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邪馬台国2024年12月31日 00:45

邪馬台国

邪馬台国 (やまたいこく、やまとのくに)は、『魏志倭人伝』に記載された倭国の国のひとつである。

概要
『魏志倭人伝』によれば、邪馬台国が当時の倭国の盟主であったとする。邪馬台国に倭の女王である卑弥呼の宮室があったとされる。二世紀後半から三世紀半ばまで女王卑弥呼が統治していた。約30の国からなる倭国連合の女王として邪馬台国に卑弥呼は居住していた。卑弥呼の没後はその宗女で十三歳の壱与(台与)が王になった。

邪馬台国の政治力
魏志倭人伝には対馬国、一支国(壱岐国)、伊都国、末盧国はすべて女王国に従うとされている(「皆統屬女王國」)。邪馬台国は統治のための官僚を現地に派遣している。邪馬台国には7万余戸の人口があり、国の以北(方位は不正確の可能性あり)にある諸国を検察するため伊都国に常駐していた一大率という官を特置し諸国はこれを畏憚していた。対馬国には官として卑狗(ヒコ)、副官として卑奴母離(ヒナモリ、夷守)を派遣していた。不弥国にも長官として多摸、副官としては卑奴母離を派遣していた。投馬国にも長官の弥弥、副官弥弥那利(ミミナリ)を派遣していた。邪馬台国には長官の伊支馬、副官の彌馬升、さらに彌馬獲支、奴佳鞮を置いた。官僚機構が各所に整備されている。
卑弥呼は専制君主ではないものの、相当な政治力を持っていたようにみえる。

邪馬台国の統治機構

国名 大官 副官 戸数
対馬国 卑狗 卑奴母離 1000余戸
一支国 卑狗 卑奴母離 3000家
末盧国 不明 不明 4000余戸
伊都国 爾支 泄謨觚・柄渠觚 1000余戸
奴国 兕馬觚 卑奴母離 20000余戸
不彌国 多模 卑奴母離 1000余戸
投馬国 彌彌 彌彌那利 50000余戸
邪馬台国 伊支馬 彌馬升 7万余戸

邪馬台国の所在地論争
邪馬台国の所在地論争は明治以来、今日まで続いている。主な説に九州説と畿内説とがあり、それぞれ邪馬台国の比定場所が異なる。

邪馬台国に至る行程は次の通りである。 -帯方郡から女王国まで一万二千里。帯方郡から韓国(馬韓)を経て狗邪韓国に至る。海を渡り対馬国につく、さらに海を渡り、一大国(一支国・壱岐)につく。そこから海を渡り末廬国につく。末廬国から東南に陸行して五百里で伊都国につく。東南の奴国までは百里。東行して不弥国まで百里。南へ水行二十日で投馬国に至る。南へ水行十日・陸行一月。邪馬台国(邪馬壹国)に至る。
「魏志倭人伝」の行程の距離と方角をそのまま読むと、日本の南方に海の中になってしまう。したがって、方角または距離が正しくないことは明白である。 邪馬台国の所在地に関しては古くから論争がある。日本古代国家の起源や大和政権の起源を考えるうえで、その位置は重要である。そこで所在地候補には多数が挙げられているが、両説の得失を比較してみる。
比較項目 畿内説 九州説 備考
距離 × 放射式説あり
方位 × 伊都国の南とされる
遺跡 × 九州に3世紀の有力な遺跡はない
古墳 × 九州に3世紀の有力な古墳はない
規模7万戸 × 九州に邪馬台国7万余戸相当の遺跡はない
近畿説の課題
坂靖(2021、p.44)は近畿説の課題として、(1)纏向遺跡の規模が北部九州、大阪湾岸の規模と比較して小さいこと、(2)楽浪系土器が纏向遺跡から出土していないこと、の2つを挙げた。
しかし、1点目について寺澤薫(2024)は出現期の纏向遺跡の規模は東西約2km、南北1.5kmと同時期の池上曽根遺跡(大阪湾岸)、板付遺跡(北部九州、環濠は東西約80m、南北約110m)に比べて大きいと主張している(寺澤薫(2024、p.67))。
2点目は楽浪系土器の出土の有無が邪馬台国の判定要因ではないと指摘できる。なぜなら、魏から邪馬台国の使者が来たのは、全部合わせても3回であり、楽浪系土器は魏の使者の経路ではない遺跡からも出土しているので、楽浪系土器の出土は判定要因にはならないと考える。また楽浪郡は314年まで存続したが、卑弥呼が献使したのは帯方郡であり、楽浪郡ではない。238年に魏が公孫氏を滅ぼしたその翌年に卑弥呼が献使したのである。すなわち公孫氏が支配してる間は献使していないのだから、公孫氏とは良好な関係を築いていなかったと考えられる。
邪馬台国の方角
邪馬台国近畿説の唯一の欠点は「方角」である、この原因は当時の中国の地理感が影響しているとみられる。渡邊義浩(2012、)は「陳壽が観念する邪馬台国は会稽郡東冶県の東方海上に位置付けられる」としている。その原因を2つ挙げている。室賀信夫(1956)を引用して、裴秀は当時としては精巧な地図である『禹貢地域図』とそれを縮小した『地形方丈図』を作ったとされる。そこに倭国が描かれていたと推測されている。『地形方丈図』は唐代まで伝えられていた。そこには倭国は会稽郡東冶県の東方海上に描かれていたと推測されている。
次になぜ陳壽が倭国を会稽郡東冶県の東方海上としたかは、政治的な理由が考えられている。当時の中国は魏・呉・蜀の3国鼎立時代であった。陳壽は魏の後継政権である斉の役人であったから、呉の背後にある倭国は戦略的な価値が大きいと認識していた。従って陳壽が『三国志』を執筆するときの種本とした『魏略』より倭国に南方的な要素を追加している。呉に対抗できる南の国として倭国を描いているから、倭国の国の人口、距離、方角は操作されているとみなければならない。したがって『魏志倭人伝』から邪馬台国の位置を定めることは不可能とみなければならない。
邪馬台国に致る距離
『魏志倭人伝』には帯方郡から邪馬台国までの距離を帯方郡から1万二千余里と書く。これは直接的には『魏略』の数字を用いたが、これは大月氏国(クシャーナ朝ヴァースデーヴァー王)との釣り合いで等距離に観念的に位置付けられたものである(渡邊義浩(2012、p.133))。大月氏国は「親魏大月氏王」と卑弥呼の「親魏倭王」と同等に対置されている。 当時は、遠くの国から使者が来訪することは、天子の徳を慕って来ることという理念があった。つまり遠ければ遠いほど皇帝の徳が高くなり、政治的な威信が高まる。それゆえ、一万二千余里は実際の距離ではなく、当時の世界観による観念的な数字である(渡邊義浩(2012、p.124))。当時の中国では『礼記』王政編の王政九州から『周礼』の方一万里の世界が観念されていた。中心に王畿があり、次に(1)侯服、(2)甸服、(3)男服、(4)采服、(5)衛服(ここまで中国)、その外側に夷狄があり、(6)蛮服、(7)夷服、(8)鎭服、(9)藩服の九服が定められていた。(6)以下が夷狄の居住地域である。その外側に荒域がある。帯方郡から狗邪韓国までの七千里は(5)衛服の範囲である。対馬国から一支国まで千里、伊都国から奴国まで百里、奴国から不弥国まで百里、不弥国から投馬国を「水行二十日」、投馬国から邪馬台国を「水行二十日、陸行一月」として合計一万二千余里とした。つまり、不弥国以降の距離を書かないのは、合計一万二千余里に収めるためであった。
纏向遺跡の土器の集積
纏向遺跡には列島の各地から人とモノが集まっている。九州の土器はほとんどない。土器の集中と移動は邪馬台国と関係があるとみてよい。邪馬台国の時代は九州より畿内が中心となっている。纏向で発見された宮殿と思われる遺構が庄内3式期のものとすれば、卑弥呼の時代と一致する。方位を一致させている建物の計画性や柵に注目される(大塚初重(2021),p.173-176)。纏向に土器の移動と集中がみられることは邪馬台国の条件を備えている。北部九州で列島の各地から土器が集中する遺跡は見当たらない。
鉄器の出土
九州説に有利な考古学的根拠は鉄器の出土数が大和を圧倒しているということを安本美典等が主張する。これについて大塚初重は3点の検討課題を挙げる。第一に九州では緊急の墳墓調査が日本海沿岸で行われているが、大和では墳丘墓の発掘があまり行われていないこと、第二に土壌の性質の違いである。シルト状の粘土質の土壌と、北部九州のような花崗岩地質の土壌とでは鉄器の遺物の保存が全く異なる(大塚初重(2021),p.94-96)。第三に大阪湾湾岸の遺跡からは鉄の遺物の出土がかなり多い。鉄が残りにくいという土壌を考慮すると、鉄器の出土数で邪馬台国近畿説は成り立たないという主張は慎重にする必要があると述べる。
しかし、3世紀中頃の前方後円墳である奈良県桜井市のホケノ山古墳からは素環頭大刀、鉄剣、鉄鏃、鉄製農工具類が出土している。また黒塚古墳からも鉄刀、鉄剣、刀子、U字形鉄器、小札革綴冑、鉄鏃が出土している。埋葬条件が良い場合(埋葬方法が適切で、盗掘被害などがない場合)は鉄器が出土しているので、鉄器が全くないわけではない。結果的に出土した数量だけでいうのは、問題である。
九州説の課題
大塚初重は「邪馬台国九州説の一番の弱点は、これといった卑弥呼の墓の候補は九州内で見当たらないことであろう」と述べる(大塚初重(2021),p.103)。かっては卑弥呼の墓の候補として平原王墓(平原遺跡)を考える研究者がいたが、現在はいないようである。渡邊義浩(2012)は、「2世紀の北部九州の弥生遺跡の優位性が、3世紀に入ると失われる」と書いている。
国制(刺吏と司隷校慰部)
当時の中国の国制では、中央に司隷校慰部を設置し、地方に刺吏を置く。伊都国には一大率が置かれ、刺吏がいたと書かれる(自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史)。刺吏がいたということは、すなわち中央(首都圏)ではないことになる(渡邊義浩(2012、p.156))。渡邊義浩は文意解釈から邪馬台国は九州にはないことが証明できるとする。
放射説と短里説
九州説の距離の克服解消法として、放射説と短里説とがある。
放射説
放射説は白鳥庫吉の弟子の榎一雄が提唱した説である。行程のうち伊都国以後は伊都国を起点としてそれ以後の国々への行路が書かれているとする説である。邪馬台国が九州にあったという結論ありきで、読み替える説である。末蘆国から一大率という女王国の入口である伊都国に入り、その先は奴国、不弥国、投馬国、邪馬台国へと順次移動する記述になっているのが、これを、伊都国を中心として放射状に記述しているとする。>
榎は「新唐書」「地理志」に引かれている「賈耽」の記述を参考にしている。しかし、倭人伝の原文を素直に読めば、伊都国以後だけを放射状に読むのは、無理な解釈にみえる。なぜなら、放射状に読むためには起点の伊都国まで戻る行程となるから、なぜ、毎回伊都国まで戻るのかを明快に説明することができない。
また榎一雄の邪馬台国比定地は、筑紫平野の御井である。現在は、福岡県久留米市に属する地域である。それまでの九州説論者が比定した福岡県山門郡では、人口扶養力がないと判断した結果である。伊都国を福岡県糸島市に比定し、邪馬台国まで南へ水行10日、陸行1月となる地点であるはずが、糸島から御井までの距離は100km足らずであるから条件に合わない。
短里説
次に短里説である。当時の中国の一里は414mであったが、古田武彦は魏志倭人伝の里程記事は「短里」で書かれていると主張し、1里が約 76~77mの「短離説」を唱える。しかし、これは成り立たない。詳しくは「短里説」の項を参照されたい。

女王国と邪馬台国は同一か
魏志倭人伝に対馬国、一支国(壱岐国)、伊都国、末盧国]はすべて女王国に従うとされる(統屬女王國」)。この表現では投馬国や不弥国は女王国に従っていないとも読める。しかし翰苑が引用する『魏略』逸文では伊都国の後に、「其の国王は皆女王に属する(其国王皆属女王也)」と記載する(石原道博編訳(1985))。すなわちオリジナルの『三国志』は対馬国、一支国(壱岐国)、伊都国、末盧国、伊都国の全部が女王に従うと書かれていたと推察される。これらの文脈からすれば邪馬台国は女王に統治されているので、女王国と邪馬台国は同一であると解釈できる。

邪馬台国か邪馬一国か
古田武彦は邪馬台国ではなく「邪馬一(壹)国」が正しいと主張する(古田武彦(1977))。確かに魏志倭人伝に「南至邪馬壹國 女王之所都」と書かれている。理由を次の様にまとめている(古田武彦(1992)。
1.現在残る『三国志』の版本はすべて「邪馬一(壹)国」である。
2.三世紀の魏晋朝で「臺」は魏朝の王宮またはそれに準ずる王宮にしか使われない「至高の文字」である。
3.「臺」(台)と「壹」(一)の字形は似ていない。
4.「邪馬壹国」表記に裴松之は何も注釈を残していない。
これに対して山尾幸久は「邪馬臺国(邪馬台国)」の表記が正しいとする(山尾幸久(1986))。その理由は次の通りである。>
1.「邪馬壹国」は11世紀初頭の北宋版で誤刻された表記である。
2.4世紀初頭から10世紀末までに執筆された諸本がすべて邪馬臺国となっている。
4.983年に成立した『太平御覧』が引用する『魏志』でも臺となっている。
5.『三国志』の最古の版本は紹興年間(1131-1162)のもので、これが現存する(南宋本)。宮内庁に現存する版本は巻4以降が残されている。しかしこれより古い写本は存在しない。 残されている刊行本は南宋本を踏襲したものである。
4世紀初頭から10世紀末までに執筆された諸本には、5世紀前半に書かれた『後漢書』、636年に完成した『梁書』諸夷伝などがある(石原道博編訳(1985))。石原道博編訳(1985)は『後漢書』の影印を掲載する。
すなわち『三国志』の南宋本より古い版本がすべて「臺」(台)になっているから、南宋本が印刷時に間違ったと考える方が合理的である。>
したがって結論として「邪馬一(壹)国」が正しいとする説は成り立たないと考える。>

里程と距離、遺跡の検討
帯方郡から邪馬台国への行程記事では帯方郡から狗邪韓国を経て1000余里を渡海して対馬国に至り、また南へ千余里渡海して一大国に至る。さらに千余里渡海して末盧国に至る。そこから東南へ五百里陸行して伊都国に至り、また東南の奴国へ百里、東行して不弥国に百里、南の投馬国へは水行二十日、南の邪馬台国へ水行十日、陸行一月で到達すると書かれる。各国を否定するにはそれぞれ3世紀代の遺跡と対応させる必要がある。以下に各国を遺跡・王墓と対応させる。

比定集落遺跡と王墓                                                 
国名 集落遺跡 王墓 現在の地名
狗邪韓国 金海貝塚 大成洞古墳 慶尚南道・金海市
対馬国 三根遺跡 下ガヤノキ遺跡 長崎県対馬市|
一支国 原の辻遺跡 原の辻遺跡 長崎県壱岐市
末盧国 菜畑遺跡、宇木汲田遺跡 桜馬場遺跡、中原遺跡 佐賀県唐津市
伊都国 三雲・井原遺跡 平原遺跡 福岡県糸島市
奴国 那珂遺跡群 須玖岡本遺跡福岡県春日市
不弥国 江辻遺跡 馬渡・束ヶ浦遺跡福岡県古賀市
投馬国 上東遺跡 楯築遺跡岡山県倉敷市
邪馬台国 纏向遺跡 箸墓古墳奈良県桜井市
狗奴国 一宮八王子遺跡 象鼻山古墳愛知県一宮市


参考文献
1.鳥越慶三郎(2020)『倭人倭国伝全釈』KADOKAWAM
2.石原道博編訳(1951)『新訂魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝』岩波書店
3.西谷正(2009)『魏志倭人伝の考古学』学生社
4.古田武彦(2014)「筑後国の風土記にみえる荒ぶる神をおさめた女王か?」歴史読本、KADOKAWA
5.古田武彦・谷本茂(1994)は『古代史のゆがみを正す』新泉社
6.古田武彦(1992)『「邪馬台国」はなかった』朝日新聞
7.古田武彦(1977)「邪馬台国九州説10の知識」『歴史読本』新人物往来社
8.山尾幸久(1986)『魏志倭人伝』講談社
9.藪田嘉一郎 編訳注(1969)『中国古尺集説』綜芸舎
10.石原道博編訳(1985)『新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝: 中国正史日本伝 1』岩波書店
11.大塚初重(2021)『邪馬台国をとらえなおす』講談社
12.坂靖(2021)『倭国の古代学』新泉社
13.寺澤薫(2024)『卑弥呼とヤマト王権』中央公論新社>
14.渡邊義浩(2012)『魏志倭人伝の謎を解く』中央公論新社>

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