景初2年・3年問題 ― 2024年09月29日 00:23
景初2年・3年問題(けいしょにねんさんねんもんだい)は邪馬台国の卑弥呼が献使を送り、その使者が帯方郡に到着した時期(年)に関する論争である。
概要
『魏志倭人伝』には「景初二年(238年)六月、倭の女王(卑弥呼)は、大夫の難升米等を派遣して帯方郡に到着し、天子にお目通りして献上品をささげたいと申請した。帯方郡太守の劉夏は官吏を派遣し、難升米等を京都(洛陽)まで引率して送りとどけさせた」と書かれる。この景初二年(238年)は景初三年(239年)の誤りとするのが通説である。 239年(景初3年)1月に魏の明帝は死去したから、景初三年とすると当時8歳の新皇帝(曹芳)が謁見したことになる。
景初三年(239年)の根拠
卑弥呼の最初の献使は景初三年(239年)であったとする学会の学会の通説とされる。 理由は次の3点である。
- 梁書に景初三年と書かれる。
- 日本書紀に景初三年と書かれる。
- 景初二年では公孫淵が存命であり、その時点で倭の使者は洛陽に行けない。
- 景初二年は戦乱が激しく通行できないとする。
梁書
『梁書』は「景初三年に公孫淵が滅びて後、卑弥呼が遣使した」(至魏景初三年公孫淵誅後卑弥呼始献使朝貢)と書く(石原道博(1985)l巻末影刻)。
日本書紀
『日本書紀』神功三十九年記事に「是の年太歳己羊。魏志に曰く、明帝の景初三年の六月倭の女王(卑弥呼)、大夫難斗米等を遣わして、郡(帯方郡)に詣りて、天子に詣らむことを求めて朝献する」と書かれる。『日本書紀』記載の太歳己羊は景初三年と整合する。 『日本書紀』が引く『魏書』は『魏志倭人伝』の宋の版本の刊行よりはるかに古いから、その記述の方が正確とも見られる。
公孫淵の障壁説
魏から独立した勢力として楽浪郡・帯方郡を支配していた公孫淵が滅びていないから、その時点では洛陽に使者は到達できないとするのが一般的理解とされる。 鳥越憲三郎(2020:p.129-130)は「公孫淵の父子を誅殺したのが景初二年八月である。それ以前の六月に帯方郡の役所に行くことは絶対に不可能であった」とする。倭の献使は景初三年六月に皇帝への謁見を願い出て、郡の太守が役人を洛陽に行かせて願い出て、倭国の使者を同行することの許可を得て、郡に帰り太守に報告する。太守は倭の使者と同行者を伴い、洛陽に上京する。そこまで五ヶ月を要した。この時系列で、最初を景初二年とすると間が1年5ヵ月となるので間が開きすぎるとする。
戦乱説
佐伯有清(2000)は慶元版の『太平御覧』の『魏志』に「景初三年、公孫淵死す。倭の女王、大夫難升米等を遣わして、帯方郡に言せしめ天子に詣りて朝貢せんことを求む」とあり、『日本書紀』記事と合わせると、『魏志』の記載は「景初三年」であったとみられる事を挙げる。ただし『太平御覧』の景初三年は二年の誤りと指摘する。景初二年六月に公孫淵を撃つため司馬懿の4万余の軍が遼東に到達し、公孫淵は遼隧の軍を撤退させ、都の守備に当たらせたが、防戦一方となり敗退を繰り返して、司馬懿に襄平を包囲された。公孫淵は人質を出して和睦しようと画策するが、司馬懿は許さず公孫淵を捕えて処刑した。『魏志』公孫淵に「遼東、帯方、楽浪、玄莬、悉く平らぐ」と書かれる。佐伯有清(2000)は「そうした混乱の中で、倭の女王卑弥呼が帯方郡に使者を派遣し、さらに魏の皇帝のもとに朝貢しようとしたことは、景初二年六月の時点ではありえない」とする。
岩波本
石原道博(1985)は「景初三年の誤」と書き、『日本書紀』所収の『魏志』と『梁書』の記載を根拠とする。
景初二年(238年)の根拠
- 三国志は景初二年と書いている
- 海路を取れば戦乱に巻き込まれる危険は少ない
- 景初二年でも前後関係は不自然ではない
陳壽の書き改め説
オリジナルの『魏志』の記載は「景初三年」であったが『三国志』の編纂過程で陳壽が原史料を精査し、景初二年に書き改めた可能性が考えられる。
水野説
水野祐(1982)は戦乱で通行できるかどうかを判断していないが、『晋書』の記載から景初二年説を主張する。「景初二年に(倭国の遣使は)明帝に謁見し、帯方郡に戻った。それは(景初三年)三月か四月のことであろう」とする。「景初二年を正しいとする根拠は当時の海上交通を検討しなければならない」とし、倭国から魏への通交は不可能ではなかったとする。魏が楽浪・帯方2郡の奪回のため水軍を編成したのは景初元年七月であった。韓諸国が遼東の楽浪公との関係を切り、帯方太守を介して魏との関係を結んだのは公孫淵滅亡の景初二年八月以前とする。倭も同時期に韓諸国と同様に帯方太守との修好を結んだから通交は可能であった。倭の一行は景初二年十一月までに洛陽に入り、明帝に謁見した。魏の皇帝と修好を結ぶため、媒介となる使訳に優秀なものがおり、東アジア情勢に通暁しており、正副の使節を郡の太守は丁重に送り届けた。景初三年は一月に35歳の明帝が崩御し、服喪期間は1年あったから、景初三年中に公式行事を行えたかどうかが問題となる。
- 景初二年六月 卑弥呼、使を派遣
- 景初二年七月から八月 楽浪・帯方戦乱、公孫淵滅亡
- 景初二年十二月はじめ 倭使明帝に謁見、十二月中に帯方に向かう
- 景初三年正月 明帝崩御
- 景初三年三月頃 倭使帯方郡に帰着する。
- 景初三年五月頃 倭使は倭国に帰着する。
- 景初三年七月 斉王芳、はじめて臨朝
- 景初三年八月まで 帯方太守は劉夏から弓 遵となる。
- 景初三年九月ころ 帯方太守弓遵は、郡使を倭国に派遣する。
- 景初三年十二月ころ 倭使女王の答礼の上表文を持参し、帯方郡に向かう。
- 正始元年正月 帯方太守弓遵に答謝の上表文を呈す。
考察
水野祐(1982)はかなり詳細に論じており、説得力がある。景初二年も有力と考え直す。
原文
- (魏志倭人伝)景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝獻、太守劉夏遣吏、將送詣京都。
- (梁書)至魏景初三年,公孫淵誅後,卑彌呼始遣使朝貢
- (日本書紀 巻第九 氣長足姫尊 卅九年)魏志云「明帝景初三年六月、倭女王、遣大夫難斗米等、詣郡、求詣天子朝獻。太守鄧夏、遣吏將送詣京都也。
参考文献
- 石原道博(1985)『新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝』岩波書店
- 鳥越憲三郎(2020)『倭人・倭国伝全釈』KADOKAWA
- 佐伯有清(2000)『魏志倭人伝を読む (上下)』吉川弘文館
- 水野祐(1982)『評釈 魏志倭人伝』雄山閣
- 新・私の本棚 前田 晴人 「纒向学研究」 第7号『「大市」の首長会盟と…』1/4 補充
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