東漢直 ― 2023年10月28日 12:02
東漢直(やまとのあやのあたい)は大和国高市郡を本拠とする渡来系氏族である。 「倭漢直」とも書く。
概要
日本書紀に渡来系の阿知使主を氏祖とするとされる。『続日本紀』延暦4年(785年)6月条では、阿智王は七姓(朱・李・多・皀郭・皀・段・高の七姓漢人)と共に渡来したとされる。高句麗に滅ぼされた楽浪郡の遺民と言われる。大和国高市郡檜前村(奈良県高市郡明日香村)に居住したので、倭漢氏と呼ばれる。大和に居住する漢氏は東漢氏族となり、河内に本拠を持っていた漢氏は西漢氏族となった。雄略16年に漢部を集めて、その伴造になり直の姓を賜ったという。朝廷の文筆、財務、外交などに従事した。6世紀には渡来人を管轄する伴造となり、書、坂上、民、長、大蔵その他多くの枝氏族に分かれて蘇我氏と結んで活躍した。 もと東漢は後漢の別称であった。後漢の首都の洛陽が、前漢の首都の長安の東方に位置するために呼ばれたものである。宝皇女(皇極天皇)の子の漢皇子の養育に東漢直が当たったと考えられている。
日本書紀 巻第十四 応神天皇
- (原文 廿年秋九月)倭漢直祖阿知使主・其子都加使主、並率己之黨類十七縣而來歸焉。
- (大意)応神20年、倭漢直の祖先の阿知使主(あちのおみ)とその子の都加使主(つかのおみ)およびその郎党17県が来帰した。
日本書紀 巻第十四 雄略天皇
- (原文 七年八月)而病死者衆、由是、天皇詔大伴大連室屋、命東漢直掬、以新漢陶部高貴・鞍部堅貴・畫部因斯羅我・錦部定安那錦・譯語卯安那等、遷居于上桃原・下桃原・眞神原三所。或本云「吉備臣弟君、還自百濟、獻漢手人部・衣縫部・宍人部。」
- (大意)病死するものが多かった。天皇は大伴大連室屋に勅して、東漢直に命じて新漢陶部高貴・鞍部堅貴・畫部因斯羅我・錦部定安那錦・譯語卯安那らを上桃原・下桃原・眞神原の三か所に住まわせた。ある本には吉備臣弟君が百済から帰り、漢手人部・衣縫部・宍人を献じたとする。
- (原文 廿三年八月)遺詔於大伴室屋大連與東漢掬直曰「方今、區宇一家、煙火萬里、百姓乂安、四夷賓服。此又天意、欲寧區夏。所以、小心勵己・日愼一日、蓋爲百姓故也、臣・連・伴造毎日朝參、國司・郡司隨時朝集、何不?竭心府・誡勅慇懃。義乃君臣、情兼父子、庶藉臣連智力、内外歡心、欲令普天之下永保安樂。
- (大意)天皇の病気が重くなったとき大伴室屋と東漢掬を呼び、「民家の煙は万里の遠方からも立ち上る。四夷は服属した。臣・連・伴造は毎日朝參している。國司・郡司は随時に参集する」
日本書紀 巻第廿一 用明天皇
- (原文 五年十一月)癸卯朔乙巳、馬子宿禰、詐於群臣曰「今日、進東國之調。」乃使東漢直駒弑于天皇。或本云、東漢直駒、東漢直磐井子也。
- (大意)蘇我馬子は群臣に命じて「今日、東国の調を献上する」として東漢直駒に天皇を殺させた。ある本には東漢直駒は東漢直磐井の子とされる。
- (原文 五年十一月)丁未、遣驛使於筑紫將軍所曰「依於内亂、莫怠外事。」是月、東漢直駒、偸隱蘇我嬪河上娘、爲妻。
- (大意)馬子は筑紫將軍に使者を送り、内乱のために外事を怠るな」と命じた。東漢直駒は蘇我嬪河上娘(崇峻天皇の嬪と言われる、蘇我馬子の娘)を奪って妻とした。
日本書紀 巻第廿九 天武天皇
- (原文 六年六月)壬辰朔乙巳、大震動。是月、詔東漢直等曰「汝等黨族之自本犯七不可也。是以、從小墾田御世至于近江朝、常以謀汝等爲事。今當朕世、將責汝等不可之?以隨犯應罪。然頓不欲絶漢直之氏、故降大恩以原之。從今以後、若有犯者必入不赦之例。」
- (大意)天武天皇は東漢直らに「汝らは7つの大罪を犯した。小墾田の御代から近江朝まで汝らを操って陰謀が行われた。罪に処すところだが大恩により許すことにする。今後は罪を犯さないように」と述べた。
参考文献
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