宮地嶽古墳 ― 2023年05月26日 21:56
宮地嶽古墳(みやじだけこふん)は福岡県にある7世紀前半の円墳である。 巨大な石室と豪華な副葬品で知られる。
概要
被葬者は、宗像一族の首長墓であるとされる。、福岡県福津市の宮地嶽神社境内にある古墳時代終末期の円墳である。石室は参拝可能な石室としては最大である。
調査
遺構
墳丘形状は大型で、直径は34メートル、横穴式石室の長さが約22メートル。内部の横穴式石室は全長23m、最人幅2.8m、天丼までの高さは最大3.1m。
規模
- 直径 - 58;34m
出土遺物
金銅装馬具、金銅刀装具、緑に輝く瑠璃玉、緑瑠璃板、金銅透冠、ガラス板など、300点が発見された。金銅装の豪華な馬具は、各種文様を薄肉彫りするなど装飾性に富む。頭椎大刀は、推定全長2.8mという巨大刀である。歩揺を垂下した冠は、透彫りによって流雲文の間に竜を配置した。宮地嶽古墳の正面の山すそから出土した瑠璃壷と銅壷は八世紀の火葬した骨を入れる骨壷と考えられる。埴輪はない。
指定
- 昭和27年3月29日(国宝指定)
展示
出土品は宮地嶽古墳出土品として九州国立博物館と東京国立博物館に保管展示される。
アクセス
- 名称:宮地嶽古墳
- 所在地: 811-3309 福津市宮司元町7-1
- 交通: 福間駅下車、駅前よりバス(タクシー)約5分、徒歩約25分(約2km)
参考文献
- 大塚初重(1996)『古墳事典』東京堂出版
- 池ノ上宏・花田勝弘(1999)「筑紫・宮地嶽古墳の再検討」(『考古学雑誌』第85巻 第1号)
- 青木敏(2022)『古墳図鑑』日本文芸社
平塚川添遺跡 ― 2023年05月26日 22:02
平塚川添遺跡(ひらつかかわぞえいせき)は、福岡県朝倉市にある弥生時代中期から古墳時代初頭の古代遺跡である。
概要
全国的にも極めて貴重な多重環濠集落の跡である。「原の辻遺跡」と佐賀の「吉野ヶ里遺跡」とともに九州における3大環濠集落の遺跡とされる。久留米の北東、筑豊の南にあり、筑紫平野の北東に位置する。遺跡の西側に筑後川支流の小石原川が流れ、遺跡は小石原川流域に含まれる標高20メートル程度の微高地である。弥生時代中期前半に形成され、中期中頃に一時中断され、後期になって再び形成され、多重環濠を伴って拡大発展し、古墳時代初めまで存続した。古墳時代初めに環濠の大半は埋没し、建物、竪穴式住居が造られている。それ以降の遺物は全く出土しない。
調査
1990年(平成2年)に平塚工業団地の造成中に発見された。甘木市教育委員会と福岡県教育委員会により1991年(平成3年)8月から1993年(平成5年)5月まで発掘調査が行われた。多数の木製品が出土するなど、弥生時代の重要な大規模遺跡であることが明らかになり、発掘成果が最終日の14日に合同記者発表された。以後、関係機関、土地保有者等々の協力を仰ぎ、平成6年5月には「国指定史跡 平塚川添遺跡」となり、保存・復元事業が平成8年から開始された。平成13年5月、「平塚川添遺跡」は、復元された建物群や環濠を備えた「平塚川添遺跡公園」として一般公開された。環濠には当時(弥生後期)と同じように水が張られ、公園内には九州大学農学部井上晋助教授(植物分類生態学)の指導の元、当時の植生を推定再現した樹木、水生植物が植えられ、環濠内には「水すまし・ゲンゴロウ」などの水生動物も放された。実際に水まで張った大規模復元遺跡は我が国でも初めてのケースである。
遺構
約17haの範囲に多重環濠、竪穴建物跡約300軒、掘立柱建物跡約100軒が確認される。現在までに六重の環濠が確認されている。 中央部に内濠に囲まれた約2ヘクタールの楕円形の「中央集落」が存在する。住居のほか、中央部と北東隅に大型の掘立柱建物跡が検出された。 環濠の断面は殆どがU字形で、濠と濠の間隔は、1から4重目までは間隔が3mから5mである。4重目と5重目の間は約8mと広い。5重目と6重目の間は1mと狭くなっている。6重目の濠は最も規模が大きく、幅約23m、深さ2mになり、内側の掘り込みは垂直に近く、全体としてはV字形に深くなっている。この環濠の役割は、魏志倭人伝にいうところの「倭国乱」に備えたものと推定される。
遺物
内濠に囲まれた中央集落の外側に、七つの「別区画」と位置づけられた小集落が確認されている。そこからは、ガラス製菅玉、中国の貨銭、蛇紋岩製菅玉、多量の木製品、未使用木材などが発見されており、青銅器の鋳造工場跡と見られる遺構や倉庫と推定できる高床式建物跡なども発見されている。 環濠から採取された珪藻化石の完形殻の出現率が40%と低い。環濠堆積物上層は、沼沢 湿地付着生種群が優勢し、陸生珪藻を比較的多く伴い、止水性の珪藻化石も産出する。これらのことから、弥生時代終末の環濠は、定常的に水没していたとは考えにくく、しばしば干上がり乾燥することもあったと考えられる。
類例
指定
- 1994年(平成6年)5月19日 – 遺跡部の112,073.88平方メートル(約11ヘクタール)の区域が史跡に指定された。
アクセス
- 名称:平塚川添遺跡
- 所在地:〒838-0059 福岡県朝倉市大字平塚444-4
- 交 通:甘木駅から西鉄甘木線「上浦」下車、徒歩19分
参考文献
- 原田実(2004)『邪馬台国浪漫譚―平塚川添遺跡とあさくら路』梓書院
- 甘木市教育委員会(1993)「平塚川添遺跡 : 発掘調査概報」
船塚古墳 ― 2023年05月26日 22:04
船塚古墳(ふなづかこふん)は佐賀県佐賀市に所在する5世紀中頃(古墳時代中期)の前方後円墳である。「今山船塚古墳」とも言われる。
概要
佐賀県では最大規模の古墳である。脊振山地南麓のゆるやかな傾斜地にあり、南北方向を主軸とし、前方部を南方に向ける。西側くびれ部前方部寄りに造出がある。周濠は楯形である。墳丘上には葺石がみられ、後円部頂から家型埴輪が出土する。墳丘北側では陪塚7基(かつては11基)の築造が知られる。墳丘は3段築成で、周囲に幅12~18メートルの周濠が巡る。これらの形態は古墳中期の特色である。遺物は盗掘時の出土とみられる大型勾玉1個のみ採集された。円墳7基(元11基)が陪塚状に周囲をとり囲む。
調査
現在までに本格的な発掘調査は実施されていない。
規模
- 形状 前方後円墳
- 築成 前方部:3段、後円部:3段
- 墳長 114m
- 後円部 径63m 高10m
- 前方部 幅62m 長50m 高9m
遺構
- 槨 竪穴式石室(盗掘時の伝聞による)
- 棺 長持形石棺2(盗掘時の伝聞によるが疑問)
埴輪
- 円筒埴輪 円筒Ⅲ式
- 形象埴輪 家形埴輪(後円部頂出土)
- 葺石 あり
遺物
- 硬玉勾玉 1
築造時期
被葬者
指定
- 1953年(昭和28年)11月3日 佐賀県指定史跡
アクセス等
- 名称:船塚古墳
- 所在地:840-0213 佐賀県佐賀市大和町久留間字東角
- 交通: JR佐賀駅→昭和バス中極小城行きで30分、バス停:大久保下車、徒歩15分
参考文献
- 肥後和男・竹石健二(1973)「日本古墳100選」秋田書店
- 大塚初重(1996)『古墳辞典』東京堂出版
女狭穂塚古墳 ― 2023年05月26日 22:05
女狭穂塚古墳(めさほづかこふん)は宮崎県西都市三宅に所在する前方後円墳である。
概要
九州最大の前方後円墳で、墳長は約176メートル。5世紀前半中頃に造られたと推定される畿内式前方後円墳で、発掘調査が行なわれておらず、被葬者は判明していない。 宮内庁書陵部の調査によれば、檀状部にある参拝所から円筒埴輪が出土している。
構成
墳丘規格は百舌鳥古墳群の上石津ミサンザイ古墳の2分の1、仲津山古墳の5分の3と指摘されている。墳丘は3段築。北東側と南東側のくびれ部に造り出しがある。墳丘周囲に幅14mから18mの堀が盾形にめぐる。その外に高さ2.2m、幅15mから18mの外堤がある。後円部は直径94mから97mとほぼ正円である。平成16年(2004)度から3年かけて、地中レーダー探査が進められた。
規模
- 形状 前方後円
- 築成 前方部:3段、後円部:3段
- 墳長 176m
- 後円部 径97m 高15m
- 前方部 幅109m 長90m 高13m
- 外表施設 円筒埴輪
- 円筒・朝顔形Ⅲ式 形象埴輪
- 葺石 あり
- 【造出】あり(くびれ部双方)。
- 【周濠】あり(墳丘南側は二重)。
- 【周堤】あり。
築造時期
- 5世紀前半(古墳時代中期)頃の築造とされている。
出土品
家形埴輪・鶏形・盾形・冑形・肩甲形・短甲形・草摺形埴輪)がある。円筒埴輪は器壁が厚く、突帯端面が重厚、淡褐色、黒斑を有する特徴を示し、野焼き焼成とみられる。女狭穂塚古墳からの出土品は、円筒埴輪・、楯形埴輪、三角板皮綴短甲、肩甲埴輪、草摺、形状不明(入母屋か)、形状不明(埴輪あるいは椅子か)
被葬者
実際の被葬者は明確ではないが、宮内庁は木花開耶姫の陵墓として宮内庁陵墓参考地としている。
アクセス等
- 所在地:宮崎県宮崎県西都市大字三宅字丸山
- 交通: JR南宮崎駅から徒歩3分の宮交シティバスターミナルから西都行き宮崎交通バスで1時間3分、西都バスセンター下車、タクシーで5分
参考文献
- 肥後和男・竹石健二(1973)「日本古墳100選」秋田書店
- 大塚初重(1996)『古墳辞典』東京堂出版
男狭穂塚古墳 ― 2023年05月26日 22:06
男狭穂塚古墳(おさほづかこふん)は宮崎県西都市三宅に所在する帆立貝式古墳である。
概要
男狭穂塚古墳・女狭穂塚古墳は南九州の古墳文化が頂点に達する5世紀前半に築造され、それまでに複線的な首長系列を統一する盟主的な墳墓である。 主円丘部の北西方向に重要文化財の子持家形埴輪、舟形埴輪を出土した169号墳、170号墳がある。両古墳は陪塚と考えられている。古墳の現況は杉などに覆われている。
構成
主円丘は三段築成の造り出し付き円墳である。墳丘周囲に檀状部東南側が耳輪状の堀を二重に巡らせ、その間に中堤がある。
規模
計測された墳丘規模は全長249.1m、墳長154.6m、主円丘部径132.0m、同高さ19.1m、同標高85.6m、くびれ部幅45.5m、造り出し幅40.7m、同高さ4.5m、標高71.4m、内堀幅15mから18m、中堤幅17mから23m、外濠幅20mから25mであった。主円丘部の直径は女狭穂塚古墳より大きい。外堀の北部から西部に幅130mの渡り土堤がある。 主円丘部は130.0mから132mの正円である。墳頂はほぼ水平で幅31.0m33.0mの平坦面である。造り出し付きの円墳とすれば、馬見古墳群の乙女山古墳(奈良県)を抜き、日本最大の円墳となる。
築造時期
5世紀前半(古墳時代中期)頃の築造と推定される。
出土品
地中探査レーダー
地中探査レーダーにより地中の様子が判明した。前方部西側は第1周溝は逆「く」形に湾曲し、前方部に沿うように伸びている。端部は第2周溝に接するまで伸び、前方部前面には周濠は巡らない。周堤帯突端部は三角形状に先が細くなる。第2周溝は現状で当初の形状を維持する。前方部は西面と前面で大きく削られており、本来の形を残していない。前方前端は現状より20m南側となる。男狭穂塚古墳の本来の墳丘長は175mから176mとなる。第2周溝の端部を結んだライン上に前方部前端が来ることになり、規格性の高い設計プランが伺える。前方部幅は、現状より10mから15m広かった。
被葬者
実際の被葬者は明確ではないが、宮内庁は「男狭穂塚陵墓参考地」(被葬候補者:瓊瓊杵尊)とする。
アクセス等
- 所在地:宮崎県西都市三宅
- 交通: JR南宮崎駅から徒歩3分の宮交シティバスターミナルから西都行き宮崎交通バスで1時間3分、西都バスセンター下車、タクシーで5分
参考文献
- 肥後和男・竹石健二(1973)「日本古墳100選」秋田書店
- 大塚初重(1996)『古墳辞典』東京堂出版
- 宮崎県教育委員会(2007)『男狭穂塚古墳陵墓参考地地中探査事業報告書』
- 宮崎県教育委員会(1999)『男狭穂塚女狭穂塚陵墓参考地測量報告書』
江田船山古墳 ― 2023年05月26日 22:07
江田船山古墳大刀銘(えだふなやまこふんたちめい)は江田船山古墳から出土した大刀に刻まれた銘文である。東京国立博物館に保管展示されている。
概要
75文字の銘をもつ銀象嵌銘大刀である。全長90.6センチメートル、5世紀後半に日本で書かれた現存する最古の金石文であり、獲加多支鹵大王は雄略天皇に比定する説が通説となっている。刀は練りを80回、打ちに打った三寸の刀など、治天下、八十練、十振など日本独特の表現がある。埼玉古墳群・稲荷山古墳の獲加多支鹵大王と同じ文字が刻まれる。大王が刀を持つ者の政治力・軍事権を認めたと解釈されている。
発見の経緯
1873年(明治6年)、熊本県玉名郡和水町にある江田船山古墳から横口式家型石棺が検出され刃渡り85.3センチメートルの大刀と銀象嵌の銘文が発見された。大正末期に日本刀の研師により研磨されたが、研磨により失われた文字が生じた。
原文
- 台(治)天下獲□□□鹵大王世、奉事典曹人名无□(利)弖、
- 八月中、用大鐵釜、并四尺廷刀、八十練、□(九)十振、
- 三寸上好□(刊)刀、服此刀者、長寿、子孫洋々、
- 得□恩也、不失其所統、作刀者名伊太□(和)、
- 書者張安也
大意
天下を治めていた獲加多支鹵大王の世に、典曹に奉事していた人の名前は无利弖(ムリテ)。八月中、大鉄釜を使って、四尺(1m強)の刀を作った。刀は練りに練り、打ちに打った立派な刀である。この刀を持つ者は、長寿して子孫も繁栄し、さらにその治めている土地や財産を失ことはない。この刀を作った者は伊太和、文字を書いた者は張安である。
治天下
稲荷山鉄剣銘に「佐治天下」と共通しており、倭国が早い段階から独自の中華意識を形成した証拠とされる。しかし、中国では「治天下」は「王」を対象とする語であることは栗原朋信(1978)により指摘されている。大刀銘の「治天下」は皇帝の臣下の王の統治を示すものとの意図が垣間見えるため、独自の中華意識との証拠にはならないとの指摘がある。
獲加多支鹵大王
稲荷山鉄剣銘に刻まれる獲加多支鹵大王と同一とみられる。本作には年紀の記載がないため、雄略天皇の時代とは特定できない、「大王世」という表現は過去の治世を振り返る用語とされる(東野治之(2004),p.103)。大刀銘の製作時点では大王は没していたとみるべきとされる。 しかし刀を作ったときが雄略の時代ではなかったとしても、それほど遠い時期ではないと思われる。なぜなら「ムリテ」の記憶がまだあった時代に刀を作った存命の頃であるだろうし、文字を書けた張安はヤマト政権に属していたものであろだろう。
指定
昭和40年に国宝に指定された。
参考文献
- 東野治之(2004)『日本古代金石文の研究』岩波書店
- 栗原朋信(1978)『上代日本対外関係の研究』吉川弘文館
唐仁大塚古墳 ― 2023年05月26日 22:09
唐仁大塚古墳(とうじんおおつかこふん)は鹿児島県東串良町にある前方後円墳である。 「唐仁1号墳」ともいう。
概要
大隅半島東岸の志布志湾沿岸に広がる平野の砂丘上にある。古墳時代中期で、約130基の古墳で構成される唐仁古墳群の古墳の一つである。その1号墳が唐仁大塚古墳である。唐仁古墳群は前方後円墳3基・円墳119基・不明等8基の計130基から構成される。。周囲に周溝が廻り後円部頂上に大塚神社が鎮座する。神殿と拝殿の渡り廊下の下に竪穴石室の石蓋が露出し、石室内は中が朱塗りされる。鹿児島県下で最大規模の唐仁古墳群の中心的古墳であり、九州内でも3番目の規模である。墳形は前方部が低く、幅が狭い柄鏡式前方後円墳とされる。西都原古墳群(宮崎県西都市)の男狭穂塚古墳・女狭穂塚古墳に先行するとされる。
調査墳
1923年(大正12年)、瀬之口伝九郎が古墳を報告した。1928年に竪穴式石室をあけると、内部に凝灰岩製の長さ2.7mの長持形石棺がおかれ、石棺に接して横矧板鋲留式の短甲が副葬されていた。記録によれば、長持形石棺は開いていなかったという。棺身、棺蓋とも前後の両端に2個ずつの網掛突起が作り出されている。棺蓋の外形にはかまぼこ型の丸みがあり、典型的な長持形石棺といえる。 長持形石棺と短甲があることから、築造年代は5世紀後半とみられる。 1992年度(平成4年度)に1号墳の墳丘測量調査(東串良町教育委員会)を行う。
遺構
- 長持形石棺
遺物
- 【武具】鋲留短甲 - ①あり。 横矧板鋲留式
規模
- 形状 前方後円墳
- 墳長 140m
- 後円部 径65m 高9.7m
- 前方部 幅36m 長70m 高3m
- 外表施設 葺石あり
- 主体部 室・槨 ①竪穴式石槨 棺,①舟形石棺,②箱形石棺
- 【周濠】あり(前方後円形、前方部は現在埋没)。
指定
- 1934年(昭和9年)1月22日 -唐仁古墳群は国の史跡に指定
アクセス等
- 名称:唐仁大塚古墳
- 形式:前方後円墳
- 被葬者: 不明
- 築造時期: 古墳時代中期頃~後半
- 所在地: 鹿児島県肝属郡東串良町新川西5095番地
- 交通: JR「志布志駅」から車で約35分
参考文献
- 大塚初重(2019)『巨大古墳の歩き方』宝島社
- 大塚初重(1996)『古墳事典』東京堂出版
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