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景初2年・3年問題2024年09月29日 00:23

景初2年・3年問題(けいしょにねんさんねんもんだい)は邪馬台国の卑弥呼が献使を送り、その使者が帯方郡に到着した時期(年)に関する論争である。

概要

『魏志倭人伝』には「景初二年(238年)六月、倭の女王(卑弥呼)は、大夫の難升米等を派遣して帯方郡に到着し、天子にお目通りして献上品をささげたいと申請した。帯方郡太守の劉夏は官吏を派遣し、難升米等を京都(洛陽)まで引率して送りとどけさせた」と書かれる。この景初二年(238年)は景初三年(239年)の誤りとするのが通説である。 239年(景初3年)1月に魏の明帝は死去したから、景初三年とすると当時8歳の新皇帝(曹芳)が謁見したことになる。

景初三年(239年)の根拠

卑弥呼の最初の献使は景初三年(239年)であったとする学会の学会の通説とされる。 理由は次の3点である。

  1. 梁書に景初三年と書かれる。
  2. 日本書紀に景初三年と書かれる。
  3. 景初二年では公孫淵が存命であり、その時点で倭の使者は洛陽に行けない。
  4. 景初二年は戦乱が激しく通行できないとする。

梁書

『梁書』は「景初三年に公孫淵が滅びて後、卑弥呼が遣使した」(至魏景初三年公孫淵誅後卑弥呼始献使朝貢)と書く(石原道博(1985)l巻末影刻)。

日本書紀

『日本書紀』神功三十九年記事に「是の年太歳己羊。魏志に曰く、明帝の景初三年の六月倭の女王(卑弥呼)、大夫難斗米等を遣わして、郡(帯方郡)に詣りて、天子に詣らむことを求めて朝献する」と書かれる。『日本書紀』記載の太歳己羊は景初三年と整合する。 『日本書紀』が引く『魏書』は『魏志倭人伝』の宋の版本の刊行よりはるかに古いから、その記述の方が正確とも見られる。

公孫淵の障壁説

魏から独立した勢力として楽浪郡・帯方郡を支配していた公孫淵が滅びていないから、その時点では洛陽に使者は到達できないとするのが一般的理解とされる。 鳥越憲三郎(2020:p.129-130)は「公孫淵の父子を誅殺したのが景初二年八月である。それ以前の六月に帯方郡の役所に行くことは絶対に不可能であった」とする。倭の献使は景初三年六月に皇帝への謁見を願い出て、郡の太守が役人を洛陽に行かせて願い出て、倭国の使者を同行することの許可を得て、郡に帰り太守に報告する。太守は倭の使者と同行者を伴い、洛陽に上京する。そこまで五ヶ月を要した。この時系列で、最初を景初二年とすると間が1年5ヵ月となるので間が開きすぎるとする。

戦乱説

佐伯有清(2000)は慶元版の『太平御覧』の『魏志』に「景初三年、公孫淵死す。倭の女王、大夫難升米等を遣わして、帯方郡に言せしめ天子に詣りて朝貢せんことを求む」とあり、『日本書紀』記事と合わせると、『魏志』の記載は「景初三年」であったとみられる事を挙げる。ただし『太平御覧』の景初三年は二年の誤りと指摘する。景初二年六月に公孫淵を撃つため司馬懿の4万余の軍が遼東に到達し、公孫淵は遼隧の軍を撤退させ、都の守備に当たらせたが、防戦一方となり敗退を繰り返して、司馬懿に襄平を包囲された。公孫淵は人質を出して和睦しようと画策するが、司馬懿は許さず公孫淵を捕えて処刑した。『魏志』公孫淵に「遼東、帯方、楽浪、玄莬、悉く平らぐ」と書かれる。佐伯有清(2000)は「そうした混乱の中で、倭の女王卑弥呼が帯方郡に使者を派遣し、さらに魏の皇帝のもとに朝貢しようとしたことは、景初二年六月の時点ではありえない」とする。

岩波本

石原道博(1985)は「景初三年の誤」と書き、『日本書紀』所収の『魏志』と『梁書』の記載を根拠とする。

景初二年(238年)の根拠

  1. 三国志は景初二年と書いている
  2. 海路を取れば戦乱に巻き込まれる危険は少ない
  3. 景初二年でも前後関係は不自然ではない

陳壽の書き改め説

オリジナルの『魏志』の記載は「景初三年」であったが『三国志』の編纂過程で陳壽が原史料を精査し、景初二年に書き改めた可能性が考えられる。

水野説

水野祐(1982)は戦乱で通行できるかどうかを判断していないが、『晋書』の記載から景初二年説を主張する。「景初二年に(倭国の遣使は)明帝に謁見し、帯方郡に戻った。それは(景初三年)三月か四月のことであろう」とする。「景初二年を正しいとする根拠は当時の海上交通を検討しなければならない」とし、倭国から魏への通交は不可能ではなかったとする。魏が楽浪・帯方2郡の奪回のため水軍を編成したのは景初元年七月であった。韓諸国が遼東の楽浪公との関係を切り、帯方太守を介して魏との関係を結んだのは公孫淵滅亡の景初二年八月以前とする。倭も同時期に韓諸国と同様に帯方太守との修好を結んだから通交は可能であった。倭の一行は景初二年十一月までに洛陽に入り、明帝に謁見した。魏の皇帝と修好を結ぶため、媒介となる使訳に優秀なものがおり、東アジア情勢に通暁しており、正副の使節を郡の太守は丁重に送り届けた。景初三年は一月に35歳の明帝が崩御し、服喪期間は1年あったから、景初三年中に公式行事を行えたかどうかが問題となる。

  1. 景初二年六月 卑弥呼、使を派遣
  2. 景初二年七月から八月 楽浪・帯方戦乱、公孫淵滅亡
  3. 景初二年十二月はじめ 倭使明帝に謁見、十二月中に帯方に向かう
  4. 景初三年正月 明帝崩御
  5. 景初三年三月頃 倭使帯方郡に帰着する。
  6. 景初三年五月頃 倭使は倭国に帰着する。
  7. 景初三年七月 斉王芳、はじめて臨朝
  8. 景初三年八月まで 帯方太守は劉夏から弓 遵となる。
  9. 景初三年九月ころ 帯方太守弓遵は、郡使を倭国に派遣する。
  10. 景初三年十二月ころ 倭使女王の答礼の上表文を持参し、帯方郡に向かう。
  11. 正始元年正月 帯方太守弓遵に答謝の上表文を呈す。

考察

水野祐(1982)はかなり詳細に論じており、説得力がある。景初二年も有力と考え直す。

原文

  • (魏志倭人伝)景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝獻、太守劉夏遣吏、將送詣京都。
  • (梁書)至魏景初三年,公孫淵誅後,卑彌呼始遣使朝貢
  • (日本書紀 巻第九 氣長足姫尊 卅九年)魏志云「明帝景初三年六月、倭女王、遣大夫難斗米等、詣郡、求詣天子朝獻。太守鄧夏、遣吏將送詣京都也。

参考文献

  1. 石原道博(1985)『新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝』岩波書店
  2. 鳥越憲三郎(2020)『倭人・倭国伝全釈』KADOKAWA
  3. 佐伯有清(2000)『魏志倭人伝を読む (上下)』吉川弘文館
  4. 水野祐(1982)『評釈 魏志倭人伝』雄山閣
  5. 新・私の本棚 前田 晴人 「纒向学研究」 第7号『「大市」の首長会盟と…』1/4 補充

邪馬台国への使者2024年09月27日 00:08

邪馬台国への使者(やまたいこくへのししゃ)は魏が3世紀に邪馬台国へ派遣した使者である。

概要

正始元年(240年)に派遣された梯儁は魏王朝から倭国への初めての公式の使者であった。 ここで、梯儁は倭国のどこまできたかが論争になっている。2説がある。

  1. 伊都国まで説
  2. 邪馬台国まで説

伊都国まで説

伊都国説の論拠は次の通りである。

  1. 不弥国までは里数表示であるが、不弥国以降は日数に変化する。
  2. 旅行の見聞は奴国までは書かれているが、不弥国以降は書かれていない。

邪馬台国まで説

  1. 皇帝からの預かりものは倭王に直接渡すのが決まりである。
  2. 旅行の見聞の精粗は旅程と関係ない。
  3. 『魏志倭人伝』に倭王に面会したと書かれている。(「拝化」記事を参照)
  • 『春秋』には「肅慎東北夷之國去扶餘千里」(扶餘國から肅慎國まで千里)と書かれる。また『晉書四夷傳』には「肅慎氏一名挹婁在不咸山北去夫餘可六十日行」(「扶餘國から肅慎國まで六十日」)と書かれる。ここからら里数表示が実際に行った場所で、日数は言っていない場所であるとは断言できない。
  • 旅行の見聞の書きぶりが異なることは実際に行っていないことの証明にはならない。梯儁が倭国での見聞を詳しく書いたかどうかは分からないからである。陳壽が梯儁の報告(旅程記事)に他の報告をまぜた可能性もあろう。
  • 『魏志倭人伝』に倭王に面会(拜假倭王)したと思われる記事があることは重要である。 皇帝の勅書を倭王に渡さず、他人に渡すだろうかという疑問がある。
  • 大場脩(1971)は贈与する品物は倭の使者に持たせるが、印綬は魏の官吏に持たせている。印綬と贈与の品物とでは扱いが異なるとを指摘している。その理由を、もし難升米や牛利が印綬を横取りするとその人物が親魏倭王になってしまうから不都合であると指摘する。したがって梯儁は皇帝の詔の趣旨にしたがって、伝達の責任を果たさなければならないとする。つまり魏の使者が伊都国に留まって女 王のもとには行かないという考え方は承認できないと大場脩(1971)は判断する。

考察

上記のように「伊都国まで説」は根拠が乏しく、「邪馬台国まで説」に理があると考える。 皇帝の勅書と印綬を途中で倭王の代理人に渡す事はあり得ないし、倭王に面会した記事があるのだから、梯儁は邪馬台国まで行ったと判断する。他の国への派遣記事の事例があると補強になる。

参考文献

  1. 佐藤進・濱口富士雄(2011)『漢辞海』第三版、三省堂
  2. 石原道博編訳(1951)『新訂魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝』岩波書店<br>
  3. 藤堂明保他(2010)『倭国伝』講談社
  4. 大場脩(1971)『親魏倭王』学生社

拝化2024年09月25日 08:42

拝化(はいか)は皇帝など権威者の代理人(使者)が面会するという意味である。

概要

「拝化」の解釈は魏の使者が倭王(卑弥呼)に面会したかどうかに関わる重要な部分である。 したがって、正確に解釈しなければならない、 『魏志倭人伝』の原文に「拝化」は2個所に登場するため、両者で同じ意味として解釈する必要がある。

  • (A)正始元年、太守弓遵遣建中校尉梯儁等、奉詔書印綬、詣倭國、拜假倭王、并齎詔、賜金帛・錦・刀・鏡・采物。
  • (B)遣塞曹掾史張政等、因齎詔書・黄幢、拜假難升米、爲檄告喩之。

読み下し

Aの読み下しは、「正始元年、大守弓遵、建中校尉梯儁等を遣わし、詔書、印綬を奉じて、倭国に詣り、倭王に拝仮し、ならびに詔を齎し、金帛、錦、ケイ、刀、鏡、采物を賜う」である、つまり弓遵と梯儁が倭国に来て、倭王に「拝化」した。 Bの読み下しは、「塞曹掾史の張政等を遣わし、因りて詔書、黄幢を齎し、難升米に拝仮し、檄を為りて之に告喩せしむ」である。つまり、張政が皇帝に代理として、難升米に拝仮した。

岩波(1951)訳

  • (A)正始元年(240)、大守弓遵は建中校尉梯儁等を遣わし、詔書、印綬を奉じて倭国に行き、倭王に拝仮して、詔をもたらし、金帛、錦、ケイ、刀、鏡、采物を賜わった。
  • (B)塞曹掾史張政らを遣わし、詔書と黄幢をもたらし、難升米に仮に授けて檄を作り、告喩した。

倭人伝(2010)訳

  • (A)正始元年、帯方郡の太守弓遵は建中校尉梯儁らを遣わして、詔と印綬を、倭の國に持って行かせ、倭王に任命した。
  • (B)帯方郡の太守は塞曹掾史張政らを遣わし、彼に託して詔書と黄色い垂れ幕持って行かせて難升米に与えて、お触れを書いて卑弥呼を諭した。

考察

魏志倭人伝に書かれる2個所の「拝化」の意味を統一的に解釈するためには、「拝」を任命した、あるいは、拝んだ(頭を下げた)という意味とするなら無理がある。

  1. 「拝假倭王」
  2. 「拜假難升米」

「拝」

「拝仮」=「拝」+「仮」である。 「拝」には複数の意味がある、(1)ひざまずいてぬかずく、(2)礼節を持って面会する、(3)謝礼をする、(4)任命する、(5)謹んで受ける、(6)たてまつる、(6)引き抜く、などである(『漢辞海』)。 ここでは「礼節を持って面会する」という意味と解釈できる。「ひざまずいてぬかずく」では、上位者の梯儁が難升米にひざまずいたことになり、都合が悪い。任命する意味では、「拝假倭王」は解釈できても、「拜假難升米」は解釈できない。「難升米を任命した」では何に任命したかについて書かれていないからである。 「○○に任命する」の○○がなければならないが、「拜假難升米」ではその○○がないから、当てはまらない。また梯儁が来る前の景初3年(239年)に卑弥呼は倭王に任命されており、「親魏倭王」とされている。翌年の正始元年(240年)に改めて倭王に任命するのは前後関係として重複する。

「仮」

「仮」にも様々な意味があるが、形容詞としては(1)代理の、暫定的な、(2)非公式の、(3)でたらめな、という意味がある。 ここでは代理という意味に解釈できる。皇帝の代理として「拝」をしたという意味である。 つまり、「拝假倭王」は倭王に明帝の代理として礼節を持って面会した、で意味が通じる。「拜假難升米」は張政らが詔書・黄幢をさずけながら、礼節を持って難升米に面会し、檄を執筆し、告喩したという意味と解釈したい。

参考文献

  1. 佐藤進・濱口富士雄(2011)『漢辞海』第三版、三省堂
  2. 石原道博編訳(1951)『新訂魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝』岩波書店<br>
  3. 藤堂明保他(2010)『倭国伝』講談社

倭国乱2024年07月12日 00:06

倭国乱(わこくらん, Civil War of Wa)は弥生時代における倭国の内戦である。

概要

中国史書「魏志倭人伝」には「男王がいたとき(は平和だったが)70年から80年後に倭国で戦乱が起きた」と書かれている。 都出比呂志は倭国の戦乱は2回あったと考えている(石野博信(1987))。「弥生時代の中頃の時期、後期の時期にピークがあると思います」「弥生後期の高地性集落に対応する乱が中国の史料に記されている」と考えている。前者の「弥生時代中頃の乱」は、中国史料には書かれていないと指摘する。これは弥生時代の第三様式と第四様式の時代であり、年代としては1世紀に当たるとする。石野博信は第三様式は紀元前100年から紀元前後まで、第四様式は紀元前後から紀元後50年前後とする(同前)。 高地性集落の分布範囲は瀬戸内海の沿岸から、近畿地方の中心部までである(同前)。 弥生時代の環濠集落は太平洋岸では関東地方まで、西は鳥取県倉吉市後中尾、北は新潟県長岡市横山遺跡まで広がる(佐原真(1992))。 倭国乱の検討課題としては次がある。

  1. 倭国乱の戦乱の証拠はあるか
  2. 倭国乱の地理的範囲、戦乱の規模はどうであったか
  3. 倭国乱はいつあったか
  4. 倭国乱の原因は何か
  5. 倭国乱は如何にして収束したか

倭国乱の証拠

佐原真は倭国に戦いがあった証拠とするる六つの要素(壕をめぐらせたムラ・丘の上のムラ,武器,戦いの犠牲者,武器をそえた墓,武器崇拝,戦いを表した造形作品)を挙げている。

  • 壕をめぐらせたムラ - 環濠集落を指す。
  • 丘の上のムラ 高地性集落を指す。
  • 武器

戦乱を示す武器には青銅の剣・戈・矛、石剣、鉄製の剣・鉄戈、鉄の矢尻(鏃)などがある。

  • 戦いの犠牲者

新町遺跡(福岡県志摩町)で長い矢尻の先が骨に刺さって亡くなった埋葬者、福岡市吉武高木遺跡の犠牲者、玉津田中遺跡(兵庫)、勝部遺跡(大阪)、土井ヶ浜(山口)などがある。青谷上寺地遺跡の109体の人骨も倭国乱の戦死者とみる見解もある。新町遺跡の戦死者は日本最古の戦乱の犠牲者とされる(国立歴史民俗博物館(1996))。

  • 武器をそえた墓

須玖岡本遺跡出土の銅剣、吉野ヶ里遺跡(佐賀県)から出土した8基の甕棺から把頭飾付き有柄細形銅剣を含む銅剣8本が挙げられる。

  • 武器崇拝

象徴化した非実用武器として巨大化した実用的でない銅矛、武器形祭器は武威崇拝の祭祀に用いられる。

  • 戦いを表した造形作品

東大寺山古墳(奈良県)の銅鐸に描かれた戦士、平野遺跡(柏原市)の盾を持つ戦士などがある。

男王とは

後漢王朝の初代皇帝「光武帝」が「(建武(中元)二年春正月)東夷倭奴國王遣使奉獻)」(光武帝紀)(AD57年の正月に東夷の倭の奴國王が献使した)「建武中元二年,倭奴國奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭國之極南界也。光武賜以印綬。(東夷列傳)」(倭奴國は朝賀に列席し、使いの者は大夫を称する。倭奴國は倭国の極南界である。光武帝は謁見し印綬を与えた) と書かれる。倭国の使者は光武帝の正月の朝見に列席したのであろう。光武帝はその年の2月に死去している。 孝安帝紀に「(永初元年)冬十月,倭國遣使奉獻」と書かれ、「安帝永初元年,倭國王帥升等獻生口百六十人,願請見。(東夷列傳)」(永初元年AD107年、倭國王の帥升らは生口百六十人を献上して。謁見を請うた)と書かれる。57年と107年は同じ奴國であろう。 倭國王の帥升がいつ亡くなったかは分からない。AD110年頃になくなったとすれば、そこから約70年後に戦乱となり、180年頃から185年頃まで戦乱が続き、これが倭国乱の時期ではなかったろうか。その後卑弥呼が共立された。つまり魏志倭人伝のいう「男王」とは後漢書の倭國王帥升と同じ人物かその後継者が想定できる。この倭国は九州北部の奴国を中心とする勢力と考えられる。 山尾幸久は筑紫政権(九州政権)が最も栄えたのは、1世紀後半から2世紀前半にかけてと考えている(山尾幸久(1986))。 倭奴國が九州政権であり、卑弥呼が近畿であったとすると、倭国乱の間に政権の場所が移動したことになる。両者が九州なら九州内の戦乱で政権が移動したと想定できる。

倭国乱の地理的範囲、戦乱の規模

春成秀爾によると「畿内では墓から石鏃や剣が刺さった例が出るが、すべて畿内の武器が畿内の人間に刺さっている」「九州地方で同じように鉄の矢じりや銅剣の先、あるいは銅鏃が刺さった例があるが、これも九州の武器が九州の人間に刺さっている」(参考文献1,p.54)。ゆえに弥生の戦乱は局地戦であって九州あるいは畿内の集団間の闘争と評価できるという。大規模な九州対畿内の戦いの証拠はないとする。この時代ではまだ全国的な戦さをする動員力は政権になかったと解釈されている。 石野博信は争乱に関わったのは、近畿弥生社会と考える(参考文献1,p.134)。一方、都出比呂志は近畿弥生社会と九州弥生社会との間の争乱と考える。「後期の段階において近畿地方だけでなく、瀬戸内海の西の端までを包み込むような一つの戦闘状態、緊張関係があったと考える」(参考文献1,p.90-91)。

戦乱の時期

弥生後期の乱は、中国史書(三国史)に記載され、時期は2世紀の終わりから3世紀の初めに相当する。 石部正志は「弥生時代の終わりにいくつかの原始共同体を統合した首長が特定の役割を果たし、階級社会が始まり、副葬品をもつ墓が登場する」としている(参考文献1,p.49)。 弥生時代の終わりころは高地性集落が近畿地方に集約されるようになる(参考文献1,p.76)。大型古墳が登場するための前提としての争乱が近畿地方であったことが想定できる。 石部正志は争乱は次のように3回あったと考えている(石野博信編(2015))。最初の2回は都出説と同じである。

  • 弥生時代中期の争乱 - 高地性集落に関わる争乱。中国文献には書かれない。
  • 2世紀の終わりの争乱 - 180年前後。『三国史』記載。
  • 卑弥呼死後の争乱 - 男王の擁立後の争乱で 1000人が殺戮され、宗女が擁立される。

戦乱の時間的長さ

『魏志倭人伝』は戦乱の長さを「暦年」と表現する。歴年とは中国では7-8年の長さであるという説がある。数年間戦乱が続いたという意味と考える。この記述だけでは、どこでいつどの程度の広がりの戦乱があったかは分からない。 文献では解明できないので、考古学の証拠の助けが必要である。

二世紀後半の争乱の時期

 二世紀後半の争乱の時期は『魏志』『後漢書』に記される「桓霊の間」である。山尾幸久(1986)は「桓霊の間」とは実年代をいうのではなく、歴史認識であり評価を伴う慣用であるとする。

戦乱の原因

「倭国乱」の原因には諸説がある。

  • 鉄の入手をめぐる北部九州と岡山・近畿の争い(山尾(1986)、佐原)
  • 地球の寒冷化による土地や不作に伴う食料の争奪戦
  • 高句麗の南下に伴う大量の避難民の倭国への到来
  • 倭国の中枢が北部九州から近畿に移動する際の争乱(松木)
  • 伊都倭国体制から新生ヤマト政権への再編時の混乱(寺澤)
  • 土地・水利権をめぐる争い(藤尾、橋口)
  • 倭国乱はなかった説(古田)

土地・水利権争い

稲作の初期は縄文人はコメを作らず、弥生人だけが水田を作る土地を利用していた。100年ほど経つと縄文人もコメを作り始め、弥生人と縄文系弥生人との間に、土地や水利権の争いが起き、希少な可耕地をめぐって争いが起き、生存を賭けた争いとなった(藤尾、橋口)。

倭国乱は如何にして収束したか

『魏志倭人伝』によれば、卑弥呼の「共立」により戦乱が終息したと書かれる。 共立は三国史に三個所登場する。夫餘、高句麗、倭人である。 夫餘では「尉仇台死、簡位居立。無適子、有孽子麻余。位居死、諸加共立麻余。」(尉仇台が亡くなり、簡位居が王に立つ。簡位居に嫡子がなく、子に庶子の麻余がいる。簡位居が亡くなると諸加は麻余を共立した)共立の主体は諸加であった。つまり各部族の統率者である。 高句麗では「伯固死、有二子。長子拔奇、小子伊夷模。拔奇不肖、國人便共立伊夷模爲王。」(王の伯固が亡くなると、子は2名がいた。長子の拔奇と弟の伊夷模である。拔奇はできが良くなかったので、国人は夷模を王に共立した)と使われる。いずれも国の有力者が優れた者を王として推戴したという経過である。 これらの事例からすれば、倭国においても「共立」は有力な地域代表の話し合いにより、首長に選出されたという意味に解釈することができる。弥生時代の倭の国はそれぞれが近代の村という規模である。共立はどの勢力が話し合いで共立したかという問題がある。

魏志倭人伝

  • (原文)其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂相攻伐歴年
  • (大意)その国に男王がいたが、70年から80年後に国は乱れ、攻撃しあい歳月を経た。

参考文献

  1. 石野博信編(2015)『倭国乱とは何か』新泉社
  2. 石野博信編(1987)『古墳発生前後の古代日本』大和書房
  3. 国立歴史民俗博物館(1996)『倭国乱る』朝日新聞社
  4. 佐原真(1992)『日本人の誕生』小学館
  5. 佐原真(2003)『魏志倭人伝の考古学』岩波書店
  6. 白石太一郎(2014)『古墳から見た倭国の形成と展開』敬文社
  7. 橋口達也(1995)「弥生時代の戦い」『考古学研究』42-1
  8. 山尾幸久(1986)『新版 魏志倭人伝』講談社

誤読だらけの邪馬台国2024年06月29日 00:42

『三国史』汲古閣, 順治13年[1656]

誤読だらけの邪馬台国(ごどくだらけのやまたいこく)は1992年8月10日に出版された台湾人・張明澄の著書である。

概要

本書は多くの日本人が『魏志倭人伝』を誤読しているという趣旨で書かれている。ところが主張をひとつひつと検証すれば、張明澄が重大な誤読をしているように読める。主な論点を以下に検証する。

論点1 「至と到は意味が異なる」

張明澄によれば、「到によって着く地点は起点にならない」(p.46)という。到は点的な概念であり、そこにつけば終着点であり、次に進むことはないという。「至」は線的概念であり、中継点であるから次に進めると説明する(p.19-20,23-32,88)。

反論1

この反論は容易である。『魏志倭人伝』に「至」が登場する個所を調べる。

  • (1)郡至倭 - 帯方郡 ⇒ 倭
  • (2)始度一海千餘里、至對馬國 - 狗邪韓國 ⇒ 對馬國
  • (3)名曰瀚海、至一大國 - 對馬國 ⇒ 一大國
  • (4)東行至不彌國百里 - 奴國 ⇒ 不彌國
  • (5)南至投馬國 - 不彌國 ⇒ 投馬國
  • (6)南至邪馬壹國 女王之所都
  • (7)郡至女王國 - 郡 ⇒ 女王國
  • (8)復在其東南、船行一年可至

また「到」を使用する個所は以下の通りである。

  • (9)乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里
  • (10)東南陸行五百里 到伊都國

「到」を使用する(9)の狗邪韓國、および(10)の伊都國は最終目的地ではない。狗邪韓國からは海を渡り對馬國に行っている。伊都國から「東南至奴國」すなわち伊都国の東南に向かい奴国に着く」と書かれている。

最終目的地のはずの「女王國」(=邪馬台国)には(6)、(7)で「至」を使用している。

これらの理由から張明澄の説は妥当とはいえない。

『漢字海』をみると「到と至はともに目的地に到達したという意味であり、到は到達したことに重点を置き、至は到達するという行為に重点を置く」と説明される。つまり「目的地に到達」したという意味は同じであり、その先にどこに行くかは問題とされていない。従って張明澄の説明は誤りである。現代の中国語で、3世紀の中国語を解釈するのは問題がある。

論点2 「「乍南乍東」について「乍南乍東者先南行後転而東行」と裴松之は注釈した」か

「乍南乍東者先南行後転而東行」の意味について、張明澄は「乍南乍東は先ず南行し、後に転じ東行すと裴松之の注に書かれている(p.22)とする。

反論2

『三国史』汲古閣, 順治13年[1656](図)で論点 2を検証すると、「乍南乍東」の個所に裴松之の注は書かれていない。つまり裴松之の注に「乍南乍東者先南行後転而東行」は書かれていないので、張明澄の説明は誤りである。存在しないものを「ある」とするのは致命的な誤りである。

論点3 「一大国は一大という名の国である。一支国の間違いとするのは確かな根拠がない(p.34)」

反論3

一大国は一支国の間違いとするのは、確かな根拠がある。すなわち『翰苑』が引用する「魏略」には「一支国」となっている。また『梁書』『北史』には該当個所が「一支国」となっている。よって「一大国」は『魏志倭人伝』の版本の誤植である。「一支国」は對馬國と末盧国との間にある国であるから、「一支国=壱岐」としても矛盾はない。

論点4 「末盧国は佐世保である」(p.43,44)

張明澄によれば『三国史集解』では末盧国を佐世保と説明している。壱岐国と末盧国までの距離は壱岐国と対馬までの距離と等しくどちらも「千餘里」である。次に末盧国からは南に水行と陸行ができなければならないからである。

反論4

『魏志倭人伝』記載の距離は精度のよい数字ではないから、それを根拠として末盧国は佐世保であると判断するのは、根拠に乏しい。『魏志倭人伝』記載された距離の精度が良くないとする理由は以下のの通り。すなわち『魏志倭人伝』は狗邪韓國と對馬國、對馬國と一支国、一支国と末盧国の距離をすべて「千餘里」としているが、これらの距離は地図でみれば分かるようにそれぞれ異なる。金海から対馬までは地図上の実測で50kmである。当時の里に換算すると、1里=414mであるから、120.8里となる。対馬から壱岐までは航路によるものの海を回り込むことから93kmとなり、224.6里である。「千餘里」には満たない。末盧国から南に水行と陸行の必要性であるが、末盧国から伊都国へは陸行しているので、南に水行できなけれなならない必要性は無い。北から寄航できる港があればよいわけである。末盧国の上陸場所はその王都の桜馬場遺跡、あるいは中原遺跡の付近と推測される。現在の唐津市に近い場所である。

考察

上記のように張明澄の主張は「誤読だらけ」であって、その説を信じるべき理由は見当たらない。そもそも張明澄は3世紀の中国語を理解せず、現代中国語により『魏志倭人伝』を解釈してしまっていることは問題である。

参考文献

  1. 張明澄(1992)『誤読だらけの邪馬台国』久保書店
  2. 戸川芳郎(1959)『漢字海』三省堂

皆徒跣2024年05月25日 01:41

皆徒跣(みなとせん)は弥生時代の倭国の住民はみな裸足であったことを示す証言である。

概要

『魏志倭人伝』原文は「倭地温暖、冬夏食生菜、皆徒跣」である。「徒」は足で歩く、という意味である。「跣」は「はだし(裸足)」の意味である。徒跣は「徒践」と同じで、裸足になるという意味である

考古学

佐原真によれば、「考古学的にはただしい記述である」とする。証拠に弥生土器に現れる戦士の姿は足の指が描かれた裸足で書かれていることを挙げる(奈良県清水風)。弥生時代の田に残る足跡はいずれも裸足である。那珂久平遺跡/板付遺跡の足跡は土踏まずが少なく、指の間が極端に発達している。

田下駄

履き物としては弥生時代に田下駄はあったが、数は少なく、日常品ではなかった。田に入るときあるいは祭祀などで、田下駄を使用していた。

参考文献

  1. 佐藤進・濱口富士雄(2011)『漢辞海』第三版、三省堂
  2. 佐原真(1997)『魏志倭人伝の考古学』歴史民俗博物館振興会

乍南乍東2024年05月19日 00:53

乍南乍東(さなんさとう)は韓半島の西岸を航行するときの船の進み方である。

概要

『魏志倭人伝』原文は「従郡至倭循海岸水行歴韓国乍南乍東到其北岸狗邪韓国」である。乍南乍東の解釈は各書で微妙に異なる。

岩波文庫の解釈

「あるいは南し、あるいは東し」と読む。訳では「あるいは南へ、あるいは東へ」とする。 あるときは南に進み、あるときは東に進むという解釈である。

倭国伝の解釈

「たちまち南し、たちまち東し」と読む。訳では「あるときは南へ、あるときは東へ」なので、岩波文庫の解釈と大きな違いは無い。

漢辞海

『漢辞海』を参照すると、「乍A乍B」は2つの状態AとBが交代して現れることをいうとする。乍には「突然に」という意味があるので、南に向かっているかと思うと、突然に東に向かうということである。文例に次があげられる。「乍視乍瞑、副昼夜」(繁露)意味は「目開けたと思えばすぐに閉じるのは昼と夜に符合する」、すなわち昼と夜が交互にやってくるように、目を閉じたり開けたりするという意味である。2つの状態A(目を閉じる)とB(目を開ける)が交代して現れることをいう。なお、繁露は前漢時代の文献であるから、3世紀頃の「乍A乍B」の解釈に使うことは問題が無いであろう。

邪馬台国研究総覧

「乍」は「たちまち、しばらく、はじめて」という意味であるから「乍南乍東」を「しばらく南し、しばらく東して」と読むと解釈する。

字統

字統は「字の初形と初義を明らかにする」辞書であり、1つの文字の意味は分かるが、熟語の意味は分からないことがある。字統によれば「乍」の初形は「小枝を撓めて垣などを作る形」とする。「つくる」「たちまち」を初義とする。例文に「先王の道、乍(ある)いは存し、乍(ある)いは亡ぶ」(『史記』、日者伝)を挙げる。2つの状態AとBとがAになる場合とBになる場合とがあるという意味で、『漢辞海』の説明と矛盾するものではない。

古田説

古田(2010)は、「韓国を経る際の「乍南乍東」とは南行・東行を繰り返す“階段状の行程” を意味し、魏使は韓国内を陸行した」と解釈する。

考察

「L字型の行路を最初は南に行き、然る後に東にいく水行の行路」という時間的順序(連続説)を表すとする解釈がある。しかし、これは地図で見たときのマクロの進み方であって、実際に船に乗船すれば、ミクロな進み方しか体感できないので、この解釈は取れない。

石原道博(1951)、藤堂明保(2010)、古田武彦(2010)による「乍南乍東」の解釈は表現は異なるが、実質的には同一であるといえる。 古田(2010)説は原文に「海岸水行」と書かれる個所をことさらに無視しており、原文を尊重しない都合の良い解釈といえる。「乍南乍東」の解釈(南行・東行を繰り返す)は正しい。 『邪馬台国研究総覧』の解釈は連続説か断続説かは明らかで無い。つまり、南に向かうことと東に向かうことが繰り返されるのか、1回限りなのかは明らかで無く、どちらともとれる。 韓半島の西海岸は溺れ谷を含むリアス式の複雑な海岸線であるため、海岸線に沿って航行すれば、南行・東行、さらには書かれていない西行も繰り返される。船の進む方角が次々と変わることは自然である。それを表現する意訳としては「しばらく南に進むと、しばらく東に進み、これが繰り返される」であろう。

参考文献

  1. 石原道博(1951)『新訂 魏志倭人伝』岩波書店
  2. 藤堂明保(2010)『倭国伝』講談社
  3. 佐藤進・濱口富士雄(2011)『漢辞海』第三版、三省堂
  4. 三品彰英(1970)『邪馬台国研究総覧』創元社
  5. 古田武彦(2010)は『「邪馬台国」はなかった』ミネルヴァ書房
  6. 白川静(1994)『字統 普及版』平凡社