福岡市博物館 ― 2023年08月03日 00:03
福岡市博物館(ふくおかしはくぶつかん, Fukuoka City Museum)は福岡県福岡市にある市立博物館である。
概要
1990年10月18日に地域の歴史と民俗を研究・展示する博物館として正式に開館した、
展示
- 常設展示 常設展示は、アジア諸地域との人・もの・文化の交流がもたらした特色ある歴史と、その歴史が育んだ人びとのくらしを、11のコーナーを通して紹介する、
- 金印の世界
- 福岡のあけぼの
- 奴国の時代
- 鴻臚館の時代
- 博多綱首の時代
- 博多豪商の時代
- 福岡藩の時代
- 近代都市・福岡の時代
- 現代の福岡
- 福博人生
- 山笠の世界
国宝
- 金印 印文「漢委奴国王」 筑前国那珂郡志賀島村(現福岡県福岡市東区志賀島)出土
- 太刀 無銘一文字(名物日光一文字)附:葡萄蒔絵刀箱
- 刀 金象嵌銘長谷部国重本阿花押 黒田筑前守(名物へし切長谷部)附:打刀拵
アクセス等
- 名称
- 所在地:〒814-0001 福岡市早良区百道浜3丁目1-1
- 休館日:毎週月曜日 (月曜が祝休日にあたる場合は翌平日)
- 開館時間:9:30~17:30(入館は17:30まで)
- 入館料:一般200円、高校生・大学生150円
- 交通:博多駅から西鉄バス約25分 博多バスターミナル1階5番 能古渡船場行、 博物館北口下車
参考文献
古墳時代 ― 2023年08月03日 00:15
古墳時代(こふんじだい,Tumulus period/Kofun period)は考古学上の時代区分のひとつである。弥生時代に続き、前方後円墳などの大型の古墳が作られるようになり、作られなくなるまでの時代をいう。
概要
おおむね、3世紀中頃から鉄器が普及し農耕生産の向上に伴って社会的身分が拡大し、武力で人々を支配するようになる。古墳に葬られた人物は、古墳時代の指導者とその一族である。王(きみ)や「大王」(おおきみ)などと呼称された人物がいたことは確かである。弥生社会から古墳時代の社会に代わるために威信財や祭祀が重要な役割を果たしていた。分布の中心が西から東に移ったのは威信財としての鏡であった。紀元前1世紀の初めの頃の前漢の鏡は、九州北部で非常に高い頻度で見つかる。近畿で出土する割合は、漢鏡6期、7期と後の年代になるほど高まり、近畿地方から検出される鏡の量は、他の地方のそれを圧倒するようになる。
古墳時代の開始時期
古墳時代とは古墳が盛んに造られた時代であるが、その古墳とは前方後円墳などの大型の古墳を指している。つまりいわゆる「大王墓」が作られ始めた時代である。 概ね西暦250年前後を古墳時代に始まりとみる研究者は多数派とみられる。西暦250年頃に何があったかといえば、箸墓古墳の出現である。 福永伸哉は「(箸墓古墳の)築造時期は・・・250年代頃とみるのが妥当であり、国立歴史民俗博物館の240-260年という導出とも整合的である」としている(参考文献1)。
参考文献
環濠集落 ― 2023年08月03日 00:19
環濠集落(かんごうしゅうらく, Moated Settlement)は外敵の侵入を防ぐために周囲を柵で囲み、壕を巡らせた集落である。
概要
弥生時代になると人々の生活が安定したが、収穫物や耕作地の水利を巡って集落同志が争うようになる。争いから集落を守るため周囲に深い濠を巡らす「環濠集落」が造られるようになった。農耕が始まった8000年前の中国で環濠集落がみつかっている。 環濠集落がみられるのは、弥生時代、10世紀から11世紀の東方地方、室町から戦国時代の近畿地方(大阪府堺環濠都市、奈良県稗田環濠集落)、に限られる(参考文献1)。 環濠集落は弥生時代の標準的な集落と考えられた時期があったが、藤原哲(2011)は300遺跡を検討し、弥生時代の標準的な集落ではなく、むしろ希少な集落と結論付けた(参考文献1)。
特徴
奈良県では濠の幅は約6~8mが標準。内部に20~30戸の家屋が建ち並び、中心に寺や神社を有している。しかし田原本町の「法貴寺遺跡」では集落の一辺は約50m、濠の幅は2~3mと小規模で、これらが3~4区画集まる。濠の目的は灌漑用水を溜めることで、防御機能は時代の流れに対応して付加されたとみられる。
吉野ヶ里遺跡
吉野ヶ里集落の、東の正門は外壕を埋め立てて土橋を造り、その内側に大きな門を備えていたようである。外壕に7カ所、南北内郭に3ヶ所の入口が確認されている。入口には兵士が厳重な警備をしていたと思われる。外壕で囲まれた範囲は南北1km以上、東西は最大で0.5km以上、面積は約40haである。外壕断面の形態は南西部低地で逆台形となっている以外はV字形である。発掘時の規模は幅2.5~3.0m、深さ2mが一般的で、最大の部分は幅6.5m、深さ3mである。
環濠集落の事例
- 竹内環濠集落 – 奈良県
- 萱生環濠集落 – 奈良県
- 稗田環濠集落 - 奈良県
参考文献
- 藤原哲(2011)「弥生社会における環濠集落の成立と展開」総研大文化科学研究7号, pp.59-81
倭国乱 ― 2023年08月03日 00:22
倭国乱(わこくらん, Civil War of Wa)は弥生時代におきたとされる倭国の内戦である。
概要
中国史書「魏志倭人伝」には次のように書かれている。
- 其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂相攻伐歴年
- (大意)その国に男王がいたが、70年から80年後に国は乱れ、 攻撃しあい歳月を経た。
歴年とは中国では7-8年の長さであるという説がある。数年間戦乱が続いたという意味と考える。この記述だけでは、どこでいつどの程度の広がりの戦乱があったかは分からない。 そこで、考古学の証拠の助けを借りることになる。
戦乱の規模
春成秀爾によると「畿内では墓から石鏃や剣が刺さった例が出るが、すべて畿内の武器が畿内の人間に刺さっている」「九州地方で同じように鉄の矢じりや銅剣の先、あるいは銅鏃が刺さった例があるが、これも九州の武器が九州の人間に刺さっている」(参考文献1,p.54)。ゆえに弥生の戦乱は局地戦であって九州あるいは畿内の集団間の闘争と評価できるという。大規模な九州対畿内の戦いの証拠はないとする。この時代ではまだ全国的な戦さをする動員力は政権になかったと解釈されている。
魏志倭人伝に卑弥呼が共立されたという記事があるが、これは各地地域の話し合いにより、首長に選出されたという意味に解釈したい。弥生時代の倭の国はそれぞれ村という規模である。
戦乱の時期
石部正志は「弥生時代の終わりにいくつかの原始共同体を統合した首長が特定の役割を果たし、階級社会が始まり、副葬品をもつ墓が登場する」としている(参考文献1,p.49)。 弥生時代の終わりころは高地性集落が近畿地方に集約されるようになる(参考文献1,p.76)。大型古墳が登場するための前提としての争乱が近畿地方であったことが想定できる。 争乱は3回あったと考える。
- 弥生時代中期の争乱 - 高地性集落に関わる争乱。中国文献には書かれない。
- 2世紀の終わりの争乱 - 180年前後。
- 卑弥呼死後の争乱 ?男王の擁立後の争乱で 1000人が殺戮され、宗女が擁立される。
二世紀後半の争乱
「桓霊の間の争乱」である。『魏志』『後漢書』に記される。石野博信は争乱に関わったのは、近畿弥生社会と考える(参考文献1,p.134)。一方、都出比呂志は近畿弥生社会と九州弥生社会との間の争乱と考える。「後期の段階において近畿地方だけでなく、瀬戸内海の西の端までを包み込むような一つの戦闘状態、緊張関係があったと考える」(参考文献1,p.90-91)
参考文献
- 石野博信編(2015)『倭国乱とは何か』新泉社
世田谷区立郷土資料館 ― 2023年08月03日 17:02
世田谷区立郷土資料館(せたがやくりつきょうどしりょうかん)は東京都世田谷区にある歴史系の区立博物館である。
概要
1964年(昭和39年)9月10日に東京都内で最初に開館した公立博物館である。敷地内に歴史的建造物の世田谷代官屋敷がある。世田谷区内の歴史、民俗、考古資料の収集、保存、展示、研究などを行い、常設展示のほか、特定のテーマの特別展示も行う。 令和4年4月から施設改修工事のために休館し、令和5年8月1日から約1年4ヶ月ぶりに再開した。世田谷の原始から近現代に至る歴史を分かりやすい解説文で紹介する。
特別展(2023年)
特別展「重要文化財保存処理完了記念 野毛大塚古墳展」を令和5年8月1日から令和5年10月22日(日曜日)まで開催する。
展示品(前期のみ):8月1日(火)~9月10日(日)
- 円筒埴輪
- 朝顔形埴輪
- 柵形埴輪
- 鉄刀
- 鉄剣
- 鉄槍
- 鉄鉾
- 斧形鉄器
- 刀子
- 鉄鎌
展示品(後期のみ)9月12日(火)~10月22日(日)
展示品(通期のみ)
- 衝角付冑
- 錣板
- 鉄鏃
- 鉄刀
- 鉄槍
- 内行花文鏡 1
- 銅釧
- 勾玉(ガラス製)
- 丸玉(瑪瑙)
- 管玉(緑色凝灰岩製) 22点
- 管玉(ガラス製)
- 臼玉(滑石製) 2連
- 石製模造品(勾玉・刀子・斧・手斧・鎌)
- 石製模造品(斧・手斧・鎌)
- 円筒埴輪片 3点
- 家形埴輪片 2点
常設展示
世田谷代官屋敷
- 江戸時代中期以来、彦根藩世田谷領20ヶ村(2306石)の代官を世襲した大場家の役宅が、世田谷代官屋敷である。大名領の代官屋敷として現存する都内唯一の遺構で、東京都の史跡となる。主屋と表門の2棟は、国の重要文化財に指定されている。
- 寄棟造り、茅葺き(かやぶき)、北面が玄関で、桁行は57.2尺(けたゆき=横幅17.33m)、面積57.84坪(191.2平米)。
- 昭和53年、近世中期の代表的上層民家として貴重な建造物であるとの理由で、住宅建造物としては都内で初めて国の重要文化財に指定されている。敷地内には被疑者を取り調べた白州跡、弓道場などがある。
アクセス等
- 名称:世田谷区立郷土資料館
- 所在地:東京都世田谷区世田谷1-29-18
- 休館日:毎週月曜日 (月曜が祝休日にあたる場合は翌平日)
- 開館時間:開館:9:00~17:00 (入館は16:30まで)
- 入館料:無料
- 交通:東急電鉄上町駅から徒歩5分
参考文献
掘立柱建物 ― 2023年08月03日 18:11
掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)は地面に穴を堀り、礎石を置かずず、そこに柱を立て、天井と壁を取り付けた建物である。
概要
床面が地面にあるものは平屋建物、地面よりかなり高い位置にあるものが高床建物である。 弥生時代では、倉庫として使われた場合が多いと思われる。柱を立てていた穴(柱穴)が発掘調査で見つかるが、穴に埋まっていた土を観察すると、柱の痕跡が分かる場合がある。 遺構として検出される掘立柱建物跡は、通常、柱穴(ピット)の規則的な配列により認識される。
出現時期
掘立柱建物は縄文時代前期に出現した。青森県青森市の三内丸山遺跡や秋田県大館市の池内遺跡など拠点集落の中心的な建物に用いられた。弥生時代でも一般集落の住居は竪穴式建物である。佐賀県神埼郡の吉野ヶ里遺跡の掘立柱建物跡は立地から考慮して物見櫓であると確実視されている。飛鳥時代以降においても、宮殿・官衙・都城建築として掘立柱建物が使用された。平城京跡では、宮城の門、大極殿、朝堂院、役所、寺院などが瓦葺の礎石建物であった。一方、貴族の邸宅は掘立柱建物であった。
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