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鋸歯文2026年09月23日 00:05

弥生時代の鋸歯文

鋸歯文(きょしもん)は、土器・銅鐸・銅鏡・石製品・古墳の装飾などにみられる幾何学文様である。三角形を連続させるだけのもののほか、三角形の内部に平行する斜線を施すハッチングを伴うものもある。銅鐸では、鋸歯文が身・鈕・鰭などの各部に施される例がある。ハッチングの方向や鋸歯文の配置にはさまざまな形式がみられる。

日本列島では縄文時代の土器にも鋸歯状あるいは連続三角形の幾何学文様がみられるが、これらを弥生時代以降の鋸歯文と直接結び付けることには慎重な検討が必要である。弥生時代には土器や銅鐸などに鋸歯文がみられ、古墳時代には銅鏡や装飾古墳などにも用いられるようになる。

概要

弥生時代から古墳時代にかけての土器・銅鐸・銅鏡、古墳の壁画、飛鳥・奈良時代の瓦などに鋸歯文がみられる。土器・青銅器・石製品・古墳壁画など、さまざまな器物や施設に施される。銅鐸・銅鏡の文様は複雑であり、鋸歯文の三角形の中に平行線を刻む文様がある、また彩色を施した文様もある。 銅鐸の鋸歯文には、三角形の内部に平行する斜線を施したものがあり、ハッチングの方向や配置によっていくつかのタイプに分けられる。一方の列だけの場合と,向かい合う二列の鋸歯に相異なる方向のハッチングが入る複合鋸歯文がある。 日本では弥生時代中期頃の土器から鋸歯文が登場したとされる見解がある。

時代別鋸歯文

縄文時代

縄文時代前期の曽畑式土器などには、鋸歯状・三角形を連続させた幾何学文様がみられ、これを鋸歯文の早い例とみなす見解もある。熊本県宇土市の曽畑貝塚の曽畑式土器に鋸歯文が描かれた土器がみられると指摘されている。曽畑式土器は金峰町阿多貝塚,大口市日勝山遺跡,横川町星塚遺跡,頴娃町折尾遺跡にもみられる。ただ弥生時代の鋸歯文との時期的な連続性は慎重に検討する必要がある。

弥生時代

弥生時代中期以降には、鋸歯文を施した土器が各地でみられるようになる。唐古・鍵遺跡出土の土器には、鋸歯文を含む幾何学文様がみられる。西の谷遺跡(磐田市敷地、弥生時代後期)の銅鐸にも鋸歯文が現れる。銅鐸では、身の裾部や横帯、鈕、鰭などに鋸歯文が施される。鋸歯文は中国・朝鮮半島など東アジアの古代資料にもみられる。ただし、日本の弥生時代の鋸歯文が大陸の文様から直接伝来したものかどうかについては、文様の類似だけでは判断できない。

古墳時代

古墳時代では銅鏡や滑石製紡錘車、装飾古墳の壁画に鋸歯文が描かれる。黒塚古墳出土の三角縁神獣鏡の中にも、鋸歯文を施した例がある。黒塚古墳(奈良県天理市)出土の三角縁神獣鏡の「三角縁(外側の高く盛り上がった縁)」部分に鋸歯文が描かれる。富雄丸山古墳(奈良県奈良市)の鼉龍文盾形銅鏡にも鋸歯文が細かく施される。 永安寺東古墳では、石室内に赤色顔料で連続三角文・円文・船などが描かれている。連続三角文の中には鋸歯文に類似する意匠もみられる。

海外事例

中国の古代青銅器や銅鏡にも、鋸歯状・三角形を連続させた幾何学文様がみられる。1893年にベトナム・ハナム省平禄県玉楼郷で発見された石寨山型東山系の玉楼鼓に腰部上辺にハッチングが施された複合鋸歯文帯が見られた。

意味

三角形を連続させた近世の文様には「鱗文」と呼ばれるものがあり、鋸歯文と形態的な類似がみられる。後世の民俗例として、宗像地域の海女の入れ墨に三角形・鱗状の文様がみられ、魔除けとの関連で説明されることがある。しかし後世の「鱗文」と古代の「鋸歯文」を直接同一視することには注意が必要である。このような近世・近代の民俗例から弥生・古墳時代の鋸歯文の意味を直接復元することはできない。

近世の鋸歯文

近世の文様には、三角形を連続させた「鱗文」がみられ、厄除けなどの意味を付与される場合がある。歌舞伎『京鹿子娘道成寺』では鱗文は蛇体となった女の魔性を示す文様として、また死者の霊を現すものとして使われた。歌舞伎の終盤に清姫の身体を包むのは、蛇体を現す鱗文であった。能装束にも鱗文が用いられ、蛇や怨霊・般若などの異形性や激しい情念を表現する場合がある。 能『道成寺』では、白拍子が鐘の中に飛び込んだ後、鱗文を施した摺箔の衣装を現して登場し、蛇体となった女性の激しい情念を表現する。また『葵上』では、六条御息所の怨霊が般若の姿となる場面で、鱗文を施した装束が用いられる。

鱗摺箔は、無地や綾織の平絹などに型紙を用いて糊を置き、その上から金箔や銀箔を施して、三角形を連続させた鱗文を表す技法である。

古代の鋸歯文と近世の鱗文は、三角形を連続させるという形態的な類似をもつ一方、両者の歴史的な系譜や意味の連続性については別途検討する必要がある。比較すると次のようになる。

  • 表現対象
    • 古代では青銅器(銅鐸・銅鏡)、土器、埴輪、装飾古墳の壁画
    • 近世では着物(染織品)、歌舞伎・能の衣装、工芸品
  • デザイン
    • 古代では単純鋸歯文、上下交互、二段、三角形内部に細かい平行線(ハッチング)を刻むなどのパターンがみられる。三角形が赤や黒の顔料で彩色されることがある。時期・地域による差異がある。
    • 近世の鱗文では、三角形を連続させ、色や染め分けによって隣接する三角形の「地」と「図」を交互に見せる意匠もみられる。
  • 呪術性の対象
    • 古代では鋸歯文の具体的な意味・機能について確定した見解はなく、呪術的・象徴的意味を想定する説もある。
    • 近世では「生存する人間」の厄除け、魔性・怨念を可視化する。

出土例

  • 鋸歯文・斜格文(高杯脚部) 唐古鍵遺跡、弥生時代
  • 双鈕細線鋸歯文鏡 弥生時代、奈良県南葛城郡吐田郷村長柄出土、重要文化財、東京国立博物館蔵
  • 三角縁鋸歯文帯四神四獣鏡 赤塚古墳、大分県宇佐市、3世紀、京都国立博物館蔵
  • 有本銅鐸 紀ノ川の河原、弥生時代、和歌山県立紀伊風土記の丘、身の最下段に鋸歯文あり

参考文献

  1. 江上波夫(1993)『日本古代史辞典』大和書房
  2. 大塚初重(1982)『古墳辞典』東京堂

狐塚古墳(調布市)2026年09月22日 00:05

狐塚古墳 (調布市)(きつねづかこふん)は東京都調布市に所在する下布田古墳群を構成する円墳である。下布田6号墳ともいう。

概要

地元では「狐塚」と呼び、古くから古墳と認識されていた。1944年(昭和19年)頃に照空隊陣地(サーチライトで敵機を照射・捕捉し、高射砲部隊などによる対空射撃を支援する陣地)の設営のため、大半が掘り崩されていた。2000年(平成12年)の調査時点では、中央部分に80cm程の高まりを残すだけであった。東側の畑の境界に石室を壊したときの川原石が積まれていた。周溝は断面逆台形であり、上端部幅は3.7mから9.0m、深さ2.2mから2.4mを測る。 下布田古墳群は多摩川中流域左岸に5世紀前半から7世紀前半にかけて造営された古墳群である。20基の円墳が確認されている。狐塚古墳はそのほぼ中央に位置する。下布田古墳群のなかでも最も新しい時期に築造された大型円墳である。

調査

狐塚古墳の調査は2000年(平成12年)10月から2001年(平成13年)3月にかけて実施された。発掘調査の結果、墳丘径約44m、周溝外径約60.5mを測り、都内でも最大規模の終末期円墳である(調布市教育委員会(2021))。

石室

削平されていた墳丘から半地下式の横穴式石室が検出された。石室の中央部分は未調査であるため、玄室の構造や袖部は不明である。「切石併用川原石積横穴式石室」と判明した。奥壁に凝灰岩質砂岩切石、側壁には側壁は河原石を用いている。 石室はほぼ真南に開口する。石室全長(羨門部から奥壁まで)は8.7m、床面長は6.8m、幅は奥壁側で2.0m、羨道部側で1.4mで奥に向かって幅が広くなる羽子板状である。石室の高さは残存部で奥壁側1.3m、羨道部側で0.84mであるが、本来の高さは天井石が外されているため不明である(調布市教育委員会(2021))。

副葬品

羨道部の側壁寄りからは、鉄製大刀3点、鍔2点、小刀1点、刀子1点、鉄鏃1点が出土した。鉄製大刀3点のうち最長のものは全長94.5cm、刀身長79cmを測る直刀である。刀身は 鎬(しのぎ)のない平棟平作りであり、脹切先、関(まち)は背関もある両関作りである。 刀身には径約5mmの孔を穿った「刃関孔(鎺元孔)」が認められる。この種の大刀は関東地方では比較的特殊な資料であり、その形態的特徴から房総半島から供給された可能性が指摘されている。なお鎺元孔をもつ太刀は6世紀後半から7世紀にかけて上野地域と房総半島北部の古墳から出土している。 また、墓道からは須恵器の平瓶、提瓶、壺や土師器の杯などの破片が出土した。

築造年代

出土土器の年代や鉄製大刀や鉄鏃の年代が6世紀後半から7世紀前半のものである。古墳の築造時期は6世紀末から7世紀初頭(古墳時代終末期)と見られる。

評価

墳丘規模、石室の規模、副葬品の内容から多摩川流域の盟主墳と考えられる(調布市教育委員会(2021))。古墳時代前期から後期前半の南武蔵において首長墳は亀甲山古墳など多摩川下流域に築かれるが、後期後半になると中流域に移る。 調布市教育委員会(2021)によれば、狐塚古墳は首長権が移った最初期の首長墳であり、東京都内最大級の円墳として重要な古墳と位置づけられている。

遺構

  • 円墳
  • 横穴式石室

遺物

  • 鉄製大刀3点
  • 鍔2点
  • 小刀1点
  • 刀子1点
  • 鉄鏃1点
  • 須恵器・土師器

展示

  • 出土品は調布市郷土博物館が保管している。

考察

指定

  • 2014年(平成26年)3月14日 下布田6号墳(狐塚古墳)出土品を調布市指定有形文化財(考古資料)に指定
  • 2018年(平成30年)3月15日 東京都指定史跡

アクセス等 

  • 名称  :狐塚古墳(下布田6号墳)
  • 所在地 :東京都調布市布田6-53-1・2・3・4
  • 交 通 :

参考文献

  1. 調布市教育委員会(2021)「東京都指定史跡 狐塚古墳(下布田6号墳)」
  2. 調布市史編集委員会(1990)『調布市史 上』

さいたま市立博物館2026年09月21日 00:05

さいたま市立博物館/筆者撮影

さいたま市立博物館(さいたましりつはくぶつかん)は、埼玉県さいたま市に所在するさいたま市の歴史・考古・民俗に関する資料を収集・保存・展示する博物館である。

概要

常設展示では、旧石器時代から現代までのさいたま市域の歴史や文化を時代ごとに紹介する。氷川神社参道の二の鳥居付近に所在する。1975年(昭和50年)、大宮市の市制施行35周年記念事業として大宮市立郷土史料博物館の設置が計画された。1978年(昭和53年)3月に博物館建設予算が市議会で可決され、1979年(昭和54年)5月に博物館準備室が設置された。1980年(昭和55年)11月1日に大宮市立博物館として開館した。2001年(平成13年)5月1日、浦和市・大宮市・与野市の合併に伴い、さいたま市立博物館に改称した。

展示(公開の時期は限定される展示品がある)

展示スペースは地下1階の常設展示室と1階の特別展示にある。1階の特別展示室・企画展示室は春の企画展や秋の特別展、季節ごとの特別展示が開催されるときに使用される。 旧石器時代、縄文時代、弥生時代、古墳時代の発掘された出土品を展示する。時代ごとに展示ケースが分かれている。ここでは古代のうち旧石器時代から古墳時代までの展示を紹介する。

旧石器時代

石器や尖頭器(西大宮バイパスNo.4遺跡出土)、ナイフ形石器(同前)、角錐状石器(松木遺跡)などの出土品を展示する。西大宮バイパスNo.4遺跡の黒曜石は、長野県の和田峠や伊豆諸島の神津島が産地と判明している。

縄文時代

亀形土製品(複製)(東北原遺跡)は磨消縄文や三叉文、入組文が施され、彩色が見られる。みみずく形土偶は奈良瀬戸遺跡、小深作遺跡、国指定史跡・真福寺貝塚の出土品が展示されることがある。みみずく形土偶は顔の輪郭や目・口がデフォルメされており、鳥のミミズク(フクロウ)に似ているために名付けられた。

弥生時代

さいたま市域から出土した弥生時代の土器や鉄器、弥生時代の銅鏡・銅鏃(三崎台遺跡出土)、ガラス玉・鉄製鎌(土屋下遺跡出土)、井沼方遺跡方形周溝墓出土の鉄剣 1口、ガラス玉 12個などを展示する。

古墳時代

伝東宮下出土線刻画付人物埴輪は、顔や胸、腰などに線刻による絵や文様が描かれた人物埴輪である。さいたま市の指定有形文化財(考古資料)である。1頭のほぼ全体が復元された馬形埴輪(側ヶ谷戸11号墳出土)が展示されている。生出塚埴輪窯(埼玉県鴻巣市)で製作されたことが分かっている。

指定

  • 市指定有形文化財(考古資料) 「井沼方遺跡方形周溝墓出土品」

アクセス

  • 名称:さいたま市立博物館
  • 所在地:埼玉県さいたま市大宮区高鼻町2-1-2
  • 交 通:JR東日本大宮駅東口から徒歩約15分

参考文献

  1. さいたま市立博物 パンフレット

上太寺東遺跡2026年09月20日 00:05

上太寺東遺跡(じょうだいじひがしいせき)は、埼玉県さいたま市中央区に所在する縄文時代および古墳時代の遺跡である。

概要

上太寺東遺跡は北浦和駅の北西800mの位置にある。 これまでに縄文時代の遺物として、「縄文土器」が出土している。 付近には同じ「上太寺」の名を冠する「上太寺遺跡」があるが、こちらは旧石器時代・縄文時代から中近世にかけての複合遺跡である。また中里前原遺跡、亀在家南遺跡も近隣に所在する。

調査

これまで第1次・第2次調査などが行われ、2025年にも発掘調査が実施された。第1次調査では縄文時代中期の住居跡と後期の住居跡が各1軒検出された。第2次調査では縄文時代中期と後期の土器が出土した。 令和7年度(2025年度)の第3次調査では、縄文時代後期の竪穴住居跡2軒が検出された。令和7年度調査の第1号住居は長径4.2m、短径2.6mである。縄文時代中期・後期の土器が出土している。第2号住居は長径5.2m、短径2.6mである。柄鏡形住居の特徴が見られる。

遺構

  • 竪穴住居跡

遺物

  • 堀之内1式土器

指定

時期

  • 縄文時代中期~後期

アクセス

  • 名称:上太寺東遺跡
  • 所在地:埼玉県さいたま市中央区新中里1丁目
  • 交 通:JR北浦和駅の北西800m

参考文献

  1. さいたま市(2020)『上太寺東遺跡(第2次)』さいたま市遺跡調査会報告書第206集
  2. さいたま市(2026)「さいたま市遺跡発掘調査成果発表会」上太寺東遺跡・中里前原北遺跡

蘇我日向2026年09月19日 00:10

蘇我日向(そがのひむか)は7世紀中頃の飛鳥時代に活動した蘇我氏の有力者である。蘇我氏の一族に属し、蘇我倉麻呂(雄当)の子とされ、蘇我馬子の孫にあたるとされる。

表記の問題

蘇我日向の名は史料によって『身狭』『身刺』『武蔵』などとも記されている。飛鳥時代の人物の「字(あざな)」は、本名(実名・諱)とは別につけられた成人としてのもう一つの呼び名(別名)である。 『日本書紀』(巻第廿五孝德)には「蘇我臣日向日向字身刺」(蘇我日向の別名は身刺である)と書かれるので、蘇我日向と蘇我身刺は同一人物と考えられる。また『上宮聖徳法王帝説』裏書には「曽我日向子臣、字は無耶志臣(武蔵臣)」と書かれるので、蘇我武蔵は蘇我日向の別名であったといえそうである。 身刺はムザシ(ミサシ)であり、「武蔵」の万葉仮名表記である。飛鳥時代の当時はヨミ(音)が合っていれば文字表記にはあまりこだわらない時代であった。後代になるが、万葉集にも同じ人物の異なる表記はよく見られる。

史料上の活動

皇極紀にみえる婚姻事件

『日本書紀』皇極天皇3年正月条は、中大兄皇子が蘇我倉山田麻呂の娘と婚姻する予定であったところ、身狭臣(日向)がその女性を娶ったと記す。結果として、その妹である遠智娘が代わって皇子に嫁ぎ、事態は収拾したと書かれる。

ただし、この逸話については後世の潤色や物語的要素が含まれる可能性が指摘されている。とくに、重大な不祥事にもかかわらず日向が処罰されたとの記録がない点は、記事の史実性や叙述意図を検討する際の論点となる。

大化五年の讒言事件

大化五年(649年)三月、蘇我日向は中大兄皇子に対して、父の蘇我倉山田麻呂が反乱を企てていると讒言したと『日本書紀』は伝える。

これを受けて倉山田麻呂は子の法師・赤猪らとともに山田寺へ退いたが、日向と大伴狛の軍勢に追われて自害した。その後、中大兄皇子は蘇我倉山田麻呂の無実を知ったと『日本書紀』は記している。

この事件の評価については複数の解釈が存在する。

  • 日向による虚偽の讒言とみる説
  • 中大兄皇子が政敵排除のために仕組んだ政治的策謀とする説
  • 蘇我氏内部の権力抗争とみる説

いずれも決定的な結論には至っておらず、古代政治史上の重要な論点の一つとなっている。

太宰帥任官をめぐる問題

倉山田麻呂事件の後、日向は筑紫大宰帥に任じられたとする伝承がある。『上宮聖徳法皇帝説』は、孝徳朝に日向が筑紫大宰帥となったことを伝える。『日本書紀』孝徳紀大化5年(649年)3月にも同様の記事がある。大宰帥任命が史実かは確認できないが、表面上は栄転だが、中央政界から遠ざける処遇とみる見解が『日本書紀』に記される。なお「筑紫太宰」の名称は『日本書紀』推古17年4月が初見である。

般若寺の建立

白雉五年(654年)、孝徳天皇の病気平癒を祈願して、蘇我日向が般若寺を建立したと伝えられる(東野治之(2013))。

この般若寺の所在地については以下の二説がある。

  • 福岡県筑紫野市の塔原廃寺(般若寺跡)
  • 奈良県香芝市の尼寺廃寺跡(般若尼寺)

もし般若寺を香芝市の尼寺廃寺跡に比定するなら、日向がこの時期に大和に所在していた可能性を考える必要があり、筑紫大宰帥として実際に赴任していたかという問題が生じる。

評価と研究上の位置づけ

蘇我日向は、蘇我氏本宗家の衰退後における一族内部の権力関係や、大化改新 前後の政治構造を考える上で重要な人物である。

しかし、その事績の多くは『日本書紀』など後代史料に依存しており、叙述の信憑性や政治的意図の介在について慎重な史料批判が必要とされる。とくに讒言事件や婚姻逸話は、史実・政治宣伝・物語的脚色が交錯する典型例とされ、古代史研究における未解決問題の一つである。

蘇我日向=蘇我氏内部抗争論 ―大化前後政治史における一族分裂の視点―

7世紀中葉のヤマト政権において、蘇我日向をめぐる一連の事件は、単なる個人の逸脱行為や讒言事件としてではなく、蘇我氏内部の権力抗争として再解釈する余地が大きい。本稿では、『日本書紀』記事の史料批判を踏まえ、蘇我氏の分裂と再編という観点から日向の行動を位置づける。

一 問題の所在

従来、蘇我日向は父 蘇我倉山田麻呂 を讒言によって死に追いやった人物として理解されてきた。しかし、この理解は『日本書紀』の叙述をほぼ無批判に受け入れたものであり、政治的文脈の検討が不十分である。

特に、大化五年(649年)の讒言事件は、結果として倉山田麻呂の自害と蘇我氏有力系統の没落をもたらしたが、その背後には一族内部の利害対立が存在した可能性がある。

二 蘇我氏の分裂構造

蘇我馬子 以来、蘇我氏は政権中枢を担う有力氏族であったが、乙巳の変(645年)以後、その権力は大きく揺らいだ。蘇我本宗家(蝦夷・入鹿系)は滅亡したものの、傍系の諸系統はなお政界に残存していた。

ここでは便宜的に倉山田麻呂を中心とする系統と日向を中心とする立場を区別して考える。ただし、史料上、『倉山田麻呂系』『日向系』という政治集団が確認できるわけではない。 蘇我日向が父を告発するという極端な行動は、単なる親子不和では説明し難く、むしろ一族内における政治的立場の対立を反映したものと考えられる。

三 讒言事件の再評価

『日本書紀』は、日向の讒言によって倉山田麻呂が無実のまま死に追いやられたと描く。しかし、この構図にはいくつかの疑問がある。

  • 第一に、讒言という重大な政治犯罪を犯したにもかかわらず、日向が処罰されていない点である。むしろ彼はその後、太宰帥に任じられている。
  • 第二に、この事件が結果として中枢権力の再編に資するものであった点である。すなわち、中大兄皇子にとっては、蘇我氏内部の有力者を排除する契機となっている。

これらの点から、

  • 日向単独の讒言 ではなく、
  • 政権中枢と結びついた政治的行動

とみるべき可能性が高い。

四 婚姻記事との連関

皇極三年条にみえる婚姻事件(中大兄皇子の婚約女性を日向が奪ったとする記事)も、単なる逸話としてではなく、一族内の婚姻関係をめぐる政治的競合として解釈しうる。

古代において婚姻は権力結合の重要手段であり、同族内であってもその配分は政治的意味を持つ。日向の行動は、婚姻ネットワークをめぐる主導権争いの一端とみることができる。 この伝承は『三国史記』巻6・文武王(上)』記載の金春秋に金庾信が姉を紹介しようとしたが、姉が断ったので妹が結婚したとする伝承と枠組みが類似する。 逸話自体は後世的脚色の可能性も高く、史実性については慎重な検討が必要である。

五 太宰帥任官の意味

倉山田麻呂事件の後、日向は筑紫大宰帥に任じられたと『日本書紀』に記されている。また、『上宮聖徳法王帝説』にも、孝徳朝に日向が筑紫大宰帥となったことが記されている。異なる史料に同様の記事がみえることから、日向の筑紫大宰帥任官は一定の史実性をもつ可能性がある。ただし、実際に筑紫へ赴任したかについては明らかではない。 事件後に蘇我日向が任じられたとされる太宰帥についても評価が分かれる。

  • 左遷(処罰的異動)
  • 栄転(対外拠点の重職)

いずれの解釈も可能であるが、もし日向が政権と協調的関係にあったとすれば、後者の可能性が高まる。

また、般若寺建立が大和国内であったとすれば、実際には九州赴任を伴わない名目的官職であった可能性もあり、政治的配慮としての任官とみる余地もある。

六 結論

以上の検討から、蘇我日向の行動は

  • 個人的逸脱や単純な裏切りではなく
  • 蘇我氏内部の権力再編過程における政治的行動

として理解することはできる。

すなわち、大化前後の政変は単なる「蘇我氏対反蘇我勢力」という二項対立というより、蘇我氏内部の政治的対立を背景としていた可能性を考える余地がある。

もっとも、蘇我日向の事績については『日本書紀』の記述に大きく依存しており、その叙述には勝者側の政治的意図が反映されている可能性が高い。したがって本問題は、史料批判を前提とした再検討を要する、古代政治史の重要課題の一つである。

参考文献

  1. 太田亮(1942)『姓氏家系大辞典』磯部甲陽堂
  2. 坂本太郎, 井上光貞,家永三郎,大野晋 (1994)『日本書紀』岩波書店
  3. 東野治之(2013)『上宮聖徳法皇帝説』岩波書店

亀塚古墳 (滋賀県)2026年09月18日 00:05

亀塚古墳 (滋賀県)(かめづかこふん)は滋賀県野洲市に所在する帆立貝式古墳である。築造時期は5世紀後葉~末、または5世紀末~6世紀初頭頃と考えられている。

概要

大岩山丘陵の北西に広がる大岩山丘陵の北西に広がる野洲川右岸の平野部に位置する。古くから土取り場となっており、墳丘の残存状況はよくない。国指定史跡「大岩山古墳群」のひとつである。大岩山古墳群には古冨波山古墳や冨波古墳なども含まれる。亀塚古墳と同時期に築造された古墳は天王山古墳(大岩山地区)・越前塚古墳(小篠地区)である。 原地区)

調査

2007年度調査

2007年度の調査で、円丘部の直径が約32メートルと判明し、周濠が発見された。全長は45メートル以上である。出土遺物は円筒埴輪や朝顔形埴輪、形象埴輪、須恵器などである。円筒埴輪は口径25~30cm、底径20㎝前後を測り、形態は基底部を含め4段前後のものに復元されている。5世紀後葉~末(または5世紀末~6世紀初頭)の築造とされている。 出土資料の一部は野洲市歴史民俗博物館(銅鐸博物館)で収蔵・展示されている。

2024年度調査

2024年の報道で、野洲市教育委員会は2024年9月6日、墳形が帆立貝形と判明したと発表した。亀塚古墳は平成19年度の発掘調査で前方後円墳または帆立貝式古墳とされていた。2024年の調査で円丘部の西側に長さ約15mの前方部をもつ帆立貝式古墳であることが判明した。幅4メートルほどの周濠も確認され、周濠からは円筒埴輪や形象埴輪などが出土した。また家形埴輪とみられる埴輪細片などが検出された。底部外面や突帯上面に平行タタキを施した個体が複数みられた。幅約3.6mの周濠を確認した。在地産と思われる埴輪などが出土していることから、野洲市教育委員会は、出土した埴輪などの特徴から、地域の首長層の墓とみている。。

遺構

  • 帆立貝式古墳
  • 周濠

遺物

  • 円筒埴輪
  • 家形埴輪
  • 盾形埴輪

展示

  • 野洲市歴史民俗博物館

考察

指定

  • 1941年(昭和16年)12月13日 大岩山古墳群として国指定史跡
  • 1985年(昭和60年)2月7日 亀塚古墳など6基を追加指定

アクセス等 

  • 名称  :亀塚古墳
  • 所在地 :滋賀県野洲市冨波字亀塚甲1437-1
  • 交 通 : JR琵琶湖線「野洲駅」北口から徒歩約29分

参考文献

  1. 「野洲の国史跡「大岩山古墳群」の亀塚古墳、帆立貝古墳と確定」『朝日新聞』2024年9月13日
  2. 滋賀県野洲市教育委員会(2025)「令和6年度 野洲市内遺跡発掘調査年報」野洲市教育委員会文化財保護課

富士山1号墳2026年09月17日 00:05

富士山1号墳(ふじやまいちごうふん)は三重県鈴鹿市に所在する古墳時代の帆立貝形古墳である。

概要

鈴鹿川下流域左岸の台地上に位置する。これまで調査で全長55.7m後円部径36メートル、高さ約6メートルの帆立貝形前方後円墳と判明している。西側のくびれ部に作り出しがつく。後円部は2段築成である。富士山古墳群を構成する古墳のひとつである。 過去の調査では、造出上面では南北2列の埴輪列が確認され、円筒埴輪・朝顔形埴輪・形象埴輪などが出土した。

造出上面では埴輪列が確認されているが、周濠などからも埴輪が出土している。円筒埴輪は、淡輪地域で確認される埴輪製作技法に由来する名称である「淡輪(たんのわ)技法」という特殊な製作技術が施されているのが特徴である。この技法は、現在の大阪府南部(泉州地域)の技術と関係が深い。

1号墳からは、百済・馬韓系とされる陶質土器(須恵器壺)が出土しており、朝鮮半島との交流を示す資料となっている。 古墳の構造や出土遺物から、5世紀後半に築造された古墳と判断されている。 被葬者は鈴鹿川下流域の5世紀後半における有力首長の墓と考えられている。

埋葬施設

埋葬施設は木棺を粘土で覆った粘土槨と判明した。粘土の形状などから、木棺は割竹形木棺と推定されているが、最終的な判断は今後の調査・検討を待つ必要がある。

2025年までの発掘調査で、約1,500年前のものとみられる珍しい形の鉄製冑「小札鋲留衝角付冑」が発見され、話題となった。 直径約20~25cm、高さ約15cmである。同時代の標準的な成人用冑と比較すると、全体の約3分の2程度の構成部材が残るとみられる。比較的良好な状態で出土した。

大規模な盗掘を受けていなかったとみられ、錆はあるものの、比較的良好な状態で残っていた。「小札」と呼ばれる縦約4cm×横約1cmの小さな長方形の鉄板を3-4mm程度の小さな鋲や革ひもで繋ぎ合わせて作られている(朝日新聞、2026年3月2日)。前面中央が尖り、船の先端(衝角)のような形をした独特の形状である。この型式の冑は古墳時代中期を通して製作されており、5世紀後半と考えている年代を裏付ける遺物の1つとなる。

調査

第1次調査(令和3年度)では造出、葺石・埴輪、2段築成墳丘、馬蹄形周溝が調査された。

2022年度(令和4年度)の第2次調査では古墳の造出部分の本格的な確認調査が実施され、その形状が南北約6メートル、東西約4.5メートルの長方形と判明した。

第3次調査(2023年度)では古墳の全長が55.7m(帆立貝形前方後円墳)であることが確定した。また墳丘の斜面を覆っていた葺石や洋服のボタンのような突起を持つ埴輪の破片が見つかった。

第4次調査(2024年度)では、築造当時のままで整然と並んだ状態の葺石が、崩落や持ち去りを免れた姿で発見された。後円部上段の直径が25.4m、テラス幅が約2.5mと判明した。 第5次調査(令和8年度)では墳頂部の地中レーダー探査が行われた。粘土槨を確認し冑が出土した(鈴鹿市文化スポーツ部文化財課(2026))。

遺構

  • 帆立貝形古墳
  • 周濠
  • 葺石
  • 円筒埴輪

遺物

  • 小札鋲留衝角付冑(鉄製)
  • 陶質土器

展示

  • 2026年3月14日~3月29日、鈴鹿市考古博物館「発掘された鈴鹿2025」で期間限定公開(現在終了)

指定

  • なし

アクセス等 

  • 名称  :富士山1号墳
  • 所在地 :三重県鈴鹿市国分町
  • 交 通 :

参考文献

  1. 鈴鹿市文化スポーツ部文化財課(2026)「富士山1号墳第5次発掘調査 現地説明会資料」
  2. 「1500年前の「珍しい形状」鉄カブト出土」朝日新聞、2026年3月2日
  3. 「冑の発見について」富士市定例記者会見資料、令和8年2月25日
  4. 「1500年前のかぶと発見」伊勢新聞、2026年2月26日