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神籠石論争2023年11月30日 23:26

神籠石論争(こうごいしろんそう)は神籠石の霊域説と城郭説が対立した論争である。

概要

1898年(明治31年)に小林庄次郎が筑後・高良山神籠石を「霊地として神聖に保たれた」聖域として紹介した。それを契機として、福岡県女山(ぞやま)や山口県石城山(いわきさん)など類似例が発表され、喜田貞吉の霊域説と八木奬三郎の城郭説との論争が開始された。 1910年以降は霊域説に坪井正五郎・久米邦武、喜田貞吉が参加した。城郭説は白鳥庫吉、関野貞であった。

論拠

霊域説の根拠は神籠石は防御には向いておらず、列石内に式内社があることを根拠としていた。城郭説は朝鮮半島の古代山城や天智朝における朝鮮式山城との類似と列石上の土塁を根拠としていた。八木奬三郎は「城郭を除いては、他にこの類の大工事なかるべし」として城郭説を述べた。

決着

1963年(昭和38年)の小野忠熈・鏡山猛・岡崎敬・斎藤忠・小田富士雄らによる佐賀県武雄市おつぼ山神籠石の発掘調査で、列石の背後にある版築によって築かれた新発見の土塁と、列石の前面に3m間隔で並ぶ掘立柱の痕跡、木柵、壕の存在、列 石、水門、城 門が発見され、山城であることが確定的となった。

参考文献

  1. 宮小路賀宏(1987)「神籠石論争」(桜井清彦 『論争・学説 日本の考古学』6)雄山閣出版

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