須玖式甕棺 ― 2024年04月01日 00:09
須玖式甕棺(すぐしきじかめかん)は弥生時代前期の終わりから中期後半までの200年の間に九州北部で使われた甕棺墓の形式である。
概要
九州北部地域の甕棺は、壺形土器から変化したものである。弥生初期は胴の上部のくびれ口が大きくひろがるツボに似た形であった(金海式)。弥生中期になると、くびれがなくなり、厚みが薄くなり、背が高くなる(汲田式、須玖式)。大型化が顕著となり、分布範囲や基数が増える。弥生中期の終わりから胴が丸みを帯びる(立岩式)。
考察
弥生時代後期以降には、甕棺は急に下火となる。何らかの社会変化があったとみられているが、倭国乱と関係があるかもしれない。すなわち大量に戦士者がでたので、甕棺の製作が需要に追い付かなかった、あるいは甕棺の作り手も戦死したという可能性である。
標識
福岡県春日市須玖遺跡の出土例を標識とする。
出土例
- 甕棺 - 須玖岡本遺跡岡本地区20次調査、4号甕棺、春日市奴国の丘歴史資料館、
参考文献
- 森貞次郎(1968)「弥生時代における細形銅剣の流入について」『日本民族と南方文化』平凡社
古代の箸 ― 2024年04月02日 00:10
古代の箸(こだいのはし,英ancient chopsticks)は食事をとるための細長い二本の木の棒である。
概要
箸の登場にはいくつかの説がある。一般には縄文時代説、弥生時代説、飛鳥時代説、奈良時代説がある。古墳時代説はない。
縄文時代説
三田村有純(2009)は船泊遺跡(北海道礼文町)、鳥浜貝塚(福井県、長さ22cm)から木または骨製の長い棒が出土していると指摘した。箸状のものだけでなく、骨製のスプーン(匙)が船泊遺跡で出土している。下宅部遺跡(東京都東村山市)からは漆塗のスプーン(匙)が出土している。 木は腐りやすく、湿地でなければ残らない。骨は酸性土壌では分解されてしまうが、アルカリ性の強い砂丘や粘土等の密閉性が高い環境、残存状況が良好な甕棺墓・石室等に葬られていた場合などでなければ残らない。 中国の跨湖橋遺跡では、中国でもっとも古い漆塗りの橋が出土した。放射性炭素測定では7000年から8000年前とされている。これは三田村有純がみるところ鳥浜貝塚とまったく同じ形状であるという。 もうひとつの証拠は「箸」の呼称である。中国語で「箸」は「ヂュ」と読む。明代に筷子(クゥワイズ)に変わった。ハングルでは젓가락(チョッカラ)という。カラは愛称なので、本体はチョであり、これは中国語の古い呼称と同じである。日本では「箸」の漢音読みは「チョ」であるが、日常でハシと呼ぶのは、日本古来の発音だったからというのが、三田村有純の説明である。
弥生時代説
本田総一郎(1978)によれば、箸が農耕文化の一環として大陸・朝鮮半島伝来した時期は、弥生時代末期とする。しかし、弥生時代に中国から伝来した箸は祭祀儀式用として使われたもので、民衆の日常の食器ではなかったとする。
飛鳥時代説
向井由紀子(2001)は6世紀には仏教が伝来し、大陸との交流が頻繁となり、7世紀後半の遺跡の板葺宮遺跡や藤原宮遺跡から檜製箸状の出土品が匙形の物と共にみられるとする。箸状の道具は食事用よりも調理用の方が出現が早かったとする(向井由紀子他(1977))。二 本の箸が日本人の食生活 の中で日常化したのは3~5世紀の間と向井由紀子他(1977)は推察している。本田総一郎(1978)は考古学の遺物としては飛鳥板葺宮遺跡や藤原宮遺跡から出土した桧の箸は最も古いとする。
隋書倭国伝
「俗無盤俎,藉以餔葉,食用手餔之」(一般人は皿や食卓が無く、柏の葉で受け、手で食べる)と書かれる通り、随使の裴世清が来倭したときでも、一般人は手食であった。しかし宮中での歓迎の宴においては箸食での饗応を受けた。
奈良時代説
一色八郎(1990)は奈良時代に隋使の来日をきっかけとして、宮中の儀式や供宴に、中国式の会食作法が採用され、、『馬頭盤』にのせられた金や銀の箸と匙を使用したとする。 本田総一郎(1978)によれば、藤原宮から出土した箸の長さは約15cmから22cm、径は0.4cmから0.7cmであった。平城宮出土の箸は桧、杉、雑木で作られた箸が大量に出土した。長さ13cmから25cm、径は0.5cm、中程は太く、両端を細くして丸く削った羹箸(太鼓箸、俵箸ともいう)、片口箸(先端を細く丸く削った箸)、寸胴箸の3種である。内裏で天皇や貴人が使った箸は桧または柳を使った白く細い両口箸であったから、羹箸、片口箸、寸胴箸の3種は貴人出ない官人、一般職員が使用した物である。八世紀初頭からは、手食から箸食への転換が進められた。
考察
『魏志倭人伝』や『随書倭国伝』などの中国史書は、いずれも日本人の食生活を手づかみで食べる手食様式を伝える。中国優位の思想の反映があるとしても、何らかの事実の反映があったであろう。縄文時代や、弥生時代の箸は、あったとしても主に祭祀・儀式用の祭器として使われ、民衆の日常の食器ではなかった。一般庶民が使用していたなら、大量に出土してもよいはずである。しかし調理した熱いものをそのまますべて手づかみで食べたのだろうかという疑問はあるが、どうやら木の葉で受けて、少し冷ましてから食べたのであろう。
鳥浜貝塚からは、機遺物、植物遺物、魚介類、漆製品等が出土し、土器から魚介類を煮炊きした形跡の鑑定結果がでている。静岡県登呂遺跡では木製の匙が出土しているから、匙から箸を着想することは難しくない。しかし縄文時代、弥生時代では木の細い棒を表面が滑らかになるよう、加工する道具が身近になかったと考えたい。出土物の確実なところでは、板葺宮遺跡出土の木製箸を嚆矢であるがこれは儀式用とすれば、一般に普及し、日常的に普及した時期は奈良時代の初め頃であったとするのが妥当であろう。
出土例
- 木の箸 - 船泊遺跡、北海道礼文町、縄文時代
- 骨製の箸 - 鳥浜貝塚、福井県、縄文時代
- 木の箸 - 飛鳥板葺宮、飛鳥時代
参考文献
- 三田村有純(2009)『お箸の秘密』里文出版
- 本田総一郎(1978)『箸の本』柴田書店
- 一色八郎(1990)『箸の文化史 世界の箸・日本の箸』 御茶の水書房
- 向井 由紀子(2001)『箸』 法政大学出版局
- 向井由紀子、橋本慶子、長谷川千鶴(1977)「わが国におけ る食事用 の二本箸 の起源 と割箸について」調理科学
雨の宮一号墳 ― 2024年04月04日 19:56
雨の宮一号墳(あめのみやいちごうふん)は石川県鹿西町にある前方後円墳である。
概要
能登半島の中央部を東西に横切る邑知地溝帯付近の眉丈山山中にあり、1号墳は、墳丘長64メートルの県内で最大規模の前方後方墳である。墳丘の主軸は東西方向で、前方部は東に向く。短い前方部で、墳長64mに対して、前方部高さは推定6.5mで、比較的に高さがある。埋葬施設は粘土槨で7.2m、幅2mの規模である。主軸は南北方向である。
調査
1990年代に墳丘表面の全面発掘が行われた。棺は長さ6.3m、幅2mの割竹形木棺である。副葬品は神獣鏡1面、車輪石4(緑色凝灰岩製、外径、内孔とも卵形である)、石釧15(最大直径11cm)、琴柱形石製品 1、管玉14個、方形板革綴短甲1領、銅鏃 52本、鉄鏃 約30本、直刀7本以上、剣3本以上、短剣7本以上、鉄斧2個、靫1点(漆が塗られる)、漆製品などであった。墳丘の裾部3箇所から壺、高坏などが出土しており、葬送儀礼での使用品とみられる。 仿製神獣鏡の鏡面に布が付着し、板状の木片が残ることから、木箱に納め布で包装していたとみられる。貴重品との認識があったようだ。
規模
- 形状 前方後方墳
- 築成 前方部:2段、後方部:2段
- 墳長 64m
- 後円部 径45×36m 高6.5m
- 前方部 幅推定35m 長推定28m 高推定6.5m
外表施設
- 葺石 あり -安山岩・花崗岩の割石角礫
遺構
- 主体部
- 室・槨 粘土槨
- 棺 木棺直葬
遺物
- 仿製鏡 神獣鏡1
- 車輪石4・
- 石釧15
- 管玉14
- 琴柱形石製品 1
- 鉄剣 短剣7
- 鉄刀 大刀7
- 鉄鏃 約30
- 銅鏃 52
- 革綴短甲 方形板1
- 靫1
- 斧2
- 漆製品(盾?)1
- 赤色顔料
時期
- 古墳時代前期後半(4世紀中頃~後半)
被葬者
- 能登一円を支配した人物と想定
指定
- 1982年(昭和57年)10月12日 史跡指定
- :2008年7月10日 - 重要文化財
アクセス
- 名 称:雨の宮一号墳
- 所在地: 〒929-1602 石川県鹿島郡中能登町能登部上7
- 交 通:西日本旅客鉄道 能登部駅 から徒歩56分 3.6km
参考文献
- 文化庁編(1997)「発掘された日本列島'97」朝日新聞社
貯蔵穴 ― 2024年04月05日 11:14
貯蔵穴(ちょぞうけつ,storage hole/Strage pit)は食物や器物を土中に埋めた土坑その他の穴である。
概要
縄文時代に登場し、弥生時代中期以降になくなる。縄文時代では主にドングリを保管するために作られた。屋内に作りつけるものと屋外のものがある。食料の供給が不安定な狩猟・採集社会では、堅果類を保存して、食料供給を安定させることができる。 南方前池遺跡では、トチ、ナラ、クルミ、クリ、カシなどの堅果類の遺物が大量に出土している。ドングリは実の形状であり、マテバシイ、クヌギ、コナラ、シラカシ、ブナ科の実などを総称する。「ドングリ」という名前の植物はない。 清左衛門遺跡では平面円形で入り口が狭く、底部が広いフラスコ状であった。 坂の下遺跡(佐賀県有田町)の貯蔵穴からはアラカシの実が大量に出土した。九州大学理学部のC14測定で4,000年前のものと判明している。縄文中期である。
構造
直径45cm~180cm、深さ30~100cmと大きさは様々だがである。岩田遺跡の貯蔵穴は直径1.5m、深さ1mである。
貯蔵穴を使う理由
- 殺菌効果 - どんぐりに付着する虫の卵やふ化した幼虫を殺す
- あく抜き -貯蔵穴に水を貯めてドングリ等をつけてアク抜きをする。
- 食料保存 - 倉庫の1種
出土例
- 貯蔵穴 - 清左衛門遺跡、埼玉県白岡市、縄文時代仲期から晩期
- 貯蔵穴 - 坂の下遺跡、佐賀県有田町、縄文時代仲期
参考文献
- 藤原秀樹(2021)「北海道・北東北の縄文時代の貯蔵穴と貯蔵穴への埋葬」『北海道考古学』/北海道考古学会
- 佐々木藤雄(1979)「縄文社会論ノート」『異貌』8
- 永瀬福男(1982)「食料の漁猟・採集活動と保存 貯蔵穴」『季刊考古学』1号、東京雄山閣pp.59-61
- 坂口隆(2003)『縄文時代貯蔵穴の研究』アムプロモーション
船山1号墳 ― 2024年04月07日 00:08
船山1号墳(ふなやまいちごうふん)は愛知県豊川市にある古墳時代中期の前方後円墳である。
概要
豊川市の西側を流れる西古瀬川と音羽川にはさまれた洪積台地の標高約26mの場所に船山1号はある。現在は墳丘の大部分が削平されている。船山1号墳は墳長 96mと東三河地方で最大規模の前方後円墳である。周辺では律令時代に国府・国分寺・国分尼寺が建立されており、古代から開けた場所であった。古代の三河国の国府跡にはは国庁の正殿と想定される石組雨落溝を伴う四面廂建物、後殿と考えられる東西棟の大型掘立柱建物が検出されている。現在も国府駅がある。
調査
1945年(昭和20年)の防空壕切削時に、鉄製品(鉄刀3点 、鉄鉾3点 、鉄鏃約 70点)が出土した。平成20年の調査では南側くびれ部に、平成27年4月から11月の調査では北側くびれ部からほぼ相似形の造り出し(南側8.3m×4.0m、北側8.5m×4.5m)がみつかった。 平成27年調査では、前方部と後円部の3段築成、葺石が確認されている。南側造り出しから食物供献儀礼に使われたと思われる小型高坏25点・土師器はそう2点・笊形土器3点・匙形土製品1点・異形注口土器1点・食物土製品2点が出土した。北側の造り出しから儀礼祭祀を行ったと考えられる円筒埴輪列に囲まれた家形・蓋形・盾形などの形象埴輪が出土した。
規模
- 形状 前方後円墳
- 墳長 96m
- 後円部 径径50m 高6.5m
- 前方部 幅56m 長44m 高6.5m
外表施設
- 円筒埴輪 円筒・朝顔形Ⅳ・Ⅴ式
- 葺石 あり 角礫使用
主体部
遺物
- 鉄鏃 - 広身 65・無茎広身 8
- 小型高坏身(TK10~TK43) - 須恵器
- 匙形土製品
- 異形注口土
築造時期
- 5世 紀後半築造
被葬者
- 5世紀後半の三河の支配者と想定
展示
- 三河天平の里資料館
指定
アクセス等
- 名称 :船山1号墳
- 所在地 : 愛知県豊橋市八幡町字上宿
- 交 通 :名鉄豊川線 国府駅 徒歩4分、220m。
参考文献
- 豊川市教育委員会(1989)「船山第1号墳発掘調査報告書」
杉久保型ナイフ形石 ― 2024年04月09日 08:33
杉久保型ナイフ形石器(すぎくぼがたないふがたせっき)は旧石器時代のナイフ型石器の形式のひとつである。
概要
長野県杉久保遺跡の出土例を標識とする。ナイフ型旧石器時代の初期に中部地方北部から東北地方を中心として、日本列島の広い範囲で使われた。木葉形に仕上げられ、基部と先端部に刃潰し剥離が施される。
ナイフ型石器の種類
製作方法によって、茂呂型・国府型・杉久保型・東山型・九州型などの型式に分かれる。
参考文献
透孔 ― 2024年04月10日 00:19

透孔(すかしあな、とうこう、英perfirated decoration)は土器や埴輪、土製品の側壁をくり抜いて、内側の中空部分まで達している孔である。「透し孔」「透し」とも呼ばれる。
概要
孔の形は、○、△、□、半円、巴など様々である。 縄文土器、弥生土器、須恵器などでは高坏の脚部や器台に三角形、四角形、円形などの透孔(透かし)が用いられる。 円筒埴輪や朝顔型埴輪の胴部にも透孔はよく用いられる。
孔を空ける目的
なぜ孔を空けたのか。完全には解明されていない。
- 焼成効率説 - 焼成時に埴輪や土器がよく焼けるように孔をあけた。
- 当初の意味の形骸化 - 特殊器台では意味のあった穴が、埴輪では形骸化して残っている。
- 装飾説 - 単なる土器や埴輪のデザイン-
- 粘土の節約説 - 材料の不足または経済合理性
- 運搬時の軽量化説 - 運搬時に運びやすくした
- 魔除け説 - 悪霊などが近寄らないようにした、盗掘者対策。
考察
透孔の目的は様々な仮説がある。かっては「運ぶ際に棒を通すため」説もあったが、現在では否定されている。孔に棒を通したなら、その痕跡が残っているはずであるし、孔に荷重がかかるので、埴輪の破損も起こり得る。 焼成効率説では規則性のみられる孔の配置を説明できない。単なるデザイン説ではなぜ円筒埴輪や朝顔型埴輪にあるかは説明できない。粘土の節約説では、節約方法には埴輪の厚みを減らすとか,サイズを小さくするなど他の方法も考えられる。運搬時の軽量化説はあり得るが、孔だけで軽量できたかどうか。軽量化だけが目的なら、より小さい円筒埴輪にするのではないか。 魔除け説は有力と考える。円筒埴輪や朝顔型埴輪は古墳に結界を結ぶ意味があったとすれば、その透孔の模様は結界を補強する意味があったと考えることができる。
出土
- 水注形土器 - 新沢一遺跡、奈良県橿原市一町、弥生時代中期、底部に木の葉形の透かし孔を交互に向きを変えて施した高台がつく
- 透孔 - 円筒埴輪、森将軍塚古墳、長野県、古墳時代、三角形の透孔
最近のコメント