菜畑遺跡 ― 2024年08月23日 00:10
菜畑遺跡(なばたけいせき,Nabatake Ruins)は佐賀県唐津市にある縄文時代晩期から弥生時代後期にかけての集落遺跡である。
概要
松浦杵島丘陵地の北端で、標高10m前後の平野に面した衣干山より派生した温石山より東へ伸びた丘陵の先端部にあり、丘陵の先端から南側の低地部に位置する。日本最古とみられる稲作遺跡をともなう集落跡である。縄文時代前期から中期頃の貝塚、土坑や土坑墓、溝、縄文時代晩期後半、弥生時代中期頃の水田跡や住居跡、溝、壺棺墓を検出した。北側丘陵部分に墓域、居住域を形成し、丘陵斜面には貝塚を形成し、南側の低地に水田を形成していた。 縄文時代前期から晩期頃の貝塚、土坑や土坑墓、溝、弥生時代早期の水田跡や住居跡、溝、壺棺墓を検出した。丘陵斜面に貝塚を作り、南側の低地に水田を形成していた。水田の発見により、弥生時代早期の日本最古の稲作遺跡として注目を集め、重要な調査成果であった。炭化米は250粒以上がみつかり、うち100粒はジャポニカ種であった。米以外にアワ、ゴボウ、オオムギ、アズキ、ナスビ、メロン、キュウリなどの種が見つかった。水丼工作と共に畑作も行っていた。豚の骨は家畜飼育の最初とみられる。
調査
1980年、唐津市教育委員会が都市計画道路の建設での事前調査で2600年前の水田跡、炭化米、農具が検出された。福岡県の板付遺跡より早い時期の水田であった。水田跡は幅1.35m 、深さ45cmの水路が作られていた。水路の両側は矢板で抑えた畦で区画されていた。1区画は18m2程度の小さな水田であった。当時は直播き(種籾を直に田に撒く)であったと推測されている。
出土
遺物は、縄文土器や弥生土器、彩文土器、石製品、木製品、骨角器が出土した。農耕具として石庖丁、扁平片刃石斧、蛤刃石斧、磨製石鏃、木製の鍬などが出土している。
水田跡
最古の水田跡は、紀元前500~600年の弥生時代早期であった。谷間地の中央部に幅1.5~2.0mの水路を掘り、この両側に土盛りの畦によって区画された小規模(10~20平方メートル)の水田跡である。水田遺構は小さな4枚の田で、当時は直播きで栽培されたと推測される。弥生時代の2つの時期の水田跡が確認され、前の時期と同じ特徴をもつことが確認された。農耕具は種類・数共に多くなり、木製の鍬、えぶり、馬鍬(又鍬)、抉入柱状片刃石斧などが加わる。弥生時代のものになると、水田跡は矢板・杭を大量に用い大規模なものになり、農耕具も全種類大量に出土する。
収量
炭化米プラント・オパール分析法による研究で、弥生時代早期には「しいな」が含まれ、反当たり収量が極めて少なかったと考えられている。その後、品種改良が進み、しいなはなく、収量も大きく増えたことが分かる。炭化米は250粒ほど出土し、そのうち100粒以上がジャポニカ種であることが判明している。
規模
- 南北
- 東西
- 面積
遺構
- 土坑墓
- 土坑
- 貝塚
- 水田
- 水路
- 住居跡
- 溝
- 壺棺墓
- 井戸
遺物
- 縄文土器
- 弥生土器
- 彩文土器
- 石器
- 石庖丁
- 蛤刃石斧
- 木製鍬
- 磨製石鏃
- 木製品
- 骨角器
- 土製品
- 炭化米
指定
- 昭和58年5月11日 国指定史跡
考察
Wikipediaの「菜畑遺跡」では、「縄文時代晩期末の水田跡」と書かれているが、これは誤りである。紀元前930年頃は弥生時代である。Wikipediaはかなり古い知識で書かれている。 最近では弥生時代は紀元前10世紀まで繰り上がっている。
アクセス等
- 名称 菜畑遺跡
- 所在地 唐津市菜畑字松円寺3355-1
- 交通 JR唐津駅から徒歩15分 1.0km
参考文献
- 児玉祥一(2009)「日本の遺跡と遺産 1」岩崎書店
- 唐津市教育委員会(1982)『唐津市文化財調査報告書5:菜畑遺跡』唐津市教育委員会
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