井出丸山遺跡 ― 2025年05月10日 00:44
井出丸山遺跡(いでまるやまいせき)は、静岡県沼津市にある旧石器時代の遺跡である。
概要
井出丸山遺跡は約10万年前に活動を終えた成層火山である標高1504.2mの愛鷹山(静岡県沼津市、富士市)丘陵裾部の標高51mに位置する。愛鷹山では最も古い遺跡である。旧石器時代の人々は黒曜石製石器などを用いて生活していた。初期には局部磨製石斧や台形様石器を使用する時期があったが、その後はナイフ形石器、尖頭器、細石器の順序で石器が出土しているため、人々は生活に合わせて道具を変化させた。ナイフ形石器などの剥片石器きの主要石材となる黒曜石は、伊豆・箱根周辺産を用いているが、信州系黒曜石を多用する時期もある。このように遠方から素材を入手して石器を製作していた。愛鷹山麓とその東側の箱根山麓では、31,000 年前頃に、山麓の尾根上に穴を列状に掘る陥し穴が作られた。陥し穴は、径が1.3 m前後で深さは1.4 m前後であり、これまでに愛鷹山周辺から143 基程度が確認されている。名称は遺跡の西側の井出丸山古墳と関連しているとみられたことから名付けられた。 放射性炭素年代測定結果は32,720 土190BPから33,230 ±190BPであった。旧石器時代として矛盾はない。
発掘調査
2002年(平成17年)から2003年(平成18 年)にかけての静岡県・愛鷹山麓の発掘調査で、約3 万7000年前の地層から石器が出土した。古富士山の火山灰を3mほど掘り下げると、約37000年前の地層から黒曜石製の石器が出土した。火山灰により時代区分が明確である。 その他の石材は在地石材である富士川ホルンフェルスが大半を占める。
黒曜石
井出丸山遺跡からは伊豆諸島・神津島産と信州中部の和田、霧ケ峰産の黒曜石が出土する。出土した黒曜石は37 点であった。ナイフ形石器の黒曜石は蛍光X線分析により神津島恩馳島産と判明している。第W文化層の黒曜石は蛍光エックス線分析による産地同定の結果では、信州系の諏訪星ヶ台産が大半であった。信州系の中でも特に良質な諏訪星ヶ台産の黒曜石を使用している。黒曜石特徴は、化学組成の違いにより産地が判別できることである。研究者は蛍光エックス線法や中性子放射化分析法を使って産地を特定し、旧石器時代の人々が海上を含む広大なエリアから黒曜石を採取したことを証明した。 黒曜石は25 点について原産地が判明し、神津島産が22 点、信州系が3点であった。器種は台形様石器、ドリル、石核、剥片、横長剥片、砕片である。 明治大学黒耀石研究センターの池谷信之特任教授は「品質では本州の黒曜石では和田産と霧ケ峰産が特Aクラスである。割れやすくて刃先もシャープ。透明度も高い。次のAクラスが神津島産と、麦草峠などの北八ケ岳産である」と説明する。動物の狩猟や獲物の解体に良質な黒曜石は不可欠であった。
遺構
- 陥し穴
- 石器集中
- 礫群
- 石器ブロック
遺物
- 局部磨製石斧
- 台形様石器
- ナイフ形石器
- 尖頭器
- 細石器
- 削器
- 石錐
- 細部調整のある剥片
- 石核
- 剥片
- 砕片
- 礫
- 炭化物
- 抉入石器
- 楔形石器
- 細石刃核
- 石刃
- 台形様石器
- スクレイパー
- ドリル
- 楔形石器、
- 決入石器、
- 片面加工の尖頭器
時期
- 旧石器時代
展示
考察
井出丸山遺跡からは100km 以上も離れた神津島で採取された黒曜石が出土している。神津島と伊豆半島とは当時でも地続きではなかった。約3 万7 千年前に、旧石器時代人が海を渡るための航海技術を持っていたことを示す証拠である。黒曜石という材料へのこだわりと知識があったと思われる。丸木舟で100kmも渡るのは命の危険もあったと思われる。旧石器人はチャレンジ精神が旺盛だったのであろうか。
アクセス
- 名称:井出丸山遺跡
- 所在地:静岡県沼津市井出
- 交 通:
参考文献
- 沼津市文化財センター通信、Vol.2、2020年3月、沼津市文化財センター
- 相川壌(2020)「後期旧石器時代前半期における神津島産黒曜石の利用とその広がり」東京大学考古学研究室研究紀要 33.pp.1-22
- 沼津市教育委員会(2011)「井出丸山遺跡発掘調査報告書」沼津市文化財調査報告書第100集
神宮寺山古墳 ― 2025年05月10日 00:47
神宮寺山古墳(じんぐうじやまこふん)は岡山県岡山市にある古墳時代の前方後円墳である。
概要
岡山平野の沖積平野の中で自然堤防を利用して作られた。墳丘の前方部は盛土の2段築成、後円部は3段築成である。後円部は前方部に対して比高差が3.5mある。平地に土を盛って作った全長150mの前方後円墳である。後円部に「天計神社(あまはかりじんじゃ)」が鎮座する。建物の基礎の下に竪穴式石室の天井石がみえる。前方部は約半分が墓地となり、前方部は大きく破壊されている。前方部をほぼ西に向け、全長約150m、後円部径約70m、同高約13m、前方部長約75m、前方部高7mを測る。 前方部から、昔、刀、甲冑、槍、家型埴輪などの断片が出土したとされる。被葬者は平地に古墳を作るために、人手を使うことが出来るた権力者であり、かなり広範囲に渡って力を振るった豪族と見られる。
調査
1961年、竪穴式石室に接続する小石室が盗掘され、多くの副葬品が失われた。盗掘を契機に調査され副室から多量の鉄製の農耕具が出土した。副室の床面は砂利敷きである。現在天計神社拝殿の下になっている部分にもう1基の主体部の存在が想定されている。前方部からも「古刀、甲胃及槍鉾」の破片が出土したといい、前方部にも主体部があることが予想される。春成秀爾は神宮寺山古墳採集の埴輪の①タテ刷毛後の横刷毛を施したものも微量が含まれるが、内外面共にタテ刷毛がほとんどであること。②透かし孔は長方形であること。③タガの突出度が大きい。④丹(赤色顔料)を塗ったものが非常に多い、などの特徴から、川西編年のI期に属すものとし、4世紀中頃の時期とした。
規模
- 形状 前方後円墳
- 築成 前方部:2段、後円部:3段
- 墳長 150m
- 後円部径 径70m 高13m
- 前方部 長75m 高7m
- 外表施設 円筒埴輪 円筒Ⅱ式
- 葺石 あり
主体部
- 室・槨 ①竪穴式石槨
遺物
- 鉄刀
- 両端折曲鎌20以上 - 小石室(副室)(後円部)
- 直刃鎌20以上
- 鉈状鎌形5以上
- 手鎌形25以上
- 鋸1 - 小石室(副室)(後円部)
- 袋状鉄斧1
- 手斧13以上
- 鑿5以上
- 錐3以上
築造時期
- 前Ⅱ期前半(4世紀後半)
被葬者
指定
- 昭和34年5月13日 国指定史跡
考察
アクセス等
- 名称:神宮寺山古墳
- 所在地:〒700-0804 岡山県岡山市北区中井町1丁目
- 交通:JR法界院駅から徒歩約10分
参考文献
- 岡山市教育委員会(2007)「神宮寺山古墳」
- 近藤義郎(1987)「岡山県の考古学」岩波書店
太郎水野2遺跡 ― 2025年05月11日 01:18
太郎水野2遺跡(たろうみずの2いせき)は山形県最上郡金山町にある旧石器時代の遺跡である。
概要
太郎水野2遺跡は山形県の東北部、下中田の集落の南西へ約500 mの地点、最上川水系鮭川の支流である真室川に面する後期旧石器時代の遺跡である。 太郎水野2遺跡は浸食により真室川の段丘が尾根状に残存している「T」字状の地形に立地する。小規模な谷を挟んだ北側70 mの尾根には縄文時代前期、中期末、後期の太郎水野1 遺跡がある。 後期旧石器118点(接合にる総点数112 点)が出土した。ナイフ形石器30点 尖頭器1点、彫刻刀形石器6点、彫掻器2点、掻器19点、石刃51点である。出土した全点で使用痕分析を行った結果、使用痕の遺存状況が明瞭で、大きな成果を上げることができた。また、縄文時代では中期の竪穴住居跡1棟と後晩期の竪穴住居跡1棟が検出された。
調査
太郎水野2遺跡には後期旧石器時代と縄文時代の二つの時代の遺構、遺物が残されている。2004年、一般国道13号主寝坂道路改築事業に伴う緊急発掘調査により調査され、旧石器時代の石器が出土した。 旧石器時代の石器は118 点の出土があったが、接合の結果、総数は112 点である。その内訳はナイフ形石器30 点、尖頭器1点、彫刻刀形石器6点、彫掻器2点、彫刻刀削片1点、掻器19 点、加工痕や微細な剥離痕があるものを含めて石刃51 点、加工痕ある剥片1点、砕片1点である。
石器の特徴
ナイフ形石器は「東山型ナイフ形石器」と言われる。東山型ナイフ形石器は2万5千年前に登場した。 尖頭器は先端が尖る周辺加工がされている。掻器は幅広、厚手の石刃を特に選択する。本遺跡出土の石刃はすべて単体での搬入品である。先端部が幅広のまま残ることが明白なナイフ形石器は少ない。旧石器時代の石器は40 ×40 mの範囲から散漫に出土する。本遺跡の出土遺物の中に石核は全く含まれず、剥片も加工痕のあるものを含めてわずかに2点であり、砕片はなかった。これは本遺跡内では剥片生産や石器の二次加工、刃部再生など一連の石器製作にかかる作業が行われなかったことを意味する。すべての石器が完成品として遺跡に持ち込まれた。
放射性炭素年代測定
試料番号1 が4,190 ±50BP、試料番号2 が4,160 ±50BP、試料番号3 が3,140 ±50BP、試料番号4 が2,020 ±40BP、試料番号5 が2,950 ±40BP、試料番号6 が2,920 ±50BP、試料番号7 が970 ±50BPであった。較正年代は試料番号1 がcal BC 2,886-2,680、試料番号2 がcal BC 2,873-2,676、試料番号3 がcal BC 1,493-1,386、試料番号4 がcal BC 88-cal AD 49、試料番号5 がcal BC 1,258-1,123、試料番号6 がcal BC 1,210-1,030、試料番号7 がcal AD1,020-1,152 である。試料1,2は紀元前2800年、試料資料3、5、 6は紀元前1400年から1100年である。竪穴住居跡の焼土の炭化物はいずれも縄文時代を示す。
遺構
縄文時代
- 竪穴住居跡2
- 土坑
遺物
旧石器時代
- ナイフ形石器
- 尖頭器
- 彫刻刀形石器
- 彫掻器
- 掻器
縄文時代
- 縄文土器
考察
展示
指定
所在地等
- 名称: 太郎水野2遺跡
- 所在地:山形県最上郡金山町大字下中田字太郎水野770-47
- 交通:
参考文献
- 財団法人山形県埋蔵文化財センタ-(2008)「地坂台遺跡・下中田遺跡・太郎水野1遺跡・太郎水野2遺跡発掘調査報告書」山形県埋蔵文化財センター調査報告書166
卑弥呼 ― 2025年05月12日 00:10
卑弥呼(ひみこ、ひめこ,Himiko)は弥生時代の倭国(日本)の女王である。当時は倭国に約30国があり、その中の邪馬台国(邪馬臺國/邪馬壹國)の女王が共立されて、倭国全体の女王になったとされる。
概要
魏志倭人伝によれば、次のような記載がある。倭国にはもともと男王がおり、70年から80年間統治していたが、互いに戦乱状態が続いていたため、卑弥呼を女王として共立したところ戦乱は治まった。卑弥呼は鬼道による祭祀を行い、人々を惑わしていた。高齢で夫はいないものの、血縁の弟が補佐して国を治めている。王となってからは顔合わせした人は非常に少ない。侍女は千人いるが、男子一人が飲食物を運び、卑弥呼の言葉を伝え、卑弥呼の居所に出入りしている。宮殿や高楼には城柵で厳重に警備され、常に兵士がいて、武器を持ち警護している。
なお「弟」だけでは、必ずしも血縁でない場合があるが、原文は「男弟」なので、血縁のある(親が同じ)弟という意味となる。
倭国動乱
中国側史料によれば、倭国動乱の時期は二世紀後半とすることが共通している。『後漢書』(卷85、東夷列傳第75)に「桓帝・霊帝の治世の間」に倭国が大いに乱れ、王はいなかったと書かれている。その後、三世紀前半となって卑弥呼が鬼道を用いて信仰されるようになり、諸国から共立されて国を平和に導いた。「桓帝・霊帝の治世」とは、桓帝は後漢の第11代皇帝であり、治世は西暦146年8月1日から168年1月25日(永康元年12月28日)までである。霊帝は後漢の第12代皇帝であり、治世は168年から189年5月13日(中平6年4月11日)までである。両者を合わせると、西暦146年から189年の間となる。
部族同盟か地域国家同盟か
「共立」とは部族同盟なのか、それより進んだ地域的国家同盟なのか、結論は出ていない。 上田正昭は民会的要素が薄いため、単なる部族同盟ではなく、王族や諸官の合議により王が決まったものとしている(参考文献3)。
裏付け
仁藤敦史は「裏付ける史料として奈良県天理市の東大寺山古墳出土の鉄刀銘があるとする。この古墳から、「中平」(184 ~189年)という後漢年号を記した鉄剣が出土した。中平年号とは、「倭国乱」があったとされる中国の桓帝と霊帝の間(146~189年)の年号の「光和年中」(178~184年)の直後の年号である。「共立」されたばかりの卑弥呼が朝貢し、中国からその地位を承認する意味の剣が与えられたと考える」と主張する。
卑弥呼の墓
西谷正は魏志倭人伝の「卑弥呼以死,大作冢」の記載の解釈として、渡邉正気(参考文献4)の読み方が最も卓見と評価した。すなわち渡邉は『「卑弥呼,死をおもい,大いに冢を作る」と読み,卑弥呼は寿陵として径百余歩つまり後円部に当たる円丘の径約 150 m の巨大墳墓を自らの意思で作らせたと解釈』した(参考文献5)。そうした大規模な冢が北部九州ではみつかっいないことは、邪馬台国が北部九州に存在したという物証がないことを示すと評価する。卑弥呼の墓が箸墓古墳であったとするなら、卑弥呼が単なる群臣の推薦に乗ったお飾りの存在ではなかったことを示しているであろう。なぜなら箸墓古墳の築造には年あたり数万人から10万人の人力を集めなければならず、強力な政権の力を必要とするからである。しかも先行する弥生文化から隔絶した規模と計画性がみられる。甘粕健は「箸墓の土量 を30万m3として1m3の 築 成 につ いて3.5人で1日 を要す る とす る と延 べ100万 人」を必要とするとし(参考文献6)、さらに葺石、石室の構築、作業貝の供与、施設等に要する人員をさらに加算する」必要があるとする。 この労働力を集められる政治権力はかなり強力なものでなければならない。
卑弥呼の宮殿
平成20年度 ・ 21 年度に実施された第 162 次・第 166 次発掘調査により大型の掘立柱建物群が出土した。西谷正が卑弥呼の宮室(宮殿・居館)説を支持している。竪穴式石室から13 種類,合計 81 枚分の銅鏡片が採集され,大王陵の可能性があるとする。 卑弥呼の宮殿には宮室があり、男弟が政治を助ける。男子は卑弥呼に食事を持参し、卑弥呼の言葉を伝える。男弟とは別の人物のようである。男子は側用人のような存在であるが、世俗的な政治は男弟は補佐する。婢千人は全員が同じ建物には入らないが、一部は近侍する。食事は婢が作り、男子が運ぶ。護衛の兵士が宮殿の入口を警護する。 石野に卑弥呼の宮殿のイメージ図があるが(石野(2012),p.55)、それを纏向遺跡の発掘資料により補正した(桜井市立埋蔵文化財センター(2010)。
卑弥呼の鏡
卑弥呼が魏から下賜された銅鏡を三角縁神獣鏡とする考えは富岡謙蔵(1920)により提唱され、梅原末治の分析と紀年銘鏡の発見などにより補強された。小林行雄は同笵鏡の分有と伝世を分析し、三角縁神獣鏡と古代国家形成 に関する総合的なフレームワークを構築した(小林行雄(1962))。しかし、森浩一は三角縁神獣鏡は中国から出土しないことを指摘し、三角縁神獣鏡は魏の鏡ではないと主張した(森浩一(1962))。 奥野正男は「三角縁神獣鏡は他の中国鏡と各種の共通点はあるが、多くの共通しない紋様や意匠がある」と指摘し、非中国的意匠が国産説の根拠になると指摘した(奥野正男(1989))。 西川寿勝(1999)は下賜された銅鏡は皇帝からの下賜品であるから、最上位の宝器であり、金銀象嵌鏡などの宝飾鏡 あるいは貼金・鍍金の銅鏡であろうと指摘した。 石野博信は画文帯神獣鏡とし、奥野正男は画文帯神獣鏡または方格規矩鏡と考えているとした(石野博信(2012),p.131-138)。 なお「鏡100枚」について鳥越は「数が多いことの比喩」として、30枚から40枚であろうとしている(鳥越憲三郎(2020))。これに対して森浩一は魏志倭人伝に記載された鏡100枚は皇帝の詔書の原文をそのまま引用したものであるから、数字の誇張はあり得ないとしている(森浩一(1994))。 筆者の考えとしては、数量は森浩一説が正しく100枚が妥当と考える。また種類は画文帯神獣鏡または方格規矩鏡と考えるのが妥当である。 なお、豊岡市の森尾古墳出土鏡(兵庫県立古代鏡博物館蔵)に正始元年の銘があり、魏から卑弥呼がもらった銅鏡の一部である可能性が想定されている。宝塚市の安倉高塚古墳から出土した赤烏7年の紀年銘のある鏡は「呉」の年号であり、文献にはないものの、邪馬台国が呉とも国交を結んでいた可能性が想定されている。
シャーマンか
卑弥呼の鬼道に関しては諸説がある(参考文献1)。
- 心霊を憑依させ、宣託するシャーマン(巫女)
- 鬼神(農耕神)を祀る司祭者
- 中国の民俗的な道教の一種である五斗米道や太平道(宗教団体)の教祖
- 埋葬・慰霊・供養など使者儀礼を行うもの
- 聖霊・死霊によっておこる病気の治癒祈祷を行う祈祷師
しかしながら、卑弥呼はシャーマン的性格があるが、単なるシャーマンではないという説が多数である。鬼道に仕えた司祭的機能と「親魏倭王」として君臨した女王の二面性があった(参考文献3)。
小林敏男は卑弥呼を南島のノロに相当する司祭者とする。ノロは地位継承者として代々の司祭者であり、壱与との関係を考慮すると、司祭者を出す血筋を持った家柄とする。卑弥呼がシャーマンだとしても、託宣神が何かはいまだ十分に検討されていないと指摘している)参考文献1)。
鬼道とは
古代史研究者の三品彰英は『邪馬台国研究総覧』の説明によると鬼道に事(つか)えるとは神霊と直接に交わることであり、卑弥呼のシャーマン的特徴が表れているとする。 中国の研究者である王明は『抱朴子内篇校釋』の序文で、民間道教と貴族道教に区分し、民間道教を鬼道あるいは巫鬼道とし、貴族道教を不老長生や丹薬などの特徴をもつ神仙道教の特質とした(参考文献2)。 『晋書』には鬼道の記述があり、道士・李脱は妖術によって衆を惑わし、自ら八百歳であると称し、李八百と号したとされる。中州より建鄴に赴き、鬼道をもって病を療し、また 人を官位につけた。その時の人々はこれを信じ使えたという。これらのことから、卑弥呼が何らかの治療行為を行った可能性が考えられる。
外交的手腕
卑弥呼は外交的手腕に優れており、何度も使者を中国に派遣している。「親魏倭王」の称号を得ており、狗奴国と戦乱状態になったとの報告を中国に行っている。また新羅にも使者を派遣している。井上秀雄は『三国志』東夷伝倭人条の景初2年(238年)記事からの造作で、干支を一運遡らせたものとしている(参考文献7,p.61 註9)。
卑弥呼の就任時期と権力
三国史記の新羅本紀に173年(阿達羅尼師今20年)に新羅に遣使したとされる。卑弥呼の死去が247年頃とすると、173年にはまだ10歳代であったろうか。年代的には無理があるが、新羅本紀が正しいとすると、卑弥呼は83歳での死去となる。径100歩あまりの塚はかなり大きいので、延べ数万人の人員を動員できる権力があったと考えられる。「みこし」に乗ったお飾りレベルの権力者ではなさそうだ。
卑弥呼の死去
247年に使者を派遣しているので、派遣開始時は存命であったと推測される。張政が倭国に到着したときはすでに死亡しているため、247年の戦乱で死亡したとも考えられる。 死後の径100歩あまりの塚を築造した。徇葬者は男女の奴隷が百余人いたとされる。次に男王を立てたが、国中が不服のため再び動乱が起き、1000人が殺された。そこで卑弥呼の宗女の壱与13歳を王に立てると、国が安定したとされる。(魏志倭人伝)。
俾彌呼か卑彌呼か
古田武彦は卑彌呼ではなく、俾彌呼が正しいと主張する(古田武彦(2014))。その理由は「『三国志』 魏書 三少帝紀第四」の四年冬十二月に「倭國女王俾彌呼遣使奉獻」と書かれていることを挙げる。つまり俾彌呼は最初に登場する正式な名称であり、「『三国志』 魏書 烏丸鮮卑東夷傳第三十」の中で5回登場する「卑彌呼」は省略形であると主張し、古田は俾彌呼が正しいとする。漢字の意味であれば「俾」は「使」と同じ意味で、使役するという意味であり、「卑」は身分が低いという意味である。しかし卑彌呼は固有名詞ないし役職名であるし、倭国の発音を中国語に転写したものであるから、個々の漢字の意味はあまり重要ではない。 重要なことは「俾彌呼」の登場は三国志全体でも1回限りであり、5回記載される「卑彌呼」より正しいということはできない。なぜなら1回限りの登場では宋本の誤植かもしれないからである。さらに「後漢書《列傳》《東夷列傳》」においても「卑彌呼」と記載されている(有一女子名曰卑彌呼)。したがって、「俾彌呼」が正しいという事は出来ない。
参考文献
- 小林敏男(1987)『古代女帝の時代』校倉書房
- 王明(1980)『抱朴子内篇校釈』中華書局
- 上田正昭(1973)『日本の女帝』講談社
- 渡邉正気(2001)「『魏志倭人伝』の「卑弥呼以死」の読み方について」(日本考古学協会第 67 回総会研究発表要旨)
- 西谷正(2010)「邪馬台国最新事情」石油技術協会誌 第75巻,第4号 (平成 22 年 7 月)pp.277-285
- 甘粕健(1989)「前方後円墳の技術史」日本土木史研究発表会論文集 5(0), pp.1-10
- 金富軾撰、井上秀雄訳注(1980)『三国史記』第1巻、平凡社〈東洋文庫372〉
- 古田武彦(2014)「筑後国の風土記いみえる荒ぶる神をおさめた女王か?」歴史読本、KADOKAWA
- 石野博信(2012)『邪馬台国とは何か』新泉社
- 桜井市立埋蔵文化財センター(2010)「纏向遺跡の居館域の調査(纏向遺跡166次調査)」纏向考古学通信Vol2
- 富岡謙蔵(1920)『古鏡の研究』丸善
- 小林行雄(1962)「古墳文化の形成」『岩波 講座 日本歴史』1岩波書店
- 森浩一(1962)『古代史講座』学生社
- 森浩一(1994)『語っておきたい古代史』新潮社
- 奥野正男(1989)『邪馬台国発掘』PHP研究所
- 西川寿勝(1999)「三角縁神獣鏡と卑弥呼の鏡」日本考古学 6 (8), pp.87-99
- 鳥越憲三郎(2020)『魏志倭人伝 全釈』KADOKAWA
清武上猪ノ原遺跡 ― 2025年05月12日 07:53
清武上猪ノ原遺跡(きよたけかみいのはるいせき)は宮崎県宮崎市清武町にある縄文時代の遺跡である。
概要
清武町は、県内最大の宮崎平野の南端に位置する。清武上猪ノ原遺跡は宮崎県清武町船引の標高62mから63mのシラス台地上に位置する最大規模の縄文時代草創期の集落遺跡である。地質は宮崎平野の基盤である宮崎層群の上位にシラスや火山灰が堆積したものである。 大量の遺物があること、重量のある磨石や石皿が出土していることから、清武上猪ノ原遺跡では縄文時代草創期に定住生活が行われていたことと推測される。「定住生活」を始めた頃の人々の生活を復元していく上で非常に重要な遺跡であり、全国的にも類例の少ない歴史的遺産とされている。
調査
縄文時代草創期では国内最多の竪穴住居14棟、集積遺構56基、土坑19基などが出土した。縄文時代草創期と判定された理由は、(1)貝殻押圧文土器や隆帯文土器が出土したこと、(2)一部の住居の土から桜島薩摩火山灰(約11000年前の桜島の噴火、桜島北岳)が含まれていたこと、(3)住居から見つかった炭化物を放射性炭素年代測定したところ約1万1700円前とされたこと、などである。縄文時代早期の遺物包含層中から1624点の石器が出土した。石鏃、尖頭状石器、石錘、スクレイパー、剥片、砕片、石核、石斧などである。平面形が楕円形で、床面に逆茂木の痕跡と考えられる小穴が検出された土坑を陥し穴状遺構と判定した。竪穴住居跡の平面形は不整楕円形・不整円形・不整方形などである。炉跡が検出された住居跡は5棟あり、そのうちの1棟は石組炉であった。すべての住居跡が同時期に存在していたわけではないことは、住居跡から出土した炭化物を放射性炭素年代測定法で測定すると、11720±40BP~11380±60BPと年代幅のある測定値が得られたことから言える。
矢柄研磨器
矢柄研磨器は弓矢の柄を製作する道具であるが、今まで東日本で広く分布するが九州では珍しい。岡谷丸山遺跡(長野県岡谷市中央町)、相谷熊原遺跡(滋賀県東近江市)で出土しており、縄文時代草創期に突如現れて消えたと考えられている不思議な石器である。
遺構
- 集石59
- 連穴土坑9
- 落とし穴7
- 石
- 炉
- 落とし穴
- 焼礫
遺物
- 貝殻押圧文土器
- 隆帯文土器
- 知覧式土器
- 塞ノ神式土器
- 岩本式土器
- 前平式土器
- 押型文土器
- 平栫式土器
- 石鏃
- 石錐
- 削器
- 石斧
- 敲石
- 磨石
- 剥片
- 石核
- 輪状耳栓
- 石鏃
- 尖頭器
- 石斧
- 石皿
- 異形石器
- 土製耳飾
考察
展示
- 清武埋蔵文化財センター
指定
所在地等
- 名称: 清武上猪ノ原遺跡
- 所在地:宮崎県宮崎市清武町船引上猪ノ原
- 交通:
参考文献
- 清武町教育委員会(2008)「清武上猪ノ原遺3」県営農地保全整備事業船引工区にかかる埋蔵文化財調査報告書
- 清武町教育委員会(2008)「清武上猪ノ原遺 第5地区」清武町文化財調査報告書第27集
剪子 ― 2025年05月13日 00:19
剪子(せんし,Scissors)は鋏(はさみ)を意味する。
概要
切る物を2つの金属の刃で挟み、紙や布などを切断するための道具である。正倉院の灯明の芯切り用の鋏は、韓国慶州市の雁鴨池からほぼ同形の鋏が発見されており、国立慶州博物館で展示される。鋏は6世紀の中国の握りばさみが伝来したのが最初とされる。出土品では古墳時代の6世紀の鉄鋏がある。
正倉院
- 白銅剪子 - 燭台の燈芯を切るための鋏である。刃の部分に半輪形の金具がついていたことから、灯明の灯芯切りのための鋏と判明した。材料は青銅(銅68%・錫18%・鉛4%)である。
出土
- 握り鋏 - 千葉県市原城跡(門前地区)出土
- 鉄鋏 - 伝 群馬県高崎市乗附町出土、古墳時代・6世紀、東京国立博物館
- 鉄鋏 - 珠城山古墳出土、古墳時代 6世紀、奈良国立博物館、日本最古の鋏
参考文献
- 岡本誠之(1991)『ものと人間の文化史33 鋏』,法政大学出版局
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