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山田寺2023年10月09日 17:01

山田寺東回廊/飛鳥資料館

山田寺(やまだでら)は奈良県桜井市山田にあった古代寺院である。 地元では「だ」にアクセントがある。

概要

641年に蘇我倉山田石川麻呂が発願し造営を始めたとされる。石川麻呂は大化改新の功臣となったが、649年に蘇我日向の讒言により謀反の嫌疑により自刃し、649年から14年間伽藍整備は中断した。その後冤罪を認められ造営は続けられ官寺に次ぐ扱いを受けている。『扶桑略記』には、藤原道長が「奇偉荘厳は言葉で言い尽くせない」と記されている。 山田寺東回廊は、科学的な保存処理が施され、復元され奈良文化財研究所飛鳥資料館において展示・公開されている。法隆寺は再建であるため、東回廊は、現存する日本最古の建築物といえる。 山田寺は明治の廃仏毀釈で廃寺となり、明治25年(1892年)に再興された。現在は無住で講堂跡付近に観音堂と庫裏が建っている。 現・山田寺の山号は大化山。宗派は法相宗。本尊は十一面観音である。

造営の経緯

『上宮聖徳法王帝説』によれば、造営を始めたのは641年(舒明13年)であった。648年(大化4年)になり僧が住むようになった。完成まで40年を要した。

調査

1976年から1996年まで発掘調査が行われ、伽藍配置は中心部に塔、金堂を南北に並べて回廊で囲み、その北に講堂、講堂の北と東西に僧房などを配置していたことがわかった。

遺構

1982(昭和57)年、山田寺の調査発掘で、東の東側において、東回廊が西側に倒壊したままの状態で発見された。柱や連子窓をはじめ、束・腰長押・小脇壁・頭貫・斗栱間小壁・巻斗など7世紀中頃に建てられた姿そのままで基壇上に横倒しになっていた。山田寺の回廊は南北23間で約86.9メートル、基壇の幅は6.4メートルの規模であった事が判明した。

遺物

奈良市・興福寺に所蔵されている銅造仏頭(国宝)は、もと山田寺講堂本尊薬師如来像の頭部であった。『玉葉』(九条兼実の日記)によれば、文治3年(1187年)、興福寺の僧兵が山田寺に押し入り、山田寺講堂本尊の薬師三尊像を強奪して、興福寺東金堂の本尊に据えた。

塼仏

塼(煉瓦)に仏像を浮き彫りに表したもの。日本では白鳳時代から用いられる。 『御堂関白記』によれば、1023年藤原道長が山田寺に詣でた際、堂塔の壁面が鍍金仏による荘厳で埋め尽くされていたと感嘆していることから、元は金箔が押されて、350年以上経過した当時でも鍍金仏と見紛う程と伺われる。しかしその後、伽藍の多くは焼失したため、塼仏も金箔が残っているものは極めて稀である。

建立の経過

  1. 641年 - 寺地を定め整地を始めた(帝説)
  2. 643年 - 金堂建立に着手(帝説)
  3. 645年 – 乙巳の変(日本書紀)(帝説 裏書)
  4. 648年 – 僧侶が住み始める(帝説 裏書)
  5. 649年 - 我倉山田石川麻呂は謀反の嫌疑により自刃(帝説)(日本書紀)
  6. 663年 - 塔建立に着手。
  7. 673年 - 芯柱を立て、心礎・舎利具を安置する(帝説 裏書)
  8. 676年 - 露盤をあげ、唐が完成する(帝説 裏書)
  9. 678年 - 丈六仏を鋳造する(帝説 裏書)
  10. 685年 – (天武14年3月)、講堂・本尊・丈六仏開眼(帝説 裏書)
  11. 685年 – (天武14年8月)、天武天皇行幸(日本書紀)

日本書紀 第廿五 孝德天皇

  • 原文(五年 三月己巳)大臣謂長子興志曰、汝愛身乎。興志對曰、不愛也。大臣、仍陳說於山田寺衆僧及長子興志與數十人曰。夫爲人臣者安構逆於君、何失孝於父。凡此伽藍者元非自身故造、奉爲天皇誓作。今我見譖身刺而恐横誅、聊望、黃泉尚懷忠退。所以來寺、使易終時。言畢、開佛殿之戸、仰而發誓曰、願我生々世々不怨君王。誓訖、自經而死。妻子殉死者八。是日、以大伴狛連與蘇我日向臣爲將領衆、使追大臣。將軍大伴連等及到黑山、土師連身・采女臣使主麻呂、從山田寺馳來告曰、蘇我大臣既與三男一女倶自經死。由是、將軍等從丹比坂歸。
  • (大意)蘇我倉山田石川麻呂大臣は山田寺の僧と長男の興志など数十人に「この寺はわがために作ったのではなく、天皇のために作ったのだ。寺に来たのは安らかに死ぬためだ」と述べた。大臣は自ら首を括ってなくなった。大伴狛連と蘇我日向が山田寺に来ると、土師連身と采女臣使主麻呂が山田寺からきて石川麻呂大臣が亡くなったことを伝えた。

上宮聖徳法王帝説

  • (読み下し)  有る本に云う、請願して寺を造り、三寶を恭敬す。十三年辛丑、春三月十五日、浄土寺を始めると云々。  注に云う、辛丑の年、始めて地を平らかにする、癸卯の年、金堂を立つ。戊申に始めて僧が住む。己酉の年の三月廿五日、大臣害に遇う。癸亥の年に塔を構う。癸酉の年、十二月十六日、塔の心柱を建つ。其の柱の礎の中に円き穴を作り、浄土寺を刻み、中に蓋有る大鋭一口を置き、内に種々の珠玉を盛る。其の中に塗壷有り。壷の内にまた種々の珠玉を晟る。其の中に銀の壷有り。壷の中内に純金の壷有り。其の内に青瑠璃の瓶有り、其の内に舎利八粒を納む。丙子の年の四月八日、露盤を上ぐ。戊寅の年の十二月四日、丈六の佛像を鋳る。乙酉の年の三月廿五日、佛眼を點ず。山田寺これ也。注す、承歴二年、南一房を冩す。真曜の本なり。

指定

アクセス

  • 名称:山田寺跡
  • 所在地:奈良県桜井市山田
  • 交通: JR桜井線「桜井駅」より奈良交通バス「岡寺前行き」で約20分、「山田寺跡バス停」下車すぐ。

参考文献

  1. 東野治之校注(2013)『上宮聖徳法王帝説』岩波書店
  2. 花山信勝・家永三郎(1941)『上宮聖徳法王帝説』岩波書店
  3. 四尊連坐塼仏 東京国立博物館
  4. 単弁八葉蓮華文軒丸瓦(伝奈良県山田寺出土) 東京国立博物館

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