫難升米等を遣わして、帯方郡に言せしめ天子に詣りて朝貢せんことを求む」とあり、『日本書紀』記事と合わせると、『魏志』の記載は「景初三年」であったとみられる事を挙げる。ただし『太平御覧』の景初三年は二年の誤りと指摘する。景初二年六月に公孫淵を撃つため司馬懿の4万余の軍が遼東に到達し、公孫淵は遼隧の軍を撤退させ、都の守備に当たらせたが、防戦一方となり敗退を繰り返して、司馬懿に襄平を包囲された。公孫淵は人質を出して和睦しようと画策するが、司馬懿は許さず公孫淵を捕えて処刑した。『魏志』公孫淵に「遼東、帯方、楽浪、玄莬、悉く平らぐ」と書かれる。佐伯有清(2000)は「そうした混乱の中で、倭の女王卑弥呼が帯方郡に使者を派遣し、さらに魏の皇帝のもとに朝貢しようとしたことは、景初二年六月の時点ではありえない」とする。

岩波本

石原道博(1985)は「景初三年の誤」と書き、『日本書紀』所収の『魏志』と『梁書』の記載を根拠とする。

景初二年(238年)の根拠

  1. 三国志は景初二年と書いている
  2. 海路を取れば戦乱に巻き込まれる危険は少ない
  3. 景初二年でも前後関係は不自然ではない

陳壽の書き改め説

オリジナルの『魏志』の記載は「景初三年」であったが『三国志』の編纂過程で陳壽が原史料を精査し、景初二年に書き改めた可能性が考えられる。

水野説

水野祐(1982)は戦乱で通行できるかどうかを判断していないが、『晋書』の記載から景初二年説を主張する。「景初二年に(倭国の遣使は)明帝に謁見し、帯方郡に戻った。それは(景初三年)三月か四月のことであろう」とする。「景初二年を正しいとする根拠は当時の海上交通を検討しなければならない」とし、倭国から魏への通交は不可能ではなかったとする。魏が楽浪・帯方2郡の奪回のため水軍を編成したのは景初元年七月であった。韓諸国が遼東の楽浪公との関係を切り、帯方太守を介して魏との関係を結んだのは公孫淵滅亡の景初二年八月以前とする。倭も同時期に韓諸国と同様に帯方太守との修好を結んだから通交は可能であった。倭の一行は景初二年十一月までに洛陽に入り、明帝に謁見した。魏の皇帝と修好を結ぶため、媒介となる使訳に優秀なものがおり、東アジア情勢に通暁しており、正副の使節を郡の太守は丁重に送り届けた。景初三年は一月に35歳の明帝が崩御し、服喪期間は1年あったから、景初三年中に公式行事を行えたかどうかが問題となる。

  1. 景初二年六月 卑弥呼、使を派遣
  2. 景初二年七月から八月 楽浪・帯方戦乱、公孫淵滅亡
  3. 景初二年十二月はじめ 倭使明帝に謁見、十二月中に帯方に向かう
  4. 景初三年正月 明帝崩御
  5. 景初三年三月頃 倭使帯方郡に帰着する。
  6. 景初三年五月頃 倭使は倭国に帰着する。
  7. 景初三年七月 斉王芳、はじめて臨朝
  8. 景初三年八月まで 帯方太守は劉夏から弓 遵となる。
  9. 景初三年九月ころ 帯方太守弓遵は、郡使を倭国に派遣する。
  10. 景初三年十二月ころ 倭使女王の答礼の上表文を持参し、帯方郡に向かう。
  11. 正始元年正月 帯方太守弓遵に答謝の上表文を呈す。

考察

水野祐(1982)はかなり詳細に論じており、説得力がある。景初二年も有力と考え直す。

原文

  • (魏志倭人伝)景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝獻、太守劉夏遣吏、將送詣京都。
  • (梁書)至魏景初三年,公孫淵誅後,卑彌呼始遣使朝貢
  • (日本書紀 巻第九 氣長足姫尊 卅九年)魏志云「明帝景初三年六月、倭女王、遣大夫難斗米等、詣郡、求詣天子朝獻。太守鄧夏、遣吏將送詣京都也。

参考文献

  1. 石原道博(1985)『新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝』岩波書店
  2. 鳥越憲三郎(2020)『倭人・倭国伝全釈』KADOKAWA
  3. 佐伯有清(2000)『魏志倭人伝を読む (上下)』吉川弘文館
  4. 水野祐(1982)『評釈 魏志倭人伝』雄山閣
  5. 新・私の本棚 前田 晴人 「纒向学研究」 第7号『「大市」の首長会盟と…』1/4 補充

邪馬台国への使者2024年09月27日 00:08

邪馬台国への使者(やまたいこくへのししゃ)は魏が3世紀に邪馬台国へ派遣した使者である。

概要

正始元年(240年)に派遣された梯儁は魏王朝から倭国への初めての公式の使者であった。 ここで、梯儁は倭国のどこまできたかが論争になっている。2説がある。

  1. 伊都国まで説
  2. 邪馬台国まで説

伊都国まで説

伊都国説の論拠は次の通りである。

  1. 不弥国までは里数表示であるが、不弥国以降は日数に変化する。
  2. 旅行の見聞は奴国までは書かれているが、不弥国以降は書かれていない。

邪馬台国まで説

  1. 皇帝からの預かりものは倭王に直接渡すのが決まりである。
  2. 旅行の見聞の精粗は旅程と関係ない。
  3. 『魏志倭人伝』に倭王に面会したと書かれている。(「拝化」記事を参照)
  • 『春秋』には「肅慎東北夷之國去扶餘千里」(扶餘國から肅慎國まで千里)と書かれる。また『晉書四夷傳』には「肅慎氏一名挹婁在不咸山北去夫餘可六十日行」(「扶餘國から肅慎國まで六十日」)と書かれる。ここからら里数表示が実際に行った場所で、日数は言っていない場所であるとは断言できない。
  • 旅行の見聞の書きぶりが異なることは実際に行っていないことの証明にはならない。梯儁が倭国での見聞を詳しく書いたかどうかは分からないからである。陳壽が梯儁の報告(旅程記事)に他の報告をまぜた可能性もあろう。
  • 『魏志倭人伝』に倭王に面会(拜假倭王)したと思われる記事があることは重要である。 皇帝の勅書を倭王に渡さず、他人に渡すだろうかという疑問がある。
  • 大場脩(1971)は贈与する品物は倭の使者に持たせるが、印綬は魏の官吏に持たせている。印綬と贈与の品物とでは扱いが異なるとを指摘している。その理由を、もし難升米や牛利が印綬を横取りするとその人物が親魏倭王になってしまうから不都合であると指摘する。したがって梯儁は皇帝の詔の趣旨にしたがって、伝達の責任を果たさなければならないとする。つまり魏の使者が伊都国に留まって女 王のもとには行かないという考え方は承認できないと大場脩(1971)は判断する。

考察

上記のように「伊都国まで説」は根拠が乏しく、「邪馬台国まで説」に理があると考える。 皇帝の勅書と印綬を途中で倭王の代理人に渡す事はあり得ないし、倭王に面会した記事があるのだから、梯儁は邪馬台国まで行ったと判断する。他の国への派遣記事の事例があると補強になる。

参考文献

  1. 佐藤進・濱口富士雄(2011)『漢辞海』第三版、三省堂
  2. 石原道博編訳(1951)『新訂魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝』岩波書店<br>
  3. 藤堂明保他(2010)『倭国伝』講談社
  4. 大場脩(1971)『親魏倭王』学生社