古代の豚 ― 2023年08月19日 19:12
古代の豚(こだいのぶた)は古代に飼育され、食べられていた豚である。
概要
日本では縄文時代から豚を食べていた。縄文時代前期に八丈島や三宅島の遺跡から猪類の骨が出土している。生きた猪を食料として船に乗せて運んだと考えられている。縄文時代中期には、猪型土製品が作られ、飼育していたと推測される。しかし家畜化はあまり進行していなかったとされる。
縄文時代
以前は、縄文時代の家畜はイヌのみで、ブタなどの家畜はいないとされてきた。縄文時代のイノシシの骨に家畜化現象が見られなかったことが理由であった。しかし西本豊弘(2016)は縄文時代のイノシシ骨の中にも家畜化現象とみられる例があることを指摘した。千葉県茂原市下太田貝塚出土資料を事例として、骨格の家畜化現象について縄文時代のブタは,骨格的変化が小さいことから,野生イノシシと家畜のブタが交雑可能な程度のかなり粗放的な飼育であったと推測されている。文化的要素では縄文時代中期以降にブタが飼育されていたことはほぼ確実と判断された(西本豊弘(2016))。 また、新美倫子、玉城綾(2023)の研究では、八重山諸島に4000年前に家畜豚がいたことが明らかにされている。沖縄県八重山地域の下田原貝塚(沖縄県竹富町波照間島)から出土した、約4000年前のイノシシ類の骨を分析したところ、家畜化現象がみられることから、豚であるとした。
弥生時代
弥生時代になると、渡来人により稲作、豚、犬を食べる習慣が大陸から導入された。弥生豚は中国南部の遺跡に多い小柄のタイプが多い。西本豊弘(2016は第1頚椎と上顎第3後臼歯の計測値により豚と猪を区別できると判断した。朝日遺跡ではイノシシ類の15%がイノシシで85%がブタと報告されている。
播磨国風土記
播磨国風土記(霊亀元年)の賀毛郡に『猪養野 右、猪飼と號くるは、難波の宮に御字しめしし天皇のみ世、日向の肥人、朝戸君、天照大神の坐せる舟の於に、猪を持ち参来て、進りき。 飼ふべき所を、求め申し仰ぎぎ。仍りて、此処を賜はりて、猪を放ち飼ひき。故、猪飼野といふ』とある。
飛鳥時代
飛鳥時代頃に大王へ献上する猪の飼養を職とした部民「猪飼部」があった。
参考文献
- 新美倫子、玉城綾(2023)「沖縄県八重山地域におけるブタの出現―下田原貝塚出土資料を中心に―」南島考古、42号
- 西本豊弘(1993)「弥生時代のブタの形質について」国立歴史民俗博物館研究報告,第50集
- 西本豊弘(2016)「縄文時代のブタ飼育について」国立歴史民俗博物館研究報告 第108集
法隆寺金堂薬師如来像光背銘 ― 2023年08月19日 23:04
法隆寺金堂薬師如来像光背銘(ほうりゅうじ こんどう やくしにょらいぞう こうはいめい)は奈良県の法隆寺にある薬師如来像の光背の裏面に刻された90文字の銘文である。
概要
本銘文は年紀を有する金石文として法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘とともに知られている。 しかし、推古15年(607年)に法隆寺を建立したときの造立とは断定できない。 「聖王」と書かれていることから、聖徳太子信仰が生まれる年代が想定される。推古朝よりかなり後代の成立と考えなければならないであろう。 銘文は縦29.7cm余、横13.2cm余でに、90字を5行で陰刻する。1行目から順に、16字・19字・18字・19字・18字ある。
原文
早稲田大学のサイトに画像が公開されている。釈読は次の通りである。
- 池邊大宮治天下天皇大御身勞賜時歳
- 次丙午年召於大王天皇與太子-而誓願賜我大
- 御病太平欲坐故将造寺薬師像作仕奉詔然
- 當時崩賜造不堪小治田大宮治天下大王天
- 皇及東宮聖王大命受賜而歳次丁卯年仕奉
大意
「用明天皇が病気の時、平癒を念じて寺(法隆寺)と薬師像を作ることを誓ったが、果たさす前になくなった。のちに小治田大宮治天下大王天皇(推古天皇)と東宮聖王(聖徳太子)が遺詔を奉じ、推古15年(607年)に建立した。
評価1
「池邊大宮天皇」は用明天皇(~587)のことであり、用明天皇が病気のときには、推古はまだ天皇(大王)ではないので、推古天皇を大王天皇と書くこの銘文はすくなくとも推古天皇即位後に書かれている。大王天皇の呼称は「大王」がアマタリシヒコの称号であるから、さらにアマタリシヒコの没後に製作年はずれ込む。
評価2
天武・持統朝以後の成立という意見が多くの支持を得ている。
- 「天皇」号の成立年代、
- 薬師仏信仰の年代、
- 「聖王」の称号使用、
- 「大王天皇」の並列、
- 推古朝当初から日本語化の進んだ文章は存在しない、 ことなど推古朝の成立とは認めがたい多くの問題があるとされている(瀬間正之(2014))。
書風
本銘文は7世紀後半の筆跡の刻字と推定されている。理由は(;1)初唐の頃の書風(隋唐書風)である、(;2) 金剛場陀羅尼経の書風と類似するが、本経の書写年次は大宝令以前の686年(朱鳥元年)とするのが定説である。
参考文献
- 法隆寺金堂金銅薬師如来坐像光背銘],早稲田大学学図書館
- 瀬間正之(2014)「推古朝遺文の再検討」『聖徳太子の真実』pp.75-93、平凡社
- 福山敏夫(1935)「法隆寺の金石文に関する二三の問題」『夢殿』13
- 渡辺茂(1967)「古代君主の称号に関する二三の問題」『史流』8
- 東野治之(1969)「天皇号の成立年代について」『正倉院文書と木簡の研究』橘書房
- 竹内理三編(1962)『寧楽遺文 下巻』 訂正版,東京堂出版
高仙寺誓憧和上塔碑 ― 2023年08月19日 23:16
高仙寺誓憧和上塔碑(こうせんじせいとうわじょうとうひ)は、韓国慶州市暗谷洞の高仙寺址にある石塔の碑文である。
概要
元暁(大師)の孫仲業は779年に新羅使の一員として来日した。日本の文人淡海三船は元暁の孫に会えたことを喜び、仲業を歓待した。誓憧は元暁の幼名である。三国史記巻四元暁不覇の条に「師姓小名誓憧」と書かれる。
原文
- (大意) 大歴の春 大師の孫の翰林、字は仲業■は遠い滄暝(万里の)■■日本に使いした。その国の上宰因(石上朝臣宅嗣(石上宅嗣)か)は語って・・・(以下欠)
- (原文)大歴之春 大師之孫 翰林字仲業■使滄暝■■日本彼国上宰囙■語
アクセス
- 名称:高仙寺誓憧和上塔碑
- 所在地:
- 交 通:
参考文献
- 佐伯有清訳(1988)『三国史記倭人伝 他六篇: 朝鮮正史日本伝 1』岩波書店
集安高句麗碑 ― 2023年08月19日 23:25
集安高句麗碑(しゅうあんこうくりひ)は広開土王碑と同時期とされる高句麗の石碑である。
概要
2012年年7月29日の午前、中国・集安市麻線村五組の村民の馬紹彬が麻線河に石を採集に行ったとき、右岸で古い橋の下の100mあまりの河床に文字のある大ぶりの石板をみつけた。鍬で掘ると、結局、掘れば掘るほど石は大きくなり、掘り出すと大きな石板が現れた。上面に文字が書かれている。ただの石板ではなく、文物にちがいないと感じた。ショベルカーを雇って石板を運ばせて自宅の玄玄関の隣に置いてどのように加工するか考えていた時に、石板の上に文 字のようなものを見つけた。文字を確認するため、父親の家まで拡大鏡を借り、父親の馬晋坦と数人の村民も一緒に馬紹彬の門前に石板を見に来た。細かく観察すると確かに石版の上には文字があることがわかった。さらに詳しく石版を調べてみると、上部は一角が欠けた三角形のような形をしており、底部には長方形のほぞがあったため、石碑の可能性があり文物部門に報告する必要があった。馬紹彬はすぐに石碑のスケッチをして携帯電話のカメラで石碑の写真を撮った。その後、文物保護派出所に電話をかけた。(本来なら出土地に置いて連絡すべきであった) 集安市委員会は石碑の保護と研究にあてる予算を確保した。省文物鑑定委員会常務委員、通化市文物保護研究所所長の王志敏は石碑の石材、形状と碑文から、この石碑は高句麗好太王時期以前の石碑である可能性が高いと初期判定を行う。国家と省の関係部門の要求によって、集安高句麗碑保護研究指導班を設置し、著名専門学者の林澐、魏存成、張福有、耿鉄華、孫仁杰を招聘して石碑の検討を進めた。結論として、この石碑は高句麗時期の碑刻であり、年代は好太王から長寿王にかけての時期と最終確定した。 後の調査によって、石材は現地、麻線の建疆、紅星採石場で採れることがわかった。
発見場所
集安市麻線溝盆地の、世界文化遺産千秋墓から約456m、世界文化遺産西大墓から約1149m。 洞溝古墳群の中心地帯であり、1万以上の高句麗時代の墳墓がある。麻線墓区は洞溝古墳群の最も西側である。
書体
高句麗は漢字の隷書を公式書体としていた。碑文の書体は流暢にして秀麗であり、後世の人が採拓し模写するのに適した、高句麗の文字書法を研究するうえで新たな貴重な史料となった。
碑の石材
粉黄色の花崗岩で構成され、圭形である。石碑の碑体は平たい長方形を呈し、上が狭く下が広い。碑の表面は正・背両面と左右両側は加工され、平滑に整えられている。碑身は正・背両面が精緻に加工され、表面は平滑である。 正面上半部分の碑文は摩耗が深刻だが、下半部の碑文は摩耗が比較的軽微で、背面は全体的に磨滅が深刻で、人に壊された形跡がある。 碑の高さは約173cm、幅は60.6cmから66.6cmである。もとは碑座があったはずであるが、残っていない。
碑文の状態
石碑の正面陰刻碑文は漢字の隷書で、全体の配置は非常に規則的で、上から下へ、右から左へ縦書きされており、全文で計218字あるが、右上の欠損で約10字が決失し、石碑が長期間河床にあったため河の水で洗われ砂や石で磨滅していることにより、一部の文字が糢糊としているが、初期検討により特定できた文字が140字あった。石碑の表面には陰刻の碑文があり、右から左に縦書きで10行漢字の隷書が刻まれており、右の1行目から9行目まではすべて22字、最後の一行は20字で、原文は合計218字で、右上部は欠損しているため約11文字が失われている。また、長期間河の中で水や砂に削られたため、一部の文字はぼんやりしている。判読可能な文字もある。裏面には一行文字が掘られているが、ぼんやりしているため判読は難しい。
釈文
1 □□□□世必授天道自承元王始祖鄒牟王之創基也 2 □□□子河伯之孫神霊祐護蔽蔭開国辟土継胤相承 3 □□旧民各家煙戸以此河流四時祭祀然而□偹長煙 4 戸亦転売煙戸為禁旧民富庶檀転売韓穢守墓者以銘 5 守墓人標然唯国罡上太王号平安太王神武上与東西 6 甘家巡故国追述先聖功勲弥高悠烈継古人之慷慨 7 此河流丁卯歳干石自戊申定律教言発令其修復各於 8 祖先王墓立碑銘其煙戸頭廿人名以示後世自今以後 9 守墓之民不得擅自更相転売雖富足之者亦不得其買 10 売如有違令者後世□嗣□□看其碑文与其罪過
以下は、荊木美行(2015)による。 (1)1行目の□□□は「惟雄才不」と推定。 (2)2行目の□□□「天帝之」と推定。 (3) 2行目の□□は「遠近」と推定。
参考文献
- 荊木美行(2015)「吉林省集安市発見の高句麗碑について」皇學館大学紀要53, 1-32
- 孫仁傑(2014)「集安高句麗碑の発見の経緯と碑面の現状」早稲田大学総合研究機構プロジェクト研究 9,pp.131-149
中原高句麗 ― 2023年08月19日 23:27
中原高句麗碑(ちゅうげんこうくりひ,중원 고구려비)は朝鮮半島で発見された高句麗碑である。 韓国では現在、「忠州高句麗碑」と呼ぶ。
概要
1978年に大韓民国忠清北道中原郡(現在の忠州市。1995年改称)中央塔面龍田里で発見された碑石 忠州高句麗雨は1979年2月末、、檀国大学博物館学術調査団によって発見された。 発見された当時の行政区域は中原郡でああったため中原高句麗費と命名された。その後、中原郡が忠州市に統合されたため、韓国では現在、忠州高麗雨費と呼ぶ。 当時は文字のない「白碑」と考えられていた。ところが拓本をとったところ文字があらわれ、学術研究の末に高句麗碑であることが確認された。 磨耗が激しい後面及び右面は判読不能である。 前面計391字分のうち,約244字が判読されている。右側面は7字分が判読されている。 2000年の精密調査により裏面で一部の文字の痕跡を確認した。四面碑であったとされている。広開土王碑は純中国式漢文で書かれているのに対し、中原高句麗碑は征服地の新羅の民に読ませるため、新羅語の制約を受けた表記法になっている。
大意
高句麗と新羅との関係を兄弟になぞらえながら、高句麗を「大王」として新羅王を「東夷之寐錦」と位置づけている。 高句麗が寐錦以下の官に衣服を下賜したこと、すなわち王以下が高句麗の衣服を受け入れ、新羅を東夷と呼ぶ、高句麗が新羅の領土内に軍事責任者である幢主を置いたこと、新羅領内で300人を徴発し高句麗軍官の指揮下に置いたことなど、新羅が高句麗に従属したこと、などが記され、朝鮮半島内に勢力を拡大した長寿王の時代に高句麗が新羅を従属させていたことを示す資料である。
立碑目的
高句麗は続々と新羅の領土を侵略していた時代のため、高句麗にはこのような権威があるということを新羅の人達に読ませたいという目的で書かれたと言われる。
素材
花コウ岩を使った四角石柱形である。 高さ2.03m、幅は55cm、厚さは33cmである。
発見場所
大韓民国忠清北道中央塔面龍田里
書体
釈文
展示
- 名称:中州高句麗碑展示館
- 目的:高句麗の威光を示すために建てられた忠州高句麗碑(国宝第205号)を保存する展示館
- 所在地:忠清北道忠州市中央塔面龍田里280-17
- 休館日:月曜日、旧正月、秋夕
指定
- 1981年3月18日、大韓民国国宝第205号に指定された
参考文献
- 中原高句麗碑拓本,九州国立博物館
最近のコメント