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短里説2025年03月08日 17:27

'短里説(たんりせつ)は魏志倭人伝の里程記事の距離が「短里」により書かれているとする説である。

短里説の概論

「短里説」は、『魏志倭人伝』に記された里程の「里」が、通常の中国の標準的な「里」よりも短い単位であったとする説である。倭国までにの距離(里程)を説明する際に、魏志倭人伝の記述と実際の地理的距離が大きく乖離していることから、一部の研究者が「魏志倭人伝の1里は、標準の1里(約415メートル)よりも短い」と仮定している。短里説には、1里を100メートル程度とする説や、75メートル程度とする説など、複数のバリエーションがある。

古田の短里説

古田武彦は魏志倭人伝の里程記事が「短里」で書かれていると主張する。古田は「1里約 76~77m」としている(古田武彦・谷本茂(1994))。この計算では、末盧國から伊都国まで38kmとなり、30.6kmに近くなる。しかし、漢代に「短里」が使われていた確実な証拠があるかどうかが問題となる。

短里説への反論1(山尾幸久)

山尾幸久(1986)が短里説を詳しく論じている。山尾によれば、中国の公定尺は『晋書』律歴志と『随書』律歴志が基本資料となる。中国の学者の計算では、周尺・前漢尺は23.1cm、後漢尺は23.8cm、魏尺は24.2cm、東晋尺は24.5cmになるとされる(薮田(1969))。 実際に中国の古い物差しも出土している。戦国時代から前漢までの尺はおおむね23cmで、バラツキは7mm以内とされる(山尾幸久(1986))。三国時代の魏の遺品は正始五年の銘を持つ弩機の尺(正始弩尺)が24.3cmであった。つまり3世紀の中国で使用されていた1尺は24cm前後といえる。 3世紀においても「里」は「歩」を基準とし「歩は「尺」と関係づけられていた。『春秋穀梁伝』によれば、300歩四方の土地を里といい、その1辺も「里」と称した。 この「歩」は今でいう1歩(いっぽ)ではなく、1復歩(ふたあし)を指す。つまり約1.4mである。『史記』秦始皇帝本紀に「六尺を歩となす」と書かれる。 したがって、1里の長さは以下となる。  1里=300歩=1800尺=1800×23cm=414m すなわち、これは「長里」であり、短里ではない。

短里説への反論2

近年の考古学的発見によって、魏晋時代のものさし(尺)が出土している。これにより、当時の「1尺」の長さが約24.2cmであったことが確認されている。魏晋時代の標準的な「里」は300歩=360尺とされ、この計算に基づくと、1里 は 415メートルとなる。この数値は、漢代から続く標準里の長さと整合性がある。 このように、魏の時代にはすでに標準化された里の単位が確立されており、魏の公的文書(正史)である『三国志』魏志倭人伝においても、特定の地域だけに独自の「短里」を用いたとは考えにくいとする有力な反論がある。

短里説への反論3

『魏志倭人伝』の編纂者である陳寿は、『三国志』で他の地域の距離を記述する際には、標準的な里(約415メートル)を用いている。たとえば、魏書の他の部分に見られる中国本土の地理記述において、特別な例外がない限り、通常の「里」が使用されていることが確認されている。 例を挙げると、洛陽と遼東の距離を『三国志』は「四千里」と書く。洛陽から遼東の間は、実距離で約 1800Km(図上距離 1500Km)である。したがって、1800Km÷4000により1里は450mと計算される。 「短里」を仮定すると、洛陽と遼東の距離は300km程度(4000里×76m/里=306km)しかないことになるから、現実と合わないことになる。『魏志倭人伝』の距離記述に関して、陳寿が突然「短里」を採用したと判断できる明確な証拠(史料)はなく、文脈的にはむしろ標準的な里を想定している可能性が高いといえる。 『三国志』の中で魏志倭人伝の記載部分だけが「短里」だったとする説は合理的な根拠がなく採用できない。

短里説への反論4

魏志倭人伝の距離表記における問題は、「短里」を仮定することで解決できず、他の要因を考えるべきである。 第一に、『魏志倭人伝』では、対馬・壱岐・末盧国などの地点の間の移動距離が「里」により記載されているが、これらは必ずしも直線距離ではなく、航海の実際の行程を反映している可能性を検討すべきである。また要した日数を「里」に換算した可能性もある。風や潮流の影響を受けた航海距離と、実際の地理的距離が異なることはよくある。 第二に魏の使者が実際に倭国の行程を測量しながら歩いたわけではなく、現地の情報や体感を基に記述したことも考えられる。伝聞情報による誤差により距離が誇張されたり、四捨五入されたり、実際と異なる情報による誤解が生じた可能性がある。 第三に『魏志倭人伝』の里程表記では、距離と方角が必ずしも正確な形で一致していない個所がある。たとえば、「南に〇〇里」と書かれていても、実際には東南方向や西南方向に進んでいることも見られる。結果的に現実の地理との整合性が取れなくなっている。

結論

『魏志倭人伝』における距離の記述の誤差を説明するために、「短里説」が提唱されているが、魏の時代に標準的な「里」が確立されていたことは出土したものさしによって確認されており、陳寿の記述の整合性を考慮しても、公的な文書において特別に短里が用いられたとする証拠はない。 したがって「短里説」を積極的に採用して辻褄を合わせるより、伝聞情報による誤差や航路の影響、方位の誤差、あるいは山道など歩行困難なルートの影響、など他の要因を考慮する方が妥当であろう。

参考文献

  1. 山尾幸久(1986)『魏志倭人伝』講談社
  2. 古田武彦・谷本茂(1994)は『古代史のゆがみを正す』新泉社
  3. 古田武彦(1992)『「邪馬台国」はなかった』朝日新聞
  4. 古田武彦(1977)「邪馬台国九州説10の知識」『歴史読本』新人物往来社,昭和52年8月号
  5. 須股孝信(1992)「畿内の遺構配置にみる古代の土木技術(その3)」土木史研究 12,pp.131-142

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