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大宝律令 ― 2026年11月05日 00:05

大宝律令(たいほうりつりょう)は文武天皇の701年(大宝元年)に制定された日本古代国家の基本法典である。

概要

古代中国の律令、特に唐の永徽律令(651年施行)や永徽律疏(653年編纂)を参考に、刑部親王、藤原不比等ら19名によって編纂された。 律6巻・令11巻からなる。令は701年(大宝元年)に施行され、律は翌702年から施行されたとする従来の説があるが、律も701年に令とともに施行されたとする見解もある。757年(天平宝字元年)に養老律令が施行されるまで、基本法典として用いられた。

制定過程

飛鳥浄御原令の編纂と施行(681年?689年)

天武天皇が681年に編纂を命じ、689年に持統天皇によって施行された飛鳥浄御原令(22巻とされる)が、大宝律令編纂の基礎の一つとなった。飛鳥浄御原令は令を中心とする法典であり、独自の律が編纂・施行されていたかについては議論がある。唐律を準用していたとする説などがある。

令の完成と律の編纂(700年3月)

文武天皇の時代、700年(文武天皇4年)3月には令が完成したとされる。同月15日、文武天皇は諸王・諸臣に令文を読習させるとともに、律条の撰定を命じた。これにより、令に続いて律の編纂が進められた。

律令撰定者への禄賜与(700年6月)

700年(文武天皇4年)6月3日、刑部親王、藤原不比等、調忌寸老人ら19名が律令の撰定に携わったことに対して、朝廷から禄が与えられた。刑部親王を中心に、藤原不比等らが律令の編纂を進めた。

官制・位階制度の改定(701年3月21日)

701年(大宝元年)3月、大宝と建元するとともに、新令に基づいて官制と位階制度が改定された。五位以上の官人に対する位階の改定が先行し、六位以下についても同年5月に改定が行われた。これにより、新しい律令体制に基づく官僚機構の整備が進められた。

大宝律令の完成(701年8月3日)

701年8月、律6巻・令11巻からなる大宝律令が整い、朝廷に撰上された。これにより、日本で初めて律と令を備えた本格的な体系的法典が成立した。8月3日に律令が完成した後、8月8日に明法博士を諸道に派遣して令の講義を行った。

施行と周知

701年4月から、刑部親王や藤原不比等らの撰者が中央の官人に対して新令の講義を始めた。6月には僧尼令の講義が行われ、同月8日には諸国に新令に従って政務を行うよう命じられた。8月には明法博士が諸国に派遣され、新令の講義を行った。

律については、翌702年2月に新律の頒布が命じられ、7月には官人に読習させ、10月には新律令が諸国に頒布された。

このように、大宝律令は完成と同時に一斉に全国へ普及したのではなく、中央での先行実施、地方への施行命令、講義、写本の配布という段階を経て、全国への周知が進められた。

大宝律令の原本

大宝律令の律・令ともに原本は現存しない。

『令集解』の成立年代

『令集解』は一般に、9世紀後半の貞観年間(859~877年)頃に成立したと理解されている。

『令集解』に収録された大宝令の注釈書『古記』や、『続日本紀』などの記事から、その内容を部分的に復元することができる。律についても、律の注釈書などに残された引用や関連史料から一部の条文を復元できる。

大宝律令は757年(天平宝字元年)に養老律令が施行された後も、古律・古令として参照されたが、平安時代中期頃までには原本が散逸したと考えられている。

大宝律令と養老律令の関係

『令集解』に収録された『古記』の大宝令条文と、養老令の条文を比較することで、両者の異同を知ることができる。養老律令は大宝律令を基本的に継承しているが、編目の構成や条文には相違があり、単なる字句の修正にとどまらない改編も認められる。例えば、養老令の「官員令」に相当する大宝令の編目は「官位令」とされ、編目の名称や構成にも違いが認められる。 大宝律令は、718年(養老2年)に編纂された養老律令によって改訂され、757年(天平宝字元年)に養老律令が施行された。養老律令は大宝律令の基本的な制度を継承しながら、条文や編目の構成などを改めたものであり、奈良時代以降の律令国家の基本法典となった。

大宝律令の意義と特徴

中央官僚機構の整備

神祇官と太政官を中心とする二官八省の官僚機構を律令によって体系化し、官職の職掌や官人の位階・任用などを制度化した。これにより、天皇を中心とする中央集権的な官僚制国家の統治機構が整備された。

律と令の体系化

刑罰や犯罪に対する処罰を定めた「律」と、国家の統治組織、官僚制度、行政、経済、人民の身分や義務などを定めた「令」を備えた法典を成立させた。戸籍・計帳による人民の把握や、文書による行政運営などを法制化し、全国的な統一支配の法的基盤を整えた。

土地制度・税制・身分制度の整備

大化改新以降に進められてきた公地公民の理念に基づく土地・人民支配を法制化し、班田収授法による口分田の班給、租・庸・調などの税制、良民・賤民の身分制度を体系化した。戸籍や計帳を通じて人民を把握し、国家による土地の支給と租税・労役の徴収を制度的に運用する仕組みを整えた。

地方支配の強化

大化改新以降に整備されてきた地方行政制度を体系化し、国・郡・里からなる国郡里制を法制化した。中央から国司を派遣するとともに、在地の有力豪族を郡司に任用する仕組みを整え、中央政府による地方支配を強化した。なお、国郡里制のうち里は、715年(霊亀元年)に郷里制へ改編され、地方行政組織もその後変化した。

東アジアにおける国家体制の整備

唐の律令制度を重要な模範としながら、日本の社会や政治の実情に合わせて制度を整備した。また、701年には独自の元号である「大宝」を制定し、律令の完成と合わせて、東アジアの国際秩序の中で独自の政治体制を備えた国家の形成を進めた。

律令国家の成立

大宝律令の制定は、大化改新以降に進められてきた中央集権的な国家制度の整備を法典として体系化したものであり、日本における本格的な律令国家の成立を示す画期となった。ただし、律令の制定によって制度が直ちに全国で徹底されたわけではなく、その後も法令の改正や行政機構の整備を通じて、律令国家の実質化が進められた。

参考文献

  1. 石母田正(1971)『日本の古代国家』岩波書店
  2. 井上光貞ほか校注(1976)『律令』日本思想大系3、岩波書店
  3. 遠藤 慶太(2018)「大宝律令と古代国家」皇学館大学講演叢書, 第170輯,皇學館大学出版部
  4. 大高広和(2015)「大宝律令の制定と 「蕃」「夷」」法制史研究 64 (0), pp.1985-2018
  5. 利光三津夫(1961)『律の研究』明治書院
  6. 早川庄八(1995)『日本古代官僚制の研究』岩波書店

輿塚古墳 ― 2026年11月04日 00:05

輿塚古墳(こしづかこふん)は兵庫県たつの市御津町黒崎に所在する古墳時代前期の前方後円墳である。 姫路市に「御輿塚古墳」(おこしづかこふん)があるが、別の古墳である。

概要

標高約53mの基山の頂上に位置し、眼下に播磨灘や揖保川を望む。輿塚古墳は、墳丘長が約100~110mと推定される大型の前方後円墳である。推定墳丘長を110mとした場合、揖保川流域でも最大規模となる。2番目は墳丘長109mの丁瓢塚古墳、3番目は墳丘長34.6mの西宮山古墳である。 土取り工事によって前方部の大半が失われているが、墳丘の全長は約100~110mと推定されている。現存する後円部は直径約60m、高さ約20mとされる。現存する後円部は幅約60m、高さ20mである。墳丘は3段築成で、表面に葺石や埴輪がある。南北に主軸を置く。後円部頂に長さ6m(石室内部空間の寸法)、幅0.4m、深さ0.37m(現状において計測できる石室壁面の高さ)の長大な竪穴式石室がある。 朝顔形埴輪・壺形埴輪のほか、三角縁神獣鏡(伝・興塚古墳出土)が知られる。

調査

土取り工事によって前方部の大半が失われている。

見どころ

4世紀中頃(古墳時代前期)の築造

基山上に位置し、播磨灘や揖保川下流域を見渡すことができる。瀬戸内海沿岸の交通や河川交通との関係が注目される。

眺望

たつの市御津町黒崎の基山上に位置する。播磨灘や揖保川下流域を見渡せる場所に築かれており、瀬戸内海沿岸の交通との関係が注目される。

3段築成と豊かな外装

墳丘は三段築成で、表面には葺石が施され、埴輪が樹立されていたとされる。

揖保川流域で最大規模の前方後円墳

墳丘の全長は約100~110mと推定される。推定値の上限である約110mを採用した場合、揖保川流域で最大規模となる。

遺構

  • 前方後円墳
  • 竪穴式石室

遺物

  • 朝顔形埴輪
  • 壺形埴輪
  • 三角縁神獣鏡(伝・興塚古墳出土)

指定

  • 1965年(昭和40年) 兵庫県指定史跡

被葬者

  • 揖保川下流域の有力者

築造時期

  • 4世紀中頃(古墳時代前期)と推定される。

展示

  • たつの市立埋蔵文化財センター

アクセス等

  • 名称:輿塚古墳
  • 所在地:兵庫県たつの市御津町黒崎
  • 交通: 山陽電鉄「山陽網干駅」から徒歩約52分

参考文献

  1. 兵庫県立考古博物館(2017)「兵庫県内古鏡集成表」展示図録『兵庫の古鏡』
  2. 池田正男(1989)「輿塚古墳」『日本古墳大辞典』東京堂出版
  3. 「兵庫県飾磨郡御津町新舞子輿塚古墳 国土開発の爪あと.」『世界』212号(8月号),1963年(昭和38年)

天王塚古墳(和歌山市) ― 2026年11月03日 00:29

天王塚古墳(和歌山市)(てんのうづかこふん)は和歌山県和歌山市に所在する古墳時代後期の前方後円墳である。

概要

天王塚古墳は、和歌山市東部の岩橋千塚古墳群に属し、岩橋山塊の最高所にあたる標高約155メートルの天王塚山山頂付近に築造されている。 天王塚古墳は、古墳時代後期中頃の墳長約88 メートル、高さ6mの和歌山県最大の前方後円墳であり、埴輪や葺石等の外表施設、造出、基壇、周壕は確認されなかった。後円部は正円形に近く、段築は三段が確認されている。

埋葬施設

後円部中央には、南に開口する両袖式の横穴式石室が設けられている。石室は全長約10.95メートル、玄室の高さ約5.9メートルに達し、石棚と8本の石梁を備える岩橋型横穴式石室である。石室の規模は岩橋千塚古墳群のなかでも最大級であり、玄室の高さは全国的にも際立っている。

副葬品

1964年の発掘調査では、須恵器、土師器、玉類、金銅製金具、馬具、鉄鏃などが出土した。また、羨道からは土師器壺2点と直弧文が描かれた漆膜が出土しており、これらは原位置に近い状態であったと報告されている(和歌山県教育委員会、2020)。玄室内では石棚上からガラス製小玉20 点、金銅製飾り金具、鉄鏃、小札と骨片状のもの、玄室と羨道から須恵器(壺・器台・小像(人物・動物)・小壺・杯)、玉類(銀製空玉・ガラス製小玉・瑪瑙製切子玉・琥珀製玉・滑石製臼玉)、金銅製金具、馬具、鉄鏃が出土した(和歌山県教育委員会(2020))。

2017年の発掘調査では、5000点に及ぶ玉類のほか、履または冠に関係する装飾品や銀製の魚形飾りなどが確認された。これらの遺物は、被葬者の装身具や葬送に用いられた品々を考えるうえで重要である(和歌山県教育委員会、2020)(ニュース和歌山(2021))。 。 出土遺物にはそのほか須恵器、馬具、鉄鏃などがある。

調査

  • 1907年、東京帝国大学人類学教室の大野雲外らによって、天王塚古墳・将軍塚古墳・前山A17号墳などの調査が行われた。
  • 1912年には天王塚古墳の石室が盗掘され、その後、約2か月間にわたって入場料を徴収して石室内部が公開されたとされる。
  • 1963~1966年、和歌山市教育委員会と関西大学による岩橋千塚古墳群の総合調査が行われた。
  • 2015年、和歌山県教育委員会は天王塚古墳と大谷山22号墳を対象に、墳丘規模や段築構造を確認するためのトレンチ調査を実施した。
  • 2017年には、天王塚古墳で発掘調査が行われ、新たな遺物が確認された。

意義

和歌山県内最大規模の墳丘

和歌山県内の古墳の中で第1位の規模である。

大規模な横穴式石室

後円部中央に設けられた横穴式石室は、石棚と石梁を備え、玄室の高さも約5.9メートルに達する。岩橋型横穴式石室の構造や規模を考えるうえで重要な事例である。

紀伊地域の有力首長層との関係

岩橋山地の最高所(天王塚山頂、標高155m)に築かれており、盟主あるいは有力者の墓として、当時の技術力や経済力を示す。

岩橋型(いわわせがた)石室の頂点

紀伊地域特有の「石棚」や「石梁」を持つ岩橋型横穴式石室の発展形を示す。

遺構

  • 前方後円墳

遺物

  • 須恵器、
  • 玉類、
  • ガラス小玉、
  • 馬具、
  • 鉄鏃

指定

  • 2016年10月3日、特別史跡「岩橋千塚古墳群」の第3次追加指定により、天王塚古墳と大谷山22号墳の一部が指定範囲に加えられた。 

被葬者

  • 被葬者の具体的な人物は特定されていない。墳丘の規模や立地から、紀ノ川下流域の有力な地域首長が埋葬されたと考えられており、紀氏など紀伊地域の有力氏族との関係が想定されている。

築造時期

  • 6世紀中葉(古墳時代後期)

展示

  • 出土資料は和歌山県立紀伊風土記の丘などで取り扱われてきた。紀伊風土記の丘資料館は改修工事のため2026年4月から休館しており、2028年(令和10年)下期に和歌山県立考古民俗博物館(仮称)として再開する予定である。古墳の見学についても整備工事に伴う制限があるため、訪問前に公式情報を確認する必要がある。

アクセス等

  • 名称:天王塚古墳
  • 所在地:和歌山県和歌山市下和佐及び西
  • 交通:

参考文献

  1. 網干善教(1967)『関西大学文学部考古学研究紀要 第2冊』関西大学史学・地理学会
  2. 大野雲外(1907)「紀伊海草郡古墳石槨構造について」『東京人類学雑誌第23巻 第259号』,pp.3-6
  3. 「紀伊風土記の丘、54年を振り返る特別展」朝日新聞、2026年2月20日
  4. ニュース和歌山(2021)「天王塚古墳-石室に見る被葬者の権力」ニュース和歌山、2021/11/27
  5. 和歌山県教育委員会(2025)「岩橋千塚古墳群総括報告書Ⅰ」
  6. 和歌山県史編さん委員会編(1983)『和歌山県史 考古資料』
  7. 和歌山県教育委員会(2020)「特別史跡岩橋千塚古墳群-天王塚古墳 2次・3次発掘調査報告書-」和歌山県教育委員会

大谷山22号墳 ― 2026年11月02日 00:05

大谷山22号墳(おおたにやまにじゅうにごうふん)は和歌山県和歌山市岩橋・鳴神に所在する前方後円墳である。

概要

岩橋千塚古墳群のなかで、大日山35号墳とならんで最大級の前方後円墳の一つで、大谷山の山頂に立地する。古墳時代後期前半に築造された墳長約68~70mの前方後円墳で、後円部径は約35m、前方部幅は約53mである。 80mの盾形の基壇の上に2段築成の墳丘が築かれる。墳丘表面に葺石は存在しないが、各段築のテラスには円筒埴輪をめぐらせている。

埋葬施設

埋葬施設は後円部中央に設けられた横穴式石室で、全長約7.8m、高さ約3.15mを測る。石室には石棚と石梁が設けられている。

別区

墳丘南側のくびれ部には方形の別区が設けられている。別区からは、人物・動物・家・盾などの形象埴輪が出土した。人物埴輪には力士・巫女・黥面を表現したものがあり、動物埴輪には馬・鶏などが含まれる。また、双脚輪状文形埴輪や胡籙形埴輪なども確認されており、古墳における祭祀・儀礼や埴輪の配置を考えるうえで重要な資料となっている。

出土遺物

石室内からは須恵器の坏蓋4点、高坏2点、高坏蓋2点、台付壺2点などが出土した。また、攪乱土中から金銅製杏葉などの馬具が出土している。

埼玉との共通性

大谷山22 号墳・大日山35 号墳・井辺八幡山古墳に認められた須恵器と埴輪の配置位置の変遷は、埼玉古墳群の中規模前方後円墳の変遷と共通するとされる(和歌山県教育委員会(2025))。

埴輪

別区からは人物、動物、家、盾等の形象埴輪が出土した。 昭和41年(1966年)に行われた発掘調査では、翼を広げた鳥形埴輪も確認されている。

大谷山22号の主な意義と特徴

最大級の規模と立地

岩橋千塚古墳群を代表する大型前方後円墳の一つで、大谷山の山頂に立地する。墳丘の周囲には盾形の基壇が設けられ、基壇を含めた全長は約80mに達する。

「岩橋型横穴式石室」の成立期を示す構造

結晶片岩を用いて構築された横穴式石室で、奥壁から突出する石棚と、天井付近に架けられた石梁を備える。これらは岩橋千塚古墳群に特徴的な「岩橋型横穴式石室」の構造要素であり、本古墳の石室はその変遷を考えるうえでも重要である。

多彩な形象埴輪と祭祀空間(別区)の存在

墳丘南側のくびれ部にある「別区(方形の平坦面)」から馬形・鶏形などの動物埴輪、力士・巫女・黥面(げいめん)などの人物埴輪、さらに双脚輪状文形埴輪や胡籙形埴輪などの多彩な形象埴輪が発見されており、当時のまつりごと(祭祀儀礼)の様子を伝える。

調査

1966年(昭和41年)に横穴式石室の内部と墳丘の一部が発掘調査された。2014年度(平成26 年度)には、和歌山県教育委員会が墳丘規模及び段築構造確認のため、トレンチ調査を行った。 2015年度(平成27年度)には、和歌山県教育委員会が特別史跡への追加指定に向けて、天王塚古墳と大谷山22号墳の発掘調査を実施した。

首長墳の変遷

花山6号墳(花山地区)→大谷山22 号墳(大谷山地区)→大日山35 号墳(大日山地区)→井辺八幡山古墳(井辺前山地区)→天王塚古墳(和佐地区)→寺内57 号墳(寺内地区)→井辺1号墳(井辺地区)、とされている(和歌山県教育委員会(2025))。

遺構

  • 前方後円墳
  • 横穴式石室

遺物

  • 動物埴輪 鳥形埴輪 馬形埴輪
  • 双脚輪状文形埴輪
  • 胡籙形埴輪

指定

  • 国指定特別史跡「岩橋千塚古墳群」の構成資産

被葬者

  • 古代豪族紀氏による築造とする説がある。

築造時期

  • 古墳時代後期前半(6世紀前半)

展示

  • 出土資料の一部については、和歌山市立博物館で展示される。

アクセス等

  • 名称:大谷山22号墳
  • 所在地:和歌山県和歌山市岩橋・鳴神
  • 交通:

参考文献

  1. 和歌山県教育委員会(2025)『岩橋千塚古墳群総括報告書Ⅰ』和歌山県教育委員会
  2. 関西大学文学部考古学研究室 編(1967)『岩橋千塚』

大日山35号墳 ― 2026年11月01日 00:06

大日山35号墳(だいにちやまさんじゅうごごうふん)は和歌山県和歌山市に所在する古墳時代後期の前方後円墳である。特別史跡岩橋千塚古墳群を構成する古墳の一つで、墳丘長約86m、基壇を含む全長約105mを測る和歌山県内最大級の前方後円墳である。

概要

和歌山市東部の岩橋山地に位置し、標高141mの大日山山頂に立地する。 墳丘主軸は南北方向で、前方部を南、後円部を北に向ける。6世紀前半に築造されたと考えられ、6世紀前半に築造されたと考えられ、規模や立地から紀ノ川下流域の有力な地域首長の墓と評価されている。被葬者や築造主体は特定されていないが、紀氏など紀伊地域の有力氏族との関係が指摘されている。 後円部の西側に開口部がある岩橋型横穴式石室を有する。 基壇や墳丘の各段の平坦面は円筒埴輪列で囲まれる。墳丘の長さは約86mであり、約105mの盾型基壇の上に作られる。両基壇および墳丘各段の平坦面には円筒埴輪列が巡る。和歌山県内最大級の墳丘規模や立地は、紀ノ川下流域における有力な地域首長の存在を考えるうえで重要である。両面人物埴輪や翼を広げた鳥形埴輪などの独自の地域色が表れる器種がある。

調査

大日山35号墳での最初の調査は1963年から1966年にかけての和歌山市教育委員からの委嘱による関西大学の調査であった。第一次調査は2003年度(平成15年度)、第二次調査は2004年度(平成16年度)、2005年度(平成17年度)に第三次調査が行われた。 2003年度以降の調査では、墳丘・基壇の構造、横穴式石室、東西の造り出しなどが調査され、墳丘の規模や埴輪祭祀の実態が明らかになった。墳丘は二段築成の前方後円墳で、墳丘長は約86mである。墳丘の下には盾形の基壇が設けられており、基壇を含む全長は約105mに達する。石室全長は7m以上で、玄室は長さ約4.3m、高さ約2.8mを測る。玄室には、二枚の板石を水平に架け渡した石棚と、水平に架け渡された石梁が設けられている。

石室からは、装身具、武器・武具、馬具、農工具などの副葬品が出土した。

岩橋型横穴式石室とは

岩橋型横穴式石室は、和歌山県北部を中心に分布する横穴式石室の地域類型である。堀真人(2024)は、横穴式石室の構築原理を検討するなかで、「九州型の開かれた棺」という概念に着目している。また、岩橋型横穴式石室には、天井形態や玄門部の構造、石棚・石梁など、構造上の特徴が認められる。 岩橋型横穴式石室の構造的特徴を検討する際には、玄室の平面形態や天井形態、玄門部の構造、石棚・石梁の有無などが重要となる。岩橋型横穴式石室の特徴として、次のような構造・形態が挙げられている。ただし、これらのすべてが個々の石室に共通するわけではなく、石室ごとに構造上の差異がある(堀真人、2024)。

  1. 1. 板状の結晶片岩を使用する。
  2. 2. 平天井をもち、玄室高が高いものがある。
  3. 3. 玄門部が玄室内部に突出する。
  4. 4. 玄室前道をもち、基石を据えるものがある。
  5. 5. 玄門部を板状の扉石で閉塞する。
  6. 6. 排水溝を備えるものがある。
  7. 7. 石棚・石梁を備えるものがある。
  8. 8. 仕切石などによる屍床を有するものがある。
  9. 9. 遺骸を石室主軸に直交する方向に配置する例がある。
  10. 10. 玄室平面形には長方形・方形・T字形などがある。
  11. 11. 石棺を納置しないものがある。  

東西の造り出しの出土品

東の造り出しからは、家形埴輪をはじめ、翼を広げた鳥形埴輪、水鳥形埴輪、猪・犬・牛・馬などの動物形埴輪、人物埴輪、大刀形埴輪などが出土した。 西の造り出しからは、武人埴輪、巫女形埴輪、両面人物埴輪、盛装男子形埴輪、冠帽人物埴輪、馬形埴輪、胡籙形埴輪、靫形埴輪、家形埴輪、蓋形埴輪などが出土した。 とくに、頭部の前後に顔を表現した両面人物埴輪、翼を広げた鳥形埴輪、胡籙形埴輪は、全国的にも類例が少ない特色ある資料として注目される。

基壇および墳丘各段の平坦面には円筒埴輪列が巡る。これらの埴輪列には朝顔形埴輪などが組み合わされ、墳丘の区画や外表施設の構成を知る手がかりとなる。東の造り出しからは形象埴輪群の中心に家型埴輪があり、その周囲に翼を広げた鳥、水鳥、猪、犬、牛、馬などの動物の埴輪、貴人、力士、太刀などの埴輪が出土した。西の造り出しからは武人、巫女、両面人物、盛装男子、冠帽人物、飾り馬、胡籙形埴輪、靫(ゆぎ)、家型埴輪、蓋などが出土した。翼を広げた鳥、胡簶、両面人物の埴輪は珍しい。

今城塚古墳との共通性

墳丘の規模や構造、出土した形象埴輪には、畿内の有力古墳との比較において注目される要素が認められる。とくに家形埴輪などの形態は、今城塚古墳などの資料と比較するうえで重要であり、紀伊地域の有力首長と畿内政権中枢との関係を考える手がかりとなる。

大日山35号墳 の見どころ

巨大な前方後円墳

墳丘長は約86mであるが、最下段の盾形基壇を含めた全長は約105mに及び、和歌山県内でも最大級の規模である。標高141mの大日山山頂に築かれ、紀ノ川流域を見渡せる場所に立地する。

岩橋型(いわせがた)横穴式石室

玄室の天井を支える構造として、巨大な石棚や石梁が設けられている。

珍しい形象埴輪

表裏の両面に顔を表現した両面人物埴輪や、翼を広げた鳥形埴輪など、類例の少ない特色ある形象埴輪が出土している。 高床の家形埴輪など、畿内の有力古墳との比較で注目される埴輪が出土している。これらを含む大日山35号墳の出土品は、「和歌山県大日山35号墳出土品」として国の重要文化財に指定されている。

規模

  • 墳形:前方後円墳
  • 墳丘長:約86m
  • 基壇を含む全長:約105m
  • 後円部:径約37~39m、高さ約6~6.5m
  • 前方部:幅約49~50m、高さ約7.5m

遺構

  • 基壇:盾形
  • 墳丘:二段築成の前方後円墳
  • 外表施設:円筒埴輪列
  • 造り出し:東西のくびれ部に設置
  • 埋葬施設:岩橋型横穴式石室(後円部西側に開口)
  • 石室の特徴:石棚・石梁を備える

主な出土遺物

  • 埴輪:円筒埴輪、家形埴輪、人物埴輪、動物形埴輪、武器・武具形埴輪など
  • 特徴的な埴輪:両面人物埴輪、翼を広げた鳥形埴輪、胡籙形埴輪など
  • 須恵器:高坏、杯、坩、長頸壺など
  • 石室出土品:変形獣文鏡、鉄刀片、馬具、装身具、農工具など

文化財指定

  • 2016年8月17日:重要文化財指定「和歌山県大日山35号墳出土品」(考古資料、一括)

被葬者

  • 被葬者の具体的な人物は特定されていない。墳丘の規模や立地から、紀ノ川下流域の有力な地域首長が埋葬されたと考えられており、紀氏など紀伊地域の有力氏族との関係が想定されている。

築造時期

  • 古墳時代後期(6世紀前半)

展示

  • 和歌山県立紀伊風土記の丘(出土品を展示) 休館中

アクセス等

  • 名称:大日山35号墳
  • 所在地:和歌山県和歌山市井辺・岩橋
  • 交通:

参考文献

  1. 網干善教(1967)『関西大学文学部考古学研究紀要 第2冊』関西大学史学・地理学会
  2. 関西大学考古学研究室(1966)「岩橋千塚調査概報 : 昭和四十年度」『史泉』巻 32, pp. 63-65
  3. 堀真人(2024)「横穴式石室の構築原理を考える」紀要 / 滋賀県文化財保護協会編(37), pp.15-27
  4. 和歌山県教育委員会(2015)『特別史跡岩橋千塚古墳群 発掘調査・保存整備事業報告書』和歌山県教育委員会
  5. 和歌山県教育委員会(2025)『岩橋千塚古墳群総括報告書Ⅰ』和歌山県教育委員会
  6. 和歌山県立紀伊風土記の丘編(2013)『大日山35号墳発掘調査報告書―特別史跡岩橋千塚古墳群発掘調査・保存整備事業報告書2―』和歌山県教育委員会

短里説 ― 2026年11月01日 00:03

短里説(たんりせつ)は『魏志倭人伝』の里程記事の距離が「短里」により書かれているとする説である。

短里説の概論

「短里説」は、『魏志倭人伝』に記された里程の「里」が、当時の中国の標準的な1里より大幅に短いとする説である。これに対して、通常の里を用いたと考える立場を、短里説側では『長里説』と呼ぶことがある。 倭国までの距離(里程)を説明する際、『魏志倭人伝』に記された帯方郡から邪馬台国までの「一万二千余里」を魏代の標準的な里制で換算すると、約5,000kmを超える距離となり、実際の地理的な位置関係と大きく乖離する。この乖離を説明するため、一部の研究者は『魏志倭人伝』の「里」が魏代の標準的な里よりも短い単位であったとする「短里説」を提唱した。短里説では、里程を短い単位に換算することで、対馬・壱岐を経て北部九州に至る行程を説明できるとされる。この説は邪馬台国所在地論争、とくに九州説と畿内説をめぐる議論の争点の一つとなっている。 短里説は、帯方郡から邪馬台国までの里程を短い単位で換算することで、邪馬台国を北部九州に比定する九州説の根拠の一つとされている。一方、畿内説の立場からは、短里説の単位設定や史料上の根拠に対する批判がある。

古田の短里説

古田武彦は魏志倭人伝の里程記事が「短里」で書かれていると主張する。古田は「1里を約76~77m」としている(古田武彦・谷本茂(1994))。 その根拠は以下のようである。

(1)『魏志倭人伝』韓伝に韓地は方四千里と書かれていること(古田武彦(2012))。

韓地の範囲を馬韓・辰韓・弁韓の領域とし、現代の地図上で東西約210km、南北約350kmと見積もると、それぞれを4,000里で割った場合、1里は約52m、約88mとなる。ただし、この計算は、現代の地理的範囲が『魏志』韓伝の「方四千里」に対応することを前提とする。韓地の範囲や「方四千里」の意味をどのように解釈するかによって結果が変わるため、この計算だけで短里の長さを確定することはできない。なお古田武彦が山尾幸久(1986)の記述として引用する「陳寿は先行文献によって、韓地を『方四千里』と記した。しかし、内心ではこれを信じていなかった」という文章は、古田武彦が指定したページ(91ページ)には見当たらない。

(2)『三国志』呉書・鐘離牧伝に武陵から五谿まで二千里と書かれること(古田武彦(2012)。

五谿とは雄谿・樠谿・武谿・酉谿・辰谿の総称であり、単一の地点を指す名称ではない。武陵を現在の湖南省常徳市付近とし、五谿の一つである辰谿付近までの距離を測ると、現代の道路距離では約241kmとなる。ただし、五谿のどの地点を終点とするか、また原文の「垂二千里」をどのような行程と解釈するかによって、比較の結果は変わる。

(3)「魏志」張遼伝に天柱山の高さを20里としていること(古田武彦(2012),p.51)。

「魏志」張遼伝は「山の中に天柱山有り、高く峻(けわ)しきこと二十余里」とかいており、古田は天柱山を標高1860mとして、短里説に適合するとした(古田武彦(2012),p.51)。

(4) 『論語』先進篇「方六七十、如五六十」における領域の規模

『論語』先進篇には、冉有が政治を行う対象として「方六七十、如五六十」と述べる箇所がある。古田武彦・谷本茂(1994、p.57)は、この「方六七十」を一辺が60~70里、「如五六十」を一辺が50~60里の範囲と解釈し、短里説の論拠としている。

古田の換算によれば、長里では一辺50里が約21.75km、70里が約30.45kmとなるのに対し、短里では一辺50里が約3.85km、70里が約5.39kmとなる。古田は、この規模の違いを踏まえ、短里による解釈が適切であると主張している(古田武彦・谷本茂(1994)、p.58)。

短里説への反論

短里説への反論1(中国の度量衡の魏尺)

中国の度量衡については、時代によって尺の長さに差があり、周尺・前漢尺は約23.1cm、後漢尺は約23.8cm、魏尺は約24.2cmとされる。山尾幸久(1986)は、『晋書』律暦志・『隋書』律暦志などを基本資料とする中国の度量衡研究を紹介し、薮田(1969)による数値を挙げている。

実際に、古代中国の物差しが出土している(中国国家計量総局(1981))。戦国時代から前漢までの尺はおおむね23cmとされ、魏代には正始五年銘の弩機に伴う尺(正始弩尺)として、約24.3cmの実物資料が確認されている。この資料は、魏代に約24cmの尺が実際に使用されていたことを示す物的証拠である。

秦漢以来の度量衡体系では、1歩を6尺、1里を300歩とする換算が用いられていた。この体系を魏代にも適用し、魏尺を約24.2cmとすると、1里は300歩×6尺、すなわち1,800尺となり、約435.6mと算出される。

したがって、1里を約75~77mとする短里説は、通常の里制とは大きく異なる単位を想定することになる。『魏志倭人伝』でそのような短里が用いられたとするには、通常の里制とは異なる単位が採用されたことを示す史料上の根拠が必要である。

短里説への反論2(鐘離牧伝の里程)

古田は「魏志鐘離牧」と表記するが、正しくは『三国志』呉書・鐘離牧伝である。 『三国志』呉書・鐘離牧伝の原文は、次のとおりとなる。「即率所領,晨夜進道,緣山險行,垂二千里……」。これは「山険に沿って進み、二千里近くに及んだ」という趣旨であり、特定の二地点間の距離を直接示した文章ではない。「二千里に垂(なんなん)とす」、すなわち二千里に近いという意味である。 「垂二千里」は、武陵から五谿方面への軍事行動における進軍距離を表すと考えられるが、特定の二地点間の距離を示すとは限らない。現在の地図上で武陵郡治から五谿の一地点までの距離を測り、二千里で割る方法だけでは、当時の里の長さを確定することはできない。

短里説への反論3(『魏志』韓伝の「方四千里」)

古田説を検討する際には、『魏志』韓伝の「方四千里」が示す韓地の範囲と、そこから短里の長さを導き出す計算の前提を確認する必要がある。馬韓・辰韓・弁韓の範囲をどのように設定するかによって、現代の地図上で測定される距離は変わる。また、韓地と高句麗の領域は区別して扱わなければならない。したがって、特定の地理的範囲を設定して距離を四千里で割るだけでは、短里の長さを確定することはできない。

短里説への反論4(天柱山の「高峻二十余里」)

この天柱山は、現在の中国安徽省潜山市北西にある天柱峰に比定され、同峰の標高は約1,489mとされる。一方、古田武彦(2012)の著書には標高1,860mと記されている。両者の数値には差があるが、古田が記した数値の出典や測定対象を確認しないまま、単純に誤りと断定することはできない。

『三国志』魏書・張遼伝には、灊山の天柱山について「高峻二十余里」と記されている。古田はこの記述を山の高さを表すものと解釈し、短里説の論拠としている。しかし、「二十余里」が山の高さを意味するかどうかは、原文の構文や類例を踏まえて検討する必要がある。現代の標高を里数で割るだけでは、当時の里の長さを確定できない。

短里説への反論5(『魏志倭人伝』の里程)

魏代には、秦漢以来の度量衡体系に基づく標準的な里制が存在したと考えられる。しかし、標準的な里制が存在したことだけで、『三国志』に記されたすべての里程が、実際の地理的距離を正確に反映していると結論づけることはできない。

一方、特定の里程記事を短里の証拠とする場合にも、原文の意味、地点の比定、距離の測定方法を検証する必要がある。『魏志倭人伝』だけに約75~77mの短里を用いたとするには、通常の里制とは異なる単位が採用されたことを示す積極的な史料上の根拠が求められる。

短里説への反論6(「雒陽東北三千六百里」)

中国の里程表記を比較する資料として、『後漢書』郡国志の遼東郡に関する記述が挙げられる。同書には、洛陽から遼東郡までの距離を「雒陽東北三千六百里」と記している。現在の地理に基づいて洛陽から遼陽付近までの距離を比較すると、標準的な里制と短里説とでは、換算結果に大きな差が生じる。

ただし、郡国志の里程は行政地理上の記述であり、現代の直線距離や道路距離と同じ基準で算出されたとは限らない。遼東郡の範囲、郡治の比定、古代の交通路などを考慮する必要があるため、この比較だけで当時の里の長さを確定することはできない。それでも、『魏志倭人伝』だけに特別な短里を設定する説を検討する際には、他の中国史料に見られる里程記事との整合性を確認することが重要である。

短里説への反論7(魏志倭人伝の距離表記の課題)

魏志倭人伝の距離表記における問題は、「短里」を仮定することで解決できず、他の要因を考えるべきであろう。 第一に、『魏志倭人伝』では、対馬・壱岐・末盧国などの地点間の距離が「里」で記載されているが、これらが現代の地図上の直線距離を示すとは限らない。航海に要した実際の行程や、航行時の風・潮流などを含めた距離認識が里程に反映されている可能性もある。また、所要日数などから距離が概数として認識された可能性も考慮する必要がある。 第二に魏の使者が実際に倭国の行程を測量しながら歩いたわけではなく、現地の情報や体感を基に記述したことも考えられる。伝聞情報による誤差により距離が誇張されたり、距離が概数として記録された可能性、実際と異なる情報による誤解が生じた可能性がある。 第三に『魏志倭人伝』の里程表記では、距離と方角が必ずしも正確な形で一致していない個所がある。倭人伝の里程記事を、現代地図上の距離と方位に一対一で対応させること自体に限界がある。さらに当時の観念的な世界観に基づいて里程が書かれていたとの指摘もある(東潮(2026))。そうであれば、里程記事を現代の地図上の実距離にそのまま対応させて、特定地域の所在地を推定することには相当の慎重さが必要となる。

短里説への反論8(代から桑乾の二百余里)

山尾幸久(1986)は、『三国志』魏書・任城威王彰伝の「桑乾に至る。代を去ること二百余里なり」という記事を、短里説を検討するための比較例として挙げている。桑乾と代の比定地点間の距離を約85kmと見積もり、これを二百余里と比較すると、1里は約425mとなる。

ただし、この計算は、桑乾と代の比定地点、および現代の地図上で測定した距離を前提としている。したがって、標準的な里制との整合性を検討する材料にはなるが、この計算だけで当時の里の長さを確定することはできない。

短里説への反論9(「郿去長安二百六十里」)

山尾幸久(1986)は、『三国志』魏書・董卓伝の注に引用された『英雄記』の「郿去長安二百六十里」という記事を挙げている。郿の所在地を現在の陝西省眉県付近とし、長安との距離を現代の地理に基づいて比較すると、標準的な里制に近い換算値となる。

ただし、郿の比定地点、古代の交通路、現代の直線距離と道のりの違いによって計算結果は変わる。仮に道のりを約120~140kmとすると、260里で割った値は約462~538m/里となる。この数値は標準的な里の長さに近いものの、比較のための概算であり、距離の測定基準(距離を算出した地図・資料)を明示せずに、当時の里の長さを確定する根拠として扱うことは困難である。

短里説の古田説への反論10(『論語』先進篇の「方六七十、如五六十」)

古田武彦・谷本茂(1994)は、『論語』先進篇の「方六七十、如五六十」を短里説の論拠としている。しかし、この箇所は冉有が政治を行う対象の規模について述べたものであり、後段で孔子は「方六七十、如五六十であっても、どうして一国でないことがあろうか」と説明している。朱熹の『論語集注』も、この規模の領域を「小国」と解釈している。

したがって、この箇所は村の中の区画を意味するというより、小国の領域の規模を示すと解釈するのが文脈上自然である。古田の解釈を採用するためには、当該箇所を村の内部の区画と読むことができる文献上の根拠が必要となる。

また、周代の里制を約405mと仮定すると、50里四方の領域は一辺約20.25km、面積約410km²、70里四方では一辺約28.35km、面積約803km²となる。この規模は、古田が想定する村内の区画という解釈とは整合しにくい。ただし、周代の里の長さには復元値の違いがあるため、具体的な換算値を用いる場合は、その根拠となる度量衡資料を示す必要がある。

短里説の古田説への反論11(古田・谷本の里単位の一貫性に関する主張)

古田武彦・谷本茂(1994)は、「一つの本の中で、里単位は一貫しているのが原則である」(p.25)、「陳寿と同時代にできた本は同じ里単位にもとづいていなければおかしい」(p.31)と述べている。

この主張に従えば、『三国志』の中で『魏志倭人伝』だけに短里を適用することには問題が生じる。反論8・9で取り上げた『三国志』中の他の里程記事についても、同じ短里を適用できるかどうかを検討する必要がある。これらの里程記事を短里で説明できないのであれば、倭人伝だけに特別な短里を設定することは、古田・谷本自身が示した里単位の一貫性という原則とも整合しにくい。

結論

『魏志倭人伝』に記された里程と実際の地理的距離との乖離を説明するため、「短里説」が提唱されている。魏代には、正始五年銘の弩機に伴う尺など、約24cmの尺の実物資料が存在する。また、秦漢以来の度量衡体系に基づき、1里を300歩、1歩を6尺とする換算を魏代にも適用すると、1里は約435.6mとなる。

一方、『魏志倭人伝』に記された里程には、伝聞情報、行程の認識、航海距離、方角や地理的比定など、単位の長さだけでは説明できない問題もある。『三国志』の他の里程記事や同時代・前後の中国史料との比較も、短里説を検討するうえで重要である。

したがって、短里説には、倭人伝の里程を短い単位に換算することで、九州方面への行程を説明しやすいという利点がある一方、魏代に約75~77mの里が使用されたことを直接示す史料は確認されておらず、度量衡資料や他の里程記事との整合性にも検討すべき問題がある。短里説を採用するには、通常の里制とは異なる単位が『魏志倭人伝』に用いられたことを示す、積極的な史料上の根拠が必要である。

参考文献

  1. 東潮(2026)『邪馬台国の考古学: 魏志東夷伝が語る世界』吉川弘文館
  2. 須股孝信(1992)「畿内の遺構配置にみる古代の土木技術(その3)」土木史研究 12,pp.131-142
  3. 中国国家計量総局(1981)『中国古代度量衡図集』文物出版社
  4. 古田武彦・谷本茂(1994)『古代史の「ゆがみ」を正す―「短里」でよみがえる古典』新泉社
  5. 古田武彦(1992)『「邪馬台国」はなかった』朝日新聞社
  6. 古田武彦(1977)「邪馬台国九州説10の知識」『歴史読本』新人物往来社,昭和52年8月号
  7. 古田武彦(2012)『多元的古代の成立 上』ミネルヴァ書房
  8. 薮田嘉一郎(1969)『中国古尺集説』綜芸社
  9. 山尾幸久(1986)『魏志倭人伝 新版』講談社

権現山51号墳 ― 2026年10月31日 00:05

権現山51号墳(ごんげんやまごじゅういちごうふん)は、兵庫県たつの市に所在する前方後方墳である。

概要

兵庫県たつの市御津町中島(旧揖保郡御津町)の権現山の尾根上に位置する前方後方墳である。築造年代は古墳時代前期初頭の3世紀中頃と推定されており、古墳時代の成立過程を考えるうえで重要な古墳の一つである。

墳丘規模

墳長は約43mとされ、後方部は一辺約28m、高さ3.2m、前方部は幅14m、長さ20m、高さ1.3mとされる。後方部を円形と仮定した場合、箸墓古墳に類似する前方後円形の墳形になるとの指摘がある。 1989年に発掘調査が行われ、1991年に調査報告書が刊行された。調査は近藤義郎を団長とする権現山51号墳発掘調査団によって実施された。 埋葬施設は、後方部に墳丘主軸と直交する方向に設けられた竪穴式石室である。

主要な出土品

埋葬施設からは三角縁神獣鏡5面をはじめ、鉄製武器・工具、ガラス小玉、貝製品、木製品などが出土した。また、墳丘の崩落土から特殊器台形埴輪・特殊壺形埴輪が出土しており、これらは墳丘上に樹立されていたと推定されている。吉備地方に系譜をもつこれらの資料は、特殊器台・特殊壺から古墳時代の埴輪へと展開する過程を考えるうえで重要である。 そのほか、割竹形木棺、木製枕、槍先を納めた鞘、鉄製工具類などが出土した。 特殊器台の文様・形態については、弧帯文がⅣ式2、透穴の形状が巴形Z字状および三角形と分類されている(小林萌絵(2023))。遺存していた人骨の分析から、被葬者は壮年後半から熟年にあたる男性と推定されている。

木製枕

木製枕は、2023年時点で、古墳時代の木製枕として国内最古の例とされている(大阪府立近つ飛鳥博物館(2023))。石枕には、伝渋谷出土石枕や、関東地方を中心に分布する常総型石枕などがあり、材質や形態、出現時期の比較は、古墳時代の葬送儀礼を考えるうえで参考となる。 (大阪府立近つ飛鳥博物館(2023))比較対象は伝渋谷出土石枕(奈良県天理市、渋谷向山古墳出土説、4世紀後半)、常総型石枕(基底部が四角形・円形・馬蹄形・帆立貝形など独自の形状を持つ70例があり、常総型石枕の最古は5世紀初頭(古墳時代中期前半))である。

鏡

副葬品として三角縁神獣鏡5面が出土した。鏡の名称は、天王日月吉獣文帯四神四獣鏡、張氏作三神五獣鏡、吾作三神五獣鏡、陳是作四神二獣鏡、波文帯四神二獣鏡である。 いずれも古式の形式に属する。 白石太一郎(1999)や都出比呂志(2011)による三角縁神獣鏡の製作段階論では、権現山51号墳出土鏡は第2段階に位置づけられる。また、岩本崇(2018)などの前期古墳編年案では、同古墳はⅠ期に位置づけられている。同笵鏡は、京都府の椿井大塚山古墳などからも確認されており、古墳間の鏡の共有・流通を考えるうえでも重要な資料である。

権現山51号墳の意義

権現山51号墳は、古墳時代の成立過程や初期古墳における地域間交流を考えるうえで重要な古墳である。発掘調査を主導した近藤義郎は、「年来待ち望んでいた都月型円筒埴輪と三角縁神獣鏡の共伴関係がこの権現山古墳で初めて捉えられた喜び」を語る(権現山51号墳発掘調査団(1991))。 吉備地方に系譜をもつ特殊器台形埴輪・特殊壺形埴輪と、三角縁神獣鏡が同一古墳から出土したことは、埴輪の成立過程や、古墳時代初頭における地域間交流や各地の政治的関係を考えるうえで重要な意味をもつ。

都月型円筒埴輪と三角縁神獣鏡の共伴関係

「権現山51号墳」の発掘調査によって初めて実証された、考古学史上の極めて重要な発見であったが、待ち望まれていた理由は次の通りである。 近藤義郎は、特殊器台形埴輪と三角縁神獣鏡を、古墳時代初頭の古墳を考えるうえで重要な指標とみなしていた。両者の前後関係や編年(年代順)は、議論が続いていた。しかし、両者が共伴する例は容易には確認できず、その関係を実証できる古墳の発見が課題となっていた。権現山51号墳の発掘調査では、都月型円筒埴輪と三角縁神獣鏡の共伴関係が確認された。都月型円筒埴輪は、特殊器台形埴輪のなかでも古い段階に位置づけられる形式であり、三角縁神獣鏡との共伴は、古墳時代初頭の埴輪と副葬鏡の年代的位置づけを検討するうえで重要な資料となった。この発見は、両者の編年的関係を具体的な出土例に基づいて検討するための重要な基準を提供した。都月型円筒埴輪は、吉備地方の特殊器台・特殊壺の系譜を引く、古墳時代初頭の埴輪である。現在は、特殊器台形埴輪などの名称で説明されることもあるが、これは総称であり、編年(年代順)や意義を論じるには不十分である。

展示

出土品の展示・保管状況については、赤穂市立有年考古館で土器が展示され、兵庫県立考古博物館では鏡のレプリカが展示されている。また、出土鏡は岡山大学文学部考古学資料館に所蔵・保管されている。

遺構

  • 前方後方墳、竪穴式石室
  • 埋葬施設・棺:竪穴式石室、割竹形木棺

遺物

  • 三角縁神獣鏡 5面
  • 特殊器台形埴輪・特殊壺形埴輪
  • 銅鏃・鉄鏃
  • 鉄製武器・工具
  • ガラス小玉
  • 貝製品
  • 木製枕・槍先の鞘などの木製品

時期

  • 古墳時代前期初頭(3世紀中頃)

指定

文化財指定:なし

アクセス

  • 名称:権現山51号墳
  • 所在地: 兵庫県たつの市御津町中島権現山 山頂
  • 交 通: 山陽網干駅から徒歩45分。

参考文献

  1. 岩本崇(2018)『副葬品と埴輪による前期古墳広域編年』六一書房
  2. 岩本崇(2025)「三角縁神獣鏡の副葬と古墳時代の開始」『古墳時代の播磨』神戸新聞
  3. 小林萌絵(2023)「埴輪の起源と神奈川県内出土の埴輪について」令和5年度第4回考古学講座資料
  4. 権現山51号墳発掘調査団(1991)『権現山51号墳 : 兵庫県揖保郡御津町』『権現山51号墳』刊行会
  5. 白石太一郎(1999)『古墳とヤマト政権』文藝春秋
  6. 大阪府立近つ飛鳥博物館(2023)『まくら-古墳時代の石枕と葬送儀礼-』令和5年度冬季特別展図録
  7. 都出比呂志(2011)『古代国家はいつ成立したか』岩波書店