石宝殿古墳 ― 2026年10月13日 00:05
石宝殿古墳(いしのほうでんこふん)は大阪府寝屋川市打上に所在する古墳時代終末期(7世紀中葉頃)の古墳である。墳丘は失われているが、巨大な花崗岩製の横口式石槨が露出して現存し、1973年(昭和48年)に国の史跡に指定されている。
概要
寝屋川市東部の生駒山西麓丘陵に位置し、打上高塚古墳群(打上神社古墳群)を構成する終末期古墳である。現在は墳丘封土が失われ、横口式石槨のみが地表に露出している。
埋葬施設は南向きに開口する横口式石槨で、平坦な底石(下石)の上に、内部を刳り抜いた花崗岩製の蓋石を載せる二石構造を採る。石槨の外形は直径約3メートル、高さ約1.5メートルで、入口には本来閉塞用の扉石が設けられていたが、現在は失われている。
墳丘は現存しないため形状は不明である。1988年の発掘調査では石槨背後から列石が検出され、墳丘裾の土留め施設であった可能性が指摘された。このため封土を有する古墳とみる説が有力である一方、封土を伴わない露出型石槨説や八角墳説も提唱されている。
石宝殿は江戸時代以前から著名で、『河内名所図会』(1801年)にも掲載されている。また1774年には付近から金銅製骨蔵器が出土し、極楽寺に埋納されたと伝えられるが、石宝殿古墳との直接の関係は明らかではない。 北河内地域では唯一の終末期古墳であり、盛り土が流失し、巨大な横口式石槨がむき出しとなっている。花崗岩製の蓋石を刳り抜いて横口式石槨石室を構成する。埋葬施設は横口式石槨で、南方向に開口する。入り口部分には閉塞用の扉石が設置されていたが、現在は存在しない。 下石・蓋石からなる二石構造で作られた横口式石槨が特徴である。上面を平坦に加工した南北長約3m、厚さ約0.10mの底石(下石)の上に、直径3m 、高さ1.5mで埋葬部分をくり抜いた蓋石を重ねる。底石は蓋石を受けるための加工が施されている。 築造時期は、古墳時代終末期の7世紀中葉頃と推定されている。
発掘調査
1874年(明治7年)
- 堺県令税所篤による実地調査が行われ、石槨の構造が記録された。学術発掘というより実見・調査であった。
昭和53年(1978)
寝屋川市教育委員会による実測調査。
1988年(昭和63年)
- 寝屋川市教育委員会が発掘調査を実施した。発掘調査は今回が初めてである・石槨背後から列石を検出し、墳丘土留め施設の可能性が示された。出土した須恵器片および瓦器椀片は包含層出土であり、副葬品ではない。 1988年(昭和63年)7月12日から同年8月12日まで現地調査を実施し、1989年(平成元年)4月1日から1990年(平成2年)3月31日までの間に遺物整理および概要報告書作成した。遺物は、(第一トレンチでは)石敷上の第Ⅱ層中より瓦器椀の小片が数点出上した。そのうちの1点は退化傾向の強い高台を伴う底部であった。高台の断面は三角形を呈す。須恵器片は杯身の口縁部である。 (第三トレンチでは)石敷を検出した。石槨後背部には列石が4個あり、これが墳丘封土の土留め石であった可能性が指摘されている。
石宝殿古墳の意義・位置づけ
- 北河内を代表する終末期古墳
- 北河内地域で現存する数少ない7世紀の終末期古墳であり、この地域の古墳文化を知る基準資料となる。
- 横口式石槨の代表例
- 巨大な花崗岩を刳り抜いた二石構造の横口式石槨は、大王墓系統の高度な石室技術を示す資料として重要である。
- 終末期葬制の変化を示す遺跡
- 横穴式石室から横口式石槨への変化は、7世紀の葬送儀礼や被葬者階層の変化を示す代表例として位置づけられる。
- 古くから知られた古墳である
- 『河内名所図会』に描かれるなど近世から知られ、近代考古学成立以前から注目されてきた文化財である。
考察
石宝殿古墳は、7世紀中葉に畿内で普及した横口式石槨を採用する終末期古墳である。横口式石槨は追葬や扉石による開閉を可能とする新しい葬制であり、横穴式石室から古代の火葬・墓誌文化へ移行する過渡期の墓制を示している。また、墳丘背後の列石は封土を伴う墳丘の存在を示唆し、失われた墳丘復元を考える上でも重要な考古学資料となっている。
遺構
- 列石
- 横口式石槨
遺物
- 須恵器片(杯身)
- 瓦器椀片(中世)
- ※いずれも発掘調査時の包含層出土であり、副葬品ではない。
築造時期
- 7世紀中葉頃
展示
- 現地
指定
- 1973年5月10日(昭和48.05.10) 国の史跡指定
アクセス等
- 名称 :石宝殿古墳
- 所在地 : 大阪府寝屋川市大字打上
- 交 通 : JR学研都市線「寝屋川公園駅」(旧東寝屋川駅)から徒歩約15〜20分
参考文献
- 寝屋川市教育委員会(1990)『寝屋川市文化財資料14:石宝殿古墳』寝屋川市教育委員会
- 秋里籠島(1801)『河内名所図会』
- 梅原末治(1914)「河内打上村石賓殿」『考古学雑誌』第4巻7号
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