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景初二年・景初三年問題2026年07月29日 00:05

景初二年・景初三年問題(けいしょにねんさんねんもんだい)は『魏志倭人伝』に記される卑弥呼の最初の遣使について、「景初二年(238年)」とする本文をそのまま採るか、「景初三年(239年)」の誤記とみるかをめぐる年代論争である。

概要

『魏志倭人伝』(『三国志』魏書 東夷伝 倭人条)には、景初二年(238年)六月、倭の女王(卑弥呼)は、大夫の難升米等を派遣して帯方郡に到着し、天子にお目通りして献上品をささげたいと申請した。帯方郡太守の劉夏は官吏を派遣し、難升米等を洛陽まで引率して送り届けさせたと書かれる。景初二年(238年)六月は景初三年(239年)六月の誤りであるとの指摘がある。 239年(景初3年)1月に魏の明帝は死去したから、景初三年説を採ると、最終的に倭使が謁見した相手は、明帝の死後に即位した曹芳であったことになる。現在では景初三年説を支持する研究者が比較的多いが、景初二年説も有力な異説として議論されている。

文献史料上の根拠

景初三年説の文献史料上の根拠は以下である。 石原道博(1985)はこれらの史料を根拠として『魏志倭人伝』の「景初二年」は「景初三年」の誤りとした。

(1)『梁書』に景初三年と書かれている。

『梁書』は、「景初三年に公孫淵が滅びて後、卑弥呼が遣使した」(至魏景初三年公孫淵誅後卑弥呼始献使朝貢)と書く(石原道博(1985)l巻末影刻)。

(2)『日本書紀』に景初三年と書かれる。

『日本書紀』神功三十九年記事に「是の年太歳己羊。魏志に曰く、明帝の景初三年の六月倭の女王(卑弥呼)、大夫難斗米等を遣わして、郡(帯方郡)に詣りて、天子に詣らむことを求めて朝献する」と書かれる(坂本太郎他(1995)『日本書紀』)。『日本書紀』記載の太歳己羊は景初三年と整合する。 『日本書紀』が引用した『魏志』は現存本より古い系統の本文を反映している可能性があり、そのため景初三年の記載を重視する研究者もいる。

(3)『太平御覧』の記載

佐伯有清(2000)は『太平御覧』(慶元版)の『魏志』に「景初三年、公孫淵死す。倭の女王、大夫難升米等を遣わして、帯方郡に言せしめ天子に詣りて朝貢せんことを求む」とあり、『日本書紀』記事と合わせると、『魏志』の記載は「景初三年」であったとみられる事を挙げる。

歴史的状況からの根拠

(1)障壁説

魏から独立した勢力として楽浪郡・帯方郡を支配していた公孫淵が景初二年(238年)六月にはまだ滅びていないから、その時点では洛陽に倭国の使者は到達できないとする見解がある。鳥越憲三郎(2020)は「公孫淵の父子を誅殺したのが景初二年八月である。それ以前の六月に帯方郡の役所に行くことは絶対に不可能であった」と指摘する。倭の献使は景初三年六月に皇帝への謁見を願い出て、郡の太守が役人を洛陽に行かせて、倭国の使者を同行することの許可を皇帝から得て、郡に帰り太守に報告する。太守は倭の使者と同行者を伴い、洛陽に上京する。そこまで五ヶ月を要した。このため景初二年説では約1年5か月の空白が生じることになり、不自然であると論じている。

(2)戦乱説

景初二年はまだ戦乱が激しいため朝鮮半島を通行できないとする説である。ただし海路を取れば、戦乱に巻き込まれる危険は少ないとの指摘もある(水野祐(1982))。 『太平御覧』景初二年六月に公孫淵を撃つため司馬懿率いる4万余の軍が遼東に到達し、公孫淵は遼隧の軍を撤退させ、都の守備に当たらせたが、防戦一方となり敗退を繰り返して、司馬懿に襄平を包囲された。公孫淵は人質を出して和睦しようと画策するが、司馬懿はこれを許さず公孫淵を捕えて処刑した。『魏志』公孫淵に「遼東、帯方、楽浪、玄菟、悉く平らぐ」と書かれる。佐伯有清(2000)は「そうした混乱の中で、倭の女王卑弥呼が帯方郡に使者を派遣し、さらに魏の皇帝のもとに朝貢しようとしたことは、景初二年六月の時点ではありえない」とする。

(3)陳寿の執筆意図説

渡邊義浩(2012)は、西晋で『三国志』を執筆した陳寿は、司馬氏政権の正統性を示す意図を有していたと指摘する。司馬懿が公孫淵を討伐した徳を慕って卑弥呼が遣使したとする構成であるため、その外交開始は景初三年でなければ陳寿の叙述意図は成立しないと論じている。

(4)本文尊重説

景初二年(238年)説の根拠となる根拠は以下である。

  1. 『三国志』は景初二年と書いている(本文尊重説)。
  2. 景初二年でも前後関係は不自然ではないとする説(水野説)。

現行『三国志』本文を尊重し、現存する最古級の本文を安易に誤記とみなすべきではないとする立場である。水野祐(1982)は劉夏の赴任時期とも整合すると指摘している。 裴松之は異説を大量に紹介するが、景初二年の個所は修正していない。

水野説

水野祐(1982)は戦乱で通行できるかどうかを判断していないが、『晋書』の記載から景初二年説を主張する。「景初二年に(倭国の遣使は)明帝に謁見し、帯方郡に戻った。それは(景初三年)三月か四月のことであろう」とする。「景初二年を正しいとする根拠は当時の海上交通を検討しなければならない」とし、倭国から魏への通交は不可能ではなかったとする。魏が楽浪・帯方2郡の奪回のため水軍を編成したのは景初元年七月であった。韓諸国が遼東の楽浪公との関係を切り、帯方太守を介して魏との関係を結んだのは公孫淵滅亡の景初二年八月以前とする。倭も同時期に韓諸国と同様に帯方太守との修好を結んだから通交は可能であった。倭の一行は景初二年十一月までに洛陽に入り、明帝に謁見した。魏の皇帝と修好を結ぶため、媒介となる使訳に優秀なものがおり、東アジア情勢に通暁しており、正副の使節を郡の太守は丁重に送り届けた。景初三年は一月に35歳の明帝が崩御し、服喪期間は1年あったから、景初三年中に公式行事を行えたかどうかが問題となると指摘する。『倭人伝』により時系列で整理すると以下の通りである。

  1. 景初二年六月 卑弥呼、使を派遣
  2. 景初二年七月から八月 楽浪・帯方戦乱、公孫淵滅亡
  3. 景初二年十二月はじめ 倭使明帝に謁見、十二月中に帯方に向かう
  4. 景初三年正月 明帝崩御
  5. 景初三年三月頃 倭使帯方郡に帰着する。
  6. 景初三年五月頃 倭使は倭国に帰着する。
  7. 景初三年七月 斉王芳、はじめて臨朝
  8. 景初三年八月まで 帯方太守は劉夏から弓遵となる。
  9. 景初三年九月ころ 帯方太守弓遵は、郡使を倭国に派遣する。
  10. 景初三年十二月ころ 倭使女王の答礼の上表文を持参し、帯方郡に向かう。
  11. 正始元年正月 帯方太守弓遵に答謝の上表文を呈す。

『正史 三国志』本文の信頼性

(1)本文校訂の問題

景初二年説・景初三年説の対立は本文校訂(史料批判)の問題である。現存する『三国志』本文をそのまま採用するか、『梁書』『日本書紀』など後代史料を用いて本文を校訂するかという史料学上の問題でもある。ただし『正史 三国志』は著者・陳寿による直筆の原本はなく、まとまった書籍(版本)として現存する最古のものは、12世紀の宋代(紹興年間など)に作られた刻本である。中国の商務印書館などが影印出版した「百衲本」は底本に宋代の古い版本を使用するが、『日本書紀』が参照する『魏書』の方が先行するとみられる。

(2)裴松之の注釈

南朝宋の文帝の命を受けた裴松之は『正史 三国志』に注釈(裴注)を加え、中国史学における初期の本格的な史料批判の例と評価されている。裴松之が膨大な補足史料を盛り込んだ注釈を文帝に献上したのは429年(元嘉6年)である。裴松之により異説の比較ができ、本文の史料批判が進んだ。しかし裴松之は景初二年の記述を改めていない。

(3)『三国志』本文の評価

『三国志』の原文の記述については政治的配慮や編纂方針の影響が指摘されている箇所もあり、そのため本文をどこまで信頼するかも議論となる。

卑弥呼の献使の意味

景初二年説と景初三年説とでは、卑弥呼の献使の意味が異なる。 景初二年六月説に立てば、戦乱の最中に派遣された外交使節という意味合いを持つことになる。一方、景初三年六月では、公孫淵討伐後の新たな国際秩序の成立を受けた朝貢外交として理解することができる。 さらに渡邊義浩(2012)は景初二年説では戦乱をくぐり抜けて帯方郡太守は使者を送り届けたことになり、景初三年六月説なら公孫氏を滅ぼした司馬懿の功績を言祝ぐ意味となると指摘した。

考察

景初二年説は『三国志』本文と当時の海上交通の可能性を重視する。一方、景初三年説は『梁書』『日本書紀』などの異本や、公孫淵討伐との時系列を重視する。双方に一定の根拠があり、現時点でも決着をみていない。この問題は卑弥呼の外交開始時期だけでなく、3世紀東アジアの国際情勢や『三国志』本文の信頼性をどのように評価するかという史料学上の課題とも密接に関わっている。

参考文献

  1. 石原道博(1985)『新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝』岩波書店
  2. 佐伯有清(2000)『魏志倭人伝を読む (上下)』吉川弘文館
  3. 坂本太郎,家永三郎,井上光貞,大野 晋(1995)『日本書紀』岩波書店
  4. 鳥越憲三郎(2020)『倭人・倭国伝全釈』KADOKAWA
  5. 水野祐(1982)『評釈 魏志倭人伝』雄山閣
  6. 渡邊義浩(2012)「魏志倭人伝の謎を解く」中央公論新社
  7. 新・私の本棚 前田晴人 「纒向学研究」 第7号『「大市」の首長会盟と…』1/4 補充

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