大塚初重(おおつか はつしげ、1926年11月22日 - 2022年7月21日)は考古学者である。明治大学名誉教授、初代明治大学考古学博物館長。専門は弥生・古墳時代。
1926年(大正15年)11月22日、父坂田友七、母フミの次男として東京都板橋区西台に生まれる。1928年(昭和3年)、3歳で大塚家の養子になり台東区に転居する。1933年、台東区育英小学校入学。1939年(昭和14年)、郁文館商業学校入学(1943年繰り上げ卒業)。
1944年(昭和19年)、海軍水路部、気象観測訓練生をへて横須賀海兵団に入隊、海軍二等水兵。1945年4月、19歳で海軍一等兵曹としてに二度、中国・上海に向かう。上海で敗戦を迎える。捕虜生活の中で中国海軍水兵に気象観測を教える。 乗船が米軍に二度撃沈され神国日本とする皇国史観に疑問を持った。自伝に「一度目の撃沈の際、ワイヤロープにつかまって助かった」。東シナ海を漂流し、気付くと済州島の浜辺にいて、民家に運ばれた。おばあさんが土間のかまどに火をたき、おかゆを長い金属のサジで食べさせてくれ、サツマイモの皮をむいてくれた。「すまんが、今晩また乗ってもらう」と言われ出港するが4、5時間後、に再び撃沈される。ボートを降ろして一般人を乗せ、軍人はボートにつかまり数時間、対馬海峡で漂流した。「なぜ神風は吹かないのか」「絶対に日本は負けないと固い決意だったが事実は違う」と戦時中の歴史教育に疑問を抱いた。
1946年、板橋区下赤塚の母の元に復員する。明治大学専門部地理歴史科(夜間)に入学する。商工省特許標準局勤務。 大塚青年は、終戦復員をへて入学した明治大学で後藤守一教授の講義を受け、考古学に衝撃を受け一生の道と定めた。1年生から考古学の講義があった。実物を分析して解釈をしていく。事実をもとに解明していく学問は面白いと感じた。 1947年から4年間登呂遺跡の発掘に参加した。最初の発掘であった。1947年4月に後藤守一教授から、登呂遺跡の発掘を開始するので勉強したい人は連れて行くと募集があった。10日間でも20日間でも参加して勉強をしたいと手紙を書いた。後藤守一教授からは、1ヵ月や2ヵ月のロングランでやってくれと言われた。そこで、商工省特許標準局を長期欠勤する必要があったので、医者に相談したところ、強度の神経衰弱の診断書を得た。職場に長期療養を願い出た。上司から、緩やかに仕事しないとまいるよ、どこに転地療養するのか、と問われて、静岡です、静岡のどこだと質問されて冷や汗タラタラとしたが、登呂に行けることになった。 発掘では後藤守一・明治大学教授が指揮し、東日本の主な考古学者が結集した。著名な各分野の研究者が集結して、さらに明治、東京、慶応、早稲田、国学院、実践女子、東京女子大学、日本女子大学などから約30人の学生が集まった。60%は戦争帰りであった。登呂に出発する前日に杉原荘助助教授から、平板測量の初歩を教わる。1947年7月13日が登呂遺跡の鍬入れ式であった。商業学校で学んだ簿記や会計の知識と捕虜時代の労役経験を活かし、発掘の傍ら、食料調達、会計、書記を担当する。食料は配給米は1日米2合3勺だがこれでは不足する。外食券、メリケン粉、大豆の粉、農家の残飯の残りを貰ってまぜてすいとんにする。静岡の魚市場に3日ごとに買い出しに行く。世界初の水田遺跡の発掘で、水田と村落の共存を発見した。
1949年(昭和24年)、杉原荘介助教授から「新制大学で明治大学に文学部ができる。編入試験に受かれば入学できる」と誘われ、新制明治大学文学部3年に編入する。商工省特許標準局を依願退職する。1950年4月に考古学専攻ができる。群馬県岩宿遺跡に参加する。1951年(昭和26年)、明治大学を卒業する。助手採用。1952年(昭和27年)、大学院新設に伴い、修士課程に入学する。助手の頃、後藤守一教授から「古代の文化は上流階級が担う、耳飾、冠、各種副葬品を確実に勉強せよ」と指令が出る。杉原荘介助教授は「考古学は土器が分からないとダメ、土器、土師器、須恵器をちゃんとやれ」とことごとに言う。 後藤守一先生の前では古墳遺物を一生懸命やり、杉原荘介助教授の前では土器を懸命にやった。杉原先生が「土器は大事だ」と言われたことは、後になると、非常に助かったと感じる。
1952年(昭和27年)4月19日、後藤守一教授の媒酌で 中川和子と結婚する。中川和子は家の縁戚に当たる女性で、大塚初重が小学校5年生、中川和子が小学校2年生のときに、父親が交通事故で亡くなり、子供が多いということで京都の親戚から大塚家が預かった。同じ屋根の下におり、兄と妹のような関係であった。主婦の友社の結婚式場は明治大学の正門前であり、そこで式を上げた。
1954年、博士課程に進学する。1954年3月、明治大学理事会は博士課程の学生と助手はかねることができない規則を作った。そのため助手は失職した。学費を払うため、東京の親戚を5軒前後廻り、年8万円の月謝を払った。
1954年(昭和29年)10月30保、京都大学で開催の「日本考古学協会」での学会発表として「舟形石棺に関する二、三の問題」を発表する。実測に基づき割竹型石棺と舟形石棺の関係論などでまとめた。ところが3,4日前になって後藤守一教授から「舟葬論を盛り込んで発表」するよう命じられ、書き直して取りまとめた。舟葬は北欧やイギリスで見られるが、 日本では証拠がほとんどなかった。東北大学の伊東信雄、小林行雄、金関丈夫など錚々たる先生方より鋭い質問を浴びた。後藤守一教授からの助け舟はなかった。
1957年(昭和32年)、大学院を修了する。借金は1957年(昭和32年)、専任講師になったときに返金した。1961年、文学部助教授となる。 1963年、学位論文「前方後円墳の研究」で文学博士(明大文1号)。1968年、明治大学教授。1977年、日本学術会議会員に就任(1985年まで)。1990年、日本考古学協会会長に就任する(1992年まで)。1992年、明治大学理事に就任する(1996年まで)。1997年、明治大学教授を定年退官、名誉教授となる。
旧石器時代の存在を始めて明らかにした群馬県岩宿遺跡、放射線炭素年代測定法により縄文時代の年代を明らかにした夏島貝塚などにも加わった。古墳研究にすすむきっかけは、千葉県能満寺古墳の発掘であった。始めて本格的な古墳の調査に携わった大塚は、杉原助教授の思いがけない指名により、同古墳の調査報告を任され、ほぼ独力で完成させた。さらに三昧塚古墳の調査では、並行して古墳の破壊工事が進む極限状態の中、貝塚発掘の経験から盛土の重なりを冷静に観察し、未盗掘石棺の発見に至る。石棺からは、国内唯一の例である金銅製馬形飾付冠を始めとし、後に重要文化財となる遺物を続々と検出した。 その後、大塚は日本考古学協会会長、日本学術会議会員、山梨県立考古博物館館長、千葉県文化財審議委員、成田市文化財審議委員などを歴任する。
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葡萄唐草文(ぶどうからくさもん)は葡萄の房、つる、葉などで模様を構成する唐草文である。
中唐のアッシリアで始ったといわれ,ギリシア、ローマ、ササン朝ペルシアなどで使われた。葡萄の蔓に葉と房を配して連続させた文様である。西アジアでは葡萄を不死の生命の象徴と考えていた。中国では染織・金工・漆芸品などの模様に多用された。
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