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史跡古津八幡山 弥生の丘展示館2024年12月25日 00:06

史跡古津八幡山 弥生の丘展示館(しせきやよいのおかてんじかん)は古津八幡山遺跡のガイダンス施設である。

概要

2012年(平成24年)4月21日に開館した。弥生時代環濠集落である古津八幡山遺跡から出土した土器・石器など約500点を展示する。弥生時代のムラのようすを復元した模型や分かり易いアニメーションが写される。体験コーナーで、火おこし・弓矢体験、管玉づくり、勾玉づくりを体験できる。

常設展示

企画展

企画展『日本遺産「なんだ、コレは!」~信濃川流域の火焔型土器~』

  • 2024年4月27日から9月8日まで
  • 新潟市で発見された王冠型土器
  • 信濃川中流から上流域の火焔型土器

企画展「古津八幡山遺跡の石器と鉄器」

  • 1987年から2022年までの25回の発掘調査で出土した石器・鉄器を展示する。
  • 古津八幡山遺跡では鉄剣や鉄鏃、ヤリガンナなどの鉄器が出土し当時の日本海側における鉄器分布の北限となる。

指定

アクセス等

  • 名称:史跡古津八幡山 弥生の丘展示館
  • 所在地: 〒956-0846新潟市秋葉区蒲ヶ沢264番地
  • 休館日: 月曜日、休日の翌日、12月28日から翌年1月3日
  • 開館時間: 午前10時から午後5時まで(入館は午後4時45分まで)
  • 入館料: 無料
  • 交通:JR新津駅東口バス停(秋葉区バス「新津駅西口行き」に乗車して、「美術館・植物園前」で下車すぐ)

参考文献

雀居遺跡2024年12月25日 23:14

雀居遺跡(ささいいせき, Sasai Ruins)は福岡県福岡市博多区にある弥生時代から古墳時代にかけての遺跡である。

概要

雀居遺跡は太宰府市の宝満山を源流として博多湾にそそぐ二級河川である御笠川の右岸の低平地にあり、標高6m前後の沖積地に位置する。福岡空港国際線ターミナルのすぐ傍である。御笠川をはさんで、弥生銀座と言われる那珂遺跡群、比恵遺跡群がある。

発掘調査の歴史

1992年(平成3年)から1994年(平成6年)にかけて、福岡空港国際線ターミナルの移転に伴い、発掘調査が行われた。雀居遺跡では水田や集落の跡が見つかっている。 雀居遺跡の第4次調査では完全な形の机の脚の資料が出土した。用途は明確でないが、同じ構造、デザインの製品が福岡、大分、長崎、佐賀など北部九州一円に広がっており、共通の祭式に用いられたと推察される。雀居と下月隈において、脚だけで30点近く出土している。サンダル状の履物は雀居遺跡、那珂君休遺跡などで見つかっている。

雀居遺跡第15次・16次・17次調査

第15次調査では、4面の遺構面を確認した。稲作跡(水田跡) の検証や探査を行う場合、一般にイネの植物珪酸体(プラント・オパール) が試料1gあたり5,000個以上と高い密度で検出されたとき稲作が行われていた可能性が高いと判断する。8層(試料N3)、9層(試料N4)、11層(第3水田面?:試料N6)、12層(試料N7) で密度が7,800~9,900個/gと高い値であり、6層(試料N1)、7層(試料N2)、13層(試料N8) で3,300~4,900個/gと比較的高い値である。これらの層では稲作が行われていた可能性が高いと判断された。加速器質量分析法(AMS法) による放射性炭素年代測定では、第3水田面出土の木質サンプル(1)は、1825±25年BP (2σの暦年代でAD126-248年)、第3水田面出土の木片(自然流路) は、1755±20年BP (2σの暦年代でAD230-346年)であった。弥生時代末期から古墳時代の田とみられる。

遺構

弥生時代から古墳時代にかけて環濠集落や大型の掘立柱建物が検出された。低湿地の建物の基礎構造やブタなどを飼育する柵と考えられる遺構も検出された。集落、貯蔵穴、墳墓、水田遺構などが検出された。 雀居遺跡の木製品で最も新しい年代は西暦100年以降である。これにスギを加工する場合の平均辺材幅、33層分を加えると原材は西暦133年頃に伐採されたことになる。 九州地方で弥生時代の木製品の年輪年代が判明したのは雀居遺跡が最初であった。

弥生時代

  • 掘立柱建物10
    • 家畜小屋4
    • 甕棺墓4
    • 土壙墓1
    • 土坑25
    • 円形溝4

古墳時代

  • 土器溜1
  • 土坑10
  • 井戸4
  • 河川1

奈良時代から平安時代

  • 水田

出土品

弥生早期~中期

  • 青銅製ヤリガンナ
  • 弥生土器(壺+甕+高杯+鉢+器台)
  • 磨製石鏃
  • 磨製石斧
  • 石包丁
  • 石鏃
  • 砥石
  • 磨製石剣
  • 石鎌
  • 滑石製勾玉
  • ガラス小玉-植物遺存体(コメ(炭化米)+炭化種子)
  • 木製柱根
  • 木製礎板
  • 動物遺存体(動物(骨)+シカ(角)
  • 木製柱根
  • 製礎板
  • 動物遺存体(動物(骨)
  • シカ(角)

弥生後期~古墳時代

  • 弥生土器
  • 土師器
  • 石器(磨製石斧+砥石)
  • 木製品(鍬+柱根)
  • 馬鐸

指定

アクセス等

  • 名称:雀居遺跡
  • 遺跡面積:
  • 所在地:福岡県福岡市博多区雀居地内
  • 交通:

参考文献

  1. 坂 靖(2020)『大和王権の古代学』新泉社
  2. 埋蔵文化財研究会(2003)「考古学と暦年代」ミネルヴァ書房
  3. 福岡市教育委員会(2020)「雀居13」福岡空港滑走路増設事業に伴う埋蔵文化財調査報告(2)

阿倍倉梯麻呂2024年12月25日 23:30

阿倍倉梯麻呂(あべのくらはしのまろ、?-649年3月17日)は飛鳥時代の官僚である。 「阿倍内麻呂」、「摩侶」、「阿倍麻呂」、「大鳥大臣」ともいう。

概要

日本書紀によれば、624年(推古32年)、蘇我馬子は阿倍倉梯麻呂と阿曇を推古に遣わして、葛城はもともとの居住地であるから、この縣を頂きたいと要求した。推古は「私は蘇我の生まれで蘇我馬子は私の叔父である。たいていのことは聞き入れるが、葛城を失ったら、後世から悪く言われるし、蘇我馬子も不忠とされ、後世に悪名を残す」、として断った(史料1)。 628年(推古36年)、推古の死後、皇位が定まらず、蘇我馬子を中心に群臣が協議した。蘇我馬子は阿倍倉梯麻呂と諮って、自邸に群臣を集めて饗応した。散会する際に阿倍倉梯麻(内麻呂)は皇嗣に関して語った。「早く決めないと乱が発生する恐れがある。誰を後継ぎとすべきか」。意見は2つに割れて群臣の意見は折り合わなかった(史料2)。 乱のあとの645年(大化元年)、左大臣に阿倍倉梯麻呂、右大臣には蘇我倉山田石川麻呂が任じられた。阿倍倉梯麻呂は豪族を代表する重鎮となった(史料3)。 648年(大化4年)、阿倍倉梯麻呂は四天王寺に四衆を招き、仏像4体を迎えて内に安置させ霊鷲山の像を造るなど、法要を執り行った。 同年、推古朝以来の冠位十二階を廃止し、前年制定の七色十三階制に移行したが,左大臣の阿倍倉梯麻呂と右大臣(蘇我倉山田石川麻呂)のみは旧制度の冠を使用したとされる。 翌年、649年(大化5年)3月17日、阿倍倉梯麻呂は難波宮で亡くなった。孝徳は朱雀門に出て死者を祀るために慟哭した。

考察

阿倍倉梯麻呂は蘇我氏とも関係は良好であったが、蘇我氏の滅亡後も亡くなるまで政治的8立場を維持した。娘の小足媛を孝徳の妃として入れ、有間皇子を生んだことが大きかったと思われる。

史料1 『日本書紀』巻第廿二 推古卅二年

  • (原文)冬十月癸卯朔、大臣遣阿曇連闕名・阿倍臣摩侶二臣、令奏于天皇曰「葛城縣者、元臣之本居也、故因其縣爲姓名。是以、冀之常得其縣以欲爲臣之封縣。」於是、天皇詔曰「今朕則自蘇何出之、大臣亦爲朕舅也。故大臣之言、夜言矣夜不明、日言矣則日不晩、何辭不用。然今朕之世、頓失是縣、後君曰、愚癡婦人臨天下以頓亡其縣。豈獨朕不賢耶、大臣亦不忠。是、後葉之惡名」則不聽。

史料2 『日本書紀』第廿三 推古卅六年

  • (原文)九月、葬禮畢之、嗣位未定。當是時、蘇我蝦夷臣、爲大臣、獨欲定嗣位、顧畏群臣不從、則與阿倍麻呂臣議而聚群臣饗於大臣家。食訖將散、大臣令阿倍臣語群臣曰「今天皇既崩无嗣。若急不計、畏有亂乎。今以詎王爲嗣。天皇臥病之日、詔田村皇子曰、天下大任、本非輙言、爾田村皇子、愼以察之、不可緩。次詔山背大兄王曰、汝獨莫誼讙、必從群言、愼以勿違。則是天皇遺言焉。今誰爲天皇。」

史料3 『日本書紀』 巻第廿五 即位前

  • (原文)以阿倍內麻呂臣爲左大臣、蘇我倉山田石川麻呂臣爲右大臣。以大錦冠、授中臣鎌子連爲內臣、増封若于戸、云々。

史料4 『日本書紀』巻第廿五 大化四年

  • (原文) 二月壬子朔、遣於三韓三韓、謂高麗・百濟・新羅學問僧。己未、阿倍大臣、請四衆於四天王寺迎佛像四軀、使坐于塔內、造靈鷲山像、累積鼓爲之。

史料5 『日本書紀』巻第廿五 大化四年

  • (原文) (二月巳未)、遣於三韓(三韓、謂高麗・百濟・新羅)學問僧己未、阿倍大臣、請四衆於四天王寺迎佛像四軀、使坐于塔內、造靈鷲山像、累積鼓爲之。

史料6 『日本書紀』巻第廿五 大化四年

  • (原文) 夏四月乙卯朔甲午、於小紫巨勢德陀古臣授大紫爲左大臣

史料7  『日本書紀』巻第廿五 大化五年

  • (原文) 三月乙巳朔辛酉、阿倍大臣薨。天皇幸朱雀門、舉哀而慟。皇祖母尊・皇太子等及諸公卿、悉隨哀哭。

参考文献

  1. 坂本太郎, 井上光貞,家永三郎,大野晋 (1994)『日本書紀4』岩波書店
  2. 井上光貞、笹山晴生(2020)『日本書紀』中央公論新社