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誉田御廟山古墳2023年05月25日 00:00

誉田御廟山古墳(こんだごびょうやまこふん, Konda Gobyoyama Tumulus)は大阪府羽曳野市に所在する前方後円墳である。 「誉田山古墳」ともいう。宮内庁は「応神天皇陵古墳」と呼ぶ。

概要

古市古墳群のひとつで、日本一体積が大きい古墳とされる。面積は大山古墳についで二番目であるが、封土量では大山古墳より28,094m3より多い。宮内庁が管理しているため、立ち入った学術調査ができないが、高橋逸夫の墳丘土量計算によれば、1,433,960m3とされる。

構成

墳丘は三段築成で、左右のくびれ部両側に方壇状の造出しがある。この種の古墳の標準形とされる。前方部の西側の稜線が多少崩れているが、そのほかは明確である。 墳丘の周りに二重の周濠と堤がある。外濠の多くは田圃に使用されているが。東側と北側は、明確である。内濠と外濠の間の土堤は幅が広い。 墳丘と内堤の内外の法面に葺石が敷かれている。墳丘の平坦部と内堤・外堤に円筒埴輪が巡らされる。墳丘内部は調査されていないため不明であるが、竪穴式石槨と長持形石棺があると見られている。

規模

大山古墳(大阪府堺市)に次ぐ全国第2位の規模となっている。

  • 墳丘長 約425メートル、(420m、415m説あり)
  • 後円部直径250メートル、(252m、267m説あり)
  • 後円部高さ35メートル、(36m説あり)
  • 前方部幅300メートル、(330m説あり)
  • 前方部高さ36メートル(34m、35m説あり)

副葬品

埴輪は朝顔形円筒埴輪、形象埴輪(家型埴輪・器財埴輪、動物埴輪、蓋・盾・靫・草摺短甲形、水鳥形(8体)、馬形)など。土製品は魚形(クジラ・イルカ・タコなど)。木製品は蓋形、鋤形、板状、棒状、天秤)棒状、傘状など。宮内庁、京都大学、東京国立博物館などに保管されている。

陪冢

東山古墳、アリ(蟻)山古墳(消滅)、誉田丸山古墳、栗塚古墳、東馬塚古墳は、推定築造時期から誉田御廟山古墳の陪冢とも考えられている。そのほか盾塚古墳、珠金塚古墳、鞍塚古墳などがある。これらの陪塚からは多量の鉄製武器、武具を中心とした鉄製品の埋納が認められている。 丸山古墳は嘉永年間に発掘され、副葬品として、金銅透彫鞍金具と、金銅轡鏡板(馬具)、金銅花形辻金具、鹿角装刀残闕、鉄鏃、鎧等残闕などが発見されている。金銅透彫鞍金具と金銅轡鏡板は国宝に指定され、現在は誉田御廟山古墳の南側にある誉田八幡宮で保管されている。二つ塚前方後円墳は誉田御廟山古墳の周濠がこの古墳を避けて作られていることから、陪塚ではなく、より古い時期の築造と考えられる。

築造時期

築造された時期は5世紀初頭とみられる。しかし異説もある。金銅透彫鞍金具の朝鮮半島の盛行年代から5世紀代でも末期から6世紀初めとする説がある。

被葬者

実際の被葬者は特定されていない。宮内庁は応神天皇陵に治定している。

日本書紀と古事記

古事記』には、「御陵在川内恵我之裳伏岡也」と書かれる。。「恵我(ゑが)」の領域は、現在の石川の流域の西側から東徐川流域にかけての藤井寺市、羽曳野市の比較的広い領域と考えられている。『日本書紀』には、「応神天皇陵」に関する直接的な記載はみられない。雄略天皇九年[西暦四六五年に相当]秋七月の条の中で、有名な「埴輪馬はにま伝承」の一節に、河内国言として「蓬蔂丘の誉田陵」という陵名が記されている。  『延喜式』(西暦九二七年編纂)巻二十一諸陵寮には、「恵我藻伏崗陵、在河内国志紀郡、兆域東西五町南北五町、陵戸二烟、守戸三烟」と書かれ、『扶桑略記』には「高五丈、方五町」と書かれ、一町は約109mなので、墓域は約545m×545m相当とみなしていることになる。現在、外濠を含めると、南北は五町三七間ある。

日本書記の埴輪

ある晩、一人の男が孫の誕生を祝って訪れた娘の婿の家でのお祝いの月夜の帰り道に、たまたま応神陵の下を通りかかったところ、馬に乗った人に出会った。月明かりに照らされたその人の馬をみると、何とも素晴らしい姿かたちをした赤い馬であった。自分の乗っている馬と比べるとはるかに足も速く、男は自分にもこんな馬が欲しいものだと願った。するとその赤い馬に乗った人は男の願いを察してか、お互いの馬を取りかえてもよいと言う。男は喜んで赤い馬に乗って家に帰ると、大切な馬をうまやにつなぎ、鞍を外しまぐさを与えて床についた。 さて次の日の朝、男が昨晩手に入れた赤馬のすがたを、あらためて確かめようとうまやに行ってみると、どうしたことか、そこにはくだんの駿馬にかわって土でつくった埴輪が立っていた。不審に思った男が昨夜馬を交換した応神陵へ行くと、陵に立つ土の馬の間に、取りかえた自分の馬が立っていた。早速、馬と埴輪を取り換えて帰ってきた。(『日本書紀』雄略天皇九年条)

指定等

  • 世界文化遺産「百舌鳥・古市古墳群」のひとつとして2019年7月6日登録されている。

アクセス等

  • 所在地:大阪府羽曳野市誉田6丁目11-3
  • 交通:近鉄南大阪線・土師ノ里駅より南西へ約1.2km 徒歩約18分。

参考文献

  1. 肥後和男・竹石健二(1973)「日本古墳100選」秋田書店
  2. 大塚初重(1996)『古墳辞典』東京堂出版

峯塚古墳2023年05月25日 00:01

峯塚古墳(みねづかこふん)は、大阪府羽曳野市にある5世紀後半の前方後円墳である。古市古墳群(世界文化遺産)を構成する古墳のひとつである。「峰ヶ塚古墳」ともいう。

概要

一般の立入りが制限されている陵墓の多い古市古墳群の中で古墳を間近に見ることができる数少ない前方後円墳の一つである。副葬品や出土した埴輪の特徴から5世紀末頃に築かれたと考えられる。古市古墳群の中では内部施設が発掘調査されている数少ない前方後円墳である。現時点では竪穴式石室と考えられる。

調査

平成2年度の調査で初めて古墳の造出しを確認した。令和元年度、令和2年度に造出しの発掘調査を行った。1991年(平成3年)の発掘調査により後円部墳頂付近で新たに確認された石室から、盗掘を受けていたものの、多くの副葬品が発見された。この中に銀や鹿角製などの装飾品を付けた大刀をはじめ、武器や武具、馬具など軍事的な副葬品や、装飾品となる金銅製の冠帽や帯金具、魚佩、銀製の垂飾りや花形飾り、ガラス玉や石製玉類などがあり、総数は3,500 点以上に及ぶ。。 令和元年度は、古墳のくびれ部東寄りで調査を行い、造出しの東辺と後円部裾を確認した。また、古墳の後円部と造出しは溝に掘り込んで区切られていたことが分かった。 令和2年度は、造出しの西辺部を確認するため調査を行ったが、想定より造出しの規模が大きく、西辺を確認することができなかった。令和3年度の発掘で西側に約1.5mのところで、造出しが墳丘に向かって屈曲していることを確認した。造出しの規模は約20mの長さになることが分った。外側には内堤、更に外側には外濠をめぐらせる。外濠は傾斜する地形の影響で場所によって幅や深さなどに違いがあるが、古墳の西・北・東側に巡らされていることが確認された。墳丘の盛土(もりつち)は土質の違いや積み方などによって4段階の築造過程が復元される。各工程で使用される土砂の種類は粘土質や粘土、砂質土を区別し透水性や締まり具合などを考えて盛り土を施す。このことは、南側の内堤の盛土の調査でも確認されました。葺石は墳丘上段斜面の裾部分のみに施され、盛土を行なう時に崩れ易い下部を補強するためのもので、墳丘斜面の全面に施されてはいない。第4次調査の時に後円部墳頂部で見つかった石室は、盗掘で天井や側壁の石は抜き取られていたが、現墳頂より約3m下に築かれていることが判明した。石棺は阿蘇産の溶結凝灰岩製で、色の違う2種類の石材が見つかっている。長持山古墳(藤井寺市)2号棺と同じように一つの石棺で、蓋と身の部材による色の違いと考えられる。

規模

  • 形状 前方後円噴
  • 築成 前方部:2段?、後円部:2段?
  • 墳長 96m
  • 後円部 径56m 高9m
  • 前方部 幅74.4m 長50m 高10m
  • 外表施設 円筒埴輪 円筒・朝顔形Ⅴ式
  • 形象埴輪 不明形象(家?)
  • 葺石 あり(2段目斜面裾部分のみ)
  • 主体部
    • 室・槨 竪穴式石槨か?
    • 棺 刳抜式石棺

構造

墳丘の周囲には幅18mの内濠がめぐり、現在のため池がその名残りである。

遺構

遺物

2022年12月8日、峯ケ塚古墳の発掘調査で、長さ約3・5メートルの木製埴輪が出土した。他の種類を含めて木製埴輪としては国内最大になる。造り出しと前方部の接続部分に立てられていた可能性があるといい、市教委は「葬送儀礼における木製埴輪の役割を考える上で貴重な成果だ」としている。

  • 【玉類】碧玉:管玉71、滑石:臼玉14、勾玉1、ガラス:玉4、小玉519。
  • 【装身具】その他装身具:
    • 金銅製魚佩3組、
    • 銅製鈴9、
    • 銀製三叉垂飾37以上、
    • 三叉用ガラス玉207以上、
    • 銀製三叉用歩揺35以上、
    • 金銅製歩揺5以上、
    • 金銅・銀製花形飾り50以上、
    • 金銅製冠帽(ガラス玉付金銅製品)。
  • 【武器・刀剣類】鉄刀:15以上。
  • 【武器・鏃】長頸鏃:300以上。
  • 【武具】その他:挂甲。
  • 【農工具】工具:刀子数点。
  • 【馬具】轡2、鐙(木心金板張壺鐙・兵庫鎖付)、鞍、(革綴付方形海金具・鉄製覆輪)、辻金具多数。
  • 【その他】外濠からガラス玉1出土。
  • 帯金具

指定

  • 昭和49年4月 国の史跡に指定

アクセス

  • 名称:峯ヶ塚古墳
  • 年代: 6世紀初頭
  • 所在地:〒583-0854 大阪府羽曳野市軽里2丁目
  • 交 通: 近鉄南大阪線 古市駅から1189m。

参考文献

  1. 大塚初重(1996)『古墳事典』東京堂出版
  2. 青木敏(2022)『古墳図鑑』日本文芸社
  3. 国内最大、3.5メートルの木製埴輪」毎日新聞、2022年12月8日

河内大塚山古墳2023年05月25日 22:49

河内大塚山古墳(かわちおおつかやまこふん)は、大阪府羽曳野市・松原市に位置する5世紀後半から5世紀末の前方後円墳である。6世紀説もある。 単に「大塚山古墳」ともいう。

概要

全国第5位の規模を誇る古墳である。5世紀後半から5世紀末にかけて築造されたと考えられている。墳丘長約335メートル、後円部約185メートル、前方部の幅約230メートル、幅35~70メートルの濠を持つ。百舌鳥古墳群と古市古墳群の中間地点に位置する。

陵墓参考地

1928年(昭和3年)まで、古墳の中に、江戸時代以降、数十軒の集落が形成されていた。墳頂に菅原道真を祭神とする天満宮が祀られ、東大塚側には融通念仏宗の西誉寺と浄土真宗本願寺派の正定寺があった。1925年に陵墓参考地となり強制退去となり、1932年に陵内立入禁止となった。管理は宮内庁が行っている。宮内庁は「大塚陵墓参考地」(被葬候補者:第21代雄略天皇)として陵墓参考地に治定したが、実際の被葬者は不明である。

調査

日本考古学協会など16の学会16人は2010年2月18日午後、大塚陵墓参考地に指定される全国で5番目の規模を誇る巨大前方後円墳・河内大塚古墳の立ち入り調査を行った。前方部は後円部のような盛り土がほとんどなく、平坦であることが分かった。通常の古墳の前方部は山のように盛り上がっていることから、古墳が未完成で被葬者が納められていない可能性が浮上している。また、墳丘内に埴輪や葺石が存在しないことが確認された。

堺市文化財課の十河良和氏説

2013年7月13日、読売新聞朝刊に堺市文化財課の十河良和氏の説が紹介され、氏は河内大塚山古墳は未完成の古墳であると主張した。河内大塚古墳は周濠の深さは極めて浅く堆積土も少ない。前方部の削平にともなう周濠への盛り土の移動がないことから、前方部が異常に低いのは本来の形状であり(Z350)、前方部の盛り土が行われていなかったと結論付けている。そして、安閑天皇が河内大塚古墳を寿陵として築造していたが、皇位継承問題で殺害され、未完の河内大塚古墳には埋葬は叶わず、『書紀』記載の「安閑天皇・春日山田皇女、河内古市高屋陵合葬」の如く、皇后陵への緊急的な埋葬が行われたものと推測している。十河氏は河内大塚古墳が未完成で埴輪が無いことについて、その証拠を河内大塚古墳の南南西5.5kmにある埴輪窯・日置荘西町遺跡に求めた。日置荘西町遺跡から埴輪窯7基と須恵器窯5基が確認されており、埴輪窯の稼動時期は古墳後期(6世紀代)である。埴輪窯の稼動が始まったTK10・MT85頃の円筒埴輪は窯焼成・外面タテハケで埴輪Ⅴ式であるにもかかわらず、4世紀代(野焼きの埴輪Ⅱ・Ⅲ式)に造られた器高が1.2~1.4mの大型品で、段によってスカシ穴が2個以上、鰭付きのものがある特長があり、一般的なⅤ式の埴輪とは違った系譜で日置荘窯系と呼ばれている。 大阪市立大学の岸本直文准教授(考古学)は墳丘に大きく崩れた跡がないのに、高さ20メータの後円部に対して前方部は4.5メータと著しく低く、且つ周濠も浅く、周濠の土を前方部に盛り上げる途中に築造が中断したと考えており、未完成説を支持している。

遺構

古墳時代後期の一部に見られる「剣菱形」と呼ばれる特異な形状である。

遺物

後円部に今でも「ごぼ石」と呼ばれる横穴式石室の天井石と推測される巨石が残され(後期古墳の特徴)ている。

指定

アクセス

  • 名称:河内大塚山古墳
  • 所在地: 〒 580-0011 大阪府松原市西大塚1丁目/羽曳野市南恵我之荘
  • 交 通: 近鉄南大阪線「恵我ノ荘駅」より徒歩10分

参考文献

  1. 大塚初重(1996)『古墳事典』東京堂出版
  2. 青木敏(2022)『古墳図鑑』日本文芸社
  3. 『未完成の安閑天皇陵』読売新聞朝刊, 2011年7月13日、朝刊記事
  4. 『謎の陵墓参考地に初の立ち入り/大阪・河内大塚山古墳』2010年2月18日、四国新聞

今城塚古墳2023年05月25日 22:50

今城塚古墳(いましろづかこふん, Konda Gobyoyama Tumulus)は淀川流域に所在する古墳時代後期の大形前方後円墳である。

概要

富田台地は高槻市内で唯一の台地であり、東西3km南北3kmの台地となっている。中央部に位置し、西向きの前方後円墳である。同時代において淀川流域で最大級の規模である。墳丘の周囲に二重の濠と堤が廻り、葺石や埴輪を備える。築造年代は6世紀前半とされており、継体大王の亡くなった531年した時期と整合する。 人力で濠を彫り、土を積み上げて墳丘をつくり、遠くから運んだ葺石で表面をおおい、埴輪を並べた「造り山」で、後円部墳丘の中心部には埋葬施設が設けられている。 北川内堤から見つかった埴輪祭祀区は、大王陵での埴輪祭祀の様子をしのばせる。前方部の環濠の一部に水が張られており、現在は釣りは禁止されているが、公園化する前は釣り場として市民に利用されていた。

構成

『大阪府の史蹟と名勝』(参考文献1)には「前方後円墳にして西西北面する。左右の幅約八十間、後円封土の高さ約四十尺に及ぶ。周囲に濠あり。その幅約三十間。濠を巡り幅十数間の中堤あり。更にその外側に幅二十間位の濠あり。すなわち二重の制なり。後円部の頂上と思われるところ少し掘り下げたる痕跡あり。全山すべて松山にして、濠の大部分は埋め立てて田となれり。陪塚数個あり。西方氷室塚の外はすべて破壊され、その原型を失へり。西北の前塚より凝灰岩よりなれる小石棺が出た」と書かれる。1596年の伏見地震による地滑りで、墳丘の盛土の多くが内濠へ滑落したことが判明した。

規模

  • 形状 前方後円墳
  • 墳長 186m
  • 後円部 径100m 高11m
  • 前方部 幅141.5m 高12m
  • 外表施設 円筒埴輪 円筒Ⅴ式
  • 形象埴輪 家、馬、挂甲着装武人・人物
  • 【造出】あり(両側、くびれ部前方部寄り)。
  • 【周濠】あり(楯形、2重、全周)。
  • 【周堤】あり(中堤は全周、
    • 外提は前方部前面以外。中堤は北側中央部の一画が幅6mに拡張されている。埴輪群像による祭祀場と推定される。

副葬品

盗掘などの被害により、副葬品や埋葬施設については不明である。3基分の石棺を構成していた石材および金銅製装身具などが発見されている。古墳史上の特徴は、北側(平面図左側)内提張り出し部付近から巨大埴輪祭祀場が検出され、5区に区分けされた65m×6m範囲から多数の埴輪出土があった。家形15、柵形25、蓋形4、太刀型14、盾形1、靱形1、人物18(武人・鷹匠・力士・冠帽男子・坐像男子・巫女)、動物形18(馬形他)、鶏形4、水鳥形13の各埴輪の出土である。 高さ約1.7mの家形埴輪は日本最大である。川本重雄は柵列と門によって四つの区画に分けられていると指摘し、埴輪は継体の皇位継承に至る歴史とその宮殿を表現していると解釈した(参考文献3)。第一区で継体の皇位の正当性を証明し、第二区は豪族時代の館、第三区と四区は大王になってからの館という歴史を埴輪で表現したとする。

  • 須恵器,
  • 土師器,
  • 鉄製品,
  • 木製品,
  • 石棺材

陪冢

数基の陪塚が配される。

築造時期

築造された時期は5世紀初頭とみられる。

被葬者

『延喜式』諸陵寮(参考文献2)によると、継体大王稜は摂津国の三嶋野にあるとされている。宮内庁は(太田茶臼山古墳)を継体稜と治定している。 古墳の被葬者は、埴輪等の出土物の年代的特徴や文献資料の検討などから、第26代継体天皇の墳墓とするのが学界の定説となる。継体大王は后の手白香皇后を通じて大和の王統につながるとされ、入り婿の形で王統の継続性を主張した。そのため継体天皇陵は、その前の応神王朝の墳墓の地である古市(大阪府羽曳野市)・百舌鳥(同堺市)の両古墳群を離れた継体天皇の有縁の地、三嶋野に営まれたと考えられている。

公有化

昭和30年代前半にはほぼ全域が民有地であり、内濠・外濠、周辺一帯に水田が広がり、4か所の池は農業用水の溜池として利用されていた。高槻市は、古墳の保存を図るため、国や大阪府の支援をうけながら約50年間をかけ、ほぼ全域を公有化した。

指定等

  • 1958年(昭和33年)に、日本の歴史を跡づけるかけがえのない貴重な文化財として、国史跡の指定を受けた。それ以前の昭和5年1月25日に仮指定されていた(参考文献1)。
  • 指定面積:約85,210平方メートル

展示等

古墳の北東側に今城塚古代歴史館(高槻市)があり、この古墳の出土物などを展示する。

参考文献

  1. 大阪府編(1932)『大阪府の史蹟と名勝』大阪府
  2. 『延喜式』巻第21 諸陵寮 「三嶋藍野陵 磐余玉穂宮御宇継体天皇。在摂津国嶋上郡三嶋野。兆域東西三町。東西三町。守戸五烟」
  3. 川本重雄(2018)「今城塚古噴出土家形埴輪群について」建築史学 71(0),pp.66-67

安満宮山古墳2023年05月25日 22:51

安満宮山古墳(あまみややまこふん)は大阪府高槻市にある長方形墳である。

概要

安満宮山古墳は大阪府の北東部に位置する。古代の三島評に相当する。高槻市の磐手地区にあり、安満山中腹の南西方向に伸びる尾根上に位置する。標高は120mから125mである。 古墳からは南に生駒山、西に六甲山を見渡すことができる。古墳のある南西斜面に高槻市公園墓地がある。眼下には安満遺跡という弥生時代初期に始まる大環濠集落遺跡がある。 1997n年(平成9年)の発掘調査において、出土品から「青龍三年」の銘鏡及び三角縁神獣鏡が出土した。「青龍三年」は西暦235年であり、最古級の銅鏡である。形式は方格規矩四神鏡であるが、邪馬台国の女王卑弥呼が魏から贈られた「銅鏡百枚」の一部とする説もある。 安満宮山古墳の築造年代はほぼ判明しているので、鏡の製造からそれほど遠くない時に副葬されたと考えられる。出土した埋蔵物の調査から、250年以降からそれほど遠くない270年ぐらいまでの時代の埋納と推定されている。二面の「三角縁神獣鏡」と「鉄斧」が出土するのは、古墳時代への移行が行われていると見られる。

調査

遺構

埋葬施設はコウヤマキ製の割竹形木棺の直葬である。木棺は大部分が腐朽腐食している。真っ赤に朱が塗られた立派な土壙墓である。

出土品

  • ガラス小玉 1641点。
  • 青銅鏡5面
    • 「青龍三年」銘方格規矩四神鏡 直径17.4cm
    • 三角縁獣文帯四神四獣鏡 直径22.5cm
    • 「吾作」銘斜縁二神二獣鏡 直径15.8cm
    • 「吾作」銘三角縁環状乳四神四獣鏡 直径21.8cm
    • 「陳是作」銘平縁同向式神獣鏡
  • 刀子 2
  • 直刀 全長 68.0cm
  • 苧麻布片 2点
  • 板状鉄斧 1
  • 有袋鉄斧 1
  • 鏨 1
  • ? 2
  • 鎌 1 ほぼ完形
  • 須恵器 6世紀中頃

築造時期

3世紀後半の長方形墳。

展示

今城塚古代歴史館 で展示

指定

  • 平成12年6月27日 重要文化財 指定

アクセス等

  • 名称:安満宮山古墳
  • 所在地:〒569-1101 大阪府高槻市安満御所の町
  • 交通: JR西日本東高槻駅から高槻市営バス上成合行きで、磐手橋下車後公園墓地を登って徒歩25-30分。

参考文献

  1. 江上波夫(1993)『日本古代史辞典』大和書房
  2. 高槻市教育委員会(2000)『安満宮山古墳』高槻市文化財調査報告書 第21冊

和泉黄金塚古墳2023年05月25日 22:52

和泉黄金塚古墳(いずみこがねづかこふん)は、大阪府和泉市にある4世紀の前方後円墳である。「黄金塚古墳」ともいう。

概要

前方部を西南に向ける。信太山丘陵の先端部にあり、淡路島や六甲の山並みを一望できる。

調査

1950年、1951年に発掘調査が行われた。巨大な木棺を粘土で覆った埋葬施設が3基並んで見つかり、中央に女性、左右に男性が葬られていた。中央の埋葬施設から卑弥呼が魏に使いを送った景初三年の記年を持つ銅鏡が出土した。後円部から3基の粘土槨(中央槨・東槨・西槨)が検出され、中央槨には割竹形木棺、東槨と西槨には箱形木棺が納められていた。

規模

  • 形状 前方後円墳
  • 築成 前方部:2段、後円部:2段
  • 墳長 85m
  • 後円部 径57m 高8m
  • 前方部 幅34m 長35m 高4m
  • 外表施設 円筒埴輪 円筒・朝顔形Ⅱ式
  • 形象埴輪 家
  • 葺石 あり
  • 主体部 室・槨
  • ①~③粘土槨
  • 棺 ①割竹形木棺、②③箱形木棺

構造

周囲に盾形の周溝が巡り、これを含めると全長は115mとなる。墳丘斜面には葺石がみられ、円筒埴輪が巡らされている。 周濠は前方後円形で、幅8~15m。周濠は現状で7ヶ所の段がある。

遺構

形態上は横から遺骸を収める横穴式石室であるが、割石や切石、河原石などを積み上げる通常の石室構造ではなく、1個の巨大な凝灰岩をくり抜いて石室を作る。墳丘裾部に凝灰岩切石が敷き詰められている。一辺(約9メートル)はほぼ完全なかたちで遺存されている。石敷の外側に砂利が敷き詰められ、その部分を含めると全体は32メートルほどの規模になると推定される。玄室および羨道内から出土した遺物の中から、乾漆棺の破片が検出されてい折り玄室内の作り付け棺の床上に、乾漆棺が置かれていたとみられる。乾漆棺は七宝をはめ込んだ、亀甲型の金具や花模様の金銅製の金具で装飾されていたと推定されている。

遺物

出土品は畿内地域における古墳の副葬品の典型的なセットとして貴重である。 出土品は一括して重要文化財に指定され、東京国立博物館で保管されている。

  • 【鏡】中国:①ⅰ斜縁二神二獣鏡1、①ⅱ画文帯同向式神獣鏡1(景初三年銘)、②ⅰ画文帯環状乳神獣鏡2・三角縁盤竜鏡1、③ⅰ画文帯同向式神獣鏡1。
  • 【玉類】硬玉:①ⅰ硬玉勾玉8・硬玉棗玉5、②ⅰ硬玉勾玉4・硬玉棗玉2、③ⅰ硬玉勾玉2・硬玉棗玉棗玉3、碧玉:①ⅰ碧玉勾玉3・碧玉管玉85、②ⅰ碧玉管玉68、③ⅰ碧玉管玉88、滑石:①ⅰ滑石勾玉17・滑石棗玉多数・滑石臼玉多数、③ⅰ滑石勾玉1、ガラス:①ⅰガラス小玉若干、②ⅰガラス小玉972。【装身具】石製腕飾類:①ⅰ碧玉製車輪石1・碧玉製石釧1、②ⅰ碧玉製鍬形石1。【石製模造品】器財:②ⅰ碧玉製紡錘車2、その他:①ⅰ水晶製筒形石製品1、②ⅰ碧玉製筒形石製品2。
  • 【武器・刀剣類】鉄剣:①ⅱ10(短剣18)、②ⅰ4、③ⅰ3、鉄刀:①ⅱ9、②ⅰ2、③ⅰ3、鉄槍:②ⅱ3、③ⅱ1、鉄鉾:②ⅱ1。
  • 【武器・鏃】その他の鉄鏃:②ⅱ110(無茎広身・長柳葉・長柳葉二段腹抉・椿葉)、③ⅰ110(鑿頭・短茎広身・柳葉・短頸三角)、銅鏃:③ⅰ1。
  • 【その他の武器】③ⅰ石鏃1。
  • 【武器・その他】③ⅰ石鏃1。
  • 【武具】革綴短甲:②ⅰ三角板1、③ⅰ長方板1、衝角付冑:②ⅰ三角板1、③ⅰ三角板1、その他:②ⅰ肩鎧・頸鎧1・草摺1、②ⅱ楯2(巴形銅器3)、③ⅰ頸鎧1・肩鎧1。【農工具】農具:①ⅱ両端折曲げ鍬2~3・直刃鎌7、②ⅰ両端折曲げ鍬3・手鎌2、工具:①ⅱ刀子1・斧9・剣形工具?、②ⅰ刀子5・斧7、②ⅱ斧2・鋸1・刀子状工具2・?1・刺突具2・鑿2。-【その他】②ⅱ方孔円形銅銭1(五銖銭か?)。

指定

  • 1972年(昭和47年)5月30日指定重要文化財 和泉黄金塚古墳出土品(考古資料)
  • 2008年(平成20年)3月28日 国指定史跡

アクセス

  • 名称:和泉黄金塚古墳
  • 年代: 古墳時代・4世紀
  • 所在地:大阪府和泉市上代町
  • 交 通: JR阪和線北信太駅から徒歩6分、コミュニティバス(めぐ~る)阪和線ルート「北信太駅筋」乗車「サン燦プール前」下車、徒歩15分

参考文献

  1. 大塚初重(1996)『古墳事典』東京堂出版
  2. 青木敏(2022)『古墳図鑑』日本文芸社

花岡山遺跡2023年05月25日 22:54

花岡山遺跡(はなおかやまいせき)は大阪府八尾市にある縄文時代から中世に渡る複合遺跡である。

概要

八尾市の北東部、生駒山北西部の標高60mから70mの扇状地にある遺跡である。高地性集落の性格をもつ居住域の可能性がある。鎌倉時代(13C)においては、居住域を構成した井戸、土坑、溝、柱穴が見つかっています。これまでの調査においても同時期の集落域が検出されており、河内地域と大和地域をつなぐ「十三街道」に沿って展開した集落であったと推定される。

調査

縄文時代から中世に渡る遺構・遺物が見つかっている。弥生時代後期の土壙墓も見つかった。弥生時代に墓地として利用されていた。2014年の調査では弥生時代後期の平面が方形の竪穴住居が3基見つかった。全容が明らかな住居は1辺が5.2nから5.6mであった。竪穴式住居には熱による変色部分がみられ、炉があった可能性がある。別の竪穴式住居からは建物への雨水などの侵入を防ぐために設けた周堤の基礎になったと推定される杭列跡が、壁溝内から多数見つかった。 第一次調査は第一調査区から第六調査区を設け、東西60m南北60mの範囲を調査した。

遺構

弥生時代後期中葉(1C末~2C初頭)では竪穴式住居3棟〈SI1~3〉のほか大溝〈SD2〉が見つかった。 竪穴住居群の東方に近接して発見された大溝〈SD2〉は幅3.0mから5.0m、長さ20m以上、深さ1.3mから1.5mの人工的に掘られた断面「V」字状の溝である。溝内から一時的に投棄された大量の弥生土器が出土した。

出土

指定

石碑

アクセス

「花岡山古墳」(全長約73m)は壊されたが、跡地に石碑が建つ。

  • 名称:花岡山遺跡
  • 所在地:八尾市楽音寺6丁目10(大阪経済法科大学)
  • 交通:近鉄「服部川」駅から徒歩約30分/近鉄バス20「楽音寺」から徒歩約10分

参考文献

  1. 八尾市文化財調査研究会(1989)「八尾市埋蔵文化財発掘調査概要」八尾市文化財調査研究会報告22
  2. 近つ飛鳥博物館(2015)「歴史発掘おおさか2015」大阪府立近つ飛鳥博物館