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三世一身法2023年11月18日 21:59

三世一身法(さんぜいっしんのほう)は奈良時代前期における墾田に関する法令である。

概要

723年(養老7年)4月に発令された農地開墾奨励法である。

従前の制度と問題点

大化の改新で定められた班田収授法では、戸籍に基づき6歳以上の男女に「口分田」と呼ばれる田が貸し出された。貸与される面積は男子が2段(約2,400㎡)で、女子はその3分の2とされていた。 土地が貸与されるのは一代だけで、土地の売買はできず、死後は国に返さなければならなかった。田地の集中を防ぎ、公民制を維持し、国家の租税収入確保を目的としていた。 しかし、土地が国のものになると、農地を新たに増やす努力をしなくなった。墾田に対する開墾者の権利が定められていなかった。そこで国力を増すために百万町歩の開墾計画を始めたが、うまくいかなかった。

新制度

三世一身法を制定し、自力で新たに開墾した土地は三代の間所有してかまわないとした。 農民の士気を高め、税収を安定させようとしたのであるが、開墾しても土地を所有できるのは限られた期間のみであり、最終的には国に取り上げられてしまうため、農民の開墾の士気は上がらなかった。三世一身法はわずか20年で崩壊した。

推進者

当時の天皇は第44代元正天皇であったが、実際に三世一身法を推進したのは、朝廷で当時の実権を握っていた左大臣の長屋王であった。

参考文献

藤原宇合2023年11月18日 23:06

藤原宇合(ふじわらのうまかい、694年- 737年)は奈良時代前期の政治家である。 初名は馬養。

概要

父は藤原不比等(第三子)、母は蘇我娼子(蘇我連子の娘)である。 717年(養老元年)遣唐使の副使として入唐し、10月に長安に到着した。719年(養老3年)1月に帰国する。任命時に位階は正六位下から二階昇進して従五位下となった。遣唐副使の功により正五位下から正五位上に昇叙する。養老3 (719) 年には正五位上、常陸守に任官される。藤原不比等がなくなると、721年(養老5年)正月、宇合は4階進んで正四位上に叙された。724年(神亀元年)式部卿となり、文官の人事考課、礼式、及び選叙(叙位及び任官)、行賞を司り、役人養成機関である大学寮を統括する式部省の長官になる。同年3月の海道の蝦夷の反乱を4月に天皇から節刀を授けられる持節大将軍として鎮圧した。この功により従三位・勲二等の叙位・叙勲を受ける。729年(神亀6年)の長屋王の変では、長屋王邸を包囲するなど活躍した。731年(天平3 年)に参議となり、この時点で藤原不比等の四兄弟が全員議政官となり藤原四子政権が確立した。734年(天平6年)正月17日、正三位となる。天平9年(737年)8月5日、44歳で疫病のため死去した。

参考文献

光明皇后2023年11月18日 23:33

光明皇后(ふじわらのうまかい、701年- 760年)は奈良時代の聖武天皇皇の皇后で孝謙天皇の生母である。出家して光明子となる。諱は安宿媛。

概要

父は藤原不比等、母は県犬養橘三千代である。 両親、特に三千代の影響から仏教に深く帰依した。東大寺大仏造立や国分寺建立は光明子の勧めにより実施されたとされる。716年に同い年の首皇子(のちの聖武天皇)の妃となり、聖武天皇の即位後の727年に基王を生んだ。729年に皇后となる。749年(天平勝宝1年)7月聖武天皇が譲位すると、皇太后となり紫微中台を設置し、甥の藤原仲麻呂を長官に登用し、娘の孝謙天皇に代わって実質的なトップとなった。藤原仲麻呂の専権がピークとなった760年6月に没した。60歳没,大和国添上郡佐保山(諸陵式 佐保山東陵)に葬られた。

政治活動

施薬院を置き諸国の薬草を集めて貧しい病人に施すとともに、貧窮者や孤児を救済するために悲田院を設置した。法華寺の十一面観音がその姿を写したものと伝えられる(「七大寺巡礼記」)。 756年に聖武太上天皇が没したあと遺愛の品々を東大寺に献納したことにより正倉院宝物が始まった。

人物

聖武天皇の在位中、娘の孝謙女帝の時代にも、事実上の権力者は光明皇后であったとする説がある。『国家珍宝帳』の願文には「生前聖武の好んだ品々をみるにつけ、ありし日が思い出されて泣き崩れてしまう」と書かれる。

参考文献