下野国分寺跡 ― 2024年11月10日 00:23

下野国分寺跡(しもつけこくぶんじあと)は栃木県下野市にある奈良時代の寺院跡である。
概要
奈良時代の741年(天平13年)、聖武天皇の詔によって全国60数か所に建てられた寺院のひとつで、下野市西部、姿川と思川に挟まれた台地上に残る寺院跡である。伽藍配置は、奈良の東大寺と同形式で、南北軸上に南から、南大門、中門、金堂、講堂が並び、中門と金堂は回廊によってつながる。下野国分寺に建てられた七重塔は高さ60m以上であった。 国分寺では七重塔が最重要視され、塔は回廊の外側に置かれた。金堂の前に儀式空間を確保するためとされる。回廊形式には単廊と複廊とがある。下野国分寺は単廊であった。単廊には礎石建ちと掘立柱がある。 金堂・講堂の間の東西に鐘楼、経蔵が作られる。瑠璃光山国分寺阿弥陀堂の礎石は、下野国分寺跡から移設された凝灰岩の礎石が転用された。現在は、史跡公園として公開されている。
調査
発掘調査により寺院地の規模は東西413m、南北457mと判明した。1~5期に時期区分され、1期(8世紀中葉)は塔・金堂などの建造、2期(8世紀後半~9世紀前半代)は主要堂塔が完成し伽藍を塀で囲む。3期(9世紀後半代)は伽藍地を縮小し、掘立柱塀を築地塀に建て替え、寺院全体を改修した。4期(10世紀以降)は主要堂塔の補修や溝の掘り直しを停止した。金堂の規模は33.6m(112尺)×21m(70尺)、講堂は25.2m(84尺)×16.8m(56尺)である。僧坊は最も奥にあり、74.1m(247尺)×16.8m(56尺)である。
遺構
- 寺地南西隅部
- 寺地北東隅部
- 寺地の南門
- 寺地西辺溝
- 塀跡
- 築地塀
- 建物跡
- 回廊跡
- 溝状遺構
- 伽藍創建期の北西隅区画施設
- 創建期から最終期の北門
- 竪穴住居
遺物
- 土器類
- 泥塔
- 鉄製品
- 鍵
- 釘
- 風鐸
- 青銅製品
- 増長天像
- 箸
- 金具
- 鐙瓦
- 宇瓦
- 土師器
- 須恵器
- 灰釉陶器
- 青磁
- 灰釉陶器
- 緑釉陶器
- 墨書土器
- 硯
- 小金銅仏
- 鉢
指定
- 大正10年3月3日 国指定史跡
展示
- しもつけ風土記の丘資料館
考察
アクセス
- 名称:下野国分寺跡
- 所在地:〒329-0417 栃木県下都賀郡国分寺町大字国分乙474
- 交通: JR宇都宮線小金井駅から西方へ約3.5km/徒歩約60分
参考文献
- (財)栃木県文化振興事業団埋蔵文化財センター(1998)『栃木県埋蔵文化財調査報告206:下野国分寺跡』栃木県教育委員会他
- 有賀祐史(2013)「国分寺の回廊形式と伽藍配置」半田山地理考古 1,pp.41-51
- 海野聡(2011)「国分寺伽藍の造営と維持システム」日本建築学会計画系論文集 (660), pp.447
前方後円墳 ― 2024年11月10日 01:00
前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん,circular‐shaped ancient tomb with rectangular frontage)は前部が方形で後部が円形の古墳である。
概要
円形の墳丘と,方形の墳丘とを連結した形状の墓である。前方後円墳の名称は蒲生君平『山陵志』で「必象宮車而使前方後円」の記述から命名された(参考文献1)。日本独特の古墳形状である。3世紀中から7世紀初にかけて作られた。円形部を後円部,方形部を前方部と呼び、後円部と前方部の間にあるテラスをくびれ部と呼んでいる。 なお朝鮮半島の西南部の栄山江流域においても、前方後円墳が10数基が確認されている(参考文献2)。被葬者は倭人将軍説や、亡命倭人説、百済王権内の倭人官僚説など、諸説ある。
系譜
前方後方墳は、方形周溝墓を原形とする。当初は周溝の隅を掘り残しているものがあったが、周溝が全周するものと一辺の中央を掘り残すものに分かれ、この掘り残しがしだいに発達して前方部へと変化し、前方後方墳が成立した。最古の前方後円墳は箸墓古墳とされる。最後の前方後円墳は千葉県の龍角寺浅間山古墳とされる(参考文献3)。
女性首長
古墳出土人骨の妊娠歴の調査によると、人骨として遺存した女性首長はいずれも妊娠を経験していることがわかっている(参考文献4)。
朝鮮半島の前方後円墳
朝鮮半島南部に日本と似たタイプの前方後円墳が13基から15基存在する。前方後円墳は半島南西部・栄山江流域に集中する。築造時期は5世紀後半~6世紀前半である。新徳古墳1号墳は1991年頃に盗掘を受け、犯人は石室の南西側の壁を突き破った。内部の遺物を動かし、金属付きの工芸品や大きな土器類などのみを持ち出し、残りを放り投げた。石室の壁は損傷され、床の遺物は踏まれて砕けた。遺体を収めていた木棺の棺材と、頭骨や歯などの遺骨が混じりあい、盗掘の穴の近くに鉄器や陶磁のかけらが散乱する。副葬品はつぶれていたが、冠帯に木の葉の装飾が珠の荘厳とともに付いていた金銅冠の破片がある。環頭大刀や緑色や黄色のガラス板を重ねて付けていた外国産の練理紋の珠などは、公州の武寧王陵を思わせる東南アジア産の高級品であった。石室の入口の羨道(墓道)の床からは、祭祀で使われた真鯉の骨の入った壺や様々な供え物を入れたふた付きの皿(蓋杯)が大量に発見された。 盗掘犯たちは、旧朝鮮総督府の建物にあった国立中央博物館の東門に盗掘した鉄器類の箱を置いて立去った。回収した箱の中にあった遺物は、鉄器の刀の柄だった。墓の内部に残っていた刀の刃と合わせるとぴたりと合い、副葬品と確認された。犯人は1993年9月に逮捕された。土器や兜など65点の「百済の遺物」を持ち去っていた。
課題
古墳の被葬者の地位や立場によって墳形が選択されたと推測されるが、誰にどの墳形を採用するか決定する原理や原則は判っていない。考古学の課題とされる。
参考文献
- 遠藤鎮雄沢編(1991)『史料 天皇陵 山陵志・前王廟陵記・山陵図絵』新人物往来社
- 高田 貫太(2019)『「異形」の古墳 朝鮮半島の前方後円墳』KADOKAWA
- 高田貫太(2012)「栄山江流域における前方後円墳築造の歴史的背景」 『古墳時代の考古学 7 内外の交流と時代の潮流』同成社
- 白井 久美子(2016)『最後の前方後円墳・龍角寺浅間山古墳』新泉社
- 清家章(2002)「古墳時代女性首長の出産歴」『エコソフィア』第9号,pp.98-111,民俗自然誌研究会
- 『全羅道屈指の国宝級古墳、被葬者は倭人?百済人?』ハンギョレ新聞、2021年10月5日
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