会稽東冶 ― 2023年10月15日 14:39
会稽東冶(かいけいとうや)は古代中国の会稽郡東冶県である。
概要
魏志倭人伝に「会稽」は2か所に登場する。倭国は「會稽東冶の東にある」と書かれる。 會稽とは漢書に現れる会稽郡であり、東冶県は冶県の前身である。 後漢の成立に冶県は分割され、東は東冶県に改名され、県西部は侯官県が設置された。 つまり會稽東冶の東とは会稽郡東冶県の東の意味である。 東冶県の県都は現在の福建省の省都である福州市である。 位置は、台湾の北、沖縄の西にある。 すなわち、三国志の筆者は倭国を現在の沖縄付近と理解していたことになる。
会稽東治
魏志倭人伝の版本には「会稽東治」とサンズイがついている。この場合は「会稽の東部地域の治所」と解釈され、現在の江蘇省蘇州市辺に理解される。その距離は580km北になり、会稽東治では鹿児島県鹿屋市付近が対応する。大きな違いである。 しかし、版本は会稽東冶の誤植である。理由は魏志倭人伝の版本は綿々と筆写されてきた手書き複製を宋代に印刷したものであるから、その時点かまたはその前の誤りが生じたものと思われる。また「東治」という地名はないこと、東にあるということから「東冶」は地名として出しているので、治所という曖昧な場所で示す理由はないこと、『三国志』には會稽と東冶はセットで登場することなどが挙げられる。
魏志倭人伝
- (原文1)夏后少康之子、封於會稽、斷髮文身、以避蛟龍之害
- (大意1)
- (原文2)計其道里、當在會稽東冶之東。
漢書地理志 地理志上
- (原文1):東南曰揚州:其山曰會稽,藪曰具區,川曰三江,寖曰五湖;其利金、錫、竹箭;民二男五女;畜宜鳥獸,穀宜稻。
- (原文2):會稽郡,戶二十二萬三千三十八,口百三萬二千六百四。縣二十六:吳,曲阿,烏傷,毗陵,餘暨,陽羨,諸暨,無錫,山陰,丹徒,餘姚,婁,上虞,海鹽,剡,由拳,大末,烏程,句章,餘杭,鄞,錢唐,鄮,富春,冶,回浦。
漢書地理志 地理志下
- (原文3)其君禹後,帝少康之庶子云,封於會稽,文身斷髮,以避蛟龍之害。後二十世,至句踐稱王,與吳王闔廬戰,敗之雋李。夫差立,句踐乘勝復伐吳,吳大破之,棲會稽,臣服請平。後用范蠡、大夫種計,遂伐滅吳,兼并其地。度淮與齊、晉諸侯會,致貢於周。周元王使使賜命為伯,諸侯畢賀。後五世為楚所滅,子孫分散,君服於楚。後十世,至閩君搖,佐諸侯平秦。漢興,復立搖為越王。是時,秦南海尉趙佗亦自王,傳國至武帝時,盡滅以為郡云。
三国志46巻・呉書・孫策伝
- (原文4)虎等群盜,非有大志,此成禽耳。遂引兵渡浙江,據會稽,屠東冶,乃攻破虎等
参考文献
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