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目盛板2023年11月26日 12:15

目盛板(めもりいた、めもりばん)は俵や蓆等を編むときに経糸を一定間隔に保つために、V字形の溝を付けた木の板である。

概要

福岡市教育委員会(2005)によれば、雀居遺跡では緯糸の材質や経糸の間隔から、編布や俵、フゴ、ムシロ、簾のようなものを作っていたと想定されている。保存処理前の観察の結果、間隔は不規則( 1.5~ 6.3 cm)だが一辺にのみ刻み目が施しているため、両端をホゾではまる構造に加工されていることから、編台目盛板と判明したものである。 高畑町遺跡出土の編台は目盛が細かく、布を編むためのものとされる。目盛板と脚の接合部も当時の状態で残っており、全国的にも極めて貴重な資料である。

出土

  • 目盛板 - 下長遺跡、滋賀県守山市、弥生時代後期から古墳時代早期
  • 目盛板 - 雀居遺跡、福岡市博多区、弥生時代

参考文献

  1. 奈良国立文化財研究所編(1993)『木器集成図録.近畿原始編』奈良国立文化財研究所史料第 36冊 明新印刷
  2. 福岡市教育委員会(2005)『福岡市埋蔵文化財センタ一年報 第24号』

奈良県立橿原考古学研究所2023年11月26日 15:01

奈良県立橿原考古学研究所(ならけんりつかしはらこうこがくけんきゅうじょ)は奈良県内の埋蔵文化財の調査と研究を行い、その成果を広く公開・活用するための活動を行う奈良県橿原市にある考古学の研究機関である。

概要

日本で最も古い公的考古学研究所である。主として奈良県内の遺跡発掘調査を手がけ、初期の纒向遺跡ホケノ山古墳黒塚古墳桜井茶臼山古墳メスリ山古墳藤ノ木古墳高松塚古墳など有名な古墳や、飛鳥京跡、藤原京跡や東大寺https唐招提寺などで発掘を行う。

組織

  • 企画学芸部
    • 企画課 - 発掘調査や報告書の作成支援、各種普及事業や国際交流
    • 学芸課 - 附属博物館の展示企画、広報、各種普及事業、資料管理や貸し出し
    • 資料課 - 出土遺物や図面、写真などの管理や貸し出し
    • 保存科学研究室 - 出土遺物の分析や保存処理
  • 調査部
    • 調査課 - 遺跡の発掘調査
  • 総務課

沿革

  • 1939年(昭和13年)
    • 「皇紀2600年記念事業」の橿原神宮外苑整備事業に伴い、奈良県史蹟名勝天然記念物調査会委員の故末永雅雄博士が橿原遺跡の調査を担当する。奈良県工事事務所の一画に調査事務所を設け、9月13日より末永博士が現地で調査指揮にあたった(創立記念日)。
  • 1940年 大和国史館設立
  • 1951年 奈良県立橿原考古学研究所を設置。末永雅雄が初代所長。
  • 1970年 橿原公苑考古博物館と改称。
  • 1972年(昭和47年) 高松塚古墳壁画を発見。
  • 1974年 奈良県立橿原考古学研究所となる。
  • 1980年 、附属考古博物館を附属博物館と改称。
  • 1997年(平成9年) - 黒塚古墳の調査。

アクセス等

  • 名称:奈良県立橿原考古学研究所
  • 所在地:〒634-0065 奈良県橿原市畝傍町1番地
  • 交通:近鉄京都駅から畝傍御陵前駅(急行:約70分)下車 徒歩5分

参考文献

迎日冷水碑2023年11月26日 22:12

迎日冷水碑/出典:韓国金石文総合画像情報システム

迎日冷水碑(ヨンイルネスピ,영일냉수비l)は503年に建立された新羅で最古の古碑である。

概要

1989年に大韓民国慶尚北道迎日郡(現在は浦項市と合併)神光面冷水里で発見された石碑である。「道路工事現場で昔の碑石が出てきたという申告を受け、国立慶州文化財研究所に移し分析した結果、新羅古碑石であることを確認した」とされる。高さ67cm、幅72cm、厚さ25~30cmの台形状である。大韓民国の国宝第264号(迎日冷水里新羅碑)に指定されている。 花崗岩を一部加工して前面・裏面・上面に文字を刻んだ特殊な形の古碑であり、前面12列152文字、裏面7列59文字、上面5列20文字などともに231文字がほぼ鮮明に残る。陰刻されている。新羅王が葛文王をはじめとする中央の貴族の合議により、冷水という土地の近くにあ財産に関する紛争を丸く収めたという内容である。

年代

碑文記載の癸未年は503年または563年であるが、碑石の官職名が561年に建てられた昌寧真興王拓境碑に出てくる官職名よりさらに古いので503年(智證王4年)が妥当である。

新羅王

新羅王は「智証麻立干」であるが、『三国遺事』では智哲老王・智訂麻立干と記載される。新羅の第22代の王(在位:500年 - 514年)であり、姓は金、諱は智大路、または智度路、智哲老。碑文では、「至都盧葛文王」と記載される。智証王は500年に王として即位したが3年後の503年に葛文王を称している点が注目される。斯羅は当時の新羅の国名であるが、503年に「新羅」を正式な国号としたので切り替わりの時期である。至都蘆は智証の異表記である。

原文

(表面)

  • 斯羅喙斯夫智王乃智王此二王教用珍而
  • 麻村節居利爲證尓令其得財教耳
  • 癸未年九月廿五日沙喙至都盧葛文
  • 王□徳智阿干支子宿智居伐干支
  • 喙尓夫智壹干支只心智居伐干支
  • 本波頭腹智干支斯彼暮斯智干
  • 支此七王等共論教用前世二王教
  • 爲證尓取財物盡令節居利
  • 得之教耳別教節居利若先
  • 死後令其第兒斯奴得此財
  • 教耳別教末鄒斯申支
  • 此二人後莫更道此財

(裏面)

  • 若更道者教其重罪耳
  • 典事人沙喙壹夫
  • 智奈麻到盧弗須仇
  • □喙耽須道使心公
  • 喙沙夫那斯利沙喙
  • 蘇那支此七人□所白了
  • 事殺牛抜誥故記

上面

  • 村主臾支干
  • 支須支壹
  • 今智此二人世中
  • 了事
  • 故記

大意

斯羅の斯夫智王と乃智王が麻村節居利という人物の財産所有を認めた。 503年9月25日、至都盧葛文王(智証麻立干)以下中央の六部出身の高位官僚の7人(徳智阿干支、本波頭腹智干支、宿智居伐干支、喙尓夫智壹干支、只心智居伐干支、支斯彼暮斯智干支)が以前になされた二王の決定事項を再確認しながら麻村節居利が死んだ後、弟兒斯奴が財産を相続することと、末鄒・斯申支はこの財産には関与しないことを決定した。中央から派遣された官僚7人が上級官僚7人の決定事項を執行しながら牛を殺して天に報告する儀式を行い、宣告した事実を記録した。

問題点

国王だけでなく会議に出席する全メンバー7人を王と呼んでいることが挙げられる。当時の新羅は豪族の連合政権であった。集団のメンバーは「七王」と呼ばれており、全員が王であった。

アクセス情報

  • 名称:迎日冷水碑
  • 所在地:慶尙北道 浦項市 神光面 冷水里 山78-3
  • 交通:

参考文献

  1. 李成市(2000)『東アジア文化圏の形成』、山川出版社
  2. 武田幸男編(2000)『朝鮮史』、山川出版社
  3. 鈴木秀夫(1989)「動向と展望-最近発見の韓国の古代四碑について」『国史学』139
  4. 木村誠(1992)「朝鮮における古代国家の形成」『新版古代の日本 アジアから見た古代日本』角川書店
  5. 迎日冷水碑釈文一覧,立教大学