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半島南部の倭2024年04月29日 00:23

井上秀雄、山尾幸久、佐藤信編、藤堂明保の各図

半島南部の倭(はんとうなんぶのわ)は3世紀の朝鮮半島南部に倭があったという説である。

概要

半島南部の倭を図で描く井上説を紹介する。 井上秀雄(2004)は「東夷伝による諸民族の地理的位置」(p.64)として、半島南部に倭の領域を描いている(図1:左図)。図の理由となる史料を以下に求めている。

  1. 魏志韓伝(馬韓)「韓在帯方之南 東西以海為限南與倭接」(韓は帯方郡の南あり、東西は海で、南は倭に接する)
  2. 魏志韓伝(弁辰)「其瀆盧国與倭接界」(弁辰の瀆盧国は倭と界を接する)
  3. 魏志倭人伝「從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國七千餘里。始度一海千餘里、至對馬國」(帯方郡から倭国に行くには、海岸沿いに韓を南に東に進み、北岸の狗邪韓國まで7千里、海を渡り対馬国に至る)

つまり韓の南は倭に接し、弁辰の中の瀆盧国は倭に接していると記述されている。 しかし井上は『三国史』の記述を分かりやすく図に示しただけであり、井上秀雄(2004)自身が主張する図ではない。「接する」とは必ずしも地続きを意味するわけではない。 井上秀雄(2004)は「『百済本紀』の記事を読めば分かるように、任那日本府と大和朝廷とは何の関係もない」(p.107)「『百済記』では近肖古王から始まる任那諸国との国交を大和朝廷との国交にすりかえた。『百済記』のように史実をかえて政治的意図に迎合する歴史書」(p.109)と書いている。つまり井上は半島南部に倭の政治的な領域があったとは断定していないのである。任那日本府を大和朝廷の機関であったという説も否定している。

魏志倭人伝

山尾幸久(1986)は「断片的な記載を根拠に「3世紀後半の中国の史官は朝鮮半島南部を「倭」と称していたとまで言って良いかとなると、私ははっきり否と答えざるを得ない」(p.19)と否定的である。「(南部朝鮮=倭とするのは)史料の拡張解釈である」(p.20)とする。山尾による3世紀の朝鮮半島南部の勢力図を図2に示す。

魏志韓伝

『三国史』中で倭人伝以外での「倭」の登場個所を調べる。

三國志卷四/魏書四/三少帝紀第四

  • 正始四年春正月帝加元服、賜羣臣各有差。
  • 冬十二月、倭國女王俾彌呼遣使奉獻。

三國志卷三十/魏書三十/烏丸鮮卑東夷傳第三十

  • 韓、在帶方之南。東西以海爲限、南與倭接。
  • 桓靈之末、韓濊彊盛。郡縣不能制、民多流入韓國。建安中、公孫康、分屯有縣以南荒地、爲帶方郡。遣公孫模張敞等、收集遺民、興兵伐韓濊。舊民稍出、是後倭韓遂屬帶方。
  • 弁辰、亦十二國。(略)國出鐵。韓、濊、倭皆從取之。(略)今辰韓人皆褊頭。男女近倭、亦文身。
  • 弁辰、與辰韓雜居。其瀆盧國、與倭接界。

この中で韓は南で倭と接する、瀆盧國は倭と接すると書かれる。この「接する」の解釈 難しい。倭と韓が地続きという解釈と倭と韓とは海を隔て界を接するという解釈である。 『韓国歴史地図(日本語版)』(韓国教員大学歴史教育科)によれば、弁辰瀆盧國は現在の釜山に位置する。釜山の対岸に対馬があるから、まさに界を接しているといえる。倭の北岸に狗邪韓国があると書かれるから、この倭は対馬(から列島にかけて)を指していることが分かる。

三国史記

『三国史記」新羅本紀(295年春条)に「海に浮かび、入りてその国(倭)を撃たんと欲す」と書かれる。つまりこの時点で、海の向こうに倭国があるという認識があるので、倭国が半島の南にあったら海は渡らない。新唐書百済伝に「西界越州。南倭、北高麗。皆踰海之至」と書かれる。百済の南に倭があるが、海を越えると書かれる。ただし百済と高句麗の間に海はないと思われる。

任那日本府

任那日本府が倭国の代表的な現地の政治的な組織であったとするのは誤解である。佐藤信編(2023)は「任那日本府は「在安羅諸倭臣」であり、倭国の使節団を指すというのが有力な見解となっている。それを何らかの機関であったと主張するのは問題であった」(P.79)「特定の問題のために派遣された使節団であった」「倭国から派遣された使節団は安羅に居住する倭系安羅人たちに主導されて、安羅国に意向に沿って、百済を詰問したり、新羅と通行したりした」(P.81)とされる。すなわち任那日本府は恒常的な政治的統治機構ではなかったというのが実態とされている。佐藤信編(2023)による3世紀の中国と朝鮮半島南部の勢力図を図3に示す。

半島南部「倭」説への反論

  • 半島南部に「倭」の集団がいたとするなら、『魏志倭人伝』の倭人の記述がなぜ対馬から始まるのであろうか。半島南部に「倭」がいたなら、そこから記述を始めることになるはずである。合理的に説明できないのではないか。
  • 半島南部に「倭」の集団がいたとするなら、考古学的証拠がなければならないが、そのような証拠は見当たらない。

考察

「南部朝鮮=倭」という説は史料上の根拠がない空説といえる。井上秀雄(2004)はそのような主張をしていないが、不用意な図(「東夷伝による諸民族の地理的位置」(p.64))が誤解を与えている。南部朝鮮に倭がいたという主張は、「任那日本府」という幻想につながる。倭から来た倭人が侵攻などで一時的に滞在したことはありえるが、政治権力や支配権をもった勢力ではなかった。なお百済王権に倭系官人・武人が勤務していたことはあるが、南部朝鮮の政治勢力ではなかった。 当時の正しい南部朝鮮の勢力図は藤堂明保・竹田晃他(2017)のp.24に掲載されている図(図4)である。そこには当然ながら南部朝鮮に「倭」の勢力は描かれていない。

参考文献

  1. 井上秀雄(2004)『古代朝鮮』講談社
  2. 山尾幸久(1986)『新版 魏志倭人伝』講談社
  3. 佐藤信編(2023)『古代史講義 海外交流編』
  4. 藤堂明保・竹田晃他(2017)『倭国伝』講談社
  5. 石原道博(1985)『新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝』岩波書店
  6. 韓国教員大学歴史教育科, 吉田光男(訳)『韓国歴史地図』平凡社