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国邑2026年02月05日 21:37

国邑(こくゆう)とは、中国古代史料にみられる用語で、一定の政治的支配が及ぶ領域における中心的な居住・統治拠点を指す語と理解されている。単なる集落や村落ではなく、王・首長・有力者などが居住し、政治的・社会的機能が集約された場所を意味する点に特徴がある。

「魏志倭人伝」における国邑

『三国志』魏書東夷伝倭人条(いわゆる「魏志倭人伝」)の冒頭には、「倭人は帯方の東南大海の中にあり、山島によりて国邑をなす」との記述がみられる。

ここでは、倭人の居住域が帯方郡の東南方、海を隔てた地域にあり、山地や島嶼の地形条件を背景として国邑が形成されている状況が示されている。この「国邑」は、単に地理的に山や島の近くに存在する集落という意味にとどまらず、各国の政治的中枢が特定の地形環境と結びついて成立していることを表現したものと解釈される。

他史料にみる国邑の用法

国邑という語は、倭人伝に特有の表現ではなく、他の『三国志』諸伝にも用例が確認される。

たとえば、『三国志』呉書(虞・陸・張・駱・陸・吾・朱伝)には、同郷出身者が「国邑」において厚遇されていたという文脈でこの語が用いられている。この場合の国邑は、単なる出生地ではなく、故郷における中枢的都市、あるいは政治的中心地を指す語として理解するのが妥当であろう。

また、『三国志』魏書烏丸鮮卑東夷伝韓条においては、 「国邑には首長が存在するが、周辺の村落は雑居しており統制が及びにくい」 といった趣旨の記述がみられる。ここからは、国邑が支配者の拠点として機能する一方で、その統治が必ずしも全域に均質に及んでいたわけではない実態が読み取れる。

森浩一による解釈

考古学者の森浩一は、国邑という語について、「国」と「邑」とを機械的に分解して理解するのではなく、両者を一体化した概念として把握すべき語であると指摘している(森浩一(2010))。森によれば、倭人伝注釈の多くは「山の多い島嶼地域に国や村が点在している」と説明する傾向があるが、「韓伝」などにも国邑の用例が存在する点を重視すべきであるという。

森は、国邑を「それぞれの国における政治的根拠地」と位置づけ、さらに「韓伝」にみえる「別邑」という語との対比を通じて理解を深めている。「別邑」は宗教的・祭祀的機能を担う施設群を含む語であり、日常的な農村集落とは性格を異にする。こうした比較から、国邑は弥生時代の一般的な農村ではなく、人口・機能が集中した中心的都市的空間を指す語であった可能性が高いと論じられている。

倭人伝には「別邑」という語自体は用いられていないものの、同時代の東アジア史料との比較は、国邑の実態を考える上で有効な視点を提供している。

参考文献

  1. 森浩一(2010) 『森浩一の考古学人生』大巧社
  2. 石原道博編訳(1985))『新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝』〈中国正史日本伝(1)〉岩波書店

地乗り航法2025年12月10日 00:06

地乗り航法(じのりこうほう)は海における古代の航海法である。

概要

縄文時代から弥生時代の航海では海上から陸地の山、島、岩、岬、河口、樹木などの地形や海の色、潮の流れなどの目標物を目印として、それを頼りにする地乗り航法が使われた。 船員の経験と航海実績からえた知識が頼りであった。 逆に陸岸を遠く離れて走る「沖合航法」は、万葉集の頃でも「和磁石は存在せず、島や山の形状を確認するのが難しい広い海(灘)を直航することは」避けた(辻啓介(2023))。 袴狭遺跡(豊岡市出石)では、船団を組んで航海する船団が描かれている。一部は天測航法が使われていたかもしれない。天測航法は昼に太陽、夜には月や星の位置を観察して方角や緯度を推定する方法である。

万葉集

736年(天平8年)に新羅へ派遣された使人たちが海路で詠んだ歌に航路の途中の島や浦(停泊地)を詠んでおり、陸地の景色を見ながら航海する地乗り航法を示唆する。 例として「浦廻より漕ぎ来し船を風早み沖つみ浦に宿りするかも」(3646)を挙げておく。

魏志倭人伝

『魏志倭人伝』には「郡より倭に至るには、海岸に循ひて水行す。韓国を歴て、乍南乍東し、」 (從郡至倭 循海岸水行 歴韓国 乍南乍東)と書かれている。海岸に循ひて水行とは、陸を見ながら航行する説明であるから、明らかに地乗り航法である。

参考文献

  1. 茂在寅男(1977)「日本の古代航海に関する考察」『航海』52巻 pp.1-5
  2. 辻啓介(2023)「萬葉集に見える奈良時代の瀬戸内海航路」大島商船高等専門学校紀要
  3. 佐藤知美(2020)「弥生時代の鹿児島-沖縄間の黒潮横断航路」
  4. 田中聡一(2013)「対馬島と韓半島南海岸地域との海上交渉」

水行十日、陸行一月2025年08月12日 00:10

水行十日、陸行一月(すいこうとおかりくこうひとつき)は『魏志倭人伝』に記された投馬国から邪馬台国までの経路である。

概要

「水行十日、陸行一月」の釈読部分は「南へ向かって邪馬台国に至るには、水路で10日、陸路で1か月かかる。その国には『伊支馬』という官があり、次に『彌馬升』、次に『彌馬獲支』、次に『奴佳』という官がある。およそ7万戸の民がいる。」(原文は「南至邪馬壹國女王之所都、水行十日、陸行一月。官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳、可七萬餘戸」)である。

連続説と選択説

「水行十日、陸行一月」には連続説と選択説とがある。連続説では水路で10日進み、さらにそこから陸路で1ヵ月進むことにより邪馬台国に到達するとの順番を表す。選択説では水行十日または陸行一月で到達できる場所に邪馬台国があるとする。それぞれ有利不利がある。

連続説に有利な根拠

(理由1)「水行十日陸行一月」の間に接続詞「或(または)」や「並(かつ)」が使われておらず、選択肢的な表現はない。

連続説に不利な根拠

(理由1)連続説は畿内説では、投馬国から瀬戸内海を古代の舟で水行十日いくと現在の大阪湾に着く。陸行一月は大阪湾から奈良まで行くのには長すぎる。 (理由2)九州説では連続説では移動距離が長くなり、北部九州から(南に)「水行十日+陸行一月」では、九州を飛び出す。

選択説に有利な根拠

(理由1)畿内説では水行で十日すれば現在の大阪湾に着くので、そこから1日もあれば奈良盆地に着く。

選択説に不利な根拠

(理由1)水行十日と陸行一月の選択とすると、水行十日と陸行一月とは同等の距離なのかという問題がある。唐の法典集『六典』によると、1日当り陸行50里、水行65里とされている。これが正しいとすると、水行十日の距離は650里すなわち。約414m×650=269kmである。陸行30日×50×約414m=621kmとなる。即ち選択説なら陸行と水行は同等の距離でなければならないのに、2.3倍も異なる。なお魏の時代の1里の距離は414mであることは、「短里説」の記事で説明している。すなわち選択説は矛盾を抱えている。

距離の表記方法の違い

不弥国までの旅程は「七千余里」「千余里」「百里」など距離表示であるが、不弥国から投馬国までは「水行10日」、投馬国から邪馬台国までは「水行十日、陸行一月」と突然に日数表示に切り替わる。この理由を、佐伯有精(2000)は倭人伝が依拠した原史料が異なる為とした見解が妥当であるとした(佐伯有精(2000)、p.70)。

山尾幸夫の見解

選択の経路を記した資料の例に『漢書 西域傳上』(末尾)「西至捐毒千三百一十四里、徑道馬行二日」(「西、捐毒に至るには千三百一十四里、徑道を馬行すれば二日」)がある。尉頭国王が治める尉頭谷から東に迂回する近道の山中を利用すると捐毒国王が治める尉頭谷に馬で2日で行けるという意味である。これは出発地と目的地は同じだが、異なる経路の例である。次に『通典 州郡十四』に「去西京陸路一萬二千四百五十里,水路一萬七千里」(西京を去ること陸路一万二千四百五十里、水路一万七千里)と書かれている、これも複数経路とする。 しかし『水行十日、陸行一月』は①複数路の併記では「道」「路」が用いられるのが通例であり、「行」により併記する例は見当たらない、②三世紀の倭人の航海術の速度は徒歩と同程度であり、陸路が水路の3倍の距離があることは不自然である、③水行十日、陸行一月の選択とすると倭人伝の他の記述と矛盾する。「女王国までは戸数、道里のあらましを記載できた」と書かれるので、複数路の併記はあり得ないと指摘する(山尾幸夫(1986))。

考察

邪馬台国の位置は文献だけでは決まらないというのが、筆者の見解である。なぜなら、『魏志倭人伝』の筆者(陳壽)は現地を歩いていないし、見てもいない。当時に存在していた資料をつぎはぎして『魏志倭人伝』を構成しているから、信用度の異なる情報が混在してしまっている。

連続説と選択説のどちらをとっても、九州説、畿内説のどちらにもに決定的な影響を与えないと考える。文献史学では、邪馬台国の位置論について結論は出ないことの証明でもある。使用した原史料が異なるとすれば、帯方郡から邪馬台国までの「1万二千余里」との整合性はないことが予想できる。もっとも、「1万二千余里」自体が「『周礼』の九服説」による観念による数字なので、整合性は重要ではないのであろう(別項「万二千余里の意味」を参照)。

参考文献

  1. 石原道博編訳(1951)『新訂魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝』岩波書店
  2. 西嶋定生(1994)『邪馬台国と倭国』吉川弘文館
  3. 近江昌司、置田雅昭他(1992)『卑弥呼の時代』学生社
  4. 水野祐(1987)『評釈 魏志倭人伝』雄山閣
  5. 佐伯有精(2000)『魏志倭人伝を読む』吉川弘文館
  6. 山尾幸夫(1986)『魏志倭人伝』講談社

魏の使者の到達場所2025年08月11日 00:10

魏の使者の到達場所(ぎのししゃのとうたつばしょ)は3世紀の倭国に派遣された魏の使者は倭国のどこまで来たかという古代史の論点である。

概要

魏の使者が邪馬台国に来たか、倭王に面会したかは、位置論とも関わる重要な論点となる。到達説と非到達説を対比して述べる。

到達説

魏志倭人伝に「正始元年 太守弓遵 遣建中校尉梯儁等 奉詔書印綬詣倭國 拝暇倭王」と書かれる。すなわち「西暦240年に楽浪太守の弓遵は建中校尉の梯儁らを遣わし、詔書、印綬を奉じて倭国に詣り、倭王に拝仮した」と書かれている。 「拝仮」は別記事で論じているが、謁見あるいは拝謁したと解釈できる。その通りに解釈すれば、投馬国から「水行十日、陸行一月」の旅程をたどって梯儁らは女王の居所まで到達したことを意味する。 到達説の例として、近江昌司他(1992)は「(弓遵の部下の)梯儁は魏の王の詔書と印綬を奉じて倭国にやってきて倭王に面会し、金、木綿、錦、毛織物、刀、鏡を倭王に授けました。・・・倭王は・・感謝の言葉を述べました」(近江昌司(1992)、p.35)と解釈する。

冊封使として

ここで重要なことは、梯儁等は冊封使という位置付けである。冊封儀礼の本質は、皇帝の命令(詔勅)を持参し、冊書と印綬を授け、倭王に直接面会して任命を伝える事である。卑弥呼が「親魏倭王」になるためには、面会は必要不可欠とされる。そうだとすれば梯儁らは倭王の卑弥呼本人に拝謁し、実際に邪馬台国(邪馬壹國)まで到達したと考えられる。その証拠に、『魏志倭人伝』は倭王の警備の様子、周囲の状況、人にめったに会わないなどの行動様式を具体的に記述している。宮殿構造、楼閣、警備、侍婢制度などの記述は卑弥呼の居所への訪問経験もしくは詳細な報告に基づいた描写と見る事ができる。 その他の論点として、梯儁等の冊封使は単に金、木綿等の物品を運ぶだけでなく、文化的・儀礼的な行動を重視していた。『魏志倭人伝』には書かれないが、冊封使は中国官人の服装で威厳を示し、冊封儀式として天子の命を伝える使節として、王の前で行程の詔を読み上げる。倭は歓迎の酒宴を開いて、歌舞等を冊封使に披露する。

非到達説

魏の使者は伊都国までしか行っていないとする邪馬台国非到達説がある。 非到達説は、伊都国以後の記述に具体性が欠けるという「反証的視点」を提供している。さらに伊都国以降は方角・距離・戸数・官名などの記述方法が変化して、「余」の表記がなくなり、表記が日数に切り替わることを挙げる。 水野祐(1987)祐は「正始元年に帯方郡使梯儁が倭国に至り・・・女王の代行者である一大率に対し、封印された物品の遺漏なきを確かめ、女王に間違いなく伝達するよう命じた」(水野祐(1987)、p.540)と書く。明らかに非到達説で、伊都国までしか行っていないことの説明である。

非到達説と到達説の評価

非到達説は根拠と説得力に欠けると見られる。『魏志倭人伝』は旅程記事と政治記事をまとめて構成しており、伊都国以後の記述だけが抽象的だからといって、「邪馬台国に未到達」と断定するのは難がある。邪馬台国の宮殿の様子の具体的な記述について、伝聞だけで説明するのは根拠が弱い。一方、『拝假』表現が曖昧との指摘もある。実際に面会したのか、または形式的な上申のみであるのか、評価は分かれる。 一大率に代行してもらい、冊封儀式を疎かにするのは魏の時代にあったという証拠は見当たらない。魏晋の外交では対匈奴、対鮮卑など皇帝の冊命を現地使節を通じて直接執行する例が多いとされる。つまり実際に使節を派遣し、官位や称号の授与(王号)を相手の王がいない現地で行った記録がある(『魏書』匈奴伝、鮮卑伝)。後代になると、唐の太宗(李世民)がヒルティック・カガン(突厥)との交渉時、河川を挟んで会見して交渉を行い、冊封を想起させる地位を与えた記録がある。明の永楽帝は、チムール(ティムール朝)の後継であるシャー=ルフとの外交関係において、冊封式を巡り柔軟な対応を取っているとされる。しかし明朝・永楽帝や唐の太宗(李世民)における事例は魏の時代からは遠いので、政治体制・外交制度の発展段階が異なるため、直接的な類推により魏の時代に面会せずに任命したかどうかは注意が必要となる。 また『魏志倭人伝』の伊都国以後の旅程全体を否定するためには評価の材料が不足しているといえる。

考察

古代史の専門家は概ね「拝仮」を正しく解釈しているといえるのではないか。倭王が感謝の言葉を発したということ、宮殿の様子の具体的な描写は実際に倭王に面会した証拠とみることができる。

参考文献

  1. 石原道博編訳(1951)『新訂魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝』岩波書店
  2. 西嶋定生(1994)『邪馬台国と倭国』吉川弘文館
  3. 近江昌司、置田雅昭他(1992)『卑弥呼の時代』学生社
  4. 水野祐(1987)『評釈 魏志倭人伝』雄山閣

倭国乱前後の社会変化2025年06月16日 00:07

倭国乱前後の社会変化(わこくらんぜんごのしゃかいへんか)は弥生時代における倭国の内戦についての戦前と戦後の社会変化である。

概要

弥生時代の「倭国乱」については2024年7月12日に記事を投稿したが、その後の資料入手と考察により、あたらめて論点を検討し、戦前と戦後の比較と倭国乱の意義を問い直す。

倭国乱の時期の再考

『魏志倭人伝』は倭国乱について「その国もと男子が王であったが、その70年から80年後に倭国は乱れて、暦年に渡り互いに攻伐した」と書く。これが倭国乱である。『魏志倭人伝』は倭国乱の発生時期を具体的に書いていないが、男王とは107年(安帝永初元年)に献使した倭国王帥升だったとすると(後漢書)、その70年から80年後は西暦177年から187年頃となる。この時代は北九州における伊都国の全盛時代なので、吉田晶(2020)は倭国王帥升は伊都国王であったとする(p.144)。『後漢書』では倭国乱の時期を「桓霊の間」とする。これは後漢の桓帝の在位時期146年から167年、および霊帝の168年から189年の間である。すると『魏志倭人伝』の記載と重なる時期となる。『隋書』倭国伝も同様である。 しかし、『梁書』倭国伝では、「漢の霊帝の光和中、倭国乱れ、相攻伐すること暦年」と年代範囲をより絞り込んでいる。『太平御覧』の引く『魏志』でも、「漢の霊帝の光和中」と同じである。「光和」とは後漢の霊帝の治世178年から184年である。『魏志』にも光和と書かれるので、信憑性はあると考える。

倭国乱の要因

現実には倭国乱の前から地域間の戦闘は起きていた。狩猟採取時代から農耕社会になると、人々は集団で争うようになることは世界的な現象である。農耕は広い土地を必要とすること、また蓄積された余剰生産物をめぐる戦いが頻発する。戦乱の激化は武器の増加、環濠集落の発生と拡大、戦死人骨の出土、農産物を格納する倉庫、物見櫓などの考古学資料から証明される。吉田晶(2020)は「弥生時代は軍事的緊張と戦闘の時代であった」(p.129)と述べ、『後漢書』を念頭に107年頃に「倭人社会全体を政治的に統合する王」が出現したとする(p.138)。2世紀初頭の倭国の本拠地は北九州地域であった。吉田晶(2020)は「畿内勢力は鉄需要の物流センターの役割」を持ち、同盟関係にあった吉備とともに、北部九州に軍事的圧力をかけ、支配下に置く動きを見せた」とする。そこからクニ同士の覇権争いが起き、倭国乱が発生した。つまり、弥生社会の限界を解消するために必然的に倭国乱が起きたのである。武器・防具の出土は武力が存在し、戦闘技術が発達したことを示す。乱葬墓は戦闘によるまとまった死亡があったことを示す。また『漢書』『魏志倭人伝』に書かれる「生口」は奴隷であり、戦闘ないしは戦争で負けた側の家族などを奴隷つまり「生口として私有民としたものである。環濠集落は弥生時代中期に発生しているから、その頃に集団的な戦闘があったと推定できる。埋葬墓に見られる武器の副葬は武力を象徴化し神聖化したものである。これは戦士階層の社会的ステータスが上がったことを示す。

倭国乱の当事者と社会の変化

仮説として提示すれば『「倭国乱」は、奴国・伊都国などの北九州勢力と、吉備・ヤマトなど畿内勢力との間の覇権争い』であったと言える。仮説なので証明されたテーマではない。 しかし戦乱の末、北九州勢が敗退して衰退し、畿内勢が勝利により台頭したことを考古学的な証拠で示すことができる。 つまり地域としては、北九州勢(奴国・伊都国)が凋落し、ヤマト・吉備地域が拡大急伸した。吉備では、楯築墳丘墓など、3世紀の巨大墳丘墓が出現し、ヤマトでは唐古・鍵など弥生後期の大集落の拡大がある。2世紀後半からは北九州地域の外交記録がなくなり、代わりに近畿(邪馬台国)の外交が登場する。すなわち倭国乱は「覇権交代戦争」であったといえる。 いつの時代も大規模な戦闘は社会構造を大きく変える。例を挙げると、壬申の乱、承久の乱、関ヶ原の戦い、戊辰戦争、太平洋戦争の前後でいずれも社会構造の大変革がおきている。「倭国乱」は同様に弥生社会から古墳時代社会へと、倭国の政治構造を大変革するための戦乱であったと考える。

参考文献

  1. 石野博信編(2015)『倭国乱とは何か』新泉社
  2. 石野博信編(1987)『古墳発生前後の古代日本』大和書房
  3. 国立歴史民俗博物館(1996)『倭国乱る』朝日新聞社
  4. 佐原真(1992)『日本人の誕生』小学館
  5. 佐原真(2003)『魏志倭人伝の考古学』岩波書店
  6. 白石太一郎(2014)『古墳から見た倭国の形成と展開』敬文社
  7. 橋口達也(2007)『弥生時代の戦い』雄山閣
  8. 山尾幸久(1986)『新版 魏志倭人伝』講談社
  9. 吉田晶(2020)『卑弥呼の時代』吉川弘文館
  10. 西嶋定生(2011)「邪馬台国と卑弥呼」吉川弘文館

一支国2025年05月16日 00:25

一支国(いきこく)は、『魏志倭人伝』に記載された3世紀中頃の倭国の国のひとつである。

概要

『魏志倭人伝』では「一大国」と書かれるが、『梁書』(巻54、諸夷伝・倭)、『北史』、『魏略逸文』は「一支国」と書くため、「一支国」の誤りとみられる。 『古事記』の「伊伎国」、『国造本紀』の「伊吉島」である。対馬国から末廬国に至る道程に存在するため、壱岐島とみて間違いない。

王の存在

『魏志倭人伝』に王がいたという記述はないが、考古学の証拠から王はいたと見られている。弥生時代の原の辻遺跡は一支国の王都である。また環濠集落がある。壱岐島内には原の辻遺跡に匹敵する規模と内容を持つ遺跡は存在しない。 発掘調査により日本最古の船着き場の跡や当時の「一支国」が交易と交流によって栄えていたことを示す住居跡などが確認されている。また様々な地域の土器や中国の貨幣や三翼鏃(さんよくぞく)をはじめ、日本唯一の人面石やココヤシで作った笛が出土している。

「一大国」と「一支国」

「一支国」と「一大国」とは字画が似ているから誤植である可能性は高い。岩波本は「一支国」の誤植とするも、本文は「一大国」に作る。『梁書』(巻54、諸夷伝・倭)、『北史』、『魏略逸文』には「一支国」で一致して書かれていることは、オリジナル原本は「一支国」だったと考える方が合理的である。 誤植でなく「一大国」が正しいとする説もある。倭名抄や延喜式によれば、壱岐島は石田郡と壱伎郡に二分されており、石田郡に石田、物部、特通、箟原、治津の鄕があった。石田を一大と聞き取った可能性があるとする説がある。この説では『魏略逸文』や『梁書』の記載を説明できない。

一支国の成立

西谷正(2002)は弥生時代前期末から中期始めに成立したとする。根拠は原の辻遺跡の石田大原地区から細形銅剣、銅矛や多紐細文鏡が出土したことである。一支国の首長墓であるとみる。一支国は対馬国と異なり、沿岸部と内陸部とが共同体を形成していた。天ケ原遺跡では航海祭祀遺跡が出土しており、高地性集落が見られる。

比定場所

現在の長崎県壱岐市である。拠点集落(国邑)は「原の辻遺跡」であり、衛星集落がカラカミ遺跡、車出遺跡である。原の辻遺跡は三重の環濠で囲まれていた。また「原の辻遺跡」付近に古代の船着き場があった。中国の使者はこの船着き場を利用した可能性が考えられる。

魏志倭人伝

  • 大意
    • 対馬国から瀚海という海を渡って千餘里で一大国(一支国)に至る。官を(対馬国と同じ)卑狗といい、副官を卑奴母離という。四方は300里ばかりである。竹が多く、木は林のようになっている。家は3000戸ほどある、田はあるが、耕地が不足しているため、南北に船で渡り穀物を購入する。 対馬は「戸」であるが、一支国では「家」となっている。特に意味の違いはないようである。対馬とは異なり、田地が少しあると記載する。
  • 『倭人伝』原文
    • 又南渡一海千餘里 名曰瀚海 至一大國 官亦曰卑狗 副曰卑奴母離 方可三百里 多竹木叢林 有三千許家 差有田地 耕田猶不足食 亦南北市糴

遺跡

  • 原の辻遺跡

展示施設

  • 壱岐市立一支国博物館

参考文献

  1. 鳥越慶三郎(2020)『倭人倭国伝全釈』KADOKAWA
  2. 石原道博編訳(1951)『新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝』岩波書店
  3. 西谷正(2002)「首長墓から王墓へ」毎日新聞2002年8月2日、夕刊
  4. 西谷正(2009)『魏志倭人伝の考古学』学生社

親魏倭王2025年04月15日 00:06

親魏倭王(しんぎわおう)は3世紀の倭国王である卑弥呼が中国の魏から得た称号である。

概要

239年(景初3年)6月、倭国王の卑弥呼は帯方郡を通じて、魏に使者を派遣した。 同年12月、魏の皇帝は卑弥呼に「親魏倭王」の称号を与え、金印紫綬を仮授した。 「親魏」とは、魏に友好的なという意味である。 魏の時代に「親魏○王」の称号が与えられたのは、他には「親大月氏王」のみである。 当時において、存在した高句麗、弁韓、馬韓、辰韓には与えられていない。 「親魏○王」は国内には与えられず、中国の外部(外夷)の王に対して与えるものであった。 中国王朝の世界観は中華思想であり、それは中華と夷狄を分別する考え方である。中華では礼が行われ、夷狄は礼を知らない。しかし、夷狄が来朝することは、中国皇帝の徳を証明するものと考えられていた。遠方の夷狄であるほど、中国皇帝の徳が高いことを証明する。 邪馬台国は1万二千余里の遠方にあるから、中華思想においては最も遠方の夷狄となる。

大月氏国の位置

『三国志』(魏書三/明帝紀第三)の三年十二月記事に「月氏王波調遣使奉獻、以調爲親魏大月氏王」と書かれる。大月氏の都は変遷が何度かあるが、現在のウズベキスタン スルハンダリヤ州が最終的な場所である。 『魏書』(北魏書)列伝第九十に「大月氏国、都盧監氏城在弗敵沙西,去代一萬四千五百里。」と書かれる。つまり、北魏の首都の「代」から1万4000里の距離にあり、都は盧監氏城にあると書かれる。1万二千余里の邪馬台国と同様に遠方にあると認識されていた。

考察

しかし北魏の時代と魏の時代とでは、大月氏は同じ場所ではなかった可能性がある。中国の洛陽からの距離は邪馬台国より遙かに遠い。そこが1万4000里なのであるから、邪馬台国の1万二千余里が実際の距離ではなかったことが裏付けられる。

参考文献

  1. 石原道博編訳(1951)『新訂魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝』岩波書店
  2. 西嶋定生(1994)『邪馬台国と倭国』吉川弘文館