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スダレ遺跡2023年08月29日 18:30

スダレ遺跡(すだれいせき, Sudare Site)は福岡県飯塚市にある弥生時代の遺跡である。

概要

1975年に、採土工事中に甕棺と人骨が発見されたため、1975年8月から10月まで穂波町教育委員会による発掘調査が行われた。調査の結果、土坑墓17基・木棺墓32基・土坑墓か木棺墓か不明なもの6基・甕棺15基の合計70基が検出された。報告書は、1976年に穂波町教育委員会より穂波町文化財調査報告書第1集『スダレ遺跡』として出版された。弥生時代前期の集落に住居と貯蔵穴が作られ、中期初頭から中頃にかけて墓地に土壙墓、木棺墓、甕棺墓が作られた。

人骨

弥生時代の戦乱をうかがわせる遺跡である。 人骨は、以下の2体が報告されており、時期はいずれも弥生時代中期中頃と推定されている。

  • スダレK-1人骨:熟年初期の男性。身長158.4cm。
    • 1号甕棺墓内K-1からゴホウラ製貝輪が4個出土した。
  • スダレK-3人骨:熟年初期の男性。身長162.1cm。
    • 遺跡の甕棺墓の一つに残る人骨K-3の脊椎に磨製石剣が刺さっていた。第二胸椎の右側に3.5cmの剣先が食い込んでいた。 弥生時代前期末から弥生時代中期後半にかけ、北九州及びその周辺地域では、銅剣銅戈石剣石戈等の遺物が多く出土する。これらの遺物は、弥生時代中期以後には、鉄器が普及したため出土しなくなる。鉄器は前記の遺物に比べると折れにくく、また弓矢が多く使用され始めた事と符号する。 先頭による殺傷痕のある人骨の数は200体以上ある。縄文時代では殺傷痕のある人骨の数10体程度しかない。

死亡者像

報告者の永井昌文によれば、身長約162cmの成人男性で、敵が振りかざした背後から磨製石剣で背中を突きさされ、県が折れて体内に残った。その後2ヵ月ほど生きていたが、傷から化膿し、激しい痛みを伴い死亡した。甕棺のなかから石剣や青銅製の武器の先だけが出土する場合は、遺体と骨が溶けて、 武器の先だけが残ったという可能性がある。 K-3号人骨の頭蓋骨は、渡来系の弥生時代人骨に典型な形質があり、頭の高さは高く、上顔高、眼窩が高いという特徴を持つ。身長が高いことは渡来系の特徴である。

規模

  • 南北:
  • 東西:
  • 面積

指定

所在地

龍王山から東側に派生した彼岸原台地と呼ばれる標高約50mの丘陵頂部に立地する。

  • 所在地:福岡県嘉穂郡穂波町椿(現・福岡県飯塚市)
  • 交通:

飯塚市歴史資料館

  • 休館日:毎週水曜日(祝日除く)、年末・年始(12月29日~翌年1月3日)
  • 開館時間:9:30~17:00 (入館16:30まで)
  • 入館料:一般(団体):230円(160円)、高校生(団体):110円(70円)
  • 所在地:福岡県飯塚市柏の森959-1
  • 交通:JR新飯塚駅東口から徒歩5分

参考文献

  1. 設楽博己(2013)『遺跡から調べよう』童心社
  2. 永井昌文(1976)「Ⅲ.磨製石剣嵌入人骨について」『スダレ遺跡』、穂波町教育委員会、pp.40-45
  3. 穂波町教育委員会編(1976)『スダレ遺跡』福岡県嘉穂郡穂波町文化財調査報告第1集

石剣2023年08月29日 19:29

石剣/大阪市弥生文化博物館

石剣(;せっけん)は縄文時代後期から晩期に出現した石製の石器である。弥生時代の石剣とは異なる。

概要

縄文時代

端部に向かってすぼまる棒状の形態である。両端は尖らず、まるいふくらみのある小さな端面を形成する。両側縁に鋭角の稜をもち、断面レンズ形を呈するもので、断面楔形を呈するものを「石刀」という。日常の生産活動などに使われたものではなく、祭祀等の道具として使用されたと考えられる。

弥生時代

朝鮮半島より移入された磨製石剣と、日本列島(特に瀬戸内海地方・近畿地方)で成立した打製石剣とがある。対人用鏃として同時に伝来した磨製石鏃とセットであり、日本列島での戦争の開始頃に初めて使用された。金属製の短剣を模したもので、磨製石剣には剣のみを模したもの(組合式)と剣と柄の双方を合わせて模したもの(一体式)がある。 石剣は、鉄・銅の剣に比べると、武器としての実用性は薄いが、遺体に刺さっていたと考えられる剣先が墓から見つかる例があるため、戦争に使われていたことは確実である。他に刃がない石剣もあるため、祭祀に使われていたものもある。

出土例

  • 石剣 - 真福寺貝塚 繩文時代後期から晩期
  • 磨製石剣 赤柴遺跡、縄文時代早期後葉、福岡県嘉麻市鴨生字別田出土
  • 磨製石剣 頭高山遺跡、弥生時代中期
  • 磨製石剣 感田上原遺跡、弥生時代 中期、福岡県直方市

参考文献

造り出し2023年08月29日 20:12

造り出し(つくりだし)は古墳に直接取り付けられる、半円または方形の壇状の施設である。 「造出し」、「造出」とも表記される。

概要

くびれ部付近の片側あるいは両側に設けられる舞台のような施設である。造出しは古墳時代 中期の古墳に多くみられる。すべての古墳にあるわけではない。

性格

造り出しの性格については埋葬主体説、祭壇説などがある。後者の死者を葬る際に儀式をおこなった場所と考えるのが有力とされる。名古屋市断夫山古墳の西側にある造出から多数の須恵器が発見された事実から、これを一種の祭壇とみる説が提示されている(大場磐雄(1930))。古墳時代後期に属する奈良県二塚古墳では、造り出し部に横穴式石室が設けられおり、土器類の副葬が行われていることから、単なる祭壇からやや性格を変えてきている可能性がある。

出土例

  • 造り出し 恵解山古墳、京都府長岡京市
  • 造り出し 赤土山古墳、奈良県天理市、前方後円墳

参考文献

  1. 塩谷修(2014)『前方後円墳の築造と儀礼』同成社
  2. 大場磐雄(1930)「断夫山古墳の造出に就いて」考古学雑誌20-1 0-1

伊都国2023年08月29日 22:23

伊都国(いとこく)は、『魏志倭人伝』に記載された弥生時代の倭国の国のひとつである。

概要

『魏志倭人伝』に「東南に陸行すること五百里にして伊都国に到る。官を爾支(ニキ)といい、副は泄謨觚(シマコ、セボコ)、柄渠觚(ヘキコ)という。千余戸有り。世、王有りて、皆、女王国に統属す。郡使往来し常に駐する所なり。」と書かれる。すなわち『魏志倭人伝』によると伊都国は末盧国から陸を東南に500里進んだ場所にあるとされる。

末廬国と伊都国の距離

末廬国から伊都国に至る経路は、海岸沿いは岬の断崖があり荒波のため当時は通行できなかったとみられている。そこで陸路なら山道を通ることになる。経路には鏡山(かがみやま,284n)、夕日山(ゆうひやま、272m)がある。山道を歩く場合は高低差があるため、平地より通行距離は伸びる。末廬国から伊都国まで漢代の1里を400 mとすると、500里は200kmである。実際と合わないことは歴然である。末廬国から伊都国まで平地の経路距離なら、測定すると30.6kmである。山道を考慮しても45km程度であるから、距離は1桁異なる。魏志倭人伝に記載された距離はあまり信用できないことになる。

伊都国の位置づけ

伊都国については『魏志倭人伝』において、111文字を割いており、その重要性が指摘されている。伊都国には一大率があり、諸国を監督する役割をもっている。戸数は千余戸と記されるが、『魏略』には万余戸とあるので、これが正しいとみられる。万余戸に比較して戸数が少なすぎるからである。なお一大率の発掘は今後の課題である。

比定場所と方位

糸島平野に伊都国があったとされるのが通説とされる。伊都国は福岡県糸島市の三雲・井原遺跡に弥生時代の拠点集落があったとみられる。前漢の鏡を52枚と多量に出土しているからである。さらに弥生時代後半に平原遺跡には王墓があったと見られている。長い時間の間に三雲・井原遺跡から平原遺跡に王の所在地が移動したと考えられる。 、三雲・井原遺跡は伊都国の王墓であったとされる。弥生時代の拠点集落である。なお平原遺跡も王墓とされる。 これらの比定が正しければ、末盧國から伊都国には現在の地理で東または東北方向に向かうことになる。つまり魏志倭人伝は方角を間違えていることになる。鳥越氏は「当時の漢族は地理感を間違えていた。つまり日本列島が中国大陸の東方海上で南北に連なってみていたことになる」(鳥越憲三郎(2020))と書かれる。

  • (原文1)東南陸行五百里到伊都國 官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚 有千餘戸 丗有王 皆統屬女王國 郡使往来常所駐
  • (原文2)自女王國以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史  王遣使詣京都 帶方郡 諸韓國 及郡使倭國 皆臨津捜露 傳送文書 賜遣之物詣女王 不得差錯   下戸與大人相逢道路 逡巡入草 傳辭說事 或蹲或跪 兩手據地 爲之恭敬 對應聲曰噫 比如然諾 

参考文献

  1. 鳥越憲三郎(2020)『倭人倭国伝全釈』KADOKAWA
  2. 石原道博編訳(1951)『新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝』岩波書店
  3. 西谷正(2009)『魏志倭人伝の考古学』学生社