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薬師恵日2023年08月22日 00:15

薬師恵日(くすしのえにち)は飛鳥時代の官人で医師である。「医恵日」とも書く。大唐学問生。遣唐副使。大仁位(正五位相当)。

概要

百済から雄略朝に渡来した才伎徳来(とこらい)の五世孫で薬師。薬師は医術で大王に奉仕するので、姓となった。 『続日本紀』の記載では天平宝字2年4月条の難波薬師奈良の奏上に、彼らの遠祖徳来は高句麗人で雄略朝に渡来し、徳来の五世の孫が恵日という。唐に派遣され、医術を学んだため、薬師を名乗り、姓としたという。 623年(推古31年)7月、唐に派遣された学問僧の惠斎・惠光・及医恵日・福因らが智洗爾に従って帰国した。このとき惠日らは口々に、唐にいる留学生はみな学業を達成しているので、召喚してもよいでしょう。唐は法典や儀式の完備した素晴らしい国です。常に学生を派遣するのがよいでしょう、と述べた。その後も、唐に派遣されたようで、630年(舒明2年)八月には大仁位(正五位相当)として犬上御田鍬とともに、遣唐使の副使として唐に派遣された。舒明2年,唐に渡ったときの冠位は大仁(正五位相当)であるが、655年(斉明1年)に帰国したときは大山下(従六位相当)であるため、何かの理由で降格されたとも考えられる。 654年(白雉5年)には押使の大錦上の高向玄理、副使として大山下の藥師惠日、判官の大乙上の書直麻呂・宮首阿彌陀を大唐に派遣したという。合計少なくとも3回、唐に派遣されたことになる。

史料1 『続日本紀』巻廿 天平宝字二(七五八)年四月己巳条

  • 奈良等遠祖徳来。本高麗人。帰百済国。昔泊瀬朝倉朝廷詔百済国。訪求才人。爰以徳来貢進聖朝。徳来五世孫恵日。小治田朝廷御世。被遣大唐。学得医術。因号薬師。遂以為姓。

史料2 『日本書紀』 巻第二十二 推古31年7月条に登場する。

  • (原文) 是時、大唐學問者僧惠齋・惠光・及醫惠日・福因等並從智洗爾等來之。於是、惠日等共奏聞曰「留于唐國學者皆學以成業、應喚。且其大唐國者法式備定之珍國也、常須達。

史料3 『日本書紀』 卷第廿三舒明二年八月条

  • (原文)秋八月癸巳朔丁酉、以大仁犬上君三田耜・大仁藥師惠日、遣於大唐。

史料3 『日本書紀』巻第廿五 五年春正月 孝德五年春正月条

  • (原文) 大使小錦下河邊臣麻呂・副使大山下藥師惠日・判官大乙上書直麻呂・宮首阿彌陀

参考文献

  1. 坂本太郎, 井上光貞,家永三郎,大野晋 (1994)『日本書紀』岩波書店
  2. 青木和夫, 笹山晴生, 稲岡耕二,白藤礼幸(1992)『続日本紀』岩波書店

豊田狐塚古墳2023年08月22日 18:12

豊田狐塚古墳(とよだきつねづかこふん)は奈良県天理市に所在する古墳時代後期の古墳である。

概要

天理市豊田町の集落北側の丘陵地で布留川が形成した扇状地・段丘を見下ろす高台にある。明治8年の文書で江戸時代末期に盗掘され、勾玉や刀が出土したとされている。 2015年4月9日、2016年4月9日、2017年4月日に現地説明会が行われた。三葉文楕円形杏葉は国内で 25 例程度が知られている。旋回式獣像鏡は全国で 120 面程度が知られている倭製鏡である。

調査

2015年(都市計画道路事業に伴う調査)実施。現在は埋め戻されている。

規模

墳形は未確定であるが、直径20m程度の円墳とみられている。

遺構

両袖式横穴式石室で天井石と側壁の一部は失われている。玄室長4.4m、幅2.2m、玄門幅0.8m。石室は、奥行き約4.4m、幅約2.2m、高さ約2.2m。3基の木棺が安置されていたと推定されている。羨道は玄門の幅約 0.8 mで、調査区内では長さ約1mを確認した。壁面に 30 ~ 100cm 程度の大きさの石材を7段程度積んでいる。床面に直径5~ 10cm 程度の床石を敷き詰める。玄門付近の須恵器は奥壁付近の須恵器よりやや新しい時期のものがみられることから、追葬がおこなわれた可能性が考えられている。

出土

棺ごとに異なる種類の玉が副葬されている。

  • 旋回式獣像鏡 1面(直径9センチ)、
    • 旋回式獣像鏡は全国で 120 面程度が知られている倭製鏡。
  • 馬具 (辻金具 5、雲珠1、金銅装三葉文楕円形杏葉1、環状鏡板付轡2)
  • 武器器(鉄刀・鉄鏃など)
  • 水晶製切子玉
  • 土製丸玉 100以上
  • 琥珀製平玉
  • ガラス製小玉
  • 銀製空玉
  • 須恵器 - 50点以上(有蓋台付長頸壺・高杯・ハソウ・杯身・杯蓋・無蓋高杯など)
  • 土師器(直口壺など)

築造時期

6世紀中葉~後葉と考えられている。

出土品

被葬者

実際の被葬者は明確ではない。布留遺跡に関わる有力な首長墓。布留遺跡は、飛鳥時代、蘇我氏のライバルだった物部氏の本拠地の一つと想定されており、物部氏の首長層に次ぐ有力者の可能性がある。立地条件や石室規模から見て布留遺跡に関わる有力な首長墓とみられる。

アクセス等

  • 名称:豊田狐塚古墳
  • 所在地:〒632-0012 奈良県天理市豊田町815
  • 交通: JR・近鉄天理駅より 徒歩約30分

参考文献

  1. 肥後和男・竹石健二(1973)「日本古墳100選」秋田書店
  2. 大塚初重(1996)『古墳辞典』東京堂出版

多治比三宅麻呂2023年08月22日 18:14

多治比三宅麻呂(たじひ の みやけまろ、生没年不明)は飛鳥時代から奈良時代にかけての貴族である。最高位は正四位上・左大弁である。

概要

父は多治比古王(丹比麻呂)、母は大伴比羅夫娘とされる。 初出は『続日本紀』703年(大宝3年)、大宝令を全国に普及させる過程で「政績を巡省して冤枉を申理する」ため、東山道に派遣された。各道毎に録事一人をつけ、国司、郡司の治績を巡視して、寃罪を申告させ、不正をたださせた。七道に一人ずつ派遣された。「東山道」の「各国司・郡司」などの「治績」の記録と判定を任されるという栄誉ある仕事についた。その働きが評価され、704年(慶雲元年)従六位上から三階昇進して従五位下に叙爵され、貴族となる。七道に派遣された中では最も早い昇進である。707年(慶雲4年)文武天皇の崩御に際して、正四位下犬上王、従五位上采女朝臣枚夫らと御装束司を務めた。元明朝では、秩父より和銅献上されたことから、「和銅」と改元される。催鋳銭司・造雑物法用司が初めて設置され、その長官となる。 711年(和銅4年)正五位上。715年5月、和銅8年(715年)従四位上・左大弁に叙任され、政治の中枢に位置する。717年(養老元年)この年、石上朝臣麻呂の薨去に際し、式部卿正三位長屋王とともに弔賻(ちょうぶ)となり、天皇の名代として弔問に立ち、多胡碑に名前が登場する。718年(養老2年)、大納言に長屋王と阿倍宿奈麻呂、中納言に多治比池守と巨勢祖父・大伴旅人が任じられ、そして房前が朝政に参画した。 719年(養老3年)従四位下と弁官を務めながら順調に昇進し、9月8日に河内国摂官となる。722年(養老6年)1月20日、謀反を誣告したとされて、流罪により官位剥奪され、斬刑を命じられるが、皇太子の首皇子(のち聖武天皇)の奏請により死一等を免ぜられ、伊豆島に流される。同日、同じころに山陽道に派遣されていた正五位上穂積朝臣老も天皇を指斥したとして、佐渡島に長された。

  • (原文)壬戌。正四位上多治比眞人三宅麻呂。坐誣告謀反。正五位上穗積朝臣老指斥乘輿。並處斬刑。而依皇太子奏。降死一等。配流三宅麻呂於伊豆嶋。老於佐渡嶋。(『続日本紀』巻九養老六年(七二二)正月壬戌二十) 一説によれば、725年(神亀2年)6月22日配所で卒去したとされる。享年73。

後日談

「穂積朝臣老」は740年「長屋王」が排除された11年後に「京」に戻る事を許され、その後「聖武天皇」の遷都の際には「留守官」として「恭仁宮」に残っているなど、一度「流罪」になった人間としては稀有な扱いとなった。このとき、三宅麻呂はすでに亡くなっていた。

評価

能力があるが、早すぎる昇進でねたまれ、排斥された可能性がある。廟堂内で元明太上天皇の望んだ執政体制への不満との見方もある。さらに721年(養老5年)従四位上による参議になっていたとすれば、長屋王に反発していた新任参議の三宅麻呂を除いて、代わりに阿倍広庭(一説では長屋王の舅)を議政官に加えることにより太政官運営の円滑化を図ろうとしたとの説がある。そうであるなら、長屋王の陰謀にかかったといえる。 別説もある。元正天皇は元明天皇の娘であり、背後で政権を握るのは藤原房前であった。藤原房前と二人の関係は703年に七道へ派遣された7名の一人である。両人の早い出世を藤原房前がねたんだとも見られる。多治比真人三宅麻呂と穂積朝臣老は有能ながら、藤原政権につぶされたのは長屋王と同じであった。穂積朝臣老が京に戻ったことを考えると、長屋王主犯説が有力であるかもしれない。

参考文献

  1. 太田亮(1942)『姓氏家系大辞典』磯部甲陽堂
  2. 宝賀寿男(1986)『古代氏族系譜集成』古代氏族研究会

檜皮葺2023年08月22日 18:34

檜皮葺(ひわだぶき)は桧の樹皮を屋根を葺く工法である。

概要

飛鳥時代に広まり、奈良時代で上級建築に用いられ、平安時代には最も格式の高い屋根工法となり、神社建築に使われた。

採取法

概ね30年から40年程度で檜皮葺の損傷が大きくなるので、その都度、「屋根葺替修理」を行う必要がある。材料は樹齢70~80年以上の桧の立木から採取する。立木から最初に剥がされた皮は荒皮と呼ばれ、檜皮として品質が悪く収量も少ない。一度皮を剥ぎ、8~10年くらいたつと、新しい表皮が形成され、2度目の剥皮ができる。この皮を黒皮と呼び品質も良く収量も多い。以後8~10年毎に採取ができる。樹皮を剥ぎ取る際に、甘皮、絹皮を残すことにより、樹木に影響させず次回以降の材料を入手できる。檜皮の採取は、原木が傷まないよう秋から冬場、木の中の水分の動きが少ない時期に行われる。木の根元部分からへらを差し込み、右手にへら左手に皮を持ち、下から上へ引き剥がしながら巾25㎝程度ごとに皮を剥ぎ取る。

メリット

屋根の優美な曲線、軒の重厚感を出すことができるため、神社仏閣に多く用いられる。 葺屋根に用いられる檜の皮は、立木のまま木を傷めずに採集できるので、数十年後にま た皮を採集することができる。

施工法

屋根の垂木の上に直交する方向で一定間隔で桟を打ち、その桟に釘や縄を用いて檜皮を止める。奈良時代は、檜皮葺の建物は掘立柱だったが、瓦葺の建物は礎石を用いる。これは瓦の重さによるものである。 茅や藁に比べると高価であるため、民家にはほとんど使われない。

事例

  • 京都御所の紫宸殿
  • 住吉神社本殿
  • 室生寺五重塔
  • 出雲大社本殿
  • 吉備津神社本殿及び拝殿
  • 金峯山寺本堂

円形周溝墓2023年08月22日 19:04

円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)は円形の墳墓の周囲に溝を掘った墳墓である。 円形の墳墓の周囲に浅い溝を巡らす墳墓である。

概要

弥生時代に朝鮮半島から伝わり、弥生時代から古墳時代に作られた。盛り土による高い墳丘は持たない。周囲の周溝の幅は1m前後で深さは50cm前後である。円形の径は5mから6m前後である。周溝内から土器が出土する。副葬品は古墳に比べると質と量で劣る。

瀬田遺跡

2016年春、奈良県橿原市の瀬田遺跡で、弥生時代の終わり頃に造られた「円形周溝墓」が見つかった。円形の墳丘の南側に台形の陸橋がとりついており、古墳時代の「前方後円墳」によく似ている。全長はおよそ26メートル、墳丘の直径は約19メートル。

起源

円形周溝墓の棺は1つであるが、方形周溝墓の棺は複数あるものがある。日本では岡山県、香川県など瀬戸内海地域で出現するが、限られた地域で出現する。近畿地方では円形周溝墓は方形周溝墓より少ない弥生時代後期には円形周溝墓は大型化する。

事例

  • 円形周溝墓 - 昼間遺跡、徳島県。円形周溝墓の中央に遺体を安置するために結晶片岩と砂岩を用いた石囲いの主体部が確認されている。
  • 円形周溝墓2基 – 平原遺跡、福岡県糸島市
  • 大型円形周溝墓 - 瀬田遺跡、奈良県橿原市、国内最大級。
  • 円形周溝墓- 新町野遺跡、青森県青森市、遺構の外郭を円形状に掘り、溝から出た土を溝の内側に古墳状に盛り上げる。

参考文献

  1. 大塚初重(1996)『古墳事典』東京堂出版