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金錫亨2023年11月09日 10:46

金錫亨(きむそっきょん、1915-1996)は朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の歴史学者である。北朝鮮の社会科学院の院長などを歴任した。

概要

大邱生まれ。1960年代に発表した論文「三韓三国の日本列島内の分国について」で分国論を提起した。強烈な民族意識に支えられた朝鮮民族中心の歴史観である。 古代日本の南朝鮮領有を主張する日本の学会の「任那日本府」説は近代日本の侵略思想の現れであると主張した。むしろ古代朝鮮が古代日本の中に多数の国を作っていたとする、「分国論」を提起した。 金錫亨、朴時亨の2 名は中国東北地方に関する中朝合同調査を進めたのを基礎に、それぞれ広開土王陵碑に関する研究を行った。当時歴史研究所所長を務めていた金錫亨は、集安現地の広開土王陵碑の観察に基づき、主に辛卯年について解析し高句麗を主語にした初期日朝関係史を展開した。

朴露子の評価

金錫亨の主張する分国の存在を考古学的に立証することは不可能であり、金錫亨の主張そのものは、日本の植民地史観に対する非常に過度な脱植民地主義的、民族主義的「対応」としての性格が強かったと語る。植民地主義に対する「対応」という観点からは当然傾聴すべき話だったが、学術的な成立は困難な学説であったと朴露子は評価する。

著書

  1. 金錫亨,村山正雄 (訳), 都 竜雨 (訳)(1964)「三韓三国の日本列島内分国について」朝鮮研究 (通号 71) 、日本朝鮮研究所
  2. 金錫亨, 朝鮮史研究会(訳)(1969)『古代朝日関係史 : 大和政権と任那』勁草書房
  3. 金錫亨他,西谷正(訳)(1967)「「全世界史」(ソ連科学院編)朝鮮関係叙述の重大な錯誤について」考古学研究 / 考古学研究会編集委員会 編 14(2) 、p.34~41
  4. 金錫亨, 末松保和(訳), 李達憲(訳)(1960)「朝鮮封建時代農民の階級構成」学習院東洋文化研究所

参考文献

曺喜勝(2015)「朝鮮歴史学界の研究の現況について」コリア研究 第6号、pp.19-28,立命館大学コリア研究センター

牡丹唐草文2023年11月09日 17:37

牡丹唐草文(ぼたんからくさもん)は唐草文に牡丹の花とその葉を配置した文様である。

概要

中国の盛唐時代に牡丹鑑賞が好まれ、その時代の好みを反映してこの文様が作られた。 唐代の文様は、自然主義による造形感覚によって、写生画のような生彩ある表現をとる。加えて葡萄や柘榴など、ペルシャ的な様式が見られる。 日本の例では、正倉院宝物中に見られる。室町時代までは牡丹の葉を写実的に描いたものが多かったが、江戸時代以降は唐草に牡丹を文様的に配したものが増えた。

事例

参考文献

ササン朝ペルシャ2023年11月09日 17:51

ササン朝ペルシャ(ささんちょうぺるしゃ,Sassanid Persia)は紀元後226年に建国したイラン民族による統一国家である。農耕民であったペルシア人が建国した。

概要

古代のイランにおいて、紀元後226年、パルティアに替わって登場した王朝である。パルティアは遊牧イラン人が主体であったのに対し、ササン朝では農耕イラン人であるペルシア人が建国した。アルデシールの祖父の名に由来するササン朝ペルシア帝国と呼ばれる。 本来の中世ペルシア語の表記ではササン朝はサーサーン朝とされる。ペルシア帝国は他称であり、彼らは自称でエーラーンと呼んでいたのでエーラーン帝国が正しい。 最大版図では西方は黒海から東は中央アジアまでと広大な領土を支配した。通貨は銀貨を主とするが、ほかに金貨、銅貨を鋳造した。ササン(サーサーン)は、初代皇帝のアルデシールの祖父の名に由来する。都はパルティアと同じクテシフォンに置かれた。ササン朝はアルメニアの帰属に関して西方のローマ帝国と激しく争った。363年には首都クテシフォン付近まで遠征してきたローマ帝国のユリアヌス帝を破り、ユリアヌス帝は戦死した。ホスロー1世(在位531~579)はギリシア人学者の亡命を受け入れ、首都クテシフォンに哲学や医学の研究機関を設立し、ギリシアやインドの著作のペルシア語訳を進めた。

滅亡

7世紀にアラビア半島に起こったイスラーム教勢力は熱狂的な宗教的情熱から、周囲に対してジハード(聖戦)を展開した。イスラム勢力は637年にカーディシーヤの戦いでササン朝ペルシア軍を破り、ササン朝ペルシアの最後の王のヤズダギルト3世(在位632年-651年)は651年にメルヴで部下の総督に殺害され、ササン朝ペルシアは滅亡した。以後、イランはイスラーム王朝となる。イラン人イスラーム教徒はイスラーム王朝で官僚などとして活躍した。

世襲制

王家のササン家を含めた7家が世襲の領地をもち、皇帝に対して加冠、軍隊の指揮、徴税の最高責任などの権力を保持した。大地主貴族と、騎士を含む小地主貴族がいて、政治上、経済上の特権を独占した。

美術

美術では、パルティア美術の特徴をとなる人物の正面描写を守った。皇帝が多数の都市を建設しシリア人技術者を移住させたため、中継交易や手工芸品生産が発達した。金属器やガラス器、織物に優れた装飾性がみられる。シルクロードを通じて、中央アジア、インド、中国、日本まで影響を与えた。ササン朝の滅亡時に、多くの工人、貴族が中国・唐に亡命し、唐の美術工芸に影響を与えた。

参考文献

青木 健(2020)『ペルシア帝国』講談社