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卑弥呼の使者派遣時期2023年12月31日 00:23

卑弥呼の使者派遣時期(ひみこのっししゃはけんじき)は邪馬台国の卑弥呼が献使を送り、その使者が帯方郡に到着した時期に関する論争である。

概要

魏志倭人伝』には「景初二年(238年)六月、倭の女王(卑弥呼)は、大夫の難升米等を派遣して帯方郡に到着し、天子にお目通りして献上品をささげたいと申請した。帯方郡太守の劉夏は官吏を派遣し、難升米等を京都(洛陽)まで引率して送りとどけさせた」と書かれる。景初二年は景初三年の誤りとするのが通説である。

通説

学会の通説は卑弥呼の最初の献使は景初三年(239年)であったとする。梁書は「景初三年に公孫淵が滅びて後、卑弥呼が遣使した」と書く。梁書と日本書紀の引く『魏書』には「景初三年(239年)」と記述がされている。両者で1年異なる。景初二年では魏から独立した勢力として楽浪郡・帯方郡を支配していた公孫淵が滅びていないから、その時点では洛陽に使者は到達できないとするのが一般的理解である。 鳥越憲三郎(2020)は「公孫淵の父子を誅殺したのが景初二年八月である。それ以前の六月に帯方郡の役所に行くことは絶対に不可能であった」とする。倭の献使は景初三年六月に皇帝への謁見を願い出て、郡の太守が役人を洛陽に行かせて願い出て、倭国の使者を同行することの許可を得て、郡に帰り太守に報告する。太守は倭の使者と同行者を伴い、洛陽に上京する。そこまで五ヶ月を要した。この時系列で、最初を景初二年とすると間が1年5ヵ月となるので間が開きすぎるし、帯方郡に到着できたのが景初二年では。 日本書紀の引く『魏書』は『魏志倭人伝』の宋の版本の刊行よりはるかに古いから、その記述の方が正しいと考えるべきである。日本書紀の編纂は720年頃であり、『魏志倭人伝』の最古の版本は「紹興本」であり、刊行は1131年から1162年であるから、少なくとも411年の違いがある。

版本至上主義の弊害

『魏志倭人伝』に関しては素人的な版本至上主義がはびこる。版本の史料批判を行わずに「ひとつの文献にこう書かれているから正しい」とする理解は、いかにも視野が狭い。たとえば以下の記述である、『女王卑弥呼が景初3(239)年に初めて魏王朝に使節を派遣した」と主張されているが、「原文が景初二年であるのは衆知である」から、これは端から誤訳である。氏が、中国史料を文献考証しようとされるなら、肝心なのは「揺るぎない原典の選定」である。検証無しに、世上の俗信、風説文書を引用するのは、お勧めできない「よそ見」と見える』(参考文献4)と書かれる。「景初二年は衆知」であっても、それが正しくなければ訂正して解釈するが筋である。根拠無く原文が正しいと解釈するのは、誠実さに欠ける。原文と断定するが、陳寿の原本は現存していないから、「紹興本」はひとつの版本に過ぎない。 『梁書』は公孫淵が滅んでから、はじめて卑弥呼は朝貢ができたと書く。公孫淵が魏への通路の障壁になっていてのであるから、この記載が正しいと考える。239年(景初3年)1月に魏の明帝は死去し、当時8歳の新皇帝(曹芳)が謁見したことになる。

原文

  • (魏志倭人伝)景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝獻、太守劉夏遣吏、將送詣京都。
  • (梁書)至魏景初三年,公孫淵誅後,卑彌呼始遣使朝貢
  • (日本書紀 巻第九 氣長足姫尊 卅九年)魏志云「明帝景初三年六月、倭女王、遣大夫難斗米等、詣郡、求詣天子朝獻。太守鄧夏、遣吏將送詣京都也。

参考文献

  1. 鳥越憲三郎(2020)『倭人・倭国伝全釈』KADOKAWA
  2. 石原道博(1985)『新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝』岩波書店
  3. 新・私の本棚 前田 晴人 「纒向学研究」 第7号『「大市」の首長会盟と…』1/4 補充

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