倭国乱 ― 2024年07月12日 00:06
倭国乱(わこくらん, Civil War of Wa)は弥生時代における倭国の内戦である。
概要
中国史書「魏志倭人伝」には「男王がいたとき(は平和だったが)70年から80年後に倭国で戦乱が起きた」と書かれている。 都出比呂志は倭国の戦乱は2回あったと考えている(石野博信(1987))。「弥生時代の中頃の時期、後期の時期にピークがあると思います」「弥生後期の高地性集落に対応する乱が中国の史料に記されている」と考えている。前者の「弥生時代中頃の乱」は、中国史料には書かれていないと指摘する。これは弥生時代の第三様式と第四様式の時代であり、年代としては1世紀に当たるとする。石野博信は第三様式は紀元前100年から紀元前後まで、第四様式は紀元前後から紀元後50年前後とする(同前)。 高地性集落の分布範囲は瀬戸内海の沿岸から、近畿地方の中心部までである(同前)。 弥生時代の環濠集落は太平洋岸では関東地方まで、西は鳥取県倉吉市後中尾、北は新潟県長岡市横山遺跡まで広がる(佐原真(1992))。 倭国乱の検討課題としては次がある。
- 倭国乱の戦乱の証拠はあるか
- 倭国乱の地理的範囲、戦乱の規模はどうであったか
- 倭国乱はいつあったか
- 倭国乱の原因は何か
- 倭国乱は如何にして収束したか
倭国乱の証拠
佐原真は倭国に戦いがあった証拠とするる六つの要素(壕をめぐらせたムラ・丘の上のムラ,武器,戦いの犠牲者,武器をそえた墓,武器崇拝,戦いを表した造形作品)を挙げている。
- 壕をめぐらせたムラ - 環濠集落を指す。
- 丘の上のムラ 高地性集落を指す。
- 武器
戦乱を示す武器には青銅の剣・戈・矛、石剣、鉄製の剣・鉄戈、鉄の矢尻(鏃)などがある。
- 戦いの犠牲者
新町遺跡(福岡県志摩町)で長い矢尻の先が骨に刺さって亡くなった埋葬者、福岡市吉武高木遺跡の犠牲者、玉津田中遺跡(兵庫)、勝部遺跡(大阪)、土井ヶ浜(山口)などがある。青谷上寺地遺跡の109体の人骨も倭国乱の戦死者とみる見解もある。新町遺跡の戦死者は日本最古の戦乱の犠牲者とされる(国立歴史民俗博物館(1996))。
- 武器をそえた墓
須玖岡本遺跡出土の銅剣、吉野ヶ里遺跡(佐賀県)から出土した8基の甕棺から把頭飾付き有柄細形銅剣を含む銅剣8本が挙げられる。
- 武器崇拝
象徴化した非実用武器として巨大化した実用的でない銅矛、武器形祭器は武威崇拝の祭祀に用いられる。
- 戦いを表した造形作品
東大寺山古墳(奈良県)の銅鐸に描かれた戦士、平野遺跡(柏原市)の盾を持つ戦士などがある。
男王とは
後漢王朝の初代皇帝「光武帝」が「(建武(中元)二年春正月)東夷倭奴國王遣使奉獻)」(光武帝紀)(AD57年の正月に東夷の倭の奴國王が献使した)「建武中元二年,倭奴國奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭國之極南界也。光武賜以印綬。(東夷列傳)」(倭奴國は朝賀に列席し、使いの者は大夫を称する。倭奴國は倭国の極南界である。光武帝は謁見し印綬を与えた) と書かれる。倭国の使者は光武帝の正月の朝見に列席したのであろう。光武帝はその年の2月に死去している。 孝安帝紀に「(永初元年)冬十月,倭國遣使奉獻」と書かれ、「安帝永初元年,倭國王帥升等獻生口百六十人,願請見。(東夷列傳)」(永初元年AD107年、倭國王の帥升らは生口百六十人を献上して。謁見を請うた)と書かれる。57年と107年は同じ奴國であろう。 倭國王の帥升がいつ亡くなったかは分からない。AD110年頃になくなったとすれば、そこから約70年後に戦乱となり、180年頃から185年頃まで戦乱が続き、これが倭国乱の時期ではなかったろうか。その後卑弥呼が共立された。つまり魏志倭人伝のいう「男王」とは後漢書の倭國王帥升と同じ人物かその後継者が想定できる。この倭国は九州北部の奴国を中心とする勢力と考えられる。 山尾幸久は筑紫政権(九州政権)が最も栄えたのは、1世紀後半から2世紀前半にかけてと考えている(山尾幸久(1986))。 倭奴國が九州政権であり、卑弥呼が近畿であったとすると、倭国乱の間に政権の場所が移動したことになる。両者が九州なら九州内の戦乱で政権が移動したと想定できる。
倭国乱の地理的範囲、戦乱の規模
春成秀爾によると「畿内では墓から石鏃や剣が刺さった例が出るが、すべて畿内の武器が畿内の人間に刺さっている」「九州地方で同じように鉄の矢じりや銅剣の先、あるいは銅鏃が刺さった例があるが、これも九州の武器が九州の人間に刺さっている」(参考文献1,p.54)。ゆえに弥生の戦乱は局地戦であって九州あるいは畿内の集団間の闘争と評価できるという。大規模な九州対畿内の戦いの証拠はないとする。この時代ではまだ全国的な戦さをする動員力は政権になかったと解釈されている。 石野博信は争乱に関わったのは、近畿弥生社会と考える(参考文献1,p.134)。一方、都出比呂志は近畿弥生社会と九州弥生社会との間の争乱と考える。「後期の段階において近畿地方だけでなく、瀬戸内海の西の端までを包み込むような一つの戦闘状態、緊張関係があったと考える」(参考文献1,p.90-91)。
戦乱の時期
弥生後期の乱は、中国史書(三国史)に記載され、時期は2世紀の終わりから3世紀の初めに相当する。 石部正志は「弥生時代の終わりにいくつかの原始共同体を統合した首長が特定の役割を果たし、階級社会が始まり、副葬品をもつ墓が登場する」としている(参考文献1,p.49)。 弥生時代の終わりころは高地性集落が近畿地方に集約されるようになる(参考文献1,p.76)。大型古墳が登場するための前提としての争乱が近畿地方であったことが想定できる。 石部正志は争乱は次のように3回あったと考えている(石野博信編(2015))。最初の2回は都出説と同じである。
- 弥生時代中期の争乱 - 高地性集落に関わる争乱。中国文献には書かれない。
- 2世紀の終わりの争乱 - 180年前後。『三国史』記載。
- 卑弥呼死後の争乱 - 男王の擁立後の争乱で 1000人が殺戮され、宗女が擁立される。
戦乱の時間的長さ
『魏志倭人伝』は戦乱の長さを「暦年」と表現する。歴年とは中国では7-8年の長さであるという説がある。数年間戦乱が続いたという意味と考える。この記述だけでは、どこでいつどの程度の広がりの戦乱があったかは分からない。 文献では解明できないので、考古学の証拠の助けが必要である。
二世紀後半の争乱の時期
二世紀後半の争乱の時期は『魏志』『後漢書』に記される「桓霊の間」である。山尾幸久(1986)は「桓霊の間」とは実年代をいうのではなく、歴史認識であり評価を伴う慣用であるとする。
戦乱の原因
「倭国乱」の原因には諸説がある。
- 鉄の入手をめぐる北部九州と岡山・近畿の争い(山尾(1986)、佐原)
- 地球の寒冷化による土地や不作に伴う食料の争奪戦
- 高句麗の南下に伴う大量の避難民の倭国への到来
- 倭国の中枢が北部九州から近畿に移動する際の争乱(松木)
- 伊都倭国体制から新生ヤマト政権への再編時の混乱(寺澤)
- 土地・水利権をめぐる争い(藤尾、橋口)
- 倭国乱はなかった説(古田)
土地・水利権争い
稲作の初期は縄文人はコメを作らず、弥生人だけが水田を作る土地を利用していた。100年ほど経つと縄文人もコメを作り始め、弥生人と縄文系弥生人との間に、土地や水利権の争いが起き、希少な可耕地をめぐって争いが起き、生存を賭けた争いとなった(藤尾、橋口)。
倭国乱は如何にして収束したか
『魏志倭人伝』によれば、卑弥呼の「共立」により戦乱が終息したと書かれる。 共立は三国史に三個所登場する。夫餘、高句麗、倭人である。 夫餘では「尉仇台死、簡位居立。無適子、有孽子麻余。位居死、諸加共立麻余。」(尉仇台が亡くなり、簡位居が王に立つ。簡位居に嫡子がなく、子に庶子の麻余がいる。簡位居が亡くなると諸加は麻余を共立した)共立の主体は諸加であった。つまり各部族の統率者である。 高句麗では「伯固死、有二子。長子拔奇、小子伊夷模。拔奇不肖、國人便共立伊夷模爲王。」(王の伯固が亡くなると、子は2名がいた。長子の拔奇と弟の伊夷模である。拔奇はできが良くなかったので、国人は夷模を王に共立した)と使われる。いずれも国の有力者が優れた者を王として推戴したという経過である。 これらの事例からすれば、倭国においても「共立」は有力な地域代表の話し合いにより、首長に選出されたという意味に解釈することができる。弥生時代の倭の国はそれぞれが近代の村という規模である。共立はどの勢力が話し合いで共立したかという問題がある。
魏志倭人伝
- (原文)其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂相攻伐歴年
- (大意)その国に男王がいたが、70年から80年後に国は乱れ、攻撃しあい歳月を経た。
参考文献
- 石野博信編(2015)『倭国乱とは何か』新泉社
- 石野博信編(1987)『古墳発生前後の古代日本』大和書房
- 国立歴史民俗博物館(1996)『倭国乱る』朝日新聞社
- 佐原真(1992)『日本人の誕生』小学館
- 佐原真(2003)『魏志倭人伝の考古学』岩波書店
- 白石太一郎(2014)『古墳から見た倭国の形成と展開』敬文社
- 橋口達也(1995)「弥生時代の戦い」『考古学研究』42-1
- 山尾幸久(1986)『新版 魏志倭人伝』講談社
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