田和山遺跡 ― 2023年05月18日 23:22
田和山遺跡(たわやまいせき,)は島根県松江市にある弥生時代の遺跡である。
概要
宍道湖を見下ろす丘陵頂部に位置する弥生時代前期~中期の遺跡である。3重の環濠が山頂を囲み、その外側に住居跡が広がる。 山頂部は東西10m、南北30mの緩やかな平坦地である。山頂部直下の斜面に三重の環濠が巡る。第一環濠は上幅3.5から5m。深さ約1m。長さ約200m。断面は逆台形。第二環濠は上幅3から7m。深さ約1.5m。長さ約226m。断面はV字形。第三環濠は上幅3.5から4m。深さ約1.8m。長さ約275m。断面はV字形。 住居跡は環濠の外側に作られる。円形竪穴式住居跡が11軒。同時期の加工段13か所。ピット群2か所。 国内初出土の楽浪郡製の可能性のある硯が出土する。弥生時代の東アジア圏域での交流を裏付ける資料となる。弥生時代中期後半(紀元前後)の石製品の「国内最古の文字」説がある黒い線について、岡見知紀奈良県立橿原考古学研究所主任研究員らは、ラマン分光分析で、油性ペンのインクだったと結論づけた。
調査
平成 9~平成12 年の松江市立病院の建設に伴って発掘調査された。全国的に価値の高い遺跡とされた。山頂の遺構を取り囲む3重の環壕と環壕外に広がる住居跡が見つかった。山頂にある遺構は平面形がいびつであることから、建物跡ではなく、神様の依代として柱が立てられていたという説がある。また、一般的な環壕集落は、集落を守るために住居などを環壕の中につくるのに対し、田和山遺跡では集落が環壕の外にあるのが特徴となる。 *遺構
- 高床式倉庫跡 1か所
- 堀跡 1列
- 掘立て柱建物跡 1軒 物見やぐらと考えられる
- 3重の環濠
出土
- 銅剣形石剣 - 祭祀用
- 土玉
- 分銅形土製品
- 石戈
- 石鏃,
- 鉄剣形石剣,
- 環状石斧,
- つぶて石 約3000個
- 石包丁 14点
- 大型石包丁 6点
- 砥石 23点
- 石板状石製品 2点 楽浪土城出土品が参考になる
- 硯
- 壺形土器
- 甕形土器
- 高坏形土器
- 小型脚付壺
- 台型土器
指定
- 2001年(平成13年) 国指定史跡
所在地
- 名称:田和山遺跡
- 所在地:島根県松江市乃白町32-1
- 交通:JR松江駅→松江市営バス南循環線内回りで17分、バス停:田和山史跡公園下車、徒歩すぐ
参考文献
- 設楽博己(2013)『遺跡から調べよう』童心社
- 島根県松江市教育委員会(2001)『田和山遺跡』
成合地獄谷遺跡 ― 2023年05月18日 23:23
成合地獄谷遺跡(なりあいじごくだにいせき)は、大阪高槻市にある弥生時代から9世紀にかけての複合遺跡である。
概要
大阪高槻市成合地区北東の山中、檜尾川支流の地獄谷川に面する新発見の遺跡である。 成合遺跡は高槻市北東部のポンポン山から安満山の西麓に位置する弥生時代の遺跡である。昭和20年代の土器や石器が採取されていた。2014年の調査では、弥生時代中期後半の集落とともに、古墳や奈良時代、平安時代の遺構、9世紀初頭の須恵器窯跡を発見した。
調査
平成24年度に高槻市成合「ノイタチ」「ゲタノハラ」地区で試掘調査を行ったところ、河岸段丘面、開折谷合の平坦地、丘陵尾根上の平坦地、棚田が広がる南東側斜面に10か所のトレンチから7世紀から9世紀を中心とする遺物包含層と墨や焼土を伴う土坑が検出され、遺跡の存在が明らかになった。高槻市教育委員会は「成合地獄谷遺跡」と命名した。 調査では弥生土器、土師器、須恵器、瓦器、陶磁器、瓦、石製品、銅製品、鉄製品が出土した。7世紀の横穴式石室を埋葬施設とする2基の古墳が検出された。 終末期古墳と土壙墓、火葬墓など古代の墓が検出された。古代の墓は20余り確認されている。69土坑とした火葬墓は鉄釘や礫の検出状況から1辺40cm前後の木棺を礫と墨で覆う構造と推定された。礫と墨を除去した底面から双鳥双獣八花鏡が出土した。唐式鏡のひとつで、8世紀後半を中心とする時期の製作と考えられる。 火葬墓の存在と八花鏡などの遺物から、8世紀後半から9世紀の官人や僧侶などの墓とみられる。
弥生時代
弥生時代中期後半の集落跡は一大集落の安満遺跡と高地性集落として知られる古曽部・芝谷遺跡の間の時期に成立したもので、当時の集落の動態を考える上で重要とされる。
遺構(弥生時代)
- 竪穴式建物 13棟を検出した。周辺から弥生式土器が数点見つかっている。建物1は方形、建物2は円形、建物3は楕円形である。土坑、溝、ピット、段状遺構を検出した。13棟の内訳は円形11棟、方形1棟、墨丸方形1棟である。段状遺構から建築部材と考えられる炭化材と焼土が検出された。
- 土坑 土坑のうち42は最初に見つかった土坑で、輪郭が不明瞭である。東西1.0m、南北0.84mの墨丸三角形で深さは0.25mである。埋土の状況から弥生時代の遺構と判断された。44土坑の埋土からは弥生土器の小片が多数出土した甕の比率が多い。頚部付近に刻み目文がある。古曽部・芝谷遺跡に類例がある。
遺物
弥生時代の遺物はコンテナ25箱分が出土した。大半は弥生土器で、石器と玉類は少ない。 壺と甕の比率は全体の75%である。高坏と鉢が25%である。
- 壺
- 鉢
- 高坏
- 石鏃 7点 -打製石鏃はサヌカイト製
- 磨製石剣
- 石包丁
史跡
アクセス等
名称:成合地獄谷遺跡
- 所在地: 大阪府高槻市成合489
- 交通: 高槻駅から3.7km
参考文献
- 大阪府文化財センター(2015)『成合地獄谷遺跡、成合遺跡2、金龍寺旧境内跡3』大阪府文化財センター調査報告書第260集
- 大阪府文化財センター(2014)『成合遺跡・金龍寺旧境内跡2』大阪府文化財センター調査報告書251集
加美遺跡 ― 2023年05月18日 23:25
加美遺跡’(かみいせき)は、大阪府にある弥生時代中期から古墳時代前期までの複合遺跡である。
概要
遺跡は沖積低地上で範囲は東西900m、南北1200mである。
調査
1935年に発見され、1976年の調査により、弥生時代後期末の溝内より鉄剣形の銅剣や銅鏃が出土し著名となった。 1984年(;昭和59年)の一次調査では加美東6丁目を対象とし、古墳時代初期の集落跡と墓、その下層から弥生時代中期の2基の墓(Y-1号墓・Y-2号墓)が検出された。庄内式土器や布留式土器を伴う大溝や竪穴式住居跡、井戸、土壙、小溝群を伴う集落跡を検出した。
遺構
方形周溝墓、木棺墓、土器棺墓などの墳墓群が発見された。下層から弥生時代後期前半の水田跡、弥生時代中期後半の2基の巨大な墳丘墓が検出された。
階層差の証拠
上層の方形周溝墓は集落跡の北側にあり、小規模な方形周溝墓は集落の周辺に築造されていた。墓主とみられる5号主体部は墓壙の規模が他より大きく、木棺も底板以外はすべて二重であった。共同体首長とその近親者とみられる。
出土品
1号木棺からガラス勾玉1点と丸玉1点が出土した。 2号墓から円環型銅釧1点、碧玉製環玉、蝙蝠座紐内行花文鏡片が出土した。 5号墓から小型仿製鋸刃文鏡、ガラス平玉1点、碧玉製鐓が出土した。 14号木棺からは円環型銅釧1点が出土した。
アクセス等
- 所在地:〒547-0002 大阪府大阪市平野区加美東6丁目15
- 交通:JR新加美駅から徒歩8分
参考文献
- 江上波夫(1993)『日本古代史辞典』大和書房
- 田中清美(1985)「大阪府大阪市加美遺跡の調査-弥生時代中期後半の大型墳丘墓を中心に-」『日本考古学年報』37
- 大阪文化財研究所(2015)「加美遺跡発掘調査報告Ⅴ」
小阪合遺跡 ― 2023年05月18日 23:26
小阪合遺跡(;こざかあいいせき)は大阪府八尾市にある弥生時代中期から中世に渡る複合遺跡である。
概要
八尾市のほぼ中央にあり、長瀬川と玉串川に挟まれる沖積層に位置する。昭和30年に大阪府営住宅建設工事中に、弥生時代から鎌倉時代にかけての遺物が多量に見つかったことから遺跡が発見された。奈良時代から平安時代にかけての河川跡から和同開弥をはじめとする皇朝銭約70枚のほか、墨書土器、瓦、石製品など多数の遺物とともに牛や馬の遺体が出土された。
調査
1988年(;昭和59年)の第4次調査では土師器の壺、高坏、井戸、甕、吉備系甕、布留式甕、甑を検出した。河川1・2の西岸では廃棄された壷、甕、高杯、鉢等の膨大な量の土器類が出土した。土器類のなかに吉備や山陰などの地方産のものが含まれており、当時に地域間の交流があったことが伺える。川の西側においては、船材を井戸側に転用した井戸や竪穴住居、土坑、溝がみつかり、当地点が集落の東縁部にあたることが判明した。 第28次調査では弥生時代後期前半から中期の方形周溝墓4基が検出されている。溝の東側で見つかっており、溝の西側が居住域、溝の東側が墓域であったと考えられている。 2014年の第48次調査の中の弥生時代後期の遺構では、方形周溝墓4基、土器棺墓2基が検出された。周溝はL型であるため、方形であったと推定される。土器の形から弥生時代後期前半から後半と推測される。
遺構
- 土坑
- ピット
- 溝
出土
- 和同開弥]をはじめとする皇朝銭約70枚
- 土師器
- 須恵器
- 墨書土器 - (文字・記号・人面)のある土器
- 瓦
- 石製品
- 牛や馬の遺体
- 硯
- 鉄斧、
- 鎌、
- 甕
- 横櫛
- 銅鏡・鉄剣・勾玉
- 銅鏡(内行花文鏡)、
- 鉄刀、
- 鉄鉾
指定
アクセス
- 名称:小阪合遺跡
- 所在地: 大阪府八尾市南小阪合町・青山町・山本町南
- 交通: 近鉄「河内山本」駅から徒歩約15分
参考文献
- 八尾市文化財調査会(1988)「小阪合遺跡 第4次調査報告書」
- 大阪府立近つ飛鳥博物館(2015)『歴史発掘おおさか2015』大阪府立近つ飛鳥博物館
対馬国 ― 2023年05月18日 23:29
''対馬国'(つしまこく)は現在の対馬である。東シナ海と日本海の接続部にある対馬海峡に浮かぶ島である。
概要
魏志倭人伝に記載される国のひとつで、狗邪韓国から海を渡ったところにあるとされる。魏志倭人伝の対馬国の記述は簡潔であるが、正確である。水行は海沿いの航路で、渡海は広い海を渡ることを言う。大官の卑狗と副官の卑奴母離は邪馬台国から派遣された指導者である。対馬国に王がいるかは記載がない。李氏朝鮮時代の『海東諸国記』の記述とほぼ同じである。 魏志倭人伝の版により対馬国の表記が異なっている。紹熙本では「對海國」、紹興本では「對馬國」とする。「魏略逸文」では「対馬国」となっている。紹熙本の表記は誤植と推測される。 対馬国は倭国の1国として登場し、邪馬台国に服属していると記される。位置は博多から120km、壱岐から70km、金海から50kmである。
大意
狗邪韓国から海を渡り千余里で対馬国に至る。その長官を卑狗(ひこ)といい、副官を卑奴母離(ひなもり)という。周囲は400里ほどの離れ小島である。土地の山は険しく、深い森林がある。道路は鳥や獣が通る道のようである。戸数は千余戸ほどである。良田は少ない、海産物を食べて自活し、船に乗って南北から米を仕入れる。(注)市糴は米などの穀物を売買することである。
原文
- 始度一海千餘里 至對馬國 其大官曰卑狗 副曰卑奴母離 所居絶㠀
- 方可四百餘里 土地山險 多深林 道路如禽鹿徑 有千餘戸 無良田
- 食海物自活 乗船南北市糴
弥生時代
弥生中期では浅茅湾一帯に遺跡が分布する。箱式石棺墓が多い。朝鮮半島からもたらされた青銅器が数多く出土する。また北部九州の青銅器の出土も多い。
国邑はどこか
対馬国の国邑に相当する遺跡は長い間分からなかった。しかし三根遺跡において大規模な集落遺跡が始めて発見された。三根遺跡山辺区は対馬西岸の三根湾に注ぐ三根川流域にあって、広さ約4万平方メートル。対馬市教委はこれまでに7000から8000平方メートルを発掘調査した。その結果、100以上の柱穴と、高床建物跡3,4棟分、竪穴住居跡2棟分が出土した。また弥生土器や古墳時代の三根遺跡において大規模な集落遺跡が始めて発見された。三根遺跡の山辺区は対馬西岸の三根湾に注ぐ三根川流域にあって、広さ約4万平方メートル。対馬市教委はこれまでに7000から8000平方メートルを発掘調査した。その結果、100以上の柱穴と、高床建物跡3,4棟分、竪穴住居跡2棟分が出土した。また弥生土器や古墳時代の須恵器、朝鮮系の土器などの破片1万点以上と鉄製釣り針や袋状鉄斧が出土した。弥生から古墳にかけての集落遺跡とみられている。 さらに対馬市峰町大久保の「ヌルヘノ 口 遺跡」からは弥生から古墳時代前期とみられる土器片が複数出土した。別の場所から同時代に朝鮮半島北部で作られたとみられる「 楽浪系土器」の破片1点と、朝鮮半島南部で作られたとみられる「 三韓土器」の破片1点が見つかっている(参考文献1)。
王墓
西谷氏は対馬国の王墓として、下ガヤノキ遺跡を候補に挙げている。「下ガヤノキ遺跡F地点」の箱式石棺の中から弥生後期前半の内行花文鏡2面、年代形式不明の鏡2面が出土している。これらの遺物は石棺墓の副葬品であった可能性が高いとされ、そうした場合は石棺墓が王墓と示唆される。
対馬の主要な遺跡
- 塔の首遺跡
- クビル遺跡
- ガヤノキ遺跡
- 下ガヤノキ遺跡
- サカドウ遺跡
- エーガ崎遺跡
- 小姓島遺跡
- シゲノダン遺跡
- 三根遺跡
古墳
- 根曽古墳群
- 朝日山古墳
- 出居塚古墳
参考文献
- 「対馬のヌルヘノ口遺跡から土器片>https」読売新聞、2022年11月3日
- 西谷正(2014)「邪馬台国周辺諸国の実像」歴史読本、KADOKAWA
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