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大谷山22号墳 ― 2026年11月02日 00:05

大谷山22号墳(おおたにやまにじゅうにごうふん)は和歌山県和歌山市岩橋・鳴神に所在する前方後円墳である。

概要

岩橋千塚古墳群のなかで、大日山35号墳とならんで最大級の前方後円墳の一つで、大谷山の山頂に立地する。古墳時代後期前半に築造された墳長約68~70mの前方後円墳で、後円部径は約35m、前方部幅は約53mである。 80mの盾形の基壇の上に2段築成の墳丘が築かれる。墳丘表面に葺石は存在しないが、各段築のテラスには円筒埴輪をめぐらせている。

埋葬施設

埋葬施設は後円部中央に設けられた横穴式石室で、全長約7.8m、高さ約3.15mを測る。石室には石棚と石梁が設けられている。

別区

墳丘南側のくびれ部には方形の別区が設けられている。別区からは、人物・動物・家・盾などの形象埴輪が出土した。人物埴輪には力士・巫女・黥面を表現したものがあり、動物埴輪には馬・鶏などが含まれる。また、双脚輪状文形埴輪や胡籙形埴輪なども確認されており、古墳における祭祀・儀礼や埴輪の配置を考えるうえで重要な資料となっている。

出土遺物

石室内からは須恵器の坏蓋4点、高坏2点、高坏蓋2点、台付壺2点などが出土した。また、攪乱土中から金銅製杏葉などの馬具が出土している。

埼玉との共通性

大谷山22 号墳・大日山35 号墳・井辺八幡山古墳に認められた須恵器と埴輪の配置位置の変遷は、埼玉古墳群の中規模前方後円墳の変遷と共通するとされる(和歌山県教育委員会(2025))。

埴輪

別区からは人物、動物、家、盾等の形象埴輪が出土した。 昭和41年(1966年)に行われた発掘調査では、翼を広げた鳥形埴輪も確認されている。

大谷山22号の主な意義と特徴

最大級の規模と立地

岩橋千塚古墳群を代表する大型前方後円墳の一つで、大谷山の山頂に立地する。墳丘の周囲には盾形の基壇が設けられ、基壇を含めた全長は約80mに達する。

「岩橋型横穴式石室」の成立期を示す構造

結晶片岩を用いて構築された横穴式石室で、奥壁から突出する石棚と、天井付近に架けられた石梁を備える。これらは岩橋千塚古墳群に特徴的な「岩橋型横穴式石室」の構造要素であり、本古墳の石室はその変遷を考えるうえでも重要である。

多彩な形象埴輪と祭祀空間(別区)の存在

墳丘南側のくびれ部にある「別区(方形の平坦面)」から馬形・鶏形などの動物埴輪、力士・巫女・黥面(げいめん)などの人物埴輪、さらに双脚輪状文形埴輪や胡籙形埴輪などの多彩な形象埴輪が発見されており、当時のまつりごと(祭祀儀礼)の様子を伝える。

調査

1966年(昭和41年)に横穴式石室の内部と墳丘の一部が発掘調査された。2014年度(平成26 年度)には、和歌山県教育委員会が墳丘規模及び段築構造確認のため、トレンチ調査を行った。 2015年度(平成27年度)には、和歌山県教育委員会が特別史跡への追加指定に向けて、天王塚古墳と大谷山22号墳の発掘調査を実施した。

首長墳の変遷

花山6号墳(花山地区)→大谷山22 号墳(大谷山地区)→大日山35 号墳(大日山地区)→井辺八幡山古墳(井辺前山地区)→天王塚古墳(和佐地区)→寺内57 号墳(寺内地区)→井辺1号墳(井辺地区)、とされている(和歌山県教育委員会(2025))。

遺構

  • 前方後円墳
  • 横穴式石室

遺物

  • 動物埴輪 鳥形埴輪 馬形埴輪
  • 双脚輪状文形埴輪
  • 胡籙形埴輪

指定

  • 国指定特別史跡「岩橋千塚古墳群」の構成資産

被葬者

  • 古代豪族紀氏による築造とする説がある。

築造時期

  • 古墳時代後期前半(6世紀前半)

展示

  • 出土資料の一部については、和歌山市立博物館で展示される。

アクセス等

  • 名称:大谷山22号墳
  • 所在地:和歌山県和歌山市岩橋・鳴神
  • 交通:

参考文献

  1. 和歌山県教育委員会(2025)『岩橋千塚古墳群総括報告書Ⅰ』和歌山県教育委員会
  2. 関西大学文学部考古学研究室 編(1967)『岩橋千塚』

大日山35号墳 ― 2026年11月01日 00:06

大日山35号墳(だいにちやまさんじゅうごごうふん)は和歌山県和歌山市に所在する古墳時代後期の前方後円墳である。特別史跡岩橋千塚古墳群を構成する古墳の一つで、墳丘長約86m、基壇を含む全長約105mを測る和歌山県内最大級の前方後円墳である。

概要

和歌山市東部の岩橋山地に位置し、標高141mの大日山山頂に立地する。 墳丘主軸は南北方向で、前方部を南、後円部を北に向ける。6世紀前半に築造されたと考えられ、6世紀前半に築造されたと考えられ、規模や立地から紀ノ川下流域の有力な地域首長の墓と評価されている。被葬者や築造主体は特定されていないが、紀氏など紀伊地域の有力氏族との関係が指摘されている。 後円部の西側に開口部がある岩橋型横穴式石室を有する。 基壇や墳丘の各段の平坦面は円筒埴輪列で囲まれる。墳丘の長さは約86mであり、約105mの盾型基壇の上に作られる。両基壇および墳丘各段の平坦面には円筒埴輪列が巡る。和歌山県内最大級の墳丘規模や立地は、紀ノ川下流域における有力な地域首長の存在を考えるうえで重要である。両面人物埴輪や翼を広げた鳥形埴輪などの独自の地域色が表れる器種がある。

調査

大日山35号墳での最初の調査は1963年から1966年にかけての和歌山市教育委員からの委嘱による関西大学の調査であった。第一次調査は2003年度(平成15年度)、第二次調査は2004年度(平成16年度)、2005年度(平成17年度)に第三次調査が行われた。 2003年度以降の調査では、墳丘・基壇の構造、横穴式石室、東西の造り出しなどが調査され、墳丘の規模や埴輪祭祀の実態が明らかになった。墳丘は二段築成の前方後円墳で、墳丘長は約86mである。墳丘の下には盾形の基壇が設けられており、基壇を含む全長は約105mに達する。石室全長は7m以上で、玄室は長さ約4.3m、高さ約2.8mを測る。玄室には、二枚の板石を水平に架け渡した石棚と、水平に架け渡された石梁が設けられている。

石室からは、装身具、武器・武具、馬具、農工具などの副葬品が出土した。

岩橋型横穴式石室とは

岩橋型横穴式石室は、和歌山県北部を中心に分布する横穴式石室の地域類型である。堀真人(2024)は、横穴式石室の構築原理を検討するなかで、「九州型の開かれた棺」という概念に着目している。また、岩橋型横穴式石室には、天井形態や玄門部の構造、石棚・石梁など、構造上の特徴が認められる。 岩橋型横穴式石室の構造的特徴を検討する際には、玄室の平面形態や天井形態、玄門部の構造、石棚・石梁の有無などが重要となる。岩橋型横穴式石室の特徴として、次のような構造・形態が挙げられている。ただし、これらのすべてが個々の石室に共通するわけではなく、石室ごとに構造上の差異がある(堀真人、2024)。

  1. 1. 板状の結晶片岩を使用する。
  2. 2. 平天井をもち、玄室高が高いものがある。
  3. 3. 玄門部が玄室内部に突出する。
  4. 4. 玄室前道をもち、基石を据えるものがある。
  5. 5. 玄門部を板状の扉石で閉塞する。
  6. 6. 排水溝を備えるものがある。
  7. 7. 石棚・石梁を備えるものがある。
  8. 8. 仕切石などによる屍床を有するものがある。
  9. 9. 遺骸を石室主軸に直交する方向に配置する例がある。
  10. 10. 玄室平面形には長方形・方形・T字形などがある。
  11. 11. 石棺を納置しないものがある。  

東西の造り出しの出土品

東の造り出しからは、家形埴輪をはじめ、翼を広げた鳥形埴輪、水鳥形埴輪、猪・犬・牛・馬などの動物形埴輪、人物埴輪、大刀形埴輪などが出土した。 西の造り出しからは、武人埴輪、巫女形埴輪、両面人物埴輪、盛装男子形埴輪、冠帽人物埴輪、馬形埴輪、胡籙形埴輪、靫形埴輪、家形埴輪、蓋形埴輪などが出土した。 とくに、頭部の前後に顔を表現した両面人物埴輪、翼を広げた鳥形埴輪、胡籙形埴輪は、全国的にも類例が少ない特色ある資料として注目される。

基壇および墳丘各段の平坦面には円筒埴輪列が巡る。これらの埴輪列には朝顔形埴輪などが組み合わされ、墳丘の区画や外表施設の構成を知る手がかりとなる。東の造り出しからは形象埴輪群の中心に家型埴輪があり、その周囲に翼を広げた鳥、水鳥、猪、犬、牛、馬などの動物の埴輪、貴人、力士、太刀などの埴輪が出土した。西の造り出しからは武人、巫女、両面人物、盛装男子、冠帽人物、飾り馬、胡籙形埴輪、靫(ゆぎ)、家型埴輪、蓋などが出土した。翼を広げた鳥、胡簶、両面人物の埴輪は珍しい。

今城塚古墳との共通性

墳丘の規模や構造、出土した形象埴輪には、畿内の有力古墳との比較において注目される要素が認められる。とくに家形埴輪などの形態は、今城塚古墳などの資料と比較するうえで重要であり、紀伊地域の有力首長と畿内政権中枢との関係を考える手がかりとなる。

大日山35号墳 の見どころ

巨大な前方後円墳

墳丘長は約86mであるが、最下段の盾形基壇を含めた全長は約105mに及び、和歌山県内でも最大級の規模である。標高141mの大日山山頂に築かれ、紀ノ川流域を見渡せる場所に立地する。

岩橋型(いわせがた)横穴式石室

玄室の天井を支える構造として、巨大な石棚や石梁が設けられている。

珍しい形象埴輪

表裏の両面に顔を表現した両面人物埴輪や、翼を広げた鳥形埴輪など、類例の少ない特色ある形象埴輪が出土している。 高床の家形埴輪など、畿内の有力古墳との比較で注目される埴輪が出土している。これらを含む大日山35号墳の出土品は、「和歌山県大日山35号墳出土品」として国の重要文化財に指定されている。

規模

  • 墳形:前方後円墳
  • 墳丘長:約86m
  • 基壇を含む全長:約105m
  • 後円部:径約37~39m、高さ約6~6.5m
  • 前方部:幅約49~50m、高さ約7.5m

遺構

  • 基壇:盾形
  • 墳丘:二段築成の前方後円墳
  • 外表施設:円筒埴輪列
  • 造り出し:東西のくびれ部に設置
  • 埋葬施設:岩橋型横穴式石室(後円部西側に開口)
  • 石室の特徴:石棚・石梁を備える

主な出土遺物

  • 埴輪:円筒埴輪、家形埴輪、人物埴輪、動物形埴輪、武器・武具形埴輪など
  • 特徴的な埴輪:両面人物埴輪、翼を広げた鳥形埴輪、胡籙形埴輪など
  • 須恵器:高坏、杯、坩、長頸壺など
  • 石室出土品:変形獣文鏡、鉄刀片、馬具、装身具、農工具など

文化財指定

  • 2016年8月17日:重要文化財指定「和歌山県大日山35号墳出土品」(考古資料、一括)

被葬者

  • 被葬者の具体的な人物は特定されていない。墳丘の規模や立地から、紀ノ川下流域の有力な地域首長が埋葬されたと考えられており、紀氏など紀伊地域の有力氏族との関係が想定されている。

築造時期

  • 古墳時代後期(6世紀前半)

展示

  • 和歌山県立紀伊風土記の丘(出土品を展示) 休館中

アクセス等

  • 名称:大日山35号墳
  • 所在地:和歌山県和歌山市井辺・岩橋
  • 交通:

参考文献

  1. 網干善教(1967)『関西大学文学部考古学研究紀要 第2冊』関西大学史学・地理学会
  2. 関西大学考古学研究室(1966)「岩橋千塚調査概報 : 昭和四十年度」『史泉』巻 32, pp. 63-65
  3. 堀真人(2024)「横穴式石室の構築原理を考える」紀要 / 滋賀県文化財保護協会編(37), pp.15-27
  4. 和歌山県教育委員会(2015)『特別史跡岩橋千塚古墳群 発掘調査・保存整備事業報告書』和歌山県教育委員会
  5. 和歌山県教育委員会(2025)『岩橋千塚古墳群総括報告書Ⅰ』和歌山県教育委員会
  6. 和歌山県立紀伊風土記の丘編(2013)『大日山35号墳発掘調査報告書―特別史跡岩橋千塚古墳群発掘調査・保存整備事業報告書2―』和歌山県教育委員会

短里説 ― 2026年11月01日 00:03

短里説(たんりせつ)は『魏志倭人伝』の里程記事の距離が「短里」により書かれているとする説である。

短里説の概論

「短里説」は、『魏志倭人伝』に記された里程の「里」が、当時の中国の標準的な1里より大幅に短いとする説である。これに対して、通常の里を用いたと考える立場を、短里説側では『長里説』と呼ぶことがある。 倭国までの距離(里程)を説明する際、『魏志倭人伝』に記された帯方郡から邪馬台国までの「一万二千余里」を魏代の標準的な里制で換算すると、約5,000kmを超える距離となり、実際の地理的な位置関係と大きく乖離する。この乖離を説明するため、一部の研究者は『魏志倭人伝』の「里」が魏代の標準的な里よりも短い単位であったとする「短里説」を提唱した。短里説では、里程を短い単位に換算することで、対馬・壱岐を経て北部九州に至る行程を説明できるとされる。この説は邪馬台国所在地論争、とくに九州説と畿内説をめぐる議論の争点の一つとなっている。 短里説は、帯方郡から邪馬台国までの里程を短い単位で換算することで、邪馬台国を北部九州に比定する九州説の根拠の一つとされている。一方、畿内説の立場からは、短里説の単位設定や史料上の根拠に対する批判がある。

古田の短里説

古田武彦は魏志倭人伝の里程記事が「短里」で書かれていると主張する。古田は「1里を約76~77m」としている(古田武彦・谷本茂(1994))。 その根拠は以下のようである。

(1)『魏志倭人伝』韓伝に韓地は方四千里と書かれていること(古田武彦(2012))。

韓地の範囲を馬韓・辰韓・弁韓の領域とし、現代の地図上で東西約210km、南北約350kmと見積もると、それぞれを4,000里で割った場合、1里は約52m、約88mとなる。ただし、この計算は、現代の地理的範囲が『魏志』韓伝の「方四千里」に対応することを前提とする。韓地の範囲や「方四千里」の意味をどのように解釈するかによって結果が変わるため、この計算だけで短里の長さを確定することはできない。なお古田武彦が山尾幸久(1986)の記述として引用する「陳寿は先行文献によって、韓地を『方四千里』と記した。しかし、内心ではこれを信じていなかった」という文章は、古田武彦が指定したページ(91ページ)には見当たらない。

(2)『三国志』呉書・鐘離牧伝に武陵から五谿まで二千里と書かれること(古田武彦(2012)。

五谿とは雄谿・樠谿・武谿・酉谿・辰谿の総称であり、単一の地点を指す名称ではない。武陵を現在の湖南省常徳市付近とし、五谿の一つである辰谿付近までの距離を測ると、現代の道路距離では約241kmとなる。ただし、五谿のどの地点を終点とするか、また原文の「垂二千里」をどのような行程と解釈するかによって、比較の結果は変わる。

(3)「魏志」張遼伝に天柱山の高さを20里としていること(古田武彦(2012),p.51)。

「魏志」張遼伝は「山の中に天柱山有り、高く峻(けわ)しきこと二十余里」とかいており、古田は天柱山を標高1860mとして、短里説に適合するとした(古田武彦(2012),p.51)。

(4) 『論語』先進篇「方六七十、如五六十」における領域の規模

『論語』先進篇には、冉有が政治を行う対象として「方六七十、如五六十」と述べる箇所がある。古田武彦・谷本茂(1994、p.57)は、この「方六七十」を一辺が60~70里、「如五六十」を一辺が50~60里の範囲と解釈し、短里説の論拠としている。

古田の換算によれば、長里では一辺50里が約21.75km、70里が約30.45kmとなるのに対し、短里では一辺50里が約3.85km、70里が約5.39kmとなる。古田は、この規模の違いを踏まえ、短里による解釈が適切であると主張している(古田武彦・谷本茂(1994)、p.58)。

短里説への反論

短里説への反論1(中国の度量衡の魏尺)

中国の度量衡については、時代によって尺の長さに差があり、周尺・前漢尺は約23.1cm、後漢尺は約23.8cm、魏尺は約24.2cmとされる。山尾幸久(1986)は、『晋書』律暦志・『隋書』律暦志などを基本資料とする中国の度量衡研究を紹介し、薮田(1969)による数値を挙げている。

実際に、古代中国の物差しが出土している(中国国家計量総局(1981))。戦国時代から前漢までの尺はおおむね23cmとされ、魏代には正始五年銘の弩機に伴う尺(正始弩尺)として、約24.3cmの実物資料が確認されている。この資料は、魏代に約24cmの尺が実際に使用されていたことを示す物的証拠である。

秦漢以来の度量衡体系では、1歩を6尺、1里を300歩とする換算が用いられていた。この体系を魏代にも適用し、魏尺を約24.2cmとすると、1里は300歩×6尺、すなわち1,800尺となり、約435.6mと算出される。

したがって、1里を約75~77mとする短里説は、通常の里制とは大きく異なる単位を想定することになる。『魏志倭人伝』でそのような短里が用いられたとするには、通常の里制とは異なる単位が採用されたことを示す史料上の根拠が必要である。

短里説への反論2(鐘離牧伝の里程)

古田は「魏志鐘離牧」と表記するが、正しくは『三国志』呉書・鐘離牧伝である。 『三国志』呉書・鐘離牧伝の原文は、次のとおりとなる。「即率所領,晨夜進道,緣山險行,垂二千里……」。これは「山険に沿って進み、二千里近くに及んだ」という趣旨であり、特定の二地点間の距離を直接示した文章ではない。「二千里に垂(なんなん)とす」、すなわち二千里に近いという意味である。 「垂二千里」は、武陵から五谿方面への軍事行動における進軍距離を表すと考えられるが、特定の二地点間の距離を示すとは限らない。現在の地図上で武陵郡治から五谿の一地点までの距離を測り、二千里で割る方法だけでは、当時の里の長さを確定することはできない。

短里説への反論3(『魏志』韓伝の「方四千里」)

古田説を検討する際には、『魏志』韓伝の「方四千里」が示す韓地の範囲と、そこから短里の長さを導き出す計算の前提を確認する必要がある。馬韓・辰韓・弁韓の範囲をどのように設定するかによって、現代の地図上で測定される距離は変わる。また、韓地と高句麗の領域は区別して扱わなければならない。したがって、特定の地理的範囲を設定して距離を四千里で割るだけでは、短里の長さを確定することはできない。

短里説への反論4(天柱山の「高峻二十余里」)

この天柱山は、現在の中国安徽省潜山市北西にある天柱峰に比定され、同峰の標高は約1,489mとされる。一方、古田武彦(2012)の著書には標高1,860mと記されている。両者の数値には差があるが、古田が記した数値の出典や測定対象を確認しないまま、単純に誤りと断定することはできない。

『三国志』魏書・張遼伝には、灊山の天柱山について「高峻二十余里」と記されている。古田はこの記述を山の高さを表すものと解釈し、短里説の論拠としている。しかし、「二十余里」が山の高さを意味するかどうかは、原文の構文や類例を踏まえて検討する必要がある。現代の標高を里数で割るだけでは、当時の里の長さを確定できない。

短里説への反論5(『魏志倭人伝』の里程)

魏代には、秦漢以来の度量衡体系に基づく標準的な里制が存在したと考えられる。しかし、標準的な里制が存在したことだけで、『三国志』に記されたすべての里程が、実際の地理的距離を正確に反映していると結論づけることはできない。

一方、特定の里程記事を短里の証拠とする場合にも、原文の意味、地点の比定、距離の測定方法を検証する必要がある。『魏志倭人伝』だけに約75~77mの短里を用いたとするには、通常の里制とは異なる単位が採用されたことを示す積極的な史料上の根拠が求められる。

短里説への反論6(「雒陽東北三千六百里」)

中国の里程表記を比較する資料として、『後漢書』郡国志の遼東郡に関する記述が挙げられる。同書には、洛陽から遼東郡までの距離を「雒陽東北三千六百里」と記している。現在の地理に基づいて洛陽から遼陽付近までの距離を比較すると、標準的な里制と短里説とでは、換算結果に大きな差が生じる。

ただし、郡国志の里程は行政地理上の記述であり、現代の直線距離や道路距離と同じ基準で算出されたとは限らない。遼東郡の範囲、郡治の比定、古代の交通路などを考慮する必要があるため、この比較だけで当時の里の長さを確定することはできない。それでも、『魏志倭人伝』だけに特別な短里を設定する説を検討する際には、他の中国史料に見られる里程記事との整合性を確認することが重要である。

短里説への反論7(魏志倭人伝の距離表記の課題)

魏志倭人伝の距離表記における問題は、「短里」を仮定することで解決できず、他の要因を考えるべきであろう。 第一に、『魏志倭人伝』では、対馬・壱岐・末盧国などの地点間の距離が「里」で記載されているが、これらが現代の地図上の直線距離を示すとは限らない。航海に要した実際の行程や、航行時の風・潮流などを含めた距離認識が里程に反映されている可能性もある。また、所要日数などから距離が概数として認識された可能性も考慮する必要がある。 第二に魏の使者が実際に倭国の行程を測量しながら歩いたわけではなく、現地の情報や体感を基に記述したことも考えられる。伝聞情報による誤差により距離が誇張されたり、距離が概数として記録された可能性、実際と異なる情報による誤解が生じた可能性がある。 第三に『魏志倭人伝』の里程表記では、距離と方角が必ずしも正確な形で一致していない個所がある。倭人伝の里程記事を、現代地図上の距離と方位に一対一で対応させること自体に限界がある。さらに当時の観念的な世界観に基づいて里程が書かれていたとの指摘もある(東潮(2026))。そうであれば、里程記事を現代の地図上の実距離にそのまま対応させて、特定地域の所在地を推定することには相当の慎重さが必要となる。

短里説への反論8(代から桑乾の二百余里)

山尾幸久(1986)は、『三国志』魏書・任城威王彰伝の「桑乾に至る。代を去ること二百余里なり」という記事を、短里説を検討するための比較例として挙げている。桑乾と代の比定地点間の距離を約85kmと見積もり、これを二百余里と比較すると、1里は約425mとなる。

ただし、この計算は、桑乾と代の比定地点、および現代の地図上で測定した距離を前提としている。したがって、標準的な里制との整合性を検討する材料にはなるが、この計算だけで当時の里の長さを確定することはできない。

短里説への反論9(「郿去長安二百六十里」)

山尾幸久(1986)は、『三国志』魏書・董卓伝の注に引用された『英雄記』の「郿去長安二百六十里」という記事を挙げている。郿の所在地を現在の陝西省眉県付近とし、長安との距離を現代の地理に基づいて比較すると、標準的な里制に近い換算値となる。

ただし、郿の比定地点、古代の交通路、現代の直線距離と道のりの違いによって計算結果は変わる。仮に道のりを約120~140kmとすると、260里で割った値は約462~538m/里となる。この数値は標準的な里の長さに近いものの、比較のための概算であり、距離の測定基準(距離を算出した地図・資料)を明示せずに、当時の里の長さを確定する根拠として扱うことは困難である。

短里説の古田説への反論10(『論語』先進篇の「方六七十、如五六十」)

古田武彦・谷本茂(1994)は、『論語』先進篇の「方六七十、如五六十」を短里説の論拠としている。しかし、この箇所は冉有が政治を行う対象の規模について述べたものであり、後段で孔子は「方六七十、如五六十であっても、どうして一国でないことがあろうか」と説明している。朱熹の『論語集注』も、この規模の領域を「小国」と解釈している。

したがって、この箇所は村の中の区画を意味するというより、小国の領域の規模を示すと解釈するのが文脈上自然である。古田の解釈を採用するためには、当該箇所を村の内部の区画と読むことができる文献上の根拠が必要となる。

また、周代の里制を約405mと仮定すると、50里四方の領域は一辺約20.25km、面積約410km²、70里四方では一辺約28.35km、面積約803km²となる。この規模は、古田が想定する村内の区画という解釈とは整合しにくい。ただし、周代の里の長さには復元値の違いがあるため、具体的な換算値を用いる場合は、その根拠となる度量衡資料を示す必要がある。

短里説の古田説への反論11(古田・谷本の里単位の一貫性に関する主張)

古田武彦・谷本茂(1994)は、「一つの本の中で、里単位は一貫しているのが原則である」(p.25)、「陳寿と同時代にできた本は同じ里単位にもとづいていなければおかしい」(p.31)と述べている。

この主張に従えば、『三国志』の中で『魏志倭人伝』だけに短里を適用することには問題が生じる。反論8・9で取り上げた『三国志』中の他の里程記事についても、同じ短里を適用できるかどうかを検討する必要がある。これらの里程記事を短里で説明できないのであれば、倭人伝だけに特別な短里を設定することは、古田・谷本自身が示した里単位の一貫性という原則とも整合しにくい。

結論

『魏志倭人伝』に記された里程と実際の地理的距離との乖離を説明するため、「短里説」が提唱されている。魏代には、正始五年銘の弩機に伴う尺など、約24cmの尺の実物資料が存在する。また、秦漢以来の度量衡体系に基づき、1里を300歩、1歩を6尺とする換算を魏代にも適用すると、1里は約435.6mとなる。

一方、『魏志倭人伝』に記された里程には、伝聞情報、行程の認識、航海距離、方角や地理的比定など、単位の長さだけでは説明できない問題もある。『三国志』の他の里程記事や同時代・前後の中国史料との比較も、短里説を検討するうえで重要である。

したがって、短里説には、倭人伝の里程を短い単位に換算することで、九州方面への行程を説明しやすいという利点がある一方、魏代に約75~77mの里が使用されたことを直接示す史料は確認されておらず、度量衡資料や他の里程記事との整合性にも検討すべき問題がある。短里説を採用するには、通常の里制とは異なる単位が『魏志倭人伝』に用いられたことを示す、積極的な史料上の根拠が必要である。

参考文献

  1. 東潮(2026)『邪馬台国の考古学: 魏志東夷伝が語る世界』吉川弘文館
  2. 須股孝信(1992)「畿内の遺構配置にみる古代の土木技術(その3)」土木史研究 12,pp.131-142
  3. 中国国家計量総局(1981)『中国古代度量衡図集』文物出版社
  4. 古田武彦・谷本茂(1994)『古代史の「ゆがみ」を正す―「短里」でよみがえる古典』新泉社
  5. 古田武彦(1992)『「邪馬台国」はなかった』朝日新聞社
  6. 古田武彦(1977)「邪馬台国九州説10の知識」『歴史読本』新人物往来社,昭和52年8月号
  7. 古田武彦(2012)『多元的古代の成立 上』ミネルヴァ書房
  8. 薮田嘉一郎(1969)『中国古尺集説』綜芸社
  9. 山尾幸久(1986)『魏志倭人伝 新版』講談社

権現山51号墳 ― 2026年10月31日 00:05

権現山51号墳(ごんげんやまごじゅういちごうふん)は、兵庫県たつの市に所在する前方後方墳である。

概要

兵庫県たつの市御津町中島(旧揖保郡御津町)の権現山の尾根上に位置する前方後方墳である。築造年代は古墳時代前期初頭の3世紀中頃と推定されており、古墳時代の成立過程を考えるうえで重要な古墳の一つである。

墳丘規模

墳長は約43mとされ、後方部は一辺約28m、高さ3.2m、前方部は幅14m、長さ20m、高さ1.3mとされる。後方部を円形と仮定した場合、箸墓古墳に類似する前方後円形の墳形になるとの指摘がある。 1989年に発掘調査が行われ、1991年に調査報告書が刊行された。調査は近藤義郎を団長とする権現山51号墳発掘調査団によって実施された。 埋葬施設は、後方部に墳丘主軸と直交する方向に設けられた竪穴式石室である。

主要な出土品

埋葬施設からは三角縁神獣鏡5面をはじめ、鉄製武器・工具、ガラス小玉、貝製品、木製品などが出土した。また、墳丘の崩落土から特殊器台形埴輪・特殊壺形埴輪が出土しており、これらは墳丘上に樹立されていたと推定されている。吉備地方に系譜をもつこれらの資料は、特殊器台・特殊壺から古墳時代の埴輪へと展開する過程を考えるうえで重要である。 そのほか、割竹形木棺、木製枕、槍先を納めた鞘、鉄製工具類などが出土した。 特殊器台の文様・形態については、弧帯文がⅣ式2、透穴の形状が巴形Z字状および三角形と分類されている(小林萌絵(2023))。遺存していた人骨の分析から、被葬者は壮年後半から熟年にあたる男性と推定されている。

木製枕

木製枕は、2023年時点で、古墳時代の木製枕として国内最古の例とされている(大阪府立近つ飛鳥博物館(2023))。石枕には、伝渋谷出土石枕や、関東地方を中心に分布する常総型石枕などがあり、材質や形態、出現時期の比較は、古墳時代の葬送儀礼を考えるうえで参考となる。 (大阪府立近つ飛鳥博物館(2023))比較対象は伝渋谷出土石枕(奈良県天理市、渋谷向山古墳出土説、4世紀後半)、常総型石枕(基底部が四角形・円形・馬蹄形・帆立貝形など独自の形状を持つ70例があり、常総型石枕の最古は5世紀初頭(古墳時代中期前半))である。

鏡

副葬品として三角縁神獣鏡5面が出土した。鏡の名称は、天王日月吉獣文帯四神四獣鏡、張氏作三神五獣鏡、吾作三神五獣鏡、陳是作四神二獣鏡、波文帯四神二獣鏡である。 いずれも古式の形式に属する。 白石太一郎(1999)や都出比呂志(2011)による三角縁神獣鏡の製作段階論では、権現山51号墳出土鏡は第2段階に位置づけられる。また、岩本崇(2018)などの前期古墳編年案では、同古墳はⅠ期に位置づけられている。同笵鏡は、京都府の椿井大塚山古墳などからも確認されており、古墳間の鏡の共有・流通を考えるうえでも重要な資料である。

権現山51号墳の意義

権現山51号墳は、古墳時代の成立過程や初期古墳における地域間交流を考えるうえで重要な古墳である。発掘調査を主導した近藤義郎は、「年来待ち望んでいた都月型円筒埴輪と三角縁神獣鏡の共伴関係がこの権現山古墳で初めて捉えられた喜び」を語る(権現山51号墳発掘調査団(1991))。 吉備地方に系譜をもつ特殊器台形埴輪・特殊壺形埴輪と、三角縁神獣鏡が同一古墳から出土したことは、埴輪の成立過程や、古墳時代初頭における地域間交流や各地の政治的関係を考えるうえで重要な意味をもつ。

都月型円筒埴輪と三角縁神獣鏡の共伴関係

「権現山51号墳」の発掘調査によって初めて実証された、考古学史上の極めて重要な発見であったが、待ち望まれていた理由は次の通りである。 近藤義郎は、特殊器台形埴輪と三角縁神獣鏡を、古墳時代初頭の古墳を考えるうえで重要な指標とみなしていた。両者の前後関係や編年(年代順)は、議論が続いていた。しかし、両者が共伴する例は容易には確認できず、その関係を実証できる古墳の発見が課題となっていた。権現山51号墳の発掘調査では、都月型円筒埴輪と三角縁神獣鏡の共伴関係が確認された。都月型円筒埴輪は、特殊器台形埴輪のなかでも古い段階に位置づけられる形式であり、三角縁神獣鏡との共伴は、古墳時代初頭の埴輪と副葬鏡の年代的位置づけを検討するうえで重要な資料となった。この発見は、両者の編年的関係を具体的な出土例に基づいて検討するための重要な基準を提供した。都月型円筒埴輪は、吉備地方の特殊器台・特殊壺の系譜を引く、古墳時代初頭の埴輪である。現在は、特殊器台形埴輪などの名称で説明されることもあるが、これは総称であり、編年(年代順)や意義を論じるには不十分である。

展示

出土品の展示・保管状況については、赤穂市立有年考古館で土器が展示され、兵庫県立考古博物館では鏡のレプリカが展示されている。また、出土鏡は岡山大学文学部考古学資料館に所蔵・保管されている。

遺構

  • 前方後方墳、竪穴式石室
  • 埋葬施設・棺:竪穴式石室、割竹形木棺

遺物

  • 三角縁神獣鏡 5面
  • 特殊器台形埴輪・特殊壺形埴輪
  • 銅鏃・鉄鏃
  • 鉄製武器・工具
  • ガラス小玉
  • 貝製品
  • 木製枕・槍先の鞘などの木製品

時期

  • 古墳時代前期初頭(3世紀中頃)

指定

文化財指定:なし

アクセス

  • 名称:権現山51号墳
  • 所在地: 兵庫県たつの市御津町中島権現山 山頂
  • 交 通: 山陽網干駅から徒歩45分。

参考文献

  1. 岩本崇(2018)『副葬品と埴輪による前期古墳広域編年』六一書房
  2. 岩本崇(2025)「三角縁神獣鏡の副葬と古墳時代の開始」『古墳時代の播磨』神戸新聞
  3. 小林萌絵(2023)「埴輪の起源と神奈川県内出土の埴輪について」令和5年度第4回考古学講座資料
  4. 権現山51号墳発掘調査団(1991)『権現山51号墳 : 兵庫県揖保郡御津町』『権現山51号墳』刊行会
  5. 白石太一郎(1999)『古墳とヤマト政権』文藝春秋
  6. 大阪府立近つ飛鳥博物館(2023)『まくら-古墳時代の石枕と葬送儀礼-』令和5年度冬季特別展図録
  7. 都出比呂志(2011)『古代国家はいつ成立したか』岩波書店

竪穴式住居 ― 2026年10月30日 00:05

竪穴式住居(たてあなしきじゅうきょ)は地面を掘り下げて床面を設け、その上に柱などを用いて屋根を架けた半地下式の建物である。屋根は草や茅などの植物質材料で葺くほか、土を用いる構造もあったと考えられている。一般には「竪穴住居」とも呼ばれ、発掘調査で検出される建物遺構は「竪穴建物」と呼ばれることが多い。

概要

日本列島では、主に縄文時代から平安時代にかけて広く用いられた代表的な住居形態である。 竪穴住居は、地面を円形・楕円形・方形などに数十センチメートル程度掘り下げ、その上に柱を立てて屋根を構築する。 遺跡では柱穴や炉跡などの痕跡として検出されることが多い。竪穴建物からは、時代に応じて土器・石器・金属製品などが出土する。木製品や植物質材料などの有機質遺物は、湿地や低湿地などの保存条件に恵まれた場所で確認されることがある。

発掘調査では、床面の掘り込み、柱穴、炉跡、竈跡、周溝などの配置から建物の構造が復元される。ただし、建物の上屋は通常、木材や植物質材料などの有機物で構成されていたため、直接残存することは少ない。そのため、遺構の形状や内部施設、出土遺物などを総合して建物の構造や用途が推定される。なお、住居以外の用途が想定されるものも含め、竪穴状の掘り込みをもつ建物遺構は「竪穴建物」と呼ばれることがある。

時代による内部施設や形状の変化

住居の規模や平面形は時代・地域によって異なる。比較的小規模なものから大型のものまであり、床面積や内部施設、集落内での配置などを手掛かりとして、居住人数や建物の用途が検討されている。炉や柱穴、貯蔵穴などが確認される例も多い。 縄文時代の竪穴住居では、床面の中央付近などに炉が設けられる例が多い。弥生時代以降も炉を備えた住居がみられるが、古墳時代以降には壁際に竈を設けた住居が広く確認されるようになる。炉や竈の位置、構造、使用状況には時代や地域による違いがあり、住居内での調理や暖房の方法を考える手掛かりとなる。 竪穴住居の平面形は時代や地域によって変化する。縄文時代には円形・楕円形のものが多くみられる一方、方形・長方形のものも存在した。弥生時代以降には方形・長方形の住居が広くみられるようになるが、その変化の時期や程度には地域差がある。 縄文時代中期末から後期にかけては、関東・中部地方を中心に、床面に石を敷き詰めた「敷石住居」がみられる。平面形や出入口の構造に特徴をもつものがあり、一般的な居住施設とする見解のほか、祭祀などの特殊な機能を想定する見解もある。

竪穴式住居の使用時期

竪穴住居は、材料の節約や施工の容易さといった利点を持ち、日本列島において長期間にわたり基本的な住居形式として継続的に利用された。縄文時代、弥生時代、古墳時代には広く使われた。 竪穴住居は飛鳥・奈良・平安時代にも広く用いられた。時代や地域によって平面形、内部施設、上屋構造などは変化しており、ほかの形式の建物と併存する場合もあった。東北地方などでは、中世に至るまで竪穴建物が用いられた例も確認されている。

最古級の竪穴住居

現時点で最古級の竪穴住居は大阪府のはざみ山遺跡(はさみ山遺跡)などで約2万年前のものが検出されている(大阪府教育委員会(1981)、金山喜昭(1992))。建物は東西径約6メートル、南北径5メートル、深さ0.3メートルの楕円形である。遺物には約2万年前のナイフ形石器、翼状剥片、石核等が出土した。住居跡と同一の、あるいは直結する地層から、後期旧石器時代を特徴づけるナイフ形石器、翼状剥片、石核といった石器が出土していることから約2万年前の竪穴住居とされた。くぼみの周りから直径10センチ前後の柱穴が弧を描くように見つかっており、傾斜した柱を立てて円錐状のテントのような屋根を支えていた構造が復元されている。

集落構造

東各地の縄文時代の集落では、通常の住居よりも大規模な竪穴建物が確認されている。例えば、青森県の三内丸山遺跡では長さ約32メートル、幅約10メートルの大型竪穴建物が発見されている。これらの用途については、集会所、共同作業所、共同住宅、特殊な居住施設などの説があり、建物の規模や構造、出土遺物、集落内での位置などを踏まえて検討されている。 なお、集落構造については地域差が大きい。例えば井戸尻遺跡では、住居の規模や構成の違いから、居住者の年齢や性別による居住区分が想定される事例が指摘されている(藤森栄一(1965))。

竪穴建物の配置は住居が環状に並ぶものや、広場を囲むように配置されるものなどがある。また、集落内には通常の住居とは規模や構造が異なる大型建物が存在する場合もある。こうした配置や建物規模の違いは、集落の形成過程、居住形態、共同作業などの活動を考えるうえで重要な手掛かりとなる。ただし、建物の配置だけから社会組織や身分関係を直接復元することは困難である。

竪穴式住居のメリット

地面を掘り下げて床面を設ける構造は、地面の温度の影響を受けることで、外気温の変化を緩和する効果があったと考えられる。また、掘り込み部分を壁の一部として利用できるため、地上に壁を立ち上げる構造に比べ、壁材などを節約できる場合がある。ただし、居住性や施工上の利点は、掘り込みの深さや屋根の構造、地域の気候条件によって異なる。 住居の床面には、植物質材料などを敷いて居住環境を整えていた(桐生直彦(1999))。これは火災住居(焼失住居)の床面から出土した敷物から判明する。ただし、敷物の材質や使用方法については、有機質遺物の出土状況などに基づいて個別に検討する必要がある。

竪穴式住居のデメリット

住居内で火を使用する場合、煙を屋外へ排出することが重要であったと考えられる。炉を設けた住居では、煙が室内に滞留する可能性があり、屋根の構造や開口部などが煙の排出に関係したと考えられる。古墳時代以降には、地域や時期によって壁際に竈が設けられるようになるが、煙の排出方法や室内の換気状況は、建物の構造によって異なっていたと考えられる。 竈を使うと換気対策になる。地面を掘り下げた構造では、地上部分の壁や屋根の構造によって室内に自然光が入りにくい場合がある。採光や換気の条件は、出入口や屋根の開口部など、建物の構造によって異なっていたと考えられる。屋根や柱などの有機質材料は腐朽しやすく、傷みやすいため、定期的に葺き替えや修繕が必要となる。 床面を地面より低く設けるため、立地や地形、降雨条件によっては雨水の流入や湿気が問題となった可能性がある。建物の周囲に溝を設けた例もあるが、その機能については、遺構の形状や配置などに基づいて検討する必要がある。

参考文献

  1. 大阪府教育委員会(1981)『はさみ山遺跡発掘調査概要7』大阪府教育委員会
  2. 石野博信(2006)『古代住居のはなし』吉川弘文館
  3. 金山喜昭(1992)「II 旧石器時代4 住居と集落 b 礫群、配石、石囲い炉、土坑、住居」『図解・日本の人類遺跡』東京大学出版会
  4. 桐生直彦(1999)「縄文時代火災住居の認定要件」『構造考古学』5号
  5. 樋口 誠司(2025)『縄文の山岳農耕民 井戸尻遺跡群』新泉社
  6. 藤森栄一(1965)『井戸尻:長野県富士見町における中期縄文遺跡群の研究』中央公論美術出版

木製仮面 ― 2026年10月29日 00:05

木製仮面/西岩田遺跡/筆者撮影

木製仮面(もくせいかめん)は日本の弥生時代末期から古墳時代にかけて製作された、木材を加工して顔の形に表現した祭祀関連遺物である。目や口に開口部を設けたり、鼻や眉を立体的・線刻的に表現したりするものがある。出土例は少なく、正確な用途や使用方法については明らかになっていない。

概要

日本列島では、弥生時代末期から古墳時代前期にかけての木製仮面が、纒向遺跡(奈良県桜井市)や西岩田遺跡(大阪府東大阪市)などから出土している。また、奈良県桜井市の大福遺跡からは、仮面の可能性が指摘される仮面状木製品が出土している。

これらの資料は、農具などの日常用具を転用したものを含み、古代の祭祀や儀礼のあり方を考えるうえで重要である。一方、兵庫県神戸市の宅原遺跡からは、古墳時代末期に属する木彫仮面が出土しており、弥生時代末期から古墳時代前期の資料とは時期を区別して扱う必要がある。

木製仮面の用途は確定していないが、農耕儀礼や祭祀に用いられた可能性が指摘されている。弥生時代の土器には、仮面を着けた人物と解釈される図像が描かれた例もあり、当時の儀礼を考えるための参考資料となる。

用途と製作方法

木製仮面の具体的な使用方法は明らかになっていない。出土状況や形状から、祭祀の際に手で持ったり、一定の場所に掲げたりするなどの使用方法が考えられている。すべての資料が顔に直接装着するために作られたとは限らない。

纒向遺跡の木製仮面は、農具の鍬の身を転用したものである。こうした事例から、農耕に関係する道具を祭祀具に転用した可能性が考えられている。農耕儀礼や豊作祈願との関係も指摘されているが、特定の儀礼に使用されたと断定することはできない。

木製仮面の研究では、形状、開口部の加工方法、材質、顔面表現、出土状況などを比較することが重要である。纒向遺跡と西岩田遺跡の資料については、目の加工方法に共通点が指摘されており、当時の祭祀具の製作技術や地域間交流を考える手がかりとなっている。

出土例

  • 大福遺跡(奈良県桜井市)
    • 大福遺跡第28次調査では、2世紀後半ごろとされる仮面状木製品が出土した。素材はコウヤマキで、縦約23.4cm、最大幅約7cm、厚さ約5mmである。全体の約4割が残存し、目を表す穴や、ひもを通した可能性のある穴が認められる。
  • 纒向遺跡の木製仮面と目の加工方法などに共通点があることから、仮面である可能性が指摘されている。ただし、残存状態などから仮面と断定できないとする研究上の留保があり、「仮面状木製品」として扱うのが適切である。
  • 纒向遺跡(奈良県桜井市)
    • 纒向遺跡太田地区の太田池土坑から、古墳時代前期初頭、3世紀前半ごろの木製仮面が出土した。長さ約26cm、幅約21.6cm、厚さ約0.6cmで、アカガシ亜属の木材を用いて製作されている。鍬の身を転用したもので、鼻の部分の隆起や鼻孔、三日月形の眉の線刻が特徴であり、眉の周囲には赤色顔料が残っていた。
  • 出土した土坑は素掘り井戸と推定され、木製仮面のほか、木製鎌柄、木製盾、土器などが確認されている。これらの遺物は、当時の祭祀のあり方を考えるうえで重要である。
  • 木製仮面を含む「纒向遺跡太田池土坑出土品」は、2022年3月25日に奈良県指定有形文化財となった。指定対象は木製仮面1点だけではなく、木製鎌柄1点、木製盾1点、土器20点を含む計23点である。
  • 西岩田遺跡(大阪府東大阪市)
    • 西岩田遺跡では、弥生時代末期から古墳時代初頭にかけての木製仮面が出土した。2020~2021年の発掘調査で確認され、2023年に公表された資料である。素材はスギで、長さ約30cm、幅約18cm、厚さは最大約2cmである。
  • 両目と口に相当する3つの穴があり、中央付近の隆起で鼻を表現している。右側の一部は欠損しているが、顔の形状をおおむね把握できる状態で出土した。右耳付近には小孔が認められる。
  • 比較的厚みがあり、重量も約300gあることから、顔に直接装着するよりも、手で持ったり、何らかの場所に固定したりして使用した可能性が考えられている。周囲からは炭化した鍬などの木製品も出土しており、農耕儀礼との関係が検討されている。ただし、具体的な使用方法は確定していない。
  • 宅原遺跡(兵庫県神戸市)
    • 宅原遺跡からは、古墳時代末期に属する木彫仮面が出土している。纒向遺跡や西岩田遺跡の木製仮面とは時期が異なるため、日本列島における木製仮面の展開を考える際には、年代や形態、出土状況を区別して比較する必要がある。

縄文時代の土製仮面との比較

木製仮面とは別に、縄文時代には土製仮面が出土している。品川欣也(2013)は、縄文時代後期の土製仮面の出土例が北・東日本に多く、太平洋側に偏る傾向があることを指摘している。また、縄文時代の土製仮面については、葬送だけでなく、集落や居住域での祭祀に用いられた可能性も検討されている。

ただし、土製仮面と木製仮面では、素材や製作技法、出土状況が異なる。縄文時代の土製仮面の使用方法を、そのまま弥生時代以降の木製仮面に当てはめることはできない。両者の比較は、仮面を用いた祭祀の多様性を検討するための参考となる。

世界の仮面文化

世界各地には、祭祀、儀礼、舞踊などに仮面を用いる文化がある。インドネシアの仮面舞踊劇トペンや、アフリカの諸地域における仮面儀礼などは、仮面の社会的・宗教的役割を考えるための比較資料となる。

佐々木重洋(2000)は、カメルーンのエジャガム族に関する仮面儀礼などを通じて、仮面と儀礼、社会との関係を論じている。こうした人類学的研究は、日本列島の木製仮面の用途を検討するうえでも参考となる。ただし、地域や時代によって仮面の意味や使用方法は異なるため、直接的な同一視は避ける必要がある。

文化財指定

  • 指定名称: 纒向遺跡太田池土坑出土品
  • 指定区分: 奈良県指定有形文化財
  • 指定年月日: 2022年3月25日
  • 主な内容: 木製仮面1点、木製鎌柄1点、木製盾1点、土器20点

参考文献

  1. 「3世紀初めの木製仮面、大阪の遺跡から出土」朝日新聞, 2023年4月24日
  2. 「国内最古の木製仮面?-2世紀後半纏向出現前」奈良新聞, 2013年5月31日
  3. 「木製仮面が出土した纒向遺跡」桜井市立埋蔵文化財センター
  4. 「3世紀前半の木製仮面、大阪の遺跡で出土」産経新聞, 2023年5月11日
  5. 池田進(2003)「縄文時代の土製仮面に見られる歪みの造形」関西大学社会学部紀要34
  6. 佐々木重洋(2000)『仮面パフォーマンスの人類学アフリカ、豹の森の仮面文化と近代』
  7. 品川欣也(2013)「縄文時代の仮面祭祀」明治大学文学研究科 学術研究報告会要旨資料集
  8. 比留間絢香(2018)「土製仮面の基礎的研究」『溯航』第36号,pp.47-56

関行丸古墳 ― 2026年10月28日 00:05

関行丸古墳(せきぎょうまるこふん)は佐賀県佐賀市久保泉町に所在する古墳時代の前方後円墳である。

概要

標高約1,055mの脊振山地の南麓に広がる、標高40m余りの微高地上に位置する。西側を巨勢川(こせがわ)の上流が南下し、川に沿って妙楽寺の谷が北西方向へ伸びる。全長55mの前方後円墳(西南向き)である。後円部は直径35m、高さ4.5m、前方部は長さ20m、幅13m、高さ1mの規模である。墳丘は前方部が1段、後円部が2段に築かれている(佐賀県教育庁社会教育課(1958))。葺石・埴輪などの外部施設は認められない。

調査

発掘調査は1957年(昭和32年)5月3日から15日まで、佐賀県教育委員会と九州大学考古学資料室により行われた。未盗掘の状態で発見された貴重な古墳である。

埋葬施設

埋葬施設は初期の横穴式石室で、内部には板状の仕切石によって3つの屍床が設けられている。石室の規模は長さ4.35m(奥壁から手前の入口(羨門・羨道部)まで)、幅2.8m、 高さ2.65mである。奥壁に2枚、左右に3枚の巨石を腰石とする。後円部の西側に石室の入口がある。石室内に赤色顔料が塗布されている。石室は平面羽子板形で、墳丘のくびれ部に向かって開口する。

石室内には、石障によって区画された3つの屍床が設けられている。第1屍床は北側、第2・第3屍床は西側に位置する。石室内からは複数(5体)の人骨が出土しており、複数人が埋葬されたことが確認されている。屍床ごとに出土遺物の構成が異なることも、本古墳の埋葬状況を考えるうえで注目される。屍床ごとの人骨の構成には違いがあり、複数回の埋葬が行われたことがうかがえる。 各屍床の構築順序については、発掘調査報告書の記述に基づいて説明するため、第1屍床と第2屍床が逆転する。

第2屍床(奥壁に接する位置)

最初に構築されたとみられ、奥壁に平行して設置される。若年者(1体以上)の人骨が出土した。副葬品は珠文鏡(径7.3cm)、金銅製冠片、貝輪、刀子、尖頭工具などが出土した。

第1屍床(北壁側)

第2屍床に隣接し、側壁(北側)に沿って造られたと見られる。 副葬品は方格規矩鏡(径10.1cm)、歩揺・魚形を伴う金銅製装飾具などが出土した。

第3屍床(第2屍床に接する位置)

第2屍床や第1屍床に接続する形で最後に増設されたと見られる。 副葬品は変形文鏡、珠文鏡、勾玉・管玉などの玉類、貝輪、武器・工具類などが出土した。

副葬品

副葬品として鏡4面(方格規矩鏡1・珠文鏡2・変形文鏡1)、装身具(金銅製冠帽(1)、金銅製冠帽破片、金銅製半筒形装飾具(2)、金銅製細環(1)、貝輪)、玉類(硬玉勾玉(1)、碧玉管玉(12)・ガラス管玉(1)、ガラス小玉(約800)、水晶製棗玉(1))、武器(鉄鏃(4))、馬具(鉸具13・鋲留金具31・辻金具6・木心鉄張鎧金具2)、農工具等(鹿角柄刀子8・鹿角柄尖頭工具1)、その他(三環鈴)が出土した(佐賀県教育庁社会教育課(1958))。 また、石室の前半部から馬具類が、羨道の閉塞石(近く)からは大型の三環鈴が出土した。埋葬施設内の位置によって副葬品の構成に違いがみられる。

築造年代

関行丸古墳は、古墳時代後期の初頭にあたる5世紀末~6世紀初頭頃に築造されたと考えられている。

古墳が作られた時代背景

古墳時代後期の時代背景が見られる。

朝鮮半島との緊密な外交と文化流入

関行丸古墳からは三環鈴や金銅製装飾具などが出土している。三環鈴は朝鮮半島に起源を持つ馬具または装身具と推定されており、これらの遺物は、当時の北部九州と朝鮮半島との交流を考えるうえで重要である。

「横穴式石室」の導入と追葬の始まり

関行丸古墳は、初期の横穴式石室を採用した古墳である。石室内には3つの屍床が設けられ、計5体の人骨が確認されている。この構造と埋葬状況は、複数人を埋葬する方法や追葬のあり方を考えるうえで重要である。

首長層の勢力変化と前方後円墳の小型化

関行丸古墳は全長55mの前方後円墳で、前方部は後円部に比べて低い。墳丘の規模だけでなく、初期の横穴式石室や、鏡・馬具・金銅製装飾具などの副葬品にも特色がある。こうした要素を、同時期の北部九州の古墳と比較することで、地域首長層の葬送習俗や対外交流を考えることができる。

見所

銅製半筒形装飾具1双1具は、金銅板を半筒形に加工し、歩揺や魚形の飾りを取り付けた装飾具である。長さ14.9cmで髪飾りとして用いられた可能性があり、美豆良に沿わせて縦に装着したとする復元案もある。類例として藤ノ木古墳などの出土品が知られる。

銅製半筒形装飾具は佐賀県立博物館に収蔵されている。金銅製半筒形装飾具や三環鈴などが紹介されているが、展示状況は事前に確認する必要がある。類例として国宝・藤ノ木古墳などの出土例があり、2本一組で用いられる。

三環鈴は、3個の銅鈴を環状につないだ遺物で、馬具または装身具と考えられている。朝鮮半島に起源を持つとされ、関行丸古墳の副葬品にみられる対外交流の一端を示している。

遺構

  • 前方後円墳

遺物

  • 鏡4面
  • 玉類
  • 武器
  • 馬具
  • 農工具等

展示

  • 佐賀県立美術館・博物館で展示

指定

  • 文化財指定:昭和48年4月23日 佐賀県重要文化財 「関行丸古墳出土遺物」
  • 972年3月29日 佐賀県史跡に指定

アクセス等 

  • 名称  :関行丸古墳
  • 所在地 : 佐賀県佐賀市久保泉町大字川久保
  • 交 通 : 長崎本線神埼駅から5.8km/JR佐賀駅東側「佐賀駅バスセンター」「運転免許センター」バス停下車徒歩15分

参考文献

  1. 佐賀県教育庁社会教育課(1958)『佐賀県文化財調査報告書7:佐賀市関行丸古墳』佐賀県教育委員会
  2. 白井克也(1993a)「北部九州の朝鮮半島系装身具」第34回埋蔵文化財研究集会