小野妹子 ― 2023年07月23日 11:10
小野妹子(おののいもこ,生没年不明)は飛鳥時代の官人、遣隋使である。 小野毛人の父である。
概要
推古15年(607年)7月3日、聖徳太子は大礼の小野妹子を通訳の鞍作福利とともに、隋に遣隋使として派遣した。隋の記録によれば、小野妹子は学問僧数十人を伴っていたという。翌年の推古16年4月、小野臣妹子は唐に到着する。唐では妹子は「蘇因高」と呼ばれた。推古16年(608年)4月、隋の使臣裴世清を伴って帰国したとされる。 この時、小野妹子は隋の皇帝からの信書を預かったが百済国を通過するとき、百済人に奪われたため持参できませんと語る。群臣は使いになったものはたとえ死んでも書を守るべきだ。どうして無くしたのか、罪に値するといったが、天皇は勅して恩赦した。 同608年年9月、裴世清の帰国日程に合わせて再び大使として隋に派遣された。副使は吉士雄成である。学生の福因、恵明、玄理、大国、および学問僧の新漢人日文(僧旻)、高向玄理、南淵請安、慧隠、広斉ら8名の留学生留学僧とともに国書を携え唐に赴いた。このとき国書に「東の天皇、敬みて西の皇帝に曰す。鴻臚寺の裴世清らにより多年の思いが叶った」とする。妹子らは翌年9月に帰朝した。『新撰姓氏録』などによれば、のちの冠位は大徳にまで昇進した。
唐での出来事
中国側の記録に大業3年(607年)、倭国王の多利思北孤(タリシヒコ)が使者を派遣して朝貢したとされる。この使者は小野妹子である。使者は「貴国では菩薩のような天子が仏教を盛んにしていると聞きましたので、天子に朝拜させ、仏法を学ぶため僧侶を数十人連れてきました」と語る。その国書には「日が出るところの天子から日が没するところの天子に書信を差し出します。無事でお変わりありませんか」と書かれている。隋の皇帝・煬帝はこれをみて機嫌が悪くなり、鴻臚卿に「蛮夷からの書であるのに無礼である。二度と取り次ぐな」といったという。鴻臚卿は外国の使節をもてなす役職の長官である。
怒りの理由
中国皇帝の怒りの理由を、かつては「日出処・日没処」に、倭が隋に対して優越か対等の関係にあるというメッセージを込めたためと理解されていた。現在は、煬帝を怒らせたのは「日出処」ではなく、大王(天皇)を「天子」と表現したから、という異説が提唱されている。
国書を紛失したか
小野妹子は隋の国書を百済人に奪われたと報告したが、国書の内容が朝廷の期待するものと異なっていたため、自ら破棄したとの説がある。
大王(天皇)は男性のようである。
このとき日本書紀では大王(天皇)は推古天皇とされているが、隋には多利思北孤(タリシヒコ)と伝えている。これは男性名である。また唐の使者の裴世清は倭国で大王に面会し、宴席初期にも出ている。大王が女性ならば、そのような報告するであろうが、特段の報告はない。裴世清が実際に会ったのは聖徳太子ではなかったろうか。日本書紀には厩戸豐聰耳皇子を皇太子にしたと書かれているが、皇太子の制度は一般には飛鳥浄御原令(689年)以降とされている、そこで皇太子ではなく、大王そのものではなかったか、というのが疑問である。とすると推古天皇は実在したのか、という次の疑問が浮上する。
原史料
- 史料1
- 『日本書紀』日本書紀巻第廿二 推古十五年 秋七月
- (原文) 秋七月戊申朔庚戌、大禮小野臣妹子遣於大唐、以鞍作福利爲通事。
- 史料2
- 『隋書』倭国伝
- (原文) 大業三年其王多利思北孤遣使朝貢使者曰聞海西菩薩天子重與佛法故遣朝拜兼沙門數十人來學佛法其國書曰日出處天子致書日没處天子無恙云云帝覽之不恱謂鴻臚卿曰蠻夷書有無禮者勿
- 史料3
- 『日本書紀』日本書紀巻第廿二 推古十六年夏四月
- 十六年夏四月、小野臣妹子至自大唐。唐國號妹子臣曰蘇因高。卽大唐使人裴世淸・下客十二人、從妹子臣至於筑紫。遣難波吉士雄成、召大唐客裴世淸等。
- 史料4
- 『日本書紀』日本書紀巻第廿二 推古十六年夏四月
- 爰妹子臣奏之曰「臣參還之時、唐帝以書授臣。然經過百濟國之日、百濟人探以掠取。是以不得上。」於是、群臣議之曰「夫使人、雖死之不失旨。是使矣、何怠之失大國之書哉。」則坐流刑。時天皇勅之曰「妹子、雖有失書之罪、輙不可罪。其大國客等聞之、亦不良。」乃赦之不坐也。
- 史料5
- 『日本書紀』日本書紀巻第廿二 推古十六年九月辛未朔乙
- (原文) 九月辛未朔乙亥、饗客等於難波大郡。辛巳、唐客裴世淸罷歸。則復以小野妹子臣爲大使、吉士雄成爲小使、福利爲通事、副于唐客而遺之。爰天皇聘唐帝、其辭曰「東天皇敬白西皇帝。使人鴻臚寺掌客裴世淸等至、久憶方解。季秋薄冷、尊何如、想淸悆。此卽如常。今遣大禮蘇因高・大禮乎那利等往。謹白不具。
小野妹子墓
大阪府太子町の科長神社南側の小高い丘の上に、古くから小野妹子の墓とされている墓がある。科長神社の南側、長い石段を登った先にある。
華道の家元
小野妹子は華道の家元「池坊」において、華道の祖とされている。生け花の発祥の地は京都の六角堂である。正式名は紫雲山頂法寺であるが、587年に聖徳太子が建立し、初代住職が小野妹子だったとされる。小野妹子は華道家元池坊の道祖とされる。小野妹子の墓前祭は、その命日とされる6月30日に毎年行われる。
参考文献
- 坂本太郎,井上光貞,家永三郎,大野晋 (1994)『日本書紀』岩波書店
- 青木和夫, 笹山晴生, 稲岡耕二,白藤礼幸(1992)『続日本紀』岩波書店
- 小野妹子墓
加唐島 ― 2023年07月23日 14:55
加唐島(かからじま)は佐賀県唐津市に属する玄界灘にある島である。 古代の伝説が残る島である。
概要
加唐島は唐津市の呼子湾の沖合い約6kmに浮かぶ島である。面積は約2.83km²、周囲は約14.6km、人口は133人(平成31年3月1日現在)。 特産品は島に自生する椿からとれる椿油。佐賀県最北端。
伝説
百済の第25代国王「武寧王」がオビヤ浦洞窟で誕生した日本書紀の伝えがある。そばにある井戸は産湯に使ったと言い伝えられて来た。「生誕地は加唐島」という論文が2000年に韓国の史学雑誌「史学研究」に発表された。 懐妊していた神宮皇后が島で着帯の式をあげたとされる伝説がある。
- 名称:加唐島
- 住所:佐賀県唐津市鎮西町加唐島
参考文献
- 上田正昭(1980)『ゼミナール日本古代史 下』光文社
- 金富軾 (1980) 『三国史記 1』平凡社
- 金富軾 (1983) 『三国史記 2』平凡社
- 金富軾 (1986) 『三国史記 3』平凡社
- 金富軾 (1988) 『三国史記 4』平凡社
- 金富軾・井上秀雄 (訳) (1986)『三国史記〈3〉年表・志>』平凡社
- 金富軾・井上秀雄 (訳) (1988)『三国史記〈4〉列伝>』平凡社
小野毛人 ― 2023年07月23日 15:34
小野毛人(おののえみし,?- 677)は飛鳥時代、天武期の官人である。 小野妹子の子である。
概要
史書では業績は不明であるが、1613年(慶長18年)に現在の京都市左京区上高野で出土した小野毛人の墓誌(国宝)により経歴が判明した。 墓誌は鋳銅製で、文字を刻んだ後に鍍金する。文字は両面にあり、表に小野毛人が天武朝に仕え、納言の職にあって後の刑部卿で大錦上(正四位に相当する地位)にあったと記す。 677年12月上旬に造営し、埋葬したとされる。子息の小野毛野薨伝では、毛人の冠位は小錦中とされているため、没後に大錦上の贈位を受けた可能性がある。 金銅小野毛人墓誌は崇道神社の所有であるが、京都国立博物館が保管する。長さ58.9cm・幅5.9cmの短冊形の銅板で、表に1行・26字、裏に1行・8字と少し下げて埋葬した年月を記す。合わせて48字の銘文が陰刻される。
- (原文表) 飛鳥浄御原宮治天下天皇御朝任太政官兼刑部大卿位大錦上
- (原文裏) 小野毛人朝臣之墓営造歳次丁丑年十二月上旬即葬
参考文献
- 坂本太郎, 井上光貞,家永三郎,大野晋 (1994)『日本書紀』岩波書店
- 青木和夫, 笹山晴生, 稲岡耕二,白藤礼幸(1992)『続日本紀』岩波書店
- 「金銅小野毛人墓誌、京都国立博物館
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