帯方郡 ― 2023年07月18日 00:30
帯方郡(;たいほうぐん)は、中国の漢帝国が朝鮮半島に設置した古代中国の直轄地の一つである。
概要
後漢末期の混乱期に遼東地方は台頭してきた公孫氏の支配下となり、楽浪郡は公孫氏の支配下に入った。公孫氏は3世紀の初頭、楽浪郡南部の荒れ地を分割し、新たに帯方郡を設置した。公孫氏は238年魏に滅ぼされ、帯方郡は魏の支配下となった。314年に帯方郡は高句麗により滅ぼされた。
公孫氏
中国東北部の遼東太守となった公孫度は、南半分を支配し帯方郡とした。238年に魏の太尉・司馬懿の率いる四万の兵に襄平城を囲まれ、長期の兵糧攻めにより公孫淵とその子・公孫脩は滅びた。魏は劉昕と鮮于嗣をそれぞれ帯方太守、楽浪太守に任じ楽浪郡および帯方郡を支配した。楽浪郡は魏の直轄地となった。
卑弥呼の使節
邪馬台国の女王卑弥呼が帯方郡に使いをよこして魏に朝貢したのは239年であった。公孫氏が滅亡した翌年であるから、卑弥呼は当時の国際情勢をタイミングよく把握していたと思われる。
比定場所
帯方郡の郡治址の比定地には2説がある。位置のヒントは『漢書』地理志である。含資県の注に「帯水は西、帯方に至りて海に至る」と記載されている。この川がどこであるかが問題である。大同江の支流の載寧江説と漢江説がある。載寧江説なら現北朝鮮の黄海北道となり、遺跡は「智塔里遺跡」が候補となる。漢江説なら現在のソウル付近となり、遺跡は「ソウル風納洞遺跡」となる。 1915年、朝鮮総督府の調査で「現在の朝鮮民主主義人民共和国」黄海道鳳山郡文井面(沙里院)の古墳の内部で、積まれたレンガに「帯方太守張撫夷」の文字が発見された。帯方郡治は沙里院付近の説も有力とする説がある。しかしこれは張撫夷の故郷の可能性があり、帯方郡治があった証明にはならないとされている。智塔里遺跡は現在の平壌の南、大同江の南岸である。ソウル風納洞遺跡は現在のソウル漢江の東である。智塔里遺跡が楽浪郡郡治址とすると、帯方郡との距離があまりないことになる。 現時点では帯方郡の位置は確定していない。
遺跡
- 智塔里遺跡]
- ソウル風納洞土城
参考文献
- 鳥越憲三郎(2020)『倭人倭国伝全釈』KADOKAWA
- 奥野正男(1989)『邪馬台国発掘』PHP研究所
- 石原道博編訳(1951)『新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝』岩波書店
- 井上秀雄(2004)『古代朝鮮』2講談社学術文庫,pp.75-76
- 伊藤一彦(2020)「7世紀以前の中国・朝鮮関係史」経済志林87巻3,4号、pp.163-190
- 西谷正(2009)『魏志倭人伝の考古学』学生社
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