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久ヶ原式土器2024年04月12日 00:23

久ヶ原式土器/千代田区立日比谷図書文化館

久ヶ原式土器(くがはらしきどき)は関東南部の弥生時代後期前半の土器形式である。

概要

久ヶ原式の壺型土器は、縄目の模様、磨消縄文の山形文などの幾何学模様を巡らせ、口縁部および頚部に輪積痕を残し、赤色素のベンガラが塗られているなど特徴のある土器である。 一時は弥生町式土器と時間的に平行するとの説もあったが、現状では両者は時間差と系統差があると認識されている。1から3世紀頃の南関東に広く分布する。

考察

出土

参考文献

  1. 篠原和大(1998)「弥生土器の生産と規格性:房総半島の後期弥生土器を例として」人文論集 48 (2), A51-A94

角塚古墳2024年04月13日 00:12

角塚古墳(つのづかこふん)は岩手県奥州市にある 5世紀後半-6世紀初頭の前方後円墳である。2024年、日本100名墳に選出された。

概要

岩手県内では最大で最古の現存する古墳である。北上川の中流、北上盆地の南寄り、西から合流する胆沢川が形成した扇状地の標高75の地点にある。古墳は昭和10年代から地元研究者が埴輪の出土に注目していた。昭和20年代に学会に紹介され、日本最北端に位置する本格的な前方後円墳として注目された。 1940年代に後円部東南隅を畑地とするため削平された。1950年代前半に前方部に教員住宅が建築された(前方部の旧状は不明)。東方2キロに史跡胆沢城跡があり、

調査

周濠は後円部周辺が幅約10m、前方部で約3mと狭くなっている。全体が馬蹄形状である。 前方部には各種の埋葬施設は墳頂部の平面下に設けられたと推測されるが、破壊されているため手がかりはない。昭和49年、50年に、角塚古墳で初めての周湟調査により出土した埴輪は、円筒埴輪と形象埴輪であった。形象埴輪は動物、人物、家形埴輪等が残る。出土遺物の大半は埴輪破片である。形象埴輪は、全体形状はうかがえないが、わずかに首の部分、猪の鼻等が識別できる。鶏形埴輪と円筒埴輪は完形に近い。

規模

  • 形状 前方後円墳
  • 築成 前方部:2段?、後円部:3段
  • 墳長 46m
  • 後円部 径径30.4m 高4.9m
  • 前方部 幅20.4m 長14.1m 

外表施設

  • 円筒埴輪 円筒・朝顔形(?)Ⅴ式
  • 葺石 あり

遺物

築造時期

  • 出土埴輪等により6世紀前半の築造と推定される

被葬者

  • 不明

伝説

伝説によれば、高山掃部長者の妻が大蛇に変身し、農民を苦しめていたところを小夜姫がお経の力で退治し、その大蛇の角を埋めたのがこの古墳とされる。本古墳に手を付けると祟りがあると伝えられるため、現在まで墳丘が維持された要因と見られる。

展示

  • 胆沢郷土資料館

指定

  • 1985年3月22日 - 史跡名勝天然記念物

アクセス等 

  • 名称  :角塚古墳
  • 所在地 : 岩手県奥州市胆沢区南都田字塚田
  • 交 通 :JR水沢駅から車で約15分/バス岩手県交通 胆沢水沢線北回り20分「角塚公園下車」。

参考文献

丸木弓2024年04月14日 00:18

丸木弓(まるきゆみ)は古代日本の石器時代から古墳時代まで使われた原始的な弓である。

概要

単体弓は丸木弓と割材を用いる木弓に大別される。枝を材として用いる丸木弓は心持ち材が多いとされる。縄文・弥生時代の弓は大半が丸木弓である。丸木弓の材料は「梓」(あずさ)「桑」(くわ)「櫨」(はぜ)などの木を用いた。 丸木弓は武器として使用されるほか、神事にも使用された。弓の弦は植物性の繊維や動物の筋などが使用されたと考えられている(片岡生悟(2020))。

魏志倭人伝

『魏志倭人伝』に「兵用矛楯木弓、木弓短下長上」(兵は矛・楯・木弓を用いる。木弓は下を短く、上を長く持つ)と書かれる。そのような使い方の証拠がある。袈裟襷文銅鐸(伝香川県出土、弥生時代・前2~前1世紀)に見られる。鹿を射る人の弓は中心より下側を持っている。桜ヶ丘遺跡出土4号「銅鐸」(扁平鈕2式 四区袈裟襷文銅鐸)においても弓の持ち方は同様である。

弥生時代の弓

六反ケ丸遺跡(鹿児島県出水市)で、弥生時代中期(約2200~2300年前)の鹿児島県内最古となる木製の弓4張が出土した。最大のものは長さ87.9cm、小さなものは長さ46.1cm、幅は2.2cmから2.7cmである。堅くて重い素材のイスノキ製であった。森本遺跡の丸木は木を丹念に削り断面を円形にした精巧な丸木弓である。先端は丸く加工され、その下にくびれをつけて弦を巻き付けて固定する。

考察

縄文時代や弥生時代の弓の使用法は短下長上だったことは、『魏志倭人伝』に書かれていても、『日本書紀』、『古事記』には書かれない。これは『魏志倭人伝』は弥生時代から古墳時代の同時代資料であるが、『日本書紀』、『古事記』は同時代資料ではないからである。日本文献より中国文献を信用するのはなぜか、という的外れな素人意見がある。これに対しては、『魏志倭人伝』は同時代史料だが、『日本書紀』、『古事記』は500年後の史料だから、信頼性に差があるのは当然である。年代差は信頼性に大きく影響する。どこで書かれたから信頼性が劣るというものではない。弓の使い方の記述の有無はその証拠の一つになる。つまり短下長上は『魏志倭人伝』にしか書かれていないから、同時代資料の有効性を指摘することができる。

出土

  • 丸木弓 - 森本遺跡、京都府向日市、弥生時代
  • 丸木弓 -六反ケ丸遺跡、六反ケ丸遺跡、弥生時代中期。
  • 丸木弓 -下宅部遺跡 30点、東京都東村山市、縄文時代- 丸木弓はイヌガヤのみを材質とする。

参考文献

  1. 佐原真(1997)『魏志倭人伝の考古学』歴史民族博物館振興会
  2. 「酸性土壌でよくぞ腐らず…弥生中期の木製「弓」見つかる」南日本新聞、2024年1月14日
  3. 片岡生悟(2020)「縄文・弥生時代の弓矢について」東京大学考古学研究室研究紀要(33), pp.67-86

古奈良湖2024年04月15日 00:08

古奈良湖(こならこ)はかって日本の奈良盆地の一部にあった湖である。

概要

いまから300万年前の奈良盆地には湖があった。これは「古奈良湖」と命名されている。 古奈良湖は琵琶湖より新しく、300万年前から約150万年前まで存在していた湖である。 横山卓雄・中川要之助(1974)では、「鮮新世から更新世初期に存在したと考えられる消滅湖」「更新世初期中期には内湾となって、その後消滅した」と表現する。池田碩・大橋健(1997)は古奈良湖が更新世以後に存在した証拠はない」とするので、終期は更新世末期頃とみられる。 古奈良湖の位置は琵琶湖の南西であった。その範囲は東は井出町、西は奈良県生駒市まで、南北は北端が現在の城陽市付近、南端は奈良県北部とされるが詳細は不明である。古奈良湖は琵琶湖のような大きな湖ではなかったから、奈良盆地全体を覆っていた訳ではない。

古奈良湖の盛衰

当時の海水面は現在より低かった。大阪湾は小さな湖(古大阪湖)であった。水の流れは琵琶湖から南西方面に流れて古奈良湖に入り、香芝町関屋付近で古大阪湖に流れていた。古奈良湖には砂礫が堆積したが、同じ程度沈降していたので、砂礫層が厚くなっても、古奈良湖は浅くならなかった。最大時は京都府田辺まで湖面が広がった。200万年前に大和川断層ができ、湖水の流出路は関屋から北に移った。150万年前から海水面が上昇し、古奈良湖や古大阪湖に海水が流入した。古奈良湖と古大阪湖を結ぶ水の通り道を斑鳩水道という。100万年前に盆地の沈降がとまり、流入する砂礫で古奈良湖が完全にうまって埋まって消滅した。現在の奈良盆地の形は約10万年前に形成された。奈良盆地の埋め立てが進行し、縄文時代には扇状地の先端部に住居が形成される。微高地は居住に適するため、集落が発達した。

考察

古奈良湖が問題となるのは、唐古・鍵遺跡や纏向遺跡等における炭素年代測定に、海洋リザーバー効果や湖沼リザーバー効果が影響されると主張するグループがいるからである。しかし、木材(建築部材)に海洋リザーバー効果や湖沼リザーバー効果が及ぶという証拠は今のところない。また古奈良湖は150万年前には無くなっているので、弥生時代の木材の年代測定に海洋リザーバー効果が及ぶことを証明した論文もないと思われる。現在の知見では唐古・鍵遺跡や纏向遺跡の範囲がかって古奈良湖の湖底であったという証拠もない。

参考文献

  1. 奈良県史編集委員会(1985)『奈良県史1 地域史・景観』名著出版
  2. 横山卓雄・中川要之助(1974)「関屋地域の大阪層群の層序と古水流方向からみた 奈良湖 の水の流出口について」地質学雑誌80 (6),pp.277-286
  3. 横山卓雄編(1980)『地球の自然史―過去2000万年間の西南日本の移り変わり』三和書房
  4. 横山卓雄(2004)『京都の自然史:京都‧奈良盆地の移りかわり』三学出版
  5. 日本第四紀学会(1977)『日本の第四紀研究: その発展と現状』東京大学出版会
  6. 池田碩・大橋健(1997)「奈良盆地の地形学的研究 その現状と課題」奈良大学紀要25号、p.41-63
  7. T Yokoyama(1969)"Tephrochronology and paleogeography of the Plio-Pleistocene in the eastern Setouchi geologic province, southwest"Memoirs of the Faculty of Science, Kyoto University

横幅2024年04月16日 00:57

横幅(よこはば)は『魏志倭人伝』に書かれる倭国の男子の服装である。

概要

『魏志倭人伝』の記述に男子の服装が書かれる、すなわち「男子は皆露、木緜を以て頭に招け、その衣は横幅、ただ結束して相連ね、ほぼ縫うことなし」(男子皆露紛、以木県招頭、其衣横幅、但結束相連、略無)とされる。男子は冠や頭巾をつけることなく、木綿で鉢巻きをして。衣は横幅で、結んだだけで連結し、裁縫はほぼしない、とされている。 『古事記』、『日本書紀』には同様の記述はないから、弥生時代に独特の服装であろう。

横幅の解釈

大林太良(1977)によれば、2通りの解釈がされている。一つは長い布を腰巻きとして使う方法である。倭国の使節の姿に梁代(6世紀)の「職貢図巻」に描かれている。すなわち横に長い布を肩掛けから、腹のあたりまで巻き付け、腰付近でくくり合わせるものである。百済の使節とはかなり異なり、貧弱な服装になっている。『晋書』卷九十七・林邑伝に「女嫁之時,著迦盤衣,橫幅合縫如井欄,首戴寶花」と書かれる。林邑とはベトナム中部から南部でチャム人が2世紀末に建設した国家をいう。『隋書』卷八十二列傳第四十七 南蠻林邑伝に「俗皆徒跣,以幅布纏身」(風俗は皆裸足で、横幅に衣服をまとう)と書かれる。 二番目の解釈では肩から掛けた布をさすという。三品彰英は袈裟式の服装と解釈した。斎藤忠も同様の解釈である。サリーはインド・ネパール・スリランカ・バングラデシュ・パキスタンにおいて、細長い布を様々なスタイルで体を包み込んで使用する。

考察

どちらの解釈によっても、横に長い布を身にまとう衣服であり、これは東南アジアで広く見られる衣装である。南アジアから東南アジアにかけて広く分布している腰巻文化圏がある。名称はサロン,サルン(マレーシア,インドネシア),シン(ラオス),ルンギー(インド,バングラデシュ)、ロンジー(ミャンマー)があるが、いずれも布を腰巻きとして使用する。 現代でも、インドネシアでは輪にした布を衣料に用い,裁断や縫製をしないまま身体を包む布として使う。とすれば、魏志倭人伝に記述される服装は東南アジア系統の服装なのだろうか。そうだとすると、どのような経路を渡ってきたのであろうか。

参考文献

  1. 三品彰英(1971)『神話と文化史』平凡社
  2. 斎藤忠(1958)『日本全史1 原始』東京大学出版会
  3. 吉本忍(2005)『アジアにおける「包むJ文化』日本衣服学会誌 Vol.49 No.l
  4. 大林太良(1977)『邪馬台国』中央公論社

2024世田谷区遺跡発掘調査速報展2024年04月16日 17:07

2024世田谷区遺跡発掘調査速報展(せたがやくはっくつちょうさそくほうてん)は世田谷区が郷土資料館で毎年開催する区内発掘調査の速報展示である。

概要

世田谷区には約300か所の遺跡があり、これまでに多くの土器などが発掘されている。世田谷区発掘調査速報展は世田谷区が令和5年度におこなった遺跡の発掘・調査成果をパネルと出土品で展示する。 今年の目玉は六所東遺跡(野毛14号墳)出土の人物埴輪である。頭部と胴体部だけであるが、上半身と人物の様子がよく分かる埴輪である。

展示の概要

出品数は合計50点程度である。世田谷区郷土資料館で開催されている。

  • 祖師谷大道北遺跡第10次調査 
    • 93号住居跡出土縄文土器 浅鉢1、深鉢2 縄文時代中期
  • 上神明遺跡第7・17次調査
    • 散石 縄文時代草創期から早期
    • 円孔文土器1、表裏縄文土器1、深鉢(破片)20、丸ノミ形磨製石斧
    • 礫器2、礫斧7、磨石2、敲石2、スタンプ形5、石皿1
  • 下野毛遺跡第17次調査 
    • 包含層 礫1 縄文時代
    • 85号住居跡 深鉢2、浅鉢1 縄文時代中期
    • 86号住居跡 深鉢1 縄文時代中期
    • 87号住居跡 石皿1 縄文時代中期
    • 野毛2号墳 円筒埴輪3、形象埴輪(鈴)1、須恵器 杯1 古墳時代後期 出土縄文土器、埴輪
  • 六所東遺跡第5次調査
    • 包含層 打製石斧2、磨石1、石鏃2
    • 4号住居跡 鉢1
    • 3号住居跡 浅鉢1
    • 6号住居跡 深鉢2
    • 7号住居跡 深鉢1
    • 14号土坑 石皿1
    • 野毛14号墳 高坏1、円筒埴輪8、人物埴輪2、家型埴輪3
  • 下野毛根遺跡
    • 野毛15号墳
      • 広口壺1、坏3、円筒埴輪3、朝顔型埴輪2、人物埴輪5
      • 馬形埴輪2、形象埴輪9、鳥形土製品1

開催概要

  • 件名:2024世田谷区発掘調査速報展 ~最新の調査成果から
  • 開催場所:世田谷区郷土資料館新館2階展示室3(左側)
  • 所在地:東京都世田谷区世田谷1丁目29番18号
  • 展示期間:令和6年(2024年)4月6日~令和6年6月23日
  • 開催時間:午前9時~午後4時30分
  • 休館日:休館日:毎週月曜日、祝日(月曜日が祝日の場合は翌日も休館)
  • 交通:世田谷線 上町 徒歩5分

参考文献

土偶研究の新展開2024年04月18日 12:30

土偶研究の新展開(どぐうけんきゅうのしんてんかい)は明治大学が主催した土偶研究の講演会である。

概要

阿部芳郎教授は、土偶の意味を4段階の変化と関連させ、「ヒトの人化」という概念で整理し、土偶の社会的な意味を再構成できるとした。八木勝枝氏は岩手県内の土偶は列点文土偶と土器文様土偶があり、後期後葉では両者が融合し、斉一的になるとした。対応する社会変化は今後の研究課題とした。高橋満氏は福島県の筒形土偶の人体文土偶を紹介した。 吉岡卓真氏は土偶、土版、岩版の関係性モデルを提示した。中沢道彦氏は長野県の縄文時代晩期土偶を形式学的観点から論じた。川添和暁は縄文時代の骨角製儀器の「I字文」「対向渦巻文」「三叉文」の3種の文様の関係を分析した。宮内慶介氏は動物形土製品にはイノシシ、イヌ、熊、猿、鶏、亀、海獣などがあるとした。これらのサイズと文様に着目して分析した。蒲生侑佳氏は土偶の「赤彩」を分析しベンガラと朱とで顔料が使い分けられていると報告した。

講演

  • 発表1 「土偶研究の新視点」(阿部芳郎/明治大学教授)
  • 発表2 「岩手県域における後期中葉土偶の構成」(八木勝枝/岩手県埋蔵文化財センター)
  • 発表3 「東北地方南部における縄文中期末の人体文・狩猟文土器」(高橋満/福島県立博物館)
  • 発表4 「関東地方の後・晩期土偶・土版・岩版」(吉岡卓真/さいたま市教育委員会)
  • 発表5 「中部高地の後・晩期土偶」(中沢道彦/長野県)
  • 発表6 「骨角製儀器からみた文様の関係性とその意義」(川添和暁/愛知県埋蔵文化財センター)
  • 発表7「関東地方を中心とした動物形土製品の形態と文様」(宮内慶介/飯能市教育委員会)
  • 発表8「赤彩技術の空間的展開と儀器生産の関係」(蒲生侑佳/明治大学文学部博士後期)
  • 総合討論

開催概要

  • テーマ:土偶研究の新展開
  • 開催場所:明治大学グローバルフロント
  • 開催日:2024年3月2日
  • 開催時間:10時~17時00分
  • 所在地:千代田区神田駿河台2-1
  • 交通:JR 御茶水駅 徒歩5分

参考文献

  1. 明治大学(2024)『土偶研究の新展開~資源利用史と土偶祭祀』資源利用研究史クラスター