釈迦堂遺跡 ― 2025年02月16日 00:40
釈迦堂遺跡(しゃかどういせき)は山梨県笛吹市にある縄文時代の遺跡である。
概要
釈迦堂遺跡は山烈県東八代郡一宮町と東山梨郡勝沼町にまたがる京戸川扇状地(藤井扇状地)の扇央部に位置する。扇状地は、扇頂から扇端まで約2500mあり、広大な面積を形成している。モモ、ブドウの栽培の適地として、果樹園地帯となっている。その範囲は南北450メートルにわたる。 遺跡は谷や尾根により塚越北A(主として縄文後期)・塚越北B(同縄文前期-後期)・釈迦堂(同奈良期)・三口神平(同縄文前期-中期)・野呂原(同縄文中期)の5つの地区に分かれる。 釈迦堂遺跡群では、約15,000点以上の石器が出土している。そのうち粘板岩系の打製石斧は、風化が著しく、発掘時では石器として取りあげたにもかかわらず、整理時には石片と化してしまったものがある。呪文時代早期末~前期初頭の石器では他の時期に比べて水晶の使用頻度が高い。前期では打製石斧は定着し、普及する。磨製石斧は乳房状磨製石斧が顕著である。中期の石器は前期とほぼ同様であるが、打製石斧の量が増大する特徴がある。
調査
1980年2月12日から1981年8月12日まで山梨県教育委員会が発掘調査を行った。縄文時代早期末~前期初頭の住居址27軒、土拡16基を検出した。縄文時代前期は関東地方の黒浜式を早期とし、下吉井式を前期としている。多量の土器は1類から14類まで分類されている。縄文住居跡は255棟が発見された。
土偶
釈迦堂遺跡群は土偶の出土数として1116個体が出土した。土偶の出土数は三内丸山遺跡に次ぐ数である。土偶の部位別では、頭部190点、胸部168点、腕132点、胴から足にかけて626点であった。 縄文時代前期7点、後期1点を除くと、他は中期であった。土偶の多くは10cmから、30cmの大きさである。 割られている土偶があるため、土偶の作り方が判明した。 早期から前期に掛けての土偶は、素朴な作りで、顔や手足が省略されている。乳房があるため女性像である。土偶は豊作や動植物の繁殖を願う人形と解釈されている。
遺構
- 住居46
- 柄鏡形敷石住居1
- 土坑
遺物
- 縄文土器
- 石鏃
- 石錐
- 稜磨石
- 磨石
- 打製石斧
- 磨製石斧
- 横刃石器
- 石核
- 石匙
- 礫器
- ピエスエスキエ
- 石皿
- 浮子
- 石製ケツ状耳飾
- 黒曜石
- 水晶
- 土偶
- 土製円盤
- 土笛
- 土製ケツ状耳飾
指定
- 1988年(昭和63年)6月6日指定、 国指定有形文化財(考古資料)
- 平成17年6月9日追加指定
展示
- 釈迦堂遺跡博物館
考察
土偶は縄文時代が多く、弥生時代にはほとんどみられない。精神構造が縄文時代から弥生時代にかけて大きく変わったのではないか。土偶は縄文時代において奈良時代の仏像のような役割を果たしていたのではないだろうか。
アクセス
- 名称:釈迦堂遺跡
- 所在地:山梨県東八代郡一宮町/山梨県東山梨郡勝沼町
- 交 通:
参考文献
- 山梨県教育委員会(1986)『釈迦堂-Ⅰ』山梨県埋蔵文化財センター調査報告第17集
湯の里4遺跡 ― 2025年02月16日 00:59
湯の里4遺跡(ゆのさと4いせき)は北海道上磯郡知内町にある旧石器時代の遺跡である。
概要
北海道上磯郡知内町の知内川の支流である出石川の右岸の段丘上に立地する。標高約23mの右岸段丘上に位置し、付近で支流が合流する。旧石器時代の墓である。琥珀の垂飾、カンラン岩製の垂飾・玉、台形石器、玉類五個、石刃一個、細石刃二個、石刃核四個、有舌尖頭器、剥片2個、掻器・削器・彫器など2万点が出土した。日本最古の土壙である。出土した資料14点は国の重要文化財に指定された。
調査
1983年、1984年に発掘調査された。Ⅴ層から蘭越型の細石器核4点、その周囲から石製の玉3点、琥珀製の垂飾り2点、台形石器2点が出土した。その直下に赤色土壌が分布しており、墓とみられる。1984年(昭和59年)の発掘調査後に消滅した。
遺構
- 土壙墓
遺物
- 台形石器
- 峠下型細石核
- ホロカ型細石核
- 細石刃
- 石錐
- 尖頭器
- 舟底形石器
- エンドスクレイパー
- スクレイパー
- 荒屋型グレイバー
- 広郷型グレイバー
- 両面体石器
- 石斧
- 玉
- 槍先形尖頭器
- 両面調整石器
- 細石器
- 有茎尖頭器
- 有舌尖頭器
- 彫器
- 敲石
- 台石
- 石刃
- 石核
- 垂飾
- 錐形石器
展示
- 北海道知内町郷土資料館
指定
- 平成3年6月 国の重要文化財
考察
アクセス等
- 名称:湯の里4遺跡
- 所在地:北海道上磯郡知内町字湯の里46-1.47・48-13番地
- 交通:
参考文献
- 北海道埋蔵文化財センター(1985)『湯の里遺跡群 津軽海峡線(北海道方)建設工事埋蔵文化財発掘調査報告書』
九州国立博物館 ― 2025年02月16日 13:14
九州国立博物館(きゅうしゅうこくりつはくぶつかん、Kyushu National Museum)は 福岡県太宰府市石坂の大宰府天満宮に隣接する歴史系の国立博物館である。 通称は九博(きゅうはく)。 東京国立博物館、奈良国立博物館・京都国立博物館に次ぐ4番目の国立博物館である。
概要
九州国立博物館は「日本文化の形成をアジア史的観点からとらえる」という基本理念がある。 太宰府神社(天満宮)の神官や地元の戸長を中心に、太宰府における博物館誘致運動の先駆けの博覧会が1873年(明治6年)に開催された。太宰府博覧会から「鎮西博物館」という施設計画が立案され、内務省より設置が許可された。建設費等への募金活動も進められた。1899年(明治32年)、岡倉天心は古来外交の要衝であった九州の歴史的特色を指摘し、その古器物は単に美術品としてだけでなく歴史研究上も貴重として、九州博物館の必要性を説いた。1963年(昭和43年)、官民一体の「国立九州博物館設置期成会」が発足する。1971年(昭和46年)、太宰府町に博物館建設用地(約17万平方メートル(うち、太宰府天満宮が14万平方メートルを寄付))を確保する。2005年(平成17年)10月、九州国立博物館は開館した。国立博物館が新設されたのは、1897年設立の京都国立博物館開設以来で、108年ぶりである。
展示構成
- Iテーマ「縄文人、海へ」(3万年前?2500年前)
- IIテーマ「稲づくりから国づくり」(紀元前5世紀?7世紀前半)
- IIIテーマ「遣唐使の時代」(7世紀後半?11世紀前半)
- IVテーマ「アジアの海は日々これ交易」(11世紀後半?16世紀前半)
- Vテーマ「丸くなった地球 近づく西洋」(16世紀後半?19世紀中頃)
沿革
- 1899年(明治32年)、岡倉天心は九州博物館の必要性を説いた。
- 1968年(昭和43年)、官民一体の「国立九州博物館設置期成会」が発足。
- 1971年(昭和46年)、太宰府町に博物館建設用地を確保する。約17万平方メートル。太宰府天満宮が14万平方メートルを寄贈。
- 2005年(平成17年)10月、九州国立博物館 開館。
- 2019年(平成31年)4月23日、新元号令和の典拠となった万葉集や大宰府政庁跡から出土した鬼瓦を展示する(参考文献1)。
アクセス等
- 名称:九州国立博物館
- 所在地:〒818-0118 福岡県太宰府市石坂4-7-2
- 開館時間
- 日曜日・火曜~木曜日 9時30分~17時00分(入館は16時30分まで)
- 金曜日・土曜日【夜間開館】9時30分~20時00分(入館は19時30分まで)
- 休館日:月曜日
- 交通: 西日本鉄道大宰府線「太宰府駅」下車、徒歩約10分
参考文献
- 「新元号記念特別企画「令和」九州国立博物館」、長崎新聞、2019/05/03
大刀 ― 2025年02月16日 21:11
大刀(たち)は古代に作られた反りのない直刀をいう。
概要
刀身がまっすぐで両刃または片刃の大刀があり、突く、刺すための武器である。 弥生時代初期には中国から朝鮮半島を経由して銅剣が日本に伝わり、中期からは鉄剣が伝わった。弥生時代から奈良時代頃までの大半の刀は、後代のいわゆる日本刀とは違い、 まっすぐに作られた直刀である。 長い二等辺三角形をなす。古墳時代には背から刃にかけて薄く、身の断面が細平造りと呼ばれる形が一般的である。奈良時代後半からは、刀身に反りのある蕨手刀が作られ始めたが、直刀は南北時代まで使われた。正倉院の「直刀 無銘(水龍剣)」と「金銀鈿荘唐大刀」は直刀である。後者は外装に豪華な装飾が施されており、儀式用である。
装飾付大刀
素環頭太刀は国や朝鮮半島で盛んに作られ、日本では弥生時代中期から後期にかけての墳墓、古墳時代前期の古墳に副葬品として出土する。 装飾付大刀は金や銀などで飾られた大刀であり、豪族の権威を象徴する。 装飾付大刀(飾り大刀)は武器として使用するものではなく、生前は儀式などに用いられた。 古墳時代後期の装飾大刀は、ヤマト王権との関係を示す証として限定的に有力者だけが所有したものとされる。
出土例
- 銀象嵌銘大刀 江田船山古墳、熊本県和水町、古墳時代・5~6世紀、
- 金銅装円頭大刀 宮口古墳群第11号墳、新潟県上越市牧区宮口、古墳時代(約1400年前)
- 鉄刀 宮内第1遺跡、鳥取県東伯郡東郷町、弥生時代
参考文献
久里双水古墳 ― 2025年02月16日 22:03
久里双水古墳(くりそうすいこふん)は佐賀県唐津市にある古墳時代の前方後円墳である。
概要
昭和55年に労働者住宅生活共同組合の宅地造成事業に伴い、前方後円墳と確認された。大型の前方後円墳であり、遺存状態がよいことから造成工事や県道の範囲から外されて、保存された。松浦川右岸の丘陵先端部に立地する。唐津平野で最古期の古墳の1つとみられる。
調査
昭和63年1月には県史跡に指定され、平成元年に公有化した。平成元年8月に地下レーダー探査による遺構保存状態の調査を行い、平成3年度から3年間、古墳前方部、古墳後円部、古墳墳頂部の範囲確認調査を実施した。確認調査により全長108.5m、後円部径62.2m、前方部幅42.8mで、墳丘築成は後円部と前方部下半部が地山削り出しで、前方部上半部が盛土の自然地形を利用した特異なものであり、しかも年代が4世紀前半までさかのぼる可能性があることが判明した。 平成6年度調査で全体が厚く粘土被覆された古墳の主体部の竪穴式石室が調査された。粘土で覆われた石室は、砂岩製の天井石3枚によって密閉されていた。開口すると結果、内径が長さ約2.5m、幅0.9m、高さ1.0mの竪穴式石室が検出された。床面に長さ2.05m、幅0.61mの両端が反り上がった特異な形の、断面がU字形の粘土床がみつかった。壁面や天井石の裏には一面に赤色顔料が塗られ、粘土の被覆面の中にも顔料の散布面が確認された。石室は砂岩や玄武岩の板石を粘土と交互に積み上げて築かれており、壁面や天井石の内側には赤色顔料が塗られ、床面には木棺を安置するため断面U字型の粘土床が設置される。
魏志倭人伝
『魏志倭人伝』に記される邪馬台国の国のひとつ「末廬国」があったと推定されている場所であり、久里双水古墳は『魏志倭人伝』(3世紀末)に記載された末廬国の王の後継者の墓とも推測されている。
規模
- 形状 前方後円墳
- 築成 前方部:1段、後円部:2段
- 墳長 98m
- 後円部 径径56.5m 高10.5m
- 前方部 幅36m 長41.5m 高8.5m
遺構
- 竪穴式石室
- 舟形木棺か
- 石室
- 長さ1.80mから1.94m、
- 幅1.09mから1.17m、
- 厚さ0.04mから0.15m
遺物
- 縁盤龍鏡、直径12.85㎝、縁厚0.8㎝、重さ498.6g
- 碧玉製管玉 2
- 鉄製刀子 1
築造時期
3世紀末から4世紀頃。
被葬者
指定
- 2016年(平成28年)4月28日 佐賀県指定史跡
- 2011年(平成23年)に出土品が佐賀県指定重要文化財に指定
現状の整備
現在は「久里双水古墳公園」として整備されている。ガラスに覆われた石室を見ることができる。古墳の頂上に登ると山本地区一帯を見渡せる。
アクセス等
- 名称:久里双水古墳
- 所在地:佐賀県佐賀県唐津市大字双水字迫
- 交通: JR山本駅から徒歩20分
参考文献
- 肥後和男・竹石健二(1973)「日本古墳100選」秋田書店
- 大塚初重(1996)『古墳辞典』東京堂出版
- 唐津市教育委員会(2009)『久里双水古墳』唐津市文化財調査報告書第95集
- 「久里双水古墳主体部出土品」文化庁
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