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牛王山遺跡2023年05月17日 23:07

牛王山遺跡(ごぼうやまいせき)は、埼玉県和光市にある弥生時代中期から後期の集落遺跡である。

概要

荒川右岸の武蔵野台地の北端部の標高25m前後の丘陵上にある遺跡である。遺跡の範囲は東西250m、南北は遺跡東部で200m、西部で150mの規模感である。牛王山遺跡の南側は、武蔵野台地から切り離されており、周囲から独立した丘のような地形である。この独立丘の平坦部分に弥生時代の時期に集落が継続して営まれた。 約2万平方メートルの環濠集落が集落を囲んでいる。環濠は2条が検出され、その他m傾斜地に1条がある。多重環濠は関東では珍しい。環濠は弥生時代の中期から作られ、後期 濠の外側に方形周溝墓が5基みつかる。埋葬施設や時期等は不明である。

午王山遺跡の特徴

  1. 荒川を望む独立丘に立地する弥生時代後期の集落遺跡である。
  2. 弥生時代中期から後期に及ぶ集落の変遷と環濠の関係が分かる遺跡である。
  3. 関東地方の弥生集落では類例の少ない多重環濠をもつ集落である。
  4. 遺構、土器と土器以外の遺物から遠隔地との交流が把握できる遺跡である。

調査

1978年(昭和53年)から2022年(令和4年)まで16回にわたって発掘調査が行われた。

遺構

竪穴建物は弥生時代中期後半から後期の総計約150棟が検出された。時期により竪穴建物の平面形態の変遷を確認した。

  • 竪穴住居
  • 環濠

遺物

時期によって異なる系統の土器が確認された。中期後半に南関東系、後期前葉に南関東系と北関東系が共存し、後期中葉になると東海東部に系譜が求められる土器が主体となっている。弥生時代中期の櫛目文土器が出土した8m以上の大型住居跡は北関東との交流など遠隔地との交流や往来があったことを示している。

  • 台付甕

地域間交流

出土した土器は東京湾岸系の久が原式土器、信州系の岩鼻式土器、東海東部系の下戸塚式土器など異なる系統の土器が出土する。これrの他地域の結節点に位置していた。どきだけでなく、竪穴住居跡の平面形状、柱穴・炉の遺構の形状、銅釧、東海地方西部の三遠式銅鐸の特徴をもつ銅鐸型土製品などから遠隔地との交流が伺える。

新羅皇子伝説

かつて新羅の王子が下向し住んだ場所という伝承があり、『新編武蔵風土記稿』には「新羅王居跡」として紹介されている。『続日本紀』には、天平宝字二年(758)、帰化した新羅の僧32人、尼2人、男19人、女21人を武蔵国の閑地に移し、「新羅郡」を置いたとされる。

指定

  • 平成30年2月27日 - 埼玉県指定文化財
  • 令和2年3月10日  - 国指定史跡 官報号外第45号告示

時期

弥生時代中期から後期

アクセス

  • 名称:牛王山遺跡
  • 所在地:〒351-0115 埼玉県和光市新倉牛王山2832-1
  • 交 通:和光市駅から1.9km、徒歩30分。

参考文献

  1. 和光市(1981)『和光市史 史料編 1 』(自然・原始・古代・中世・近世(地誌・紀行)) 和光市

弥生二丁目遺跡2023年05月17日 23:12

''弥生二丁目遺跡'(やよいにちょうめいせき,)は東京都文京区弥生に位置する弥生時代後期の集落跡である。薄く硬い土器がつくられた時代が弥生時代である。

概要

向ヶ丘貝塚

1884年(明治17年)、東京大学の有坂鉊蔵、坪井正五郎、白井光太郎の3名によって向ヶ岡貝塚から1点の完形に近い壺形土器を発見した。 向ヶ丘弥生町の貝塚発見場所から「向ヶ丘貝塚」と命名され、土器は縄文式土器とは異なるものと分かり、「弥生式土器」と命名された。1889年、『東洋学芸雑誌』に報告された(参考文献1)。しかし、有坂や坪井が遺跡の正確な場所についての記録を残していなかったため、「向ヶ丘貝塚」の正確な位置はその後の都市化の中で分からなくなってしまった。 有坂鉊蔵教授は発見の模様を「向ヶ丘という場所は大学の裏門を距てた通りの向かい側で、根津の街を眼下に見る丘であるが、今日では弥生の街が建って遺跡の正確な位置は分かりません」(参考文献2,p,4)「その頃、弥生町という街はなかった。・・・その辺は一面の草原で、当時は家など一軒もなく、兎、雉などがおり、狐が出た寂しいところでありました。この後ろの草原のところで貝塚を見つけました」(参考文献2,p,4)と書いている。 向ヶ丘貝塚は次の三カ所の候補地が推定されている。 ①東京大学農学部東外門(サトウハチロウ記念館付近) ②東京大学農学部と工学部の境 ③根津小学校の校庭内の崖上 しかし根津の町を眼下に見て、不忍池を臨むとされる「幻の向ケ岡遺跡」の位置は、推定されている三地点は崖段から離れていたり、不忍池が見えなかったりするため、適切でないと指摘されている。弥生二丁目遺跡は、文献上からも出土品からも、「弥生式土器発掘ゆかりの地」のある場所が最初の弥生式土器の発見地に近いとする見解が有力である。

弥生二丁目遺跡

1974年に根津小学校の小学生が東京大学工学部9号館脇で土器片や貝殻をみつけた。樹木が倒伏した跡に土器が露出していた。根津の谷に面した丘陵の崖縁に沿う2条の交差する溝を発見し、発掘調査が行われた。1975年、東京大学の文学部考古学研究室と理学部人類学教室が発掘調査を行った。貝層と土器、新しい溝の三者は同一時期に属するものであることが明らかとなり、貝層を構成する貝が鹹水産の貝類からなることが判明した。

出土

1884年に発掘された壺形土器は、東京大学総合研究博物館が保管する。 1975年の調査で、溝から弥生土器5個体、灼骨、砥石が出土した。

規模

不明。

指定

1974年(昭和49年)、東京大学構内の旧浅野地区の発掘調査により、二条の溝と貝層、弥生式土器等が検出された。都心部における弥生時代の数少ない貝塚を伴う遺跡として重要であることが評価され、1976年(昭和51年)に「弥生二丁目遺跡」として国の史跡に指定された。この地(従来の3説の地とは異なる地点)が最有力と言われる。

  • 1976年6月7日、「弥生二丁目遺跡」として国史跡に指定

年代測定データベース

弥生二丁目遺跡のデータはない。

弥生式土器発掘ゆかりの地

東京大学の農学部と工学部の境に「弥生式土器発掘ゆかりの地」の碑がある。

  • 「弥生式土器ゆかりの地」碑
  • 所在地:東京都文京区弥生2丁目11番
  • 交通:東京メトロ千代田線「根津」駅より徒歩約3分 東京大学は遺跡解説板を設置した。

文京ふるさと歴史館

  • 開館時間:午前10時~午後5時
  • 休館日:毎週月曜日、毎月第4火曜日
  • 入館料:100円、中学生以下・65歳以上、「友の会」会員の方は無料
  • 所在地:113-0033 東京都文京区本郷4-9-29
  • 交通:丸ノ内線・大江戸線 本郷三丁目駅または三田線・大江戸線 春日駅から徒歩5分

参考文献

  1. 坪井正五郞(1889)「帝國大學の隣地に貝塜の跟跡有り」『東洋學藝雜誌』第6巻第88号、東京社
  2. 渡辺直径(1975)「大学構内向ヶ丘貝塚」東京大学理学部弘報, 7(4), pp.4-6

串田新遺跡2023年05月17日 23:29

串田新遺跡(くしだしんいせき)は射水市の丘陵に位置する縄文時代中期、古墳時代の遺跡である。

概要

「串田新式土器」は縄文時代中期後葉の土器で、富山県と周辺の限られた地域のみで分布する。北陸地方の縄文時代中期後葉の標識遺跡である。

調査

昭和46,47年に大門町及び県教育委員会による発掘調査が実施され、竪穴住居跡・石組炉跡等が検出された。繩文時代中期後半の大規模な集落跡である。

  • 遺構 古墳時代初期の墳丘墓が3基あり、同時期の住居が隣接しており、古墳時代の地域社会の解明上、重要な遺跡である。

指定

  • 1976年 国の史跡指定

アクセス等

  • 名称:串田新遺跡
  • 所在地:〒939-0416 射水市串田新289-1
  • 交通:あいの風とやま鉄道越中大門駅→射水市コミュニティバス⑩櫛田・大門経由小杉駅線(コミュニティセントー行き)「あいの風とやま鉄道越中大門駅」から乗車→「松原公民館前」下車→すぐ

正倉院2023年05月17日 23:39

正倉院(しょうそういん,Shosoin)は、奈良県奈良市に所在する東大寺大仏殿の北西にある校倉造木造の高床式倉庫である。

概要

建築概要

正倉院はもともと東大寺の倉庫の一つである。東大寺は寺の什物や記録類を保管する倉庫を建築した。正倉院は東大寺大仏殿の裏手である北西方向に250メートル離れた場所に建つ。当時は正倉院と呼ばれる建物は全国各地にあったが、唯一残ったのが東大寺の正倉院であった。 正倉院は南北33メートル、東西約9.4メートル、高さ14メートルの総檜造りの木造建築である。床は地上から2,7メートルあるため入るときは梯子をかける必要がある。内部は3つの区画に分かれ、各区画は北倉、南倉、中倉と呼ばれている。3つの倉は互いに行き来できない。各部屋の東面が唯一の出入り口である。内部は上階と下階に分かれており、階段で上下する。各倉の檜材の年輪は740年から750年に伐採されたものであり、建築年は750年から752年頃に建造されたものと推定される。 756年(;天平勝宝八年)6月21日,聖武天皇の七七忌の忌日に光明皇后は天皇の御冥福を祈念し,遺品など600点あまり薬物60種を東大寺の本尊である盧舎那仏に奉献した。それらを正倉(;現在の正倉院宝庫)に収蔵し永久保存することとした。北倉と南倉は校倉造であり、檜の横木を三角形の断面とし、ログハウス風に積み重ねて壁面を構成している。自然乾燥しても隙間ができにくい構造となっている(参考文献1)。

管理主体

明治時代以前は東大寺の所管として、天皇家の直轄下にはなかった。正倉院が内務省管轄になるのは[1875年(;明治8年)4月27日からである(;参考文献2)。明治14年10月にイギリスの皇孫が来遊 した際の記事によれば、この時正倉院の管理をしていたのは奈良博覧会社であった。1883年(;明治16年)、博物館の規則が改正され、内務省から農商務省へ管轄が移った。この時、正倉院の宝器は農商務省、図書は内務省がそれぞれ管理し、勅封開鍼は宮内省が継続したため、実際には三省合同形式となった。三省合同形式では不都合があったため、宮内省に権限を集約させるべしとの建議がなされ、1884年(明治17年)に宮内省に管理が一本化された(参考文献2)</ref>。

戦後は宮内庁の所管となった。現在は宮内庁正倉院事務所の管轄となっており、正倉院宝物及び聖語蔵経巻の保存管理、調査・研究・整理・修補及び復元模造のほか正倉・聖語蔵・東西両宝庫等の建物及び土地の管理などを担当している。

奈良の歴史的建造物のひとつであり、日本の国宝に指定されており、またユネスコ:]の世界遺産に登録されている。 正倉院「正倉」外構は事前申し込みにより、公開される。正倉院展の時期は外構が公開される。

諸元

  • 間口約33メートル
  • 奥行約9.4メートル
  • 床下約2.7メートル
  • 総高約14メートル
  • 床下には直径約60センチの丸柱

正倉院宝物盗難事件

正倉院宝物盗難事件

参考文献

  1. 参考文献1 奈良国立博物館(2021)『第73回 正倉院展』奈良美術協会
  2. 参考文献2 高橋亮一(2015)「正倉院の近代 : 明治時代における保存政策とその過程」國學院大學博物館學紀要40,pp.93-119

金銅鎮鐸2023年05月17日 23:56

金銅鎮鐸(こんどうちんたく,Gilt Bronze Bell Ornament)は正倉院に伝わる19個の古代の大型風鈴である。

概要

第一号は胴の断面が釣り鐘型で、第二号は断面がひし形で銅鐸の技法により製作されている。第一号其8は聖武天皇の一周忌法要に使われた第二号は文様を刻んだ外型を2つ作り組み合わせて中型をはめ込み、溶けた銅を流し入れて作った。「造東大寺司」に属した異なるグループが製作したと考えられている。

構成

第一号其8の表面に刻まれた銘文に「天平勝宝九歳五月二日」の年紀がある。その法会で使用されたものである。「金銅鎭鐸 第1号 其3」も同様である。

材質

銅製鍍金

展示歴

第1号 其3

  • 2019年 - 第71回

第2号 其1

  1. 1940年- 正倉院御物特別展 : 紀元二千六百年記念
  2. 1954年- 第8回 
  3. 1996年- 第48回
  4. 2008年- 第60回

管理

金銅鎮鐸 第1号 其3

  • 登録名:金銅鎮鐸 第1号 其3
  • 倉番 : 南倉 164
  • 用途 : 仏具
  • 技法 : 金工
  • 寸法 : 身高16.0 口径10.5 風招幅19.5
  • 材質・技法 :銅製鍍金 内面は丹塗 鉄

金銅鎮鐸 第2号 其1

  • 登録名:金銅鎮鐸 第2号 其1
  • 倉番 : 南倉 164
  • 用途 : 仏具
  • 技法 : 金工
  • 寸法 : 身高17.6 口長径8.6 風招幅20.9
  • 材質・技法 :銅製鍍金 緑青塗 内面は丹塗 鉄

注・参考文献