万葉集 ― 2023年09月10日 07:24
万葉集(まんようしゅう)は、7世紀から8世紀にかけて成立したとみられる現存するわが国最古の歌集である。
概要
全20巻。約4500首(4516首)の歌を収録する。天皇から防人、農民、一般庶民まで身分に関係なく和歌が収録されていることが大きな特徴である。一人の編者にはよらず、何人かの編者の手によって集められ、様々なプロセスを経て成立したと考えられるが、最終的に大伴家持の手によって20巻構成にまとめられたと考えられている。
構成
「雑歌」「相聞」「挽歌」に分類される。「雑歌」は行幸、遊宴、旅などさまざまな場面の歌が含まれる。「相聞」は主に男女の愛情を歌うが、親子・兄弟姉妹・友人など親密な間柄の唄もある。「挽歌」は人の死を悼む歌である。歌の作者は無名の民衆から大詩人・貴族・天皇に及ぶ。
全巻の内訳
- 巻1:宮廷を中心にした雑歌
- 巻2:宮廷中心の相聞歌・挽歌
- 巻3:巻1・巻2を補う歌
- 巻4:巻1・巻2を補う歌。恋のやりとりの歌
- 巻5:太宰府を中心にした歌
- 巻6:宮廷を中心にした歌
- 巻7:作者名のない雑歌・譬喩歌・挽歌
- 巻8:四季ごとの歌
- 巻9:旅と伝説の歌
- 巻10:作者名のない四季の歌
- 巻11:恋の歌・相聞歌のやり取り
- 巻12:巻11に同じ
- 巻13:長歌を中心とする歌謡風の歌
- 巻14:東国で歌われた東歌
- 巻15:遣新羅使人の歌、中臣宅守と狭野弟上娘子の悲恋の歌
- 巻16:伝説の歌、滑稽な歌
- 巻17:巻20まで大伴家持の歌日記。若い頃の周縁の人々の歌
- 巻18:越中国の歌など
- 巻19:孝謙天皇時代の歌もある
- 巻20:防人の歌など
年代
通常、四期に分けられる。第一期は初期万葉歌と言われる。 もっとも新しい歌は天平宝字3年(759)正月の大伴家持の歌であるため、編纂はそれ以降となる。万葉集巻第1の1番歌は、5世紀後半の雄略天皇の歌とされているが、磐姫皇后の 歌も雄略天皇の歌も実作ではなく、後世に詠まれた歌に人物像を当てはめている。したがって、最古の歌は確定できない。
- 第一期 舒明天皇即位(629)〜壬申の乱(672)
- 第二期 壬申の乱〜平城京遷都(710)
- 第三期 平城京遷都〜天平五年(733)
- 第四期 天平六年〜天平宝字三年(759)
代表的な歌人
- 額田王
- 大伴家持
- 柿本人麻呂
- 山部赤人(やまべのあかひと)
- 山上憶良(やまのうえのおくら)
- 志貴皇子(しきのみこ)
写本
「万葉集」の原本は発見されていない。20巻すべてが揃う最古の写本は、鎌倉時代後期の写本であり「西本願寺本万葉集」といわれる。 万葉集の伝本は訓読の歴史の順、つまり加点の順に古点本、次点本、新点本と分類される。天暦5年(951年)年の詔によって源順等梨壷の五人が加点したという古点本は現存せず、次点本では桂本が最古の写本といわれる。嘉暦伝承本、藍紙本、元暦校本など十種ほどを数えるが、いずれも完本はない。 平安時代の『万葉集』書写本のうち、「元暦校本」「桂本」「藍紙本」「金沢本」「天治本」を「五大万葉集」と呼ぶ。「元暦校本」は巻第20に元暦元年(1184年)に校合したとする奥書があるからである。これらの中ではもっとも歌の数が多く、能書による寄合書になることなどから、特に重要視される写本である。広瀬本万葉集は、今から二百十余年前の天明元年(1781年)に写されたもので、最近発見された。紀州本万葉集は第一巻から第十巻までは鎌倉時代末期に書写されたものであり、古い形式を留めている。また第十一巻から第二十巻までは室町時代末期に書写により補ったとみられる。
- 桂 本(平安時代中期)
- 藍紙本(平安時代中期)
- 元暦校本(平安時代中期)
- 天治本(平安時代後期)
- 金沢本(平安時代後期)
- 類聚古集(平安時代後期)
- 尼崎本 (平安時代後期)
- 尼崎本(平安時代末期)
- 類聚古集 (平安時代末期)
- 金沢文庫本 (室町時代初期)
- 栂尾類切 (室町時代後期~江戸初期)
- 嘉暦伝承本(鎌倉時代初期)
- 古葉略類聚鈔(鎌倉時代中期)
- 春日本 (鎌倉時代中期)
- 伝壬生隆佑筆本(鎌倉時代中期)
- 西本願寺本(鎌倉時代後期)
- 紀州本(1~10巻 鎌倉時代末期 11~20巻 室町時代後期)
- 伝冷泉為頼筆本 (室町時代)
- 神宮文庫本 (室町後期)
- 大矢本 (室町末期)
- 温故堂本 (室町末期)
- 細井本 (江戸初期)
- 京都大学本 (江戸初期)
- 活字無訓本 (江戸初期)
- 活字附訓本 (江戸初期)
- 寛永版本 寛永20年(1643)
参考文献
- (校注)佐竹昭広,山田英雄,工藤力男,大谷雅夫,山崎福之(2016)『万葉集(全5冊)』岩波書店
舎人親王 ― 2023年09月10日 07:38
舎人親王(とねりしんのう, 676年―735年)は奈良時代の皇族である。 『日本書紀』編纂の最高責任者とされる。「舎人皇子(とねりのみこ)」とも記される。 官位は一品・知太政官事、贈太政大臣。
概要
天武天皇の第3皇子で、母は天智天皇の娘の新田部皇女である。子に大炊(淳仁天皇)、船王、三原王(御原王)、池田王、貞代王がいる。 勅によって太安万侶とともに『日本書紀』の編集にあたった。 元正天皇、聖武天皇に皇親として仕え、奈良時代前半の皇親政治の中心として活動した。 『続日本紀』養老4年(720年)5月21日の条に「一品の舎人親王は、勅をうけて 日本紀の編纂に従事していたが、完成して記三十巻と系図一巻を奏上した」と記述される。これは『日本書紀』の完成を示す。 藤原不比等の没後は知太政官事として政務に携わり、729年(天平1年)に起きた長屋王の変のときは新田部親王らと王を窮問して王は自尽した。長屋王は舎人親王の甥にあたる。 舎人親王は天平7年11月14日(735年12月6日)に没した。第7子が淳仁天皇になると崇道尽敬皇帝の称号を贈られた。
万葉集
万葉集に3首が残される。117番は舎人娘子(とねりおとめ)に贈った歌である。
- 117番 「ますらをや 片恋せむと嘆けども 醜のますらを なほ恋ひにけり」
- 1706番 「ぬば玉の 夜霧ぞ立てる 衣手(ころもで)の 高屋の上に たなびくまでに」
- 4294番 「あしひきの 山に行きけむ 山人の 心も知らず 山人や誰」
松尾寺
『日本書紀』編纂のときは舎人親王42歳の厄年であったため、日本書紀の無事完成と厄除けの願をかけて「松尾寺」を建立したと1676年(延宝4年)に作成されたと「松尾寺縁起」に記載される。
東明寺
持統天皇8年(693年)に舎人親王が開基したと伝えられる。持統天皇が眼病に悩んだとき、平癒を祈る子息の舎人親王の夢枕に老翁姿の白鬚明神が現れ、 「霊山に登り霊井の水をすくいて母君の眼を洗うよう」にとのお告げに従い母の眼を洗ったところ、持統天皇の眼は治癒した。その感謝のため舎人親王の勅により、寺が建てられたという。
邸宅跡
舎人親王邸の有力候補地が平城京跡で発掘されたと2023年4月3日報道された。平城京の中心部に近い「左京三条三坊四坪」と呼ばれる区画で、5棟分の建物跡が見つかった奈良時代前半とみられる。。大型建物跡は推定で南北10m以上、東西20.2m。柱穴は一辺1.5m前後。屋根には瓦が使われていた可能性がある。五位以上の貴族の邸宅は1町であったが、左大臣・長屋王など大臣クラスは4町と広い。四町の宅地を班給されたのは三位以上の貴族だけである。軒丸瓦、柱の一部も出土した。
参考文献
- 太田亮(1942)『姓氏家系大辞典』磯部甲陽堂
- 貴族邸宅の中心建物か奈良新聞, 2023年4月3日
法隆寺 ― 2023年09月10日 22:05
法隆寺(ほうりゅうじ,Horyuji Temple)は南都七大寺のひとつで、奈良県生駒郡斑鳩町にある寺院である。宗派は聖徳宗である。建物は現存する世界最古の木造建築群と言われる。本尊は釈迦如来である。法隆寺地域の仏教建造物は1993年に世界遺産として登録された。法隆寺には「斑鳩寺」・「鵤寺」・「鵤大寺」・「鵤僧寺」・「伊我留我寺」・「伊我留我本寺」・「伊河留大寺」などの異称がある。
概要
『日本書紀』には606年(推古14年)条に「斑鳩寺」の名が現れる。用明天皇のため聖徳太子は寺の造立を発願し、607年(推古15年)ころに完成したと考えられている。670年(天智9年)条に「法隆寺」は一屋余す事無く焼失したと『日本書紀』に記される。その後、再建時期は不明であるが、奈良時代の初頭までに飛鳥時代様式で中心伽藍が復興されたと考えられている。
伽藍構成
東院と西院
法隆寺は、東院と西院の二つの大きな建物群に分けられており、金堂、五重塔、中門・回廊、経蔵などが建っている場所を西院といい、夢殿や伝法堂などがある場所を東院という。 東院は厩戸皇子の一族の住居であった斑鳩宮の跡に建立された。
金堂(飛鳥時代 国宝)
飛鳥時代の建築で国宝である。桁行五間、梁間四間、二重、初重もこし付、入母屋造、本瓦葺、もこし板葺。西院伽藍で最古の建築である。飛鳥時代の彫刻の傑作と言われる釈迦三尊像(飛鳥時代、国宝)をはじめ、薬師如来像(飛鳥時代、国宝)、四天王像(飛鳥時代、国宝)、吉祥天(平安時代、国宝)などの仏像が安置される。
五重塔(飛鳥時代 国宝)
飛鳥時代の建築で国宝である。現存する世界最古の五重塔である。三間五重塔婆、初重もこし付、本瓦葺、もこし板葺。
大宝蔵院
法隆寺に伝来する名宝が安置される。宮殿形の玉虫厨子は、周囲の金具の下に玉虫の翅を張る。観音菩薩像(白鳳時代、国宝)、玉虫厨子(飛鳥時代、国宝)、百済観音像(飛鳥時代 国宝)、伝橘三千代念持仏及び厨子(白鳳時代 国宝)が安置される。
中門(飛鳥時代 国宝)・回廊・経蔵(奈良時代 国宝)・鐘楼(平安時代 国宝)
中門は飛鳥時代の建築で、入母屋造りの二重門。国宝。回廊は東側の鐘楼、中央の大講堂、西側の経蔵を接続し、並立する五重塔と金堂を囲む。
大講堂(平安時代 国宝)
法隆寺の学問研鑽の場所である。925年(延長3年)に焼失したが、990年(正暦元年)ほぼ元の規模と同じ大きさで再建された。
西円堂(鎌倉時代 国宝)
薬師如来像を安置する八角円堂である。現在の建物は1250年(建長2年)に再建されたものである。
夢殿(奈良時代 国宝)
本尊「救世観音」を安置する東院伽藍の中心をなす八角円堂の建物である。東院の本堂である。天平創建の建築で739年(天平11年)ころに創建されたとされ、鎌倉時代の1230年(寛喜2年)に大修理された
伝法堂(奈良時代 国宝)
聖武天皇の夫人の橘古那可智の住宅を仏堂に改造したもので、床は板張りとなっている。堂内には三組の乾漆阿弥陀三尊像(奈良時代)をはじめ多数の仏像が安置される。
再建論争
明治時代半ばまで、法隆寺の西院伽藍の建物は飛鳥時代の創建のままの姿と思われていた。 明治20年(1887年)頃から再建論が提示された。明治38年5月に、喜田貞吉は法隆寺再建論を学界に発表した。日本書紀670年4月30日の条に「法隆寺災あり一屋も余すことなし」と記されていることや「和銅年間」(708~714年)に「法隆寺を造る」の記録を根拠としている。 関野貞などの非再建論者は①法隆寺の建築様式は古風な様式を示し、朝鮮半島三国時代や、隋の建築の影響を受けている。②法隆寺は大化改新(645年)以前に用いられていた尺度(高麗尺)で設計されている、薬師寺などは新しい唐尺を用いている。③『日本書紀』の法隆寺焼失の記事は年代に誤りがある。「聖徳太子伝補闕記」の記事によって、日本書紀の天智天皇九年庚午四月卅日夜半の法隆寺火災の記事は、その実推古天皇十八年の庚午四月卅日夜半に起ったものであったとした。 1939年、再建論と非再建論現在の西院伽藍の南東部から火災に遭ったとみられる伽藍跡(若草伽藍)が見つかり、これは火災で焼失した前身寺院に当たり、現在地に再建されたとする見方がこれ以降定着し、再建論争に終止符が打たれた。 ところが2001年2月20日、1943年から1954年までの解体修理で、腐食していたため取り出され、京都大で保管されていた五重塔の心柱の標本を「年輪年代法」と呼ばれる測定法で測定したところ594年に伐採されたヒノキ材と判明した。心柱材は、厩戸皇子は創建した時の旧材を転用した可能性が考えられている。また金堂の部材は年輪年代からみて650年代末から669年までの間の伐採で、日本書紀の伝える法隆寺炎上の年である670年よりも前の伐採であった。670年に起きた火災で全てが焼失し、710年頃に再建されたとされる再建論に疑問が生じている。
アクセス等
- 名称:聖徳宗総本山 法隆寺
- 宗派:聖徳宗 (元法相宗)
- 本尊:釈迦如来
- 所在地:〒636-0115 奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺山内1の1
- 交通:JR法隆寺駅より徒歩約20分
公式ページ
出挙 ― 2023年09月10日 22:47
出挙(すいこ)は古代、稲や財物を農民に貸しつけて利息を取ること。
概要
春夏に稲を貸し付け、秋にそれを五割(のち三割となる)の利子とともに回収するものである。 元来は勧農と貧民救済のためのものとされたが、奈良時代以降は一種の税として諸国の有力な財源となった。
養老令
公私以財物条
公私が財物を出挙したならば、任意の私的自由契約に依ること。官司は管理しない。60日ごとに利子を取ること。8分の1を超過してはならない。480日を過ぎた時点で1倍(100%)を超過してはならない。家資が尽きたならば、役身折酬(債務不履行を労働によって弁済)すること。利を廻して本と(すなわち複利計算)してはならない。もし法に違反して利子を請求し、契約外の掣奪(=私的差し押さえ)をした場合、及び、無利子の負債(=債務不履行の際、役身折酬による弁済ができない)の場合は、官司が管理すること。質は、持ち主に対して売るのでなければ安易に売ってはならない。もし(特定期間内、令義解によれば480日+60日を過ぎて後に)、利子を合計しても本(質物の価格)に達しないときには、所司に報告して、持ち主に対し売ることのを許可すること。余りが出たならば返還すること。もし債務者が逃亡した場合、保人(=身柄保証人)が代償すること。
以稲粟条
稲粟を出挙したならば、任意の私的自由契約に依ること。官司は管理しない。そうして1年を1期間として判断すること。1倍(=100%)を超過してはならない。官司(の出挙)は半倍(=50%)すること。いずれも旧本(本〔もと〕の値)に従い、さらに利子を発生させたり、複利計算してはならない。もし家資(=家の資産)が尽きたならば、また上の条に準じること。
出挙条
出挙は、当事者間の合意に基づいて、私的に自由契約させること。利子の取り方が条の規定を超過したならば、任意に個人が糺して報告すること。利物はいずれも糺した人に報賞すること。
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