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同笵鏡2024年04月24日 21:17

同笵鏡(どうはんきょう)は同じ鋳型を用いて鋳造した銅鏡である。

概要

笵は鋳型の意味である。当時、鋳型は蝋石などの石材を用いる石笵であった。 当時、魏の鏡工人は小型・中型鏡のみを製作していた。大型鏡を鋳造する必要が生じたとき、鏡背四分鋳型の周縁部に三角縁を巡らせて鋳型を平らに保持する方法が考案されたと、小野山節(1998)は説明する。古墳土の鏡のうち三角縁神獣鏡と呼ばれるものにこの種のものが多い。

同型鏡

砂型の鋳型では1面ずつ鋳造され、それらを同型鏡という。

名称

梅原末治が昭和21年に同笵鏡の名称を使用し、小林行雄(1961)の研究で定着した。

年号

「景初三年」や「正始元年」など、魏の国の年号を記した銘文があり、卑弥呼が魏の皇帝から「鏡百枚」を下賜された年と一致する。

森浩一説

  • 森浩一は中国で作られた鏡であっても、中国の発掘調査で出土した例は一面もないと指摘する。古墳から出土した三角縁神獣鏡はすでに500面以上となりで、魏の皇帝から下賜された鏡の数を超えている。 しかし黒塚古墳出土の三角縁神獣鏡の成分分析では、中国製の可能性が高いという科学的分析がある。

分有関係論

三角縁神獣鏡は同じ鋳型を使用して鋳造した同笵鏡・同型鏡が多数あるのが特徴である。同笵鏡の分有関係から、大和政権と各地の首長たちとの間を結び付ける道具として同笵鏡を利用したとす小林行雄の説がある(小林行雄(1961))。 小林は、三角縁神獣鏡は大型で、規格性があり、図像文様を分割する目印として乳を加えていること、同じ型で作った同笵鏡が多数存在することから、短期間のうちに多量の鏡を作る特別な事情があったと特鋳説を唱える。 複製物の所持や携帯は、オリジナルを管理する権力者の権威の代理執行であり。遠隔地にまで及ぶ銅鏡の分布は、中央の権力がその地域にまで及んでいたことを証明する。 西田守夫は三角縁神獣鏡が神獣鏡と画像鏡を基本に、獣帯鏡や盤龍鏡などの要素を部分的に取り入れていると説明した。

参考文献

  1. 泉屋博古館、高輝度光科学研究センター(2004)「三角縁神獣鏡の原材料産地を探る」 部
  2. 梅原末治(1946)「本邦古墳出土の同笵鏡に就いての一二の考察」『史林』30-3(118)、pp.18-39
  3. 小田富士雄(1982)「日・韓地域出土の同笵小銅鏡」『古文化談叢』古文化談叢 9 、pp.87-104、九州古文化研究会
  4. 小野山節(1998)「三角縁神獣鏡の鋳造法と同笵鏡」『史林』史学研究会 京都大学文学部内)
  5. 京都大学文学部考古学研究室(1989)『椿井大塚山古墳と三角縁神獣鏡』京都大学文学
  6. 小林行雄(1961)『古墳時代の研究』(「同笵鏡考」)青木書店
  7. 鈴木勉(2016)『三角縁神獣鏡・同笵(型)鏡論の向こうに』雄山閣
  8. 西田守夫(1968)「神獣鏡の図像」『MUSEUM』107号、東京国立博物館

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