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隠岡遺跡2023年12月15日 23:13

隠岡遺跡(かくれがおかいせき)は、三重県伊勢市倭町にある、弥生時代後期および平安時代の神官居宅跡の複合遺跡である。

概要

三重県伊勢市内で初めて見つかった3世紀末の集落跡である。伊勢神宮との直接の関係はない。近鉄宇治山田駅から東に約600メートル、標高約20メートルの小高い所に位置する。 北側に勢田川流域の平地がある。発見により、伊勢神宮付近の「5世紀頃まで伊勢周辺は原野であった人は住んでいなかった」との学説は否定された。伊勢神宮より古い弥生時代の遺跡であるから、伊勢神宮が3世紀に遡るという証拠にはならない。 現在は、市営住宅の一角が隠岡遺跡公園として整備され、発掘調査で見つかった竪穴住居跡を元にした建物等が復元されている。

調査

1984年に発掘調査される。市営住宅建設に伴う事前調査として約2300平方メートルが発掘された。遺物は壷・甕・高杯などの土器や斧などの石器が出土した。このことから、眼下に勢田川の沖積地を見下ろす台地上に古代のむらが形成されていた。

弥生時代の遺構

弥生時代後期の竪穴住居22棟、主幹排水路が宮川右岸の神宮周辺地で初検出された貴重な遺構である。弥生時代でも2時期に区分される竪穴住居である。主幹排水路も検出された。

遺物

遺物には壷・高杯などの土器や斧などの石器が出土した。勢田川の沖積地を見下ろす台地上に邑が形成されていたとみられる。

平安時代の遺構

一辺1mをこえる大型柱穴跡があり、建物の棟方向をほぼそろえた掘立柱建物6棟と北にほぼ柱通りをそろえた総柱建物3棟、土坑などの遺構や緑釉陶器、土師器(甕・杯・皿)、須恵器(杯・甕)、灰釉陶器、志摩式製塩土器などの遺物から、平安時代の建物群とみられる。建物の規模や特殊な土器の出土から一般集落ではなく、「豊受大神宮禰宜補任次第」にみられる「尾上長」と称した外宮禰宜、度会康平・彦晴・貞雄などの禰宜層の居宅跡とみられる。

遺構

  • 弥生時代
    • 竪穴建物22
    • 排水路

遺物

炭化大麦約1100粒を入れた12世紀末の渥美古窯製の広口壺も出土している。

  • 弥生時代
    • 弥生土器
    • 石器

指定

アクセス

遺跡は隠岡遺跡公園として整備されている。園内には再現された竪穴建物1軒と掘立柱建物2棟がある

  • 名称:隠岡遺跡
  • 所在地: 三重県伊勢市倭町字隠岡
  • 交 通:近鉄山田線・鳥羽線宇治山田駅より徒歩約15分

参考文献

  1. 大塚初重(1995)『日本古代遺跡辞典』吉川弘文館

山元遺跡2023年12月15日 23:15

山元遺跡(やまもといせき)は新潟県村上市にある弥生時代後期の環濠集落遺跡である。

概要

新潟県北部の丘陵の上に営まれた弥生時代後期(今から1,900年前)に最盛期を迎える集落跡である。高速道路の建設に先立つ調査で見つかり、重要な遺跡であることが分かったため、現状保存された。遺跡は最高所で標高約40m,周囲との比高36m前後に位置する。 遺跡面積は2万m2に及ぶ。 比高約6mの谷を隔て居住域と墓域から成る。丘陵頂部の居住域に幅2m弱,深さ1m,断面逆台形の溝がめぐり,その平坦面では掘立柱建物・竪穴建物各1基を検出した。土坑墓の近くから確認された筒形銅製品の破片は弥生時代の青銅器の最北事例である。現時点で日本海側最北の高地性環濠集落である。山元遺跡の濠は規模が小さく、所々で濠が途切れるなど防御はあまり厳重ではない。 本遺跡から出土した石器(剥片類を含む)・石製品は518点に及んだ。剥片類を除く種別では不定形石器が最も多く、石鎌がこれに次ぐ。礫石器では磨石類が最も多い。弥生時代の石器は全国的な集成が進み[国立歴史博物館1997など]、後期には石鉄が残存するものの、剥片石器が減少することから鉄器化が進んだと解釈が提示される。石器組成では、本遺跡は狩猟具・武器12.3%、調理具6.4%、加工具が80.8%となり、圧倒的に加工具が多い。

土器

出土した土器の多くは東北南部に広がる天王山系弥生土器であるため、この遺跡は東北の弥生文化圏に包含されていると理解できる。出土した天王山系弥生土器のひとつは口径25cm、高さ35cmの深鉢土器で、環濠の底付近から出土した。内面にコゲが観察できることから、調理用の土鍋として使われたと考えられる。

ガラス小玉

土壙墓の西側から完成品のガラス小玉68点がみつかった。出土場所から身に着けて埋葬された可能性が高い。直径0.3cmから0.6cm、厚さ0.2cmから0.4cm、直径0.1cmから0.2cmで、小玉の穴に紐を通して、首飾りにしたものと推測される。素材はカリガラスで、引き伸ぱし法で製作されている。丹後を中心とした日本海側のルートでもたらされた可能性が高く、西日本との交流がうかがえる。

遺構

二種類の建物が見つかった。一つは地面を掘って上屋を立てる半地下式の竪穴建物。斜面に近い場所にあり、すぐ西側には濠がめぐる。斜面側の半分は残念ながらなくなっていたが、、人が踏みしめたため硬くなった床面や火をたいた炉の跡があった。  もう一つは地面に穴を掘り柱を埋め込んだ掘立柱建物で、丘陵の西端で見つかった。 弥生中期後葉から後期後葉である。

  • 環濠
  • 縦堀2
  • 掘立柱建物1
  • 土壙墓7
  • 土坑15
  • 溝2+ピット495

遺物

  • 弥生土器(東北系+北陸北東部系+鏃縄文) 
    • 壺、
    • 甕、
    • 高坏
  • 粘土塊
  • 石器
  • 石製品(石鏃+石錐+環状石斧+磨石類+砥石)
  • ガラス小玉72(完成品68+半損品4))

アクセス等

  • 名称:山元遺跡
  • 所在地:新潟県村上市下助淵字山元
  • 交通:羽越本線村上駅から3km、徒歩41分。

参考文献

  1. 文化庁(2007)『発掘された日本列島 2007』朝日新聞
  2. 新潟県教育委員会(2009)『県内遺跡発掘調査報告書1 山元遺跡』

黒色土器2023年12月15日 23:58

黒色土器(こくしょくどき)は土師器系の土器で、器面をへらで磨き、炭素を吸着して黒変させた土器である。内黒土器ともいう。

概要

後身の瓦器とは違い、窯を用いずに焼き上げる。椀や皿などの食膳用が多いが、壺や煮炊き用の甕もある。内面のみが黒色のものと、内外面が黒色のものがある。それぞれをA・Bと呼び分ける。黒色にする面は調整の際にていねいに磨研する。 素焼きの土器は、表面に細かいすきまがあるため、水分が土器にしみこんでしまうため、水などの液体を入れておくことができない。黒色土器は、土器の内側をていねいにへらで磨き、黒い物質ですきまを埋めることで水分がしみこまないように工夫している。 須恵器も灰釉陶器も窯を使って高温で焼くため、水がしみこまない。しかし灰釉陶器は役所や寺などで使われる高級品であるため、一般庶民は使えない。須恵器の代用品として黒色土器が伝わった。

使用地域

A類は6世紀に東日本で現れ、8世紀に畿内と九州、9世紀以後はそれ以外の地域に普及した。須恵器生産が盛んであった東海地方を除外した地域、特に信州・北関東・東北地方南部に多くみられ、杯・碗・高杯、鉢などの器種がある。奈良時代末では黒色土器Aが圧倒的に多いが、平安時代に入るとBも多くなる。 畿内および西日本で須恵器が食器として普及したが、東日本の黒色土器は須恵器に代わるものとして出現して一般化した。古代から中世への土器生産の移行過程を検討する上で重要である。

出土例

  • 黒色土器 - 百々遺跡、山梨県南アルプス市、平安時代
  • 黒色土器 - 五社遺跡、富山県小矢部市、平安時代

参考文献