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ササン朝ペルシャ2023年11月09日 17:51

ササン朝ペルシャ(ささんちょうぺるしゃ,Sassanid Persia)は紀元後226年に建国したイラン民族による統一国家である。農耕民であったペルシア人が建国した。

概要

古代のイランにおいて、紀元後226年、パルティアに替わって登場した王朝である。パルティアは遊牧イラン人が主体であったのに対し、ササン朝では農耕イラン人であるペルシア人が建国した。アルデシールの祖父の名に由来するササン朝ペルシア帝国と呼ばれる。 本来の中世ペルシア語の表記ではササン朝はサーサーン朝とされる。ペルシア帝国は他称であり、彼らは自称でエーラーンと呼んでいたのでエーラーン帝国が正しい。 最大版図では西方は黒海から東は中央アジアまでと広大な領土を支配した。通貨は銀貨を主とするが、ほかに金貨、銅貨を鋳造した。ササン(サーサーン)は、初代皇帝のアルデシールの祖父の名に由来する。都はパルティアと同じクテシフォンに置かれた。ササン朝はアルメニアの帰属に関して西方のローマ帝国と激しく争った。363年には首都クテシフォン付近まで遠征してきたローマ帝国のユリアヌス帝を破り、ユリアヌス帝は戦死した。ホスロー1世(在位531~579)はギリシア人学者の亡命を受け入れ、首都クテシフォンに哲学や医学の研究機関を設立し、ギリシアやインドの著作のペルシア語訳を進めた。

滅亡

7世紀にアラビア半島に起こったイスラーム教勢力は熱狂的な宗教的情熱から、周囲に対してジハード(聖戦)を展開した。イスラム勢力は637年にカーディシーヤの戦いでササン朝ペルシア軍を破り、ササン朝ペルシアの最後の王のヤズダギルト3世(在位632年-651年)は651年にメルヴで部下の総督に殺害され、ササン朝ペルシアは滅亡した。以後、イランはイスラーム王朝となる。イラン人イスラーム教徒はイスラーム王朝で官僚などとして活躍した。

世襲制

王家のササン家を含めた7家が世襲の領地をもち、皇帝に対して加冠、軍隊の指揮、徴税の最高責任などの権力を保持した。大地主貴族と、騎士を含む小地主貴族がいて、政治上、経済上の特権を独占した。

美術

美術では、パルティア美術の特徴をとなる人物の正面描写を守った。皇帝が多数の都市を建設しシリア人技術者を移住させたため、中継交易や手工芸品生産が発達した。金属器やガラス器、織物に優れた装飾性がみられる。シルクロードを通じて、中央アジア、インド、中国、日本まで影響を与えた。ササン朝の滅亡時に、多くの工人、貴族が中国・唐に亡命し、唐の美術工芸に影響を与えた。

参考文献

青木 健(2020)『ペルシア帝国』講談社

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