目梨泊遺跡 ― 2024年04月20日 00:24
目梨泊遺跡(めなしどまりいせき)は北海道枝幸町に所在するオホーツク文化期の遺跡である。
概要
海に面する丘の上に立地する。東西100m、南北300mの範囲である。 北海道大学文学部附属北方文化研究施設によって、昭和40年代に六次にわたる学術調査が行われた。 発掘調査は1990年から1992までの3年間実施された。集落を取り囲むように墓域が形成された。平成12年からは筑波大学による学術調査が3ヵ年にわたって実施された。30万点を超える膨大な量の遺物が出土している。
埋葬法
これまではオホーツク文化圏では頭を北西に向けた仰臥屈葬が一般的とみられていた。目梨泊遺跡は半数以上の頭位が西もしくは南西方向であり、墓壙の規模から伸展葬とみられる場合が多い。 一方で伝統的な被甕が使用され、多くの鉄器が副葬されるなど、従来の埋葬法と共通する要素もある。
副葬品
上記以外の副葬品では鉄器が多い。刀子を主体として、蕨手刀、剣、鉾、鎌、平柄斧、縫い針などがある。また石鏃や青銅製の帯金具や足金具、銀製の耳飾り、ガラス製小玉、琥珀玉などがある。蕨手刀は長さ73.6cm、34号土坑墓より出土した。鞘はなく、抜き身であった。 オホーツク式土器は高さ26.2cm、細かい粘土紐による貼付文で文様を付ける。
調査
遺構
- 竪穴建物4
- 獣骨集中
- 墓壙3
- 土坑253
- 集石1
- 焼土2
遺物
- 土器
- 動物遺存体(ヒグマ+アザラシ+魚)
- 曲手刀子
- 土製品
- 石鏃
- 銛先鏃
- 砥石
- 剥片
- 海獣
- クマ(四肢骨)
- 骨製銛頭
- 線刻骨製装飾品
- 黒曜石剥片
- 石錘
- 骨角器
- 蕨手刀 2
- 刀子
- 骨角器
- 人骨
指定
展示
- 二戸市埋蔵文化財センター
アクセス
- 名 称:目梨泊遺跡
- 所在地:北海道枝幸郡枝幸町目梨泊43-2
- 交 通:
参考文献
- 枝幸町教育委員会(1988)『目梨泊遺跡』枝幸町教育委員会
- 文化庁(1997)『発掘された日本列島 1997』朝日新聞社
- 石田肇(1988)「北海道枝幸町目梨泊遺跡出土のオホーツク文化期人頭骨にみられたアイヌ的特徴」人類學雜誌
雷神山古墳 ― 2024年04月20日 08:18
雷神山古墳(らいじんやまこふん)は宮城県名取市に所在する東北最大の前方後円墳である。日本百名墳に選出されている。
概要
東端に築造された東北最大の前方後円墳である。標高40m前後の愛島丘陵(標高33m)の丘陵に築造された。墳丘の大部分は自然丘を削り、その土を盛土にした。周堤と周濠を含めた墓域は南北210m、東西140m。表面に葺石がある。3段築成で、葺石があり、壺形埴輪、底部穿孔土器が出土した。古墳時代前期において、東日本でも最大級の規模である。 古墳時代前期の土師器が出土することなどから前期古墳の要素が見られるため、4世紀末から5世紀初頭の築造と考えられる。古墳の名称は、古墳の頂部に雷神様を祀った祠があるため、それにちなんで名づけられた。 北側に直径54m・高さ6mの三段築成で周湟を有する小塚古墳(円墳)がある。
保存活用計画
宮城県の「名取市文化財保存活用地域計画」(2023年(令和5年)7月21日)では、「雷神山古墳と花開いた古墳文化」として整備計画が策定された。空間イメージを「名取のはじまり」「古墳文化の繁栄」とする。雷神山古墳や飯野坂古墳群などの最新成果を踏まえた調査・研究が必要と位置づけられた。雷神山古墳、飯野坂古墳群、旧中澤家住宅の保存・活用環境や利用価値向上のための将来的な整備に向け、個別保存活用計画の必要性が指摘された。雷神山古墳+飯野坂古墳群コースで、古墳ウォーキングが実施された。
調査
史跡指定後に昭和46~50年度に渡り指定地58,308㎡を公有化し、昭和51~52年度にかけ環境整備の基礎資料を得るため墳麓線及び周湟確認調査を行った・1976年(昭和51年)、1977年(昭和52年度)に雷神山古墳の調査から壷形埴輪、土師器の器台・底部穿孔壷形土器が出土している。墳丘上で底部穿孔壷形土器や器台を使用した祭事が行われていた。主体部は未調査である。埴輪は全て壺形埴輪である。 主体部分は、未調査である。
規模
- 形状 前方後円墳
- 築成 前方部:2段、後円部:3段
- 墳長 168m
- 後円部 径径96m 高12m
- 前方部 幅96m 長72m 高6m
外表施設
- 形象埴輪 埴輪壺
- 葺石 あり
- 周堤 - 一部にあり。
遺物
- 壺形埴輪
- 底部穿孔壺形土器
- 小形器台 土師器
築造年代
- 4世紀末頃 (古墳時代)
被葬者
- 地方豪族の首長の墓、仙台平野を支配していた首長
指定
- 1956年(昭和31年)12月28日 - 国の史跡に指定される。
- 1968年(昭和43年)12月5日 - 追加指定
展示
- 名取市歴史民俗資料館
アクセス等
- 名称:雷神山古墳
- 所在地: 〒981-1226 宮城県名取市植松字山、愛島小豆島字片平山
- 交通:JR名取駅からバス、JR館腰駅から約1.5km/乗合バス「なとりん号」館腰名取駅線 「館腰学校前」停留所下車 徒歩約15分/JR東北本線館腰駅からタクシー5分
参考文献
- 名取市教育委員会(1977)『名取市文化財調査報告3:史跡雷神山古墳』名取市教育委員会
- 名取市教育委員会(1978)『史跡雷神山古墳 : 昭和52年度発掘調査概報』名取市文化財調査報告書第5集
稲荷森古墳 ― 2024年04月20日 08:58
稲荷森古墳(いなりもりこふん)は山形県南陽市にある前方後円墳である。 日本百名墳に選出された。
概要
米沢盆地北部の長岡山孤立丘陵(海抜220m)の南西端丘尾を切断して前方部を南々西に向けて築造された。山形県では最大規模の古墳であり、東北地方では第7位の規模である。後円部に比較し、前方部が短く、また低い特色を示すが、全体的には墳形が残る。均整のとれた典型的な前期古墳形式の墳形である。 後の埴輪の原型となる底部穿孔土器と呼ばれる古墳の祭祀用の特殊な土器が見つかった。 現在は史跡公園として整備されている。南陽市教育委員会(1989)によれば、「古墳築造は4世紀代には確実に朔る」とされている。
調査
昭和8年頃に新山三郎氏に注目されて以来,西村真次氏による報告および柏倉亮吉氏の2次にわたる調査、赤湯町史による前方後円墳説の提示を経て,1975年(昭和52年)山形県史編さん室•稲荷森古墳調査団等の測量調査により,ようやく大型前方後円墳として認識された。その後地形測量により再認識された。1977年(昭和52年)から1979年にかけて山形県が測量や発掘を行った。 稲荷森古墳後円部の墳丘裾部付近から最初の調査において土師器の高杯形土器が出土し、墳丘に葺石がみられる。後円部に比較し、前方部が短い。後円部に王の棺が埋められていると想定されている。埴輪はない。横穴式石室が広まる以前の古いタイプの古墳であり、掘った穴に木棺を直に埋めた木棺直葬という形式の古墳と見られる。「底部穿孔土師器壺形土器」が出土した。肩部に三段の粘土紐隆帯に縦の刻みを施した文様帯がめぐる。各粘土紐は,幅1. 1cm 前後で隆帯にはさまれた凹部は横方向のナデが認められ、平滑である。出土遺物の検討では古墳築造は4世紀代を確実に朔ると推定されている。墳形は後円部にくらべ前方部が短く、いわゆる銚子形前方後円墳となる。通常は古墳は左右対称であるが、稲荷森古墳はねじれているため、前方部右半分が築造後に削平されたか,あるいは当初から造営されなかったかのいずれかと考えられる。検討の結果,その部分は当初から築成されなかったものと判断された。 埴輪は今までに発見されておらず、なかったと考えられる。
規模
- 形状:前方後円墳
- 築成 前方部:1段、後円部:3段
- 墳長 96m
- 後円部 径62m 高9.6m
- 前方部 幅30m 長32m 高4.1m
周濠
明確に周濠と認定しうるものは発見されていない。なかったものと判断された。
遺構
掘った穴に木棺を直に埋める木棺直葬と考えられる。古墳の埋葬施設は国の指示で発掘されていない。隣の長岡山丘陵からは大王に仕えた人々、特に上位層の四周を溝で区画した方形周溝墓6、などが発見された。後円部地山層に竪穴式住居跡がみつかる。
遺物
後円部東北部墳麓から底部穿孔土師器壺(塩釜式並行、外表遺物か)。後円部封土層直下の地山層に塩釜式期竪穴式住居あり。
- 高杯形土器 - 表面にヘラミガキ、塩釜式で古形式の土師器、世紀前半から中頃と推定
- 底部穿孔土器 - 移入伝世品と見られる
- 鉄刀・
- 斧
土器
塩釜式並行の土師器高杯が出土した。 後円部築成前に破砕された土師器の脚部が検出された。陶器片や人骨等が検出されている。底部穿孔土器と呼ばれる古墳の祭祀用の特殊な土器が検出された。供え物を盛る高杯が発見された。
指定
- 1980年(昭和55年) - 国の史跡史跡名勝天然記念物
時期
- 古墳時代前期(4世紀)、4世紀後葉とみなすことが妥当である。
被葬者
- 置賜盆地を支配した王の墓、米沢盆地の当時の有力首長墓と見られる。
展示
- 山形県立うきたむ風土記の丘考古資料館
アクセス等
- 名称:稲荷森古墳
- 所在地: 山形県南陽市長岡稲荷森1175
- 交通: JR赤湯駅から車で5分/徒歩24分 1.8km
参考文献
- 江上波夫(1993)『日本古代史辞典』大和書房
- 南陽市教育委員会(1989)『稲荷森古墳』南陽市埋蔵文化財調査報告書第4集
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