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還致録受2024年10月01日 10:49

還致録受(かんちろくじゅ)は『魏志倭人伝』に使用される語句で、倭国に帰ったら品物と目録を倭王に提出しなさい、という意味である。

概要

「皆裝封付難升米 牛利還到録受」を、水野祐(1982)は以下のように解釈する。

  1. すべてを封印を施して、使節の難升米と牛利に引き渡した、
  2. 倭国に帰ったら品物を点検して記録せよ

別の解釈

2番目は別の解釈がある。品物は封印されて渡されたので、帰国したときに、渡した目録と照らし合わせて受け取れ、と解釈する。この場合、目録を品物とともに渡していなければならない。 そのように下賜品とその目録とをセットで渡す慣習があったかどうかを他の事例などで調べる必要がある。<br/>

岩波訳

石原道博編訳(1951)の解釈がまさにこの解釈である。この部分の訳を「皆装封して難升米・牛利に渡す。(倭国に)還り到着したら目録通り受け取り、ことごとくあなたの国中に示し、魏があなたをいとおしく思っていることを知らせよ」とする。「受け取る」の主語(主体)は倭王である。<br/>

講談社訳

藤堂明保他(2010)はこの部分を「みな封印して、着いたら受け取るように。その賜り物をみな汝の国の人に見せ、魏の国が、汝をいつくしんで、わざわざ汝によいものを賜ったことを知らせよ」と解釈している。「録」を解釈していないが、注釈では「録受」は「目録と照らし合わせて受け取る」意味であると説明している。

用語の違い

同じ品物を渡す(贈与する)時でも、両者の身分関係により用語が異なる。ここでは「受」なので、同じ身分の人物から倭国で受け取ると想定されている。難升米・牛利から倭王に渡すことが想定されているのであろうか。

  1. 「賜」・・・皇帝から品物を受取る際に使用する
  2. 「受」・・・同じ身分の人物から品物を受取る
  3. 「献」・・・身分の低い者から高位のものが品物を受取る

考察

皇帝は目録だけ渡して品物は、その時点で品物を渡さなかったと解するものもあるが、これは当たらない。難升米・牛利は皇帝の面会時点で厳重に封印した品物を渡されたのである。 その証拠に賜り物を汝の国の人に見せよと指令しているので、現物(品物)がなければ示しようがない。目録だけ示しても、当時は識字率が低いので、効果が無い。 品物と同時に目録を渡したかどうかが、問題となる。帰国してから品物の目録を作成するのは違和感があるので、やはり魏の皇帝から目録と品物を同時に渡されたと解釈する。長い帰路で品物を紛失するかもしれないので、目録との照合は必要である。 かなりの分量の品物を持ち帰れたのかという意見もあるが、倭国の使者はそれなりの人数で派遣されであろうし、帯方郡の役人も同行していたので、持ち運びは問題が無かったと考える。

原文『魏志倭人伝』

  • 皆裝封付難升米・牛利、還到録受、悉可以示汝國中人、使知國家哀汝

参考文献

  1. 佐藤進・濱口富士雄(2011)『漢辞海』第三版、三省堂
  2. 石原道博編訳(1951)『新訂魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝』岩波書店<br>
  3. 藤堂明保他(2010)『倭国伝』講談社
  4. 水野祐(1982)『評釈 魏志倭人伝』雄山閣
  5. 藤堂明保他(2010)『倭国伝』講談社

別所遺跡(さいたま市)2024年10月02日 00:06

別所遺跡(さいたま市)(べっしょいせき)は埼玉県さいたま市南区にある縄文時代から中世に渡る複合遺跡である。

概要

JR武蔵浦和駅の北300mにある。大宮台地の先端、荒川に面する標高12mの台地縁辺に位置する。周辺に別所二丁目遺跡、別所子野上遺跡、別所東野田遺跡がある。

調査

1980年に弥生後期の住居2軒、古墳前期の住居14軒、古墳中期の住居2軒を検出した。うち古墳前期の住居1軒は、焼失住居であった。古墳時代前期の住居から籠目のある壺が出土した。

第12次調査

2019年7月8日から9月13日までの第12次調査では縄文時代中期の住居跡8基、縄文時代の34基、溝2条、近世土坑1基を検出した。また勝坂式土器、加曽利E式土器(縄文時代中期)、近世の陶磁器、石製品が出土した。第97号住居跡は深さ50cm、長辺4.1m、短辺2.5mの小型住居である。炉は南よりである。炉体土器は勝坂式土器である。

第13次調査

2019年9月10日から2020年3月19日の第13次調査では縄文時代中期の住居跡3基、土坑8基、弥生時代後期の住居跡2基、古墳時代の住居跡1基、中世の土壙14基、近世の溝5条、土壙26基を検出した。縄文時代の阿玉台式土器が出土した。第103号住居は直径4.5mの円形で深さは46cmである。壁際に周溝がめぐる。住居形状と出土遺物から弥生時代後期の住居跡と判断される。第101号住居は長辺6.8m、短辺6.26mの隅丸方形である。深さは33vmとやや浅い。炉は住居中央のやや北西寄り。台付甕形土器の出土から古墳時代前期の住居跡と想定される。

同名の別所遺跡

さいたま市南区の別所遺跡と同名のさいたま市大宮区の別所遺跡(さいたま市大宮区高鼻町2-305-4)との関係が不明である。同じ市内に同名の遺跡があるのは不思議である。 昭和53年度の発掘調査の際に別所遺跡第4B号竪穴住居跡から一括出土。甕形土器4点(内残欠1点)、高坏形土器9点(内残欠3点)、脚付甕形土器1点、坩形土器3点、碗形土器3点、有段器台形土器1点、坏形土器1点、甑形土器1点。古墳時代和泉式土器の器種が揃っている。

遺構

弥生時代

  • 竪穴建物

遺物

縄文時代

  • 縄文土器(早期から後期)
  • 石器
  • 阿玉台式土器
  • 土坑2

弥生時代

  • 弥生土器

古墳時代

  • 土器
  • 土製品
  • 刀子
  • 壺形土器

中世

  • 板碑

指定

  • 昭和33年3月31日 市指定 有形文化財(考古資料)別所遺跡出土壺形土器
    • 別所遺跡出土。古墳時代前期五領式土器。器高27.9センチメートル、口径15.0センチメートル。指定当時は弥生式土器とされていたが、古墳時代の土師器であった。

考察

アクセス等

  • 名称:別所遺跡
  • 所在地:埼玉県さいたま市南区別所2丁目1664-5
  • 交通:JR武蔵浦和駅から徒歩5分

参考文献

  1. さいたま市遺跡調査会(2012)『さいたま市遺跡調査会報告書122:別所遺跡』さいたま市遺跡調査会

上代町遺跡群2024年10月03日 00:09

上代町遺跡群(かみだいまちいせきぐん)は熊本県熊本市にある弥生時代から古墳時代の複合遺跡である。

概要

熊本県熊本市を流れる熊本県管轄の二級河川・坪井川の右岸にある。 上代町遺跡群は熊本市西区上代や城山下代、城山大塘にまたがる遺跡である。

調査

弥生時代中期前半の大溝から大量の木製品が出土した。農耕具、建築部材などの木器が製作されたと想定されている。鍬、臼、斧の柄などの農耕具などであるが、いずれも破損品か未成品であった。

赤漆塗木製剣柄と盤部

大溝の最下層から「赤漆塗木製剣柄」と「盤部」が大溝の最下層で出土した。柄は銅剣に装着されたものと推定されている。。両者は前面に赤い漆が塗られている。柄の縁には絹糸が巻かれていた。全体の復元が可能なものである。銅剣本体、鞘、把頭飾(柄の飾り)は出土例があるが、国内では他に「剣柄」の発見例はない。柄は銅剣に装着されていた可能性が高い。

馬の埋葬土坑

5世紀頃(古墳時代中期の)のものとみられる馬の全身の骨が2016年9月に出土した。古墳時代の遺構から馬の全身の骨が出土したのは大阪府(蔀屋北遺跡)、長野県(宮垣外遺跡)に次いで3例目であり、九州では始めてである。埋葬されていた穴は横約200センチ、縦約110センチ、深さ約20センチであった。125センチの体高をもつ12歳前後のオスと見られる。人の手により埋葬されており、かつ丁寧に埋葬されていたから「特別な馬」であったとみられる。他に複数の馬の骨や、馬具、飼育に必要な塩を作る製塩土器も検出されている。

指定

考察

弥生時代の銅剣は限られた権力者だけがもつ「威信財」とされている。上代町遺跡群の被葬者は相当の権力を持っていたのではないか。

アクセス等

  • 名称:上代町遺跡群
  • 所在地:熊本県熊本市西区城山上代町
  • 交通:熊本駅から2.5km、徒歩34分。

参考文献

  1. 「古墳時代の「特別な馬」お目見え」朝日新聞、2019年12月20日
  2. 文化庁(2018)『発掘された日本列島 2018』共同通信社

熊本市塚原歴史民俗資料館2024年10月04日 00:14

熊本市塚原歴史民俗資料館(くまもとしつかはられきしみんぞくしりょうかん)は熊本県熊本市にある歴史資料館である。

概要

塚原古墳公園の中にある資料館である。り史跡「塚原古墳群」に隣接し、同史跡のガイダンス施設の役割も果たす。主な展示物に重要文化財の「台付舟形土器」、千々屋寺の「馬頭観音立像」(県指定重要文化財)、史跡阿高・黒橋貝塚、御領貝塚出土の資料、県内最古の旧石器時代の資料(沈目遺跡)、貴重な弥生時代の青銅器(新御堂遺跡)、県内最古の寺院跡陳内廃寺の出土瓦等がある。また考古学史を語る上で重要な小林久雄氏収集の資料(通称:小林久雄 コレクション)を収蔵展示する。

展示  考古展示 2F

先史時代から古代までの資料約300点を展示する。

  • 旧石器時代
    • 県内最古の沈目遺跡
  • 縄文時代
    • 阿高・黒橋貝塚
    • 御領貝塚
    • 石棒(御領貝塚出土)
    • 石刀(大明神遺跡) 1 点
  • 弥生時代
    • 新御堂遺跡
      • 青銅器(新御堂遺跡)
    • 「台付舟形土器」- 酒器として使われたと思われ
  • 古墳時代
    • 塚原古墳群
      • 勾玉
  • 古代
    • 肥後国最古の国府
    • 益城郡の郡家
    • 球磨」とよばれる駅家

指定

  • 1967年06月15日 国指定重要文化財(美術品)「台付舟形土器」
  • 県指定重要文化財 馬頭観音立像

諸元

  • 名 称:熊本市塚原歴史民俗資料館
  • 開 設:昭和58年11月開館 当初は「城南町歴史民俗資料館」
  • 休館日:月曜日(祝日の場合は翌日)、年末年始
  • 開館時間:9:00~16:30
  • 観覧料:大人:200円、小・中学生:100円
  • 所在地: 〒861-4226 熊本県熊本市南区城南町塚原1924
  • 交通: 熊本駅から熊本市電A系統で「慶徳校前」下車。徒歩2分の熊本桜町バスターミナル(旧熊本交通センター)から熊本バス南20段鶴・志導寺方面行きに乗車、塚原バス停にて下車、徒歩3分

神田・三本木古墳群2024年10月05日 00:22

'神田・三本木古墳群''(かんださんぼぎこふんぐん)は群馬県藤岡市にある204基の古墳群である。

概要

群馬県の最南端、上野村にある三国山から流れ、群馬と埼玉の県境付近を流下する中小河川である神流川に注ぐ三名川北側の段丘上及び低丘陵上に分布する。多くは横穴式石室を持ち、6世紀から7世紀代の築造と推定されている。

調査

204基の古墳群のうち53基が発掘調査されている。平成23年から25年にかけて古墳群の東部に位置する六反支群の15基の古墳が調査された。K-10号古墳の周辺に石室に凝灰岩を用い、河原石を積み上げて墳丘とする同程度の規模の円墳が4基みつかった。

K-9号古墳

K-9号墳は径8mの円墳で、無袖の横穴式石室を持つ。玄室は凝灰岩の切石、羨道は自然石を使用しており、石材にノミの跡が残る。床面には石を敷き詰める。

K-10号古墳

K-10号墳は径12mの円墳で、墳丘、石室とも良好に残る。石室は玄室に凝灰岩を使用し、仕切石で区画する。南端のK-10号古墳から人物埴輪6体と円筒埴輪27個体が築造当時の位置のまま検出された。古墳の石室右側に武人2個体、巫女3個体、不明1個体であった。円筒埴輪は墳丘を囲むように置かれていた。河原石を積み上げて墳丘とする。玄室の平面形はT型の珍しい形状である。6世紀後半の築造。

伊勢塚古墳

藤岡市上落合318、県道174号線の北。基壇上に二段に築かれた対角長27mの不正八角形墳である。南向きに開口する横穴式石室は全長8.94m、玄室長4.7m、最大幅2.4m、高さ2.6m、羨道長4.24mの両袖式である。羨道は川原石の乱石積み、玄室の奥壁は砂岩の三段積み、側壁は珪石の周囲に棒状の片岩を組み合わせた模様積みで、胴張り状にアーチを描きながら、卵形の天井石を支える。

七輿山古墳

伊勢塚古墳の南にある大型前方後円墳である。県内三位、六世紀代では東日本最大。全長145m、後円部径87m、前方部幅106m、墳丘は三段築成で、三重の周濠が巡る。中堤の前方部側に二ヶ所の方形造り出しが確認される。

遺構

  • 横穴式石室
  • 玄室

遺物

  • 人物埴輪6
  • 円筒埴輪27個体

築造時期

  • 6世紀後半

被葬者

展示

指定

  •  

考察

アクセス等 

  • 名称:神田・三本木塚古墳群
  • 所在地 :群馬県藤岡市神田字塚間1322/1375-6/三本木字下原864
  • 交 通 :藤岡駅から5388m

参考文献

  1. 藤岡市教育委員会(1988)『神田・三本木古墳群』藤岡市教育委員会

壬生町立歴史民俗資料館2024年10月06日 00:50

壬生町立歴史民俗資料館(みぶちょうりつれきしみんぞくしりょうかん)は壬生城跡地の公園内に立地し、町の歴史や文化財を調査・研究・展示する。

概要

「壬生のあゆみと文化」を基本テーマとし、特色ある「古墳時代」「江戸時代」「工芸」の3つのゾーンで構成する。壬生車塚古墳は7世紀前半頃造られた円墳の中で、国内最大級で、地域特有の「下野型古墳」である。羽生田地区の茶臼山古墳(国指定史跡)出土の円筒埴輪を推定復元した。

展示  

縄文時代

  • 深鉢形土器
    • 五反田道遺跡
  • 石鏃
  • 打製石斧
    • 西高野遺跡・釜ヶ淵遺跡
  • 磨製石斧
    • 八剣遺跡
  • 石皿
    • 藤井台坪遺跡ほか
  • 石錘
  • 砥石
    • 八剣遺跡
  • 香炉形土器
    • 八剣遺跡
  • ミニチュア土器
  • 人面付土版
    • 八剣遺跡

弥生時代

  • 壺形土器
    • 本学谷東遺跡 再葬用の土器
  • 太型蛤刃石斧
    • 本学谷東遺跡 大陸から伝わった磨製石斧の一種

古墳時代

  • 鏡板
    • 増塚古墳 馬具の1種
  • 家形埴輪
    • 富士山古墳
  • 盾持人埴輪
    • 壬生愛宕塚古墳
  • 石見型埴輪
    • 壬生愛宕塚古墳 モチーフは「盾」「儀仗」「鞘装具」など様々な説がある。
  • 壺鐙
    • 藤井38号墳
  • 青銅鏡(破片)
    • 塚越1号墳
  • 家形埴輪
    • 富士山古墳
    • はばき、藤井38号墳 刀の部材の一つ
  • 耳環
    • じかん、壬生甲字車塚の石室 耳飾りとして使用、
  • 直刀
    • 藤井82号墳石室内から出土した長さ約60cmの刀
  • ガラス小玉
    • 藤井39号墳
    • 藤井38号墳 1点に銀象嵌
  • 切子玉
    • 車塚9号墳 水晶製の切子玉
  • さしば形埴輪
    • 壬生愛宕塚古墳
  • 勾玉
    • 車塚10号墳 メノウ製及び滑石製の勾玉
  • 子持ち勾玉
    • 後河原遺跡 滑石製
  • 紡錘車
    • 鍋小路遺跡 「中」「内」と線刻がある
  • 須恵器長胴甕
    • 壬生甲字車塚
  • 長頸瓶
    • 桃花原古墳
  • 斧状鉄製品
    • 桃花原古墳 半島由来の「儀式用斧」。「サルポ」と呼ばれることもある。

指定

諸元

  • 名 称:壬生町立歴史民俗資料館
  • 開 設: 1985年11月3日
  • 休館日:月曜日、祝日、年末年始
  • 開館時間:9:00?17:00
  • 観覧料:大人:無料
  • 所在地: 〒321-0225 栃木県下都賀郡壬生町本丸1-8-33
  • 交通: 東武宇都宮線壬生駅から徒歩30分程度

日本考古学20242024年10月07日 00:47

日本考古学2024(にほんこうこがくにぜろによん)は2024年10月5日に開催された考古学の研究会である。

概要(講演概要と要旨)

  • タイトル:「日本考古学20」
  • 主催者:明治大学博物館・明治大学博物館友の会
  • 開催日:2024年10月5日(土) 13:00-16:10
  • 会 場:明治大学駿河台キャンパス グローバルフロント
  • 定 員:先着順 90名

内容プログラム

  • 講演1「同位体分析による縄文人の食性と生業の多様性」
    • 13:00~14:30 講演1(90分)
    • 講師:米田穣氏(東京大学総合研究博物館教授)
  • 講演2「道具としての縄文土器~多様化とその背景~」
    • 14:40~16:10 講演1(90分)
    • 講師:阿部芳郎氏(明治大学文学部教授)

講演要旨

文責は筆者となる。忠実な講演の再現ではないし、筆者の誤解も含まれるかもしれないので。

講演1「同位体分析による縄文人の食性と生業の多様」

生態学的アプローチとは生業の季節性や資源の分布とセトルメント・バターンとの密接な関係を与慮に入れた、析しい枠組である(羽生淳子(1990))。そのうち小林達雄の「縄文カレンダー」小林 達雄(1996)は知られているが、縄文時代の生態を全体的に把握する事は難しい。山内清男(1964)に「サケマス論」山内 清男(1964)がある。これは東日本と西日本との人口差を説明し、縄文時代の生業に関する理論を立てたたものである。 本研究は縄文時代の動・植物依存体の科学的な同定・分析結果に基づいて食料を推定し、食料獲得戦略を推定しようとする。縄文時代と弥生時代の食の多様性が明らかになってきた。人骨の同位体分析では北海道の縄文人はオットセイや海産物を食べ、東日本の縄文人はあまり魚を食べていないことが分かった。縄文系弥生人はデンプンを多く取る。渡来系弥生人は窒素とアンモニアの比率が多いからデンプンだけではない。縄文時代の土器はデンプン質を食料にするために加熱し、糖化することにより食料としていた。調理の際に付着したオコゲである土器内面の付着炭化物を分析した、縄文時代における食生活の変化を資源利用史として把握できた。 時代差による食料の変化はあまり見られない。同じ遺跡でも遺跡内の個体差の方が大きく、遺跡間の差より大きい、同じ環境でも食生活が異なることが判明した。 土器の作り分けに2つのモデルがある。第一は「ハレとケ」である。第二は「加工工程の複雑化」である。その解明には調理文化全体をさらに深く分析することが必要である。

講演2「道具としての縄文土器~多様化とその背景」

貝塚は海があったからできたのであろうか。循環する四季は豊かさをもたらしたのであろうか。人口増加は社会の発展と言えるのであろうか。様々な疑問のあるところである。 土器を道具としてみると、製作技術、使用方法、利用空間、利用した社会を考えなければならない。各場面を接続しなければ、土器を何に使ったかは分からない。当初は煮炊き用であったが、縄文時代の草創期は形は単純といえるが、しだいに小型土器と大型土器の使い分けが生じた。粗製土器とは模様が簡素なモノをいう。やがて精製土器と粗製土器の作り分けが明確化する。土器の使い方に2つのモデルがある。製塩土器とは、無文、薄手で剥離性があるのが特徴である。社会は生産と消費の二重構造となっていった。各場面を接続するモデル構築に考古学的検証が必要である。

参考文献

  1. 「日本考古学2024」配布資料
  2. 羽生 淳子(1990)「縄文時代の集落研究と狩猟・ 採集民研究との接点」『物質文化』第53号
  3. 小林 達雄(1996)『縄文人の世界』朝日新聞出版
  4. 山内 清男(1964)「日本先史時代概説」 山内清男 編『縄紋式土器』日本原始美術第1巻 講談社
  5. 阿部 芳郎編(2014)「縄文の資源利用と社会」季刊考古学 別冊、雄山閣