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老司古墳 ― 2026年09月27日 00:05

老司古墳(ろうじこふん)は福岡県福岡市南区に所在する古墳時代中期の前方後円墳である。

概要

福岡県を流れる那珂川中流域の西岸に位置する。 全長約76メートル、後円部径約45m、後円部高さ7.9m、前方部幅約40m、前方部長33m、前方部長4mの前方後円墳である。標高約40mの丘陵上に前方部を南に向けて造られている。墳丘に葺石が施され、埴輪が立っていた。副葬品は銅鏡10面(三角縁神獣鏡、方格規矩鏡など)のほか、短甲などの武具、鉄剣・鉄刀などの武器、馬具、装身具(勾玉・管玉)、家形・円筒・壺形埴輪などが出土した、馬具として捩じった鉄棒を銜(はみ)に使用した轡が出土した。 5世紀初頭の築造とされる。 福岡少年院の敷地内に位置しており、立ち入りや見学はできない。

調査歴

発掘調査は九州大学を主体として第1~第3次調査(1965~69年)が行われ、福岡市教育委員会が第4次調査(1987年)を実施した。 第1次調査は1966年8月5日~8月14日に九州大学考古学研究室により行われた。後円部第1号石室の発掘を行ない、古墳主軸に直交する竪穴式石室を確認した。東隣に古墳主軸に平行する第2号竪穴式石室を発見し調査した。第2次調査は1967年8月5日~8月24日に、同じく九州大学考古学研究室により行われた。円部墳丘をめぐる壺形埴輪・茸石の検出、3号石室の南側小田部に階段状施設と前方部上面に通ずる墓道を検出し、追葬を確認した。 認

横穴式石室

後円部に3基、前方部に1基の埋葬施設は「竪穴系横口式石室」として初期の横穴式石室であり、日本における横穴式石室の成立過程を知る上で重要である。石室内に残っていた人骨から、複数の成人男女が葬られていたことが判明している。3号石室が最も初期とされている。

1号石室(後円部中央)

石室長さ約2.1 m、幅約0.95m、高さ約 08mである。構造は最も原初的(竪穴式から横穴式への移行期最初期)な形態を示す。注目すべきは、中国から渡来した貴重な「舶載三角縁神獣鏡」がわざわざ割られた状態(破鏡)で納められていたところが注目される。横に小さな出入口(横口)を設けたことにより「一度造った墓に、後から別の人を葬る(追葬)」が見られる。短甲や大刀、鉄鏃から軍事的な役割をもった首長と見られる。

2号石室(後円部)

石室長さ約2.2m幅、約0.9m、1号石室とほぼ同規模の狭小な石室である。遺物より埋葬時期は5世紀中葉頃と考えられる。

3号石室(後円部中央・最主力)

4つのうち最も規模が大きい石室である。石室長さは約2.4m、幅は約1.0mである。墓道の長さが約9メートルに達するなど、埋葬へのアプローチが最も大規模に設計されている。、墳頂からの深さ2mである。石室自体のサイズがやや拡大している。 竪穴式石室の範鴫になるものの、出入口(横口部)が階段状の構造であり、原初的な横口式の技法をとり入れている。南側小口壁の外に横断面逆梯形の通路状掘りこみが見られる。 第3号石室が最も貴も古く、5世紀初頭に位置づけられる。

4号石室(前方部)

石室は2.22m、幅0.79mの長方形である。石室の壁は割石状の扁平な石を小口積みにして積む。4号石室では外側に開いた扉石(塞ぎ石)を立てるなど、より後世の「横穴式石室」に近づく。入り口に棚を作り、粘土を敷く。石室内には赤色顔料を塗布する。

副葬品

1号石室

鏡(方格規矩鏡1、舶載三角縁神獣鏡)、竪櫛・碧玉管玉など、武器(刀剣類・鉄鏃)、農工具等(鋤先・平鎌・蕨手刀子・砥石など、土器(器台)

2号石室

鏡(変形文鏡1)、武器(鉄剣・鉄鏃・短甲)、馬具(鉸具)

3号石室

鏡(三角縁神獣鏡片1・方格規矩鏡3・内行花文鏡3・捩文鏡1)、装身具(金環・竪櫛・玉類)、武器等(刀剣類・短甲・三尾鉄)、農工具等(鋤先・斧・鑿・鋸・蕨手刀子・鹿角柄・砥石など)、馬具(轡・鞍橋金具)、土器(盤・片枕・器台など)。

4号石室

人骨3体、装身具(竪櫛・滑石勾玉)、鉄製品(刀剣類・鉄鏃、矛)、農工具等(鎌・鉄斧)土師器(大型器台)が出土した。

遺構

  • 前方後円墳
  • 周濠

遺物

  • 銅鏡
  • 短甲
  • 鉄剣
  • 鉄刀
  • 鉄矛
  • 鉄鏃
  • 刀子
  • 鍬
  • 鋤先
  • 斧
  • 勾玉
  • 管玉
  • 金環
  • ガラス玉
  • 埴輪

展示

指定

  • 2000年12月 国指定史跡

アクセス等 

  • 名称  :老司古墳
  • 所在地 :福岡県福岡市南区老司
  • 交 通 : 西鉄「大橋駅」から「老松神社前」または「老司団地〔1〕」「老司団地〔2〕」バス停で下車 徒歩約8〜10分

参考文献

  1. 佐田茂(1975)「竪穴系横口式石室の一側面」史淵 112 pp.309-326
  2. 福岡市教育委員会(1969)「老司古墳」福岡市埋蔵文化財調査報告書第209集

谷口古墳 (佐賀県) ― 2026年09月26日 00:29

谷口古墳 (佐賀県)(たにぐちこふん)は佐賀県唐津市浜玉町谷口に所在する、4世紀末頃に築造された前方後円墳である。全長約77m、後円部径40m、後円部高さ8mで、城山から南西に延びる尾根の先端部に築かれている。前方部が低い古式の墳形を示し、墳丘には葺石が施されている。後円部には東西2基の石室があり、それぞれに松浦砂岩製の長持形石棺が納められている。これらの石室は、竪穴式石室の系譜を引きながら初期横穴式石室の要素をもつ横口構造を示し、玄界灘沿岸における初期横穴式石室の成立・展開を考えるうえで重要である。

概要

浜玉町谷口の十坊山の南西麓の丘陵上(標高20~25m)に造営された全長(墳長)77mの前方後円墳である。石室は竪穴系横口式石室である。墳丘主軸は、ほぼ南北方向を向く。築成は前方部1段、後円部2段である。墳丘上には葺石がふかれ、家形埴輪、朝顔形埴輪、円筒埴輪などが並べられていた。

円筒埴輪は円筒Ⅱ式である。 4世紀末(古墳時代中期初頭)の築造である。

石室

後円部には東西2基の石室があり、それぞれに松浦砂岩製の長持形石棺が納められている。西石室は3.16m×1.85m、東石室は長さ2.95m、幅1.60mである。 前方部に舟形石棺が埋納されている。長持形石棺は古墳時代中期に用いられたもので、当時の近畿では大王級の被葬者に用いられた。内部に長持式石棺が安置された。

石室は竪穴系横口式石室(初期横穴式石室の要素をもつ横口構造)で、竪穴式石室の構造を基礎としながら、横口部を設けた初期の横穴式石室への展開を示す構造をもつ。石室は竪穴系横口式石室としては最古級のものである。竪穴式石室の系譜を引きながら横口を設けたその構造を、黒石哲夫(2025)は「朝鮮半島の百済系統の石室を祖型として成立した畿内系横穴式石室が6世紀前半にかけて各地域へ展開していく」とした。

朝鮮半島の百済系統の石室を祖型とする畿内系横穴式石室の成立・展開過程との関係から重要である。石室側壁に割石を積み上げ持ち送っており、合掌形の特異な構造となっている。壁面には全体に顔料(水銀朱)が塗られ、赤く鮮やかに彩られる。

西石室の棺は、6枚の板石を組み合わせて造られて蓋石が長持形をなす。長さ約2.6m、幅約0.6~0.8mで蓋、長側板、底板にそれぞれ2個の縄掛突起が付けられる。 東石室は西石室より先に造られている。その他前方部から舟形石棺1基、西側くびれ部付近から壺棺1基が発見された。 東石室は奥行2.93m、幅1.60mの長方形の竪穴式石室である。

副葬品

出土品には銅鏡7面(三角縁神獣鏡2面、位至三公鏡1面、変形四獣鏡2、三角縁三神三獣鏡2)、武器(剣8、刀11以上、鉄鏃)、石釧(碧玉釧)11個、鉄器類(斧、鎌・斧、錐)、玉類(硬玉製勾玉5・碧玉製管玉292・ガラス勾玉3・ガラス小玉 ・真珠・勾玉)である。硬玉勾玉は東京国立博物館の所蔵で、長1.5cm、幅0.8cm、厚0.5cmである。

三角縁神獣鏡は一貴山銚子塚(福岡)・長塚古墳(岐阜)・ヌク谷北塚古墳(大阪)・大阪阿武山古墳(大阪)・天王山古墳(滋賀)・関家所蔵品と同笵鏡である。

遺構

  • 前方後円墳

遺物

  • 銅鏡7面
  • 鉄器類
  • 石釧

展示

  • 東京国立博物館(出土品の一部を所蔵)
  • 歴史資料室(浜玉市民センター内、レプリカ展示)

指定

  • 1941年(昭和16年)12月13日 国の史跡

アクセス等 

  • 名称  :谷口古墳
  • 所在地 :佐賀県唐津市浜玉町谷口
  • 交 通 : 浜崎駅 徒歩 30分 
  • 留意事項:※石室内部の見学は事前申込みが必要。4~11月は原則として見学対応なし。

参考文献

  1. 浜玉町教育委員会(1991)『浜玉町文化財調査報告書2:史跡谷口古墳保存修理事業報告書』浜玉町教育委員会
  2. 黒石哲夫(2025)「一墳丘に複数の埋葬施設をもつ後期古墳について」待兼山考古学論集4、pp.587-599
  3. 蒲原宏行(1994)「浜玉町谷口古墳の出土状況について」佐賀県立博物館・美術館館報No105

曽谷貝塚 ― 2026年09月25日 00:08

深鉢土器/曽谷貝塚/明治大学博物館/筆者撮影

曽谷貝塚(そやかいづか)は千葉県市川市に所在する縄文時代前期から後期を中心とする貝塚・集落遺跡である。

概要

千葉県北部地域に広がる下総台地の西南縁部に位置する。曽谷貝塚は、標高22~25mの台地上の窪地の周辺に形成されており、東西210m・南北240mの範囲で、北の谷側を開口部とする単独の中央窪地型馬蹄形貝塚としては国内最大級の規模をもつ(市川市教育委員会(2025))。貝層は一連の帯状に連続するものではなく、東側に2つ、西側に1つの主要な貝層ブロックがあり、周辺にも小貝塚ブロックが点在する。

出土する土器形式は縄文時代後期後葉の曽谷式土器の標式遺跡となっている。竪穴住居は、窪地周囲の土手状の高まりの頂部から外側にかけて設けられ、貯蔵穴と推定されるピットは高まり頂部から少し入ったところに多く設けられている。 埋葬人骨も特に集中することなく、高まりの頂上付近で発見されている。土器や人骨などの出土資料の一部は市川市考古博物館で保管・展示されている。

環状集落

台地の上にある中央の窪地(広場)を囲むように、直径約210m-240mにわたって貝層や竪穴住居が並んでいた。台地上の中央窪地を囲むように貝層や竪穴住居が分布し、北側の谷に向かって開く馬蹄形の集落構造を形成している。 これまでに45軒の竪穴住居跡や、20体以上の埋葬人骨が発見されている。

調査

考古学者の高橋百太郎、中澤澄男や柴田常恵による明治末頃の発掘以来、曽谷貝塚はしばしば調査されてきた。その中で、1959年(昭和34年)・1962年(昭和37年)には明治大学による発掘調査・地形測量が行われ、1965年(昭和40年)には千葉県教育委員会による調査も行われた。1974~1978年(昭和49~53年)には市川市教育委員会・調査団による継続的な発掘調査が行われた。これらの調査によって、本貝塚の規模・構造や集落の実態が明らかになっていった。 遺物はハマグリを主体とする貝層、土偶、堀之内I式土器、加曽利BI式土器、堀之内I期・II期の住居址、埋葬用と考えられる堀之内I式の大型甕形土器、そして伸展葬や屈葬の埋葬人骨等である。ほか貝刃・ヘラ状貝製品・貝輪(未製品を含む)・イモガイ類垂飾・ツノガイ管玉・穿孔貝などが出土している(市川市教育委員会(2025))。また、イタボガキの貝殻と貝輪未製品が出土しており、集落内で貝輪を製作していたことが明らかになっている。

指定

  • 1979年(昭和54年)12月22日 - 国の史跡に指定
  • 2016年(平成28年)3月1日 追加指定

所在地等

  • 名称: 曽谷貝塚
  • 所在地:千葉県市川市曽谷2丁目15ほか
  • 交通: JR総武線本八幡駅からバス「曽谷」下車

参考文献

  1. 明治大学(2026)「曽谷貝塚 出土資料と記録」明大コレクション65
  2. 市川市教育委員会(2025)「国指定史跡曽谷貝塚保存活用計画」

中原遺跡(沼津市) ― 2026年09月24日 00:05

中原遺跡(沼津市)(なかはらいせき)は香貫山北麓から西に延びる丘陵の裾部に位置し、青野川と高橋川に挟まれた低地を望む弥生時代・古墳時代の複合遺跡である。

概要

平成29年度の調査ではこれまで知られていた古墳時代後半から奈良・平安時代にかけての集落跡に加え、弥生時代中期の方形周溝墓3基と古墳時代後半の古墳2基が検出された(沼津市教育委員会(2023))。

弥生時代

弥生時代中期の方形周溝墓は沼津市内では確認例が少なく、第1号方形周溝墓は周溝を含め一辺約26mに及び、沼津市内ではこの規模の方形周溝墓として初めて確認された。 第1号方形周溝墓の周溝を含めた規模は東西26.2m、南北25.6mで、中央の墓域は一辺約17mの規模をもつ。第2号方形周溝墓と第3号方形周溝墓は調査区外であった。第1号方形周溝墓の砂礫の下から、細頸壺3点、受口太頸壺2点、短頸壺1点、大型壺1点、小型壺1点、異形壺1点、高坏1点が出土した。一辺が約26mを超える規模のものは、沼津市内では初の事例であった。

古墳時代・奈良時代

平成20~22年度の発掘調査では7世紀頃の建物跡約130棟や、10世紀頃の溝・柱穴などが発見された。 ガラス小玉の製作に関係するとみられる遺物や、鉄製品の加工に関係する道具が出土しており、生産活動に従事した人々の集落であった可能性が指摘されている。

中原遺跡(沼津市)の意義

大量の出土品(コンテナ220箱以上)の中にガラス小玉を作った鋳型や鉄製品の加工道具が含まれている。ガラス小玉の製作や鉄製品の加工に関係する遺物が出土しており、古墳時代後半から奈良時代にかけての生産活動の実態を考えるうえで重要である。

指定

  • 文化財指定:なし

所在地等

  • 名称: 中原遺跡
  • 所在地:静岡県沼津市一本松
  • 交通:

参考文献

  1. 沼津市教育委員会(2016)『沼津市文化財調査報告書113:中原遺跡発掘調査報告書』沼津市教育委員会
  2. 沼津市教育委員会(2020)『沼津市内遺跡発掘調査報告書2』
  3. 沼津市教育委員会(2023)『中原遺跡発掘調査報告書』
  4. 文化庁(2026)『発掘された日本列島』共同通信社

鋸歯文 ― 2026年09月23日 00:05

弥生時代の鋸歯文

鋸歯文(きょしもん)は、土器・銅鐸・銅鏡・石製品・古墳の装飾などにみられる幾何学文様である。三角形を連続させるだけのもののほか、三角形の内部に平行する斜線を施すハッチングを伴うものもある。銅鐸では、鋸歯文が身・鈕・鰭などの各部に施される例がある。ハッチングの方向や鋸歯文の配置にはさまざまな形式がみられる。

日本列島では縄文時代の土器にも鋸歯状あるいは連続三角形の幾何学文様がみられるが、これらを弥生時代以降の鋸歯文と直接結び付けることには慎重な検討が必要である。弥生時代には土器や銅鐸などに鋸歯文がみられ、古墳時代には銅鏡や装飾古墳などにも用いられるようになる。

概要

弥生時代から古墳時代にかけての土器・銅鐸・銅鏡、古墳の壁画、飛鳥・奈良時代の瓦などに鋸歯文がみられる。土器・青銅器・石製品・古墳壁画など、さまざまな器物や施設に施される。銅鐸・銅鏡の文様は複雑であり、鋸歯文の三角形の中に平行線を刻む文様がある、また彩色を施した文様もある。 銅鐸の鋸歯文には、三角形の内部に平行する斜線を施したものがあり、ハッチングの方向や配置によっていくつかのタイプに分けられる。一方の列だけの場合と,向かい合う二列の鋸歯に相異なる方向のハッチングが入る複合鋸歯文がある。 日本では弥生時代中期頃の土器から鋸歯文が登場したとされる見解がある。

時代別鋸歯文

縄文時代

縄文時代前期の曽畑式土器などには、鋸歯状・三角形を連続させた幾何学文様がみられ、これを鋸歯文の早い例とみなす見解もある。熊本県宇土市の曽畑貝塚の曽畑式土器に鋸歯文が描かれた土器がみられると指摘されている。曽畑式土器は金峰町阿多貝塚,大口市日勝山遺跡,横川町星塚遺跡,頴娃町折尾遺跡にもみられる。ただ弥生時代の鋸歯文との時期的な連続性は慎重に検討する必要がある。

弥生時代

弥生時代中期以降には、鋸歯文を施した土器が各地でみられるようになる。唐古・鍵遺跡出土の土器には、鋸歯文を含む幾何学文様がみられる。西の谷遺跡(磐田市敷地、弥生時代後期)の銅鐸にも鋸歯文が現れる。銅鐸では、身の裾部や横帯、鈕、鰭などに鋸歯文が施される。鋸歯文は中国・朝鮮半島など東アジアの古代資料にもみられる。ただし、日本の弥生時代の鋸歯文が大陸の文様から直接伝来したものかどうかについては、文様の類似だけでは判断できない。

古墳時代

古墳時代では銅鏡や滑石製紡錘車、装飾古墳の壁画に鋸歯文が描かれる。黒塚古墳出土の三角縁神獣鏡の中にも、鋸歯文を施した例がある。黒塚古墳(奈良県天理市)出土の三角縁神獣鏡の「三角縁(外側の高く盛り上がった縁)」部分に鋸歯文が描かれる。富雄丸山古墳(奈良県奈良市)の鼉龍文盾形銅鏡にも鋸歯文が細かく施される。 永安寺東古墳では、石室内に赤色顔料で連続三角文・円文・船などが描かれている。連続三角文の中には鋸歯文に類似する意匠もみられる。

海外事例

中国の古代青銅器や銅鏡にも、鋸歯状・三角形を連続させた幾何学文様がみられる。1893年にベトナム・ハナム省平禄県玉楼郷で発見された石寨山型東山系の玉楼鼓に腰部上辺にハッチングが施された複合鋸歯文帯が見られた。

意味

三角形を連続させた近世の文様には「鱗文」と呼ばれるものがあり、鋸歯文と形態的な類似がみられる。後世の民俗例として、宗像地域の海女の入れ墨に三角形・鱗状の文様がみられ、魔除けとの関連で説明されることがある。しかし後世の「鱗文」と古代の「鋸歯文」を直接同一視することには注意が必要である。このような近世・近代の民俗例から弥生・古墳時代の鋸歯文の意味を直接復元することはできない。

近世の鋸歯文

近世の文様には、三角形を連続させた「鱗文」がみられ、厄除けなどの意味を付与される場合がある。歌舞伎『京鹿子娘道成寺』では鱗文は蛇体となった女の魔性を示す文様として、また死者の霊を現すものとして使われた。歌舞伎の終盤に清姫の身体を包むのは、蛇体を現す鱗文であった。能装束にも鱗文が用いられ、蛇や怨霊・般若などの異形性や激しい情念を表現する場合がある。 能『道成寺』では、白拍子が鐘の中に飛び込んだ後、鱗文を施した摺箔の衣装を現して登場し、蛇体となった女性の激しい情念を表現する。また『葵上』では、六条御息所の怨霊が般若の姿となる場面で、鱗文を施した装束が用いられる。

鱗摺箔は、無地や綾織の平絹などに型紙を用いて糊を置き、その上から金箔や銀箔を施して、三角形を連続させた鱗文を表す技法である。

古代の鋸歯文と近世の鱗文は、三角形を連続させるという形態的な類似をもつ一方、両者の歴史的な系譜や意味の連続性については別途検討する必要がある。比較すると次のようになる。

  • 表現対象
    • 古代では青銅器(銅鐸・銅鏡)、土器、埴輪、装飾古墳の壁画
    • 近世では着物(染織品)、歌舞伎・能の衣装、工芸品
  • デザイン
    • 古代では単純鋸歯文、上下交互、二段、三角形内部に細かい平行線(ハッチング)を刻むなどのパターンがみられる。三角形が赤や黒の顔料で彩色されることがある。時期・地域による差異がある。
    • 近世の鱗文では、三角形を連続させ、色や染め分けによって隣接する三角形の「地」と「図」を交互に見せる意匠もみられる。
  • 呪術性の対象
    • 古代では鋸歯文の具体的な意味・機能について確定した見解はなく、呪術的・象徴的意味を想定する説もある。
    • 近世では「生存する人間」の厄除け、魔性・怨念を可視化する。

出土例

  • 鋸歯文・斜格文(高杯脚部) 唐古鍵遺跡、弥生時代
  • 双鈕細線鋸歯文鏡 弥生時代、奈良県南葛城郡吐田郷村長柄出土、重要文化財、東京国立博物館蔵
  • 三角縁鋸歯文帯四神四獣鏡 赤塚古墳、大分県宇佐市、3世紀、京都国立博物館蔵
  • 有本銅鐸 紀ノ川の河原、弥生時代、和歌山県立紀伊風土記の丘、身の最下段に鋸歯文あり

参考文献

  1. 江上波夫(1993)『日本古代史辞典』大和書房
  2. 大塚初重(1982)『古墳辞典』東京堂

狐塚古墳(調布市) ― 2026年09月22日 00:05

狐塚古墳 (調布市)(きつねづかこふん)は東京都調布市に所在する下布田古墳群を構成する円墳である。下布田6号墳ともいう。

概要

地元では「狐塚」と呼び、古くから古墳と認識されていた。1944年(昭和19年)頃に照空隊陣地(サーチライトで敵機を照射・捕捉し、高射砲部隊などによる対空射撃を支援する陣地)の設営のため、大半が掘り崩されていた。2000年(平成12年)の調査時点では、中央部分に80cm程の高まりを残すだけであった。東側の畑の境界に石室を壊したときの川原石が積まれていた。周溝は断面逆台形であり、上端部幅は3.7mから9.0m、深さ2.2mから2.4mを測る。 下布田古墳群は多摩川中流域左岸に5世紀前半から7世紀前半にかけて造営された古墳群である。20基の円墳が確認されている。狐塚古墳はそのほぼ中央に位置する。下布田古墳群のなかでも最も新しい時期に築造された大型円墳である。

調査

狐塚古墳の調査は2000年(平成12年)10月から2001年(平成13年)3月にかけて実施された。発掘調査の結果、墳丘径約44m、周溝外径約60.5mを測り、都内でも最大規模の終末期円墳である(調布市教育委員会(2021))。

石室

削平されていた墳丘から半地下式の横穴式石室が検出された。石室の中央部分は未調査であるため、玄室の構造や袖部は不明である。「切石併用川原石積横穴式石室」と判明した。奥壁に凝灰岩質砂岩切石、側壁には側壁は河原石を用いている。 石室はほぼ真南に開口する。石室全長(羨門部から奥壁まで)は8.7m、床面長は6.8m、幅は奥壁側で2.0m、羨道部側で1.4mで奥に向かって幅が広くなる羽子板状である。石室の高さは残存部で奥壁側1.3m、羨道部側で0.84mであるが、本来の高さは天井石が外されているため不明である(調布市教育委員会(2021))。

副葬品

羨道部の側壁寄りからは、鉄製大刀3点、鍔2点、小刀1点、刀子1点、鉄鏃1点が出土した。鉄製大刀3点のうち最長のものは全長94.5cm、刀身長79cmを測る直刀である。刀身は 鎬(しのぎ)のない平棟平作りであり、脹切先、関(まち)は背関もある両関作りである。 刀身には径約5mmの孔を穿った「刃関孔(鎺元孔)」が認められる。この種の大刀は関東地方では比較的特殊な資料であり、その形態的特徴から房総半島から供給された可能性が指摘されている。なお鎺元孔をもつ太刀は6世紀後半から7世紀にかけて上野地域と房総半島北部の古墳から出土している。 また、墓道からは須恵器の平瓶、提瓶、壺や土師器の杯などの破片が出土した。

築造年代

出土土器の年代や鉄製大刀や鉄鏃の年代が6世紀後半から7世紀前半のものである。古墳の築造時期は6世紀末から7世紀初頭(古墳時代終末期)と見られる。

評価

墳丘規模、石室の規模、副葬品の内容から多摩川流域の盟主墳と考えられる(調布市教育委員会(2021))。古墳時代前期から後期前半の南武蔵において首長墳は亀甲山古墳など多摩川下流域に築かれるが、後期後半になると中流域に移る。 調布市教育委員会(2021)によれば、狐塚古墳は首長権が移った最初期の首長墳であり、東京都内最大級の円墳として重要な古墳と位置づけられている。

遺構

  • 円墳
  • 横穴式石室

遺物

  • 鉄製大刀3点
  • 鍔2点
  • 小刀1点
  • 刀子1点
  • 鉄鏃1点
  • 須恵器・土師器

展示

  • 出土品は調布市郷土博物館が保管している。

考察

指定

  • 2014年(平成26年)3月14日 下布田6号墳(狐塚古墳)出土品を調布市指定有形文化財(考古資料)に指定
  • 2018年(平成30年)3月15日 東京都指定史跡

アクセス等 

  • 名称  :狐塚古墳(下布田6号墳)
  • 所在地 :東京都調布市布田6-53-1・2・3・4
  • 交 通 :

参考文献

  1. 調布市教育委員会(2021)「東京都指定史跡 狐塚古墳(下布田6号墳)」
  2. 調布市史編集委員会(1990)『調布市史 上』

さいたま市立博物館 ― 2026年09月21日 00:05

さいたま市立博物館/筆者撮影

さいたま市立博物館(さいたましりつはくぶつかん)は、埼玉県さいたま市に所在するさいたま市の歴史・考古・民俗に関する資料を収集・保存・展示する博物館である。

概要

常設展示では、旧石器時代から現代までのさいたま市域の歴史や文化を時代ごとに紹介する。氷川神社参道の二の鳥居付近に所在する。1975年(昭和50年)、大宮市の市制施行35周年記念事業として大宮市立郷土史料博物館の設置が計画された。1978年(昭和53年)3月に博物館建設予算が市議会で可決され、1979年(昭和54年)5月に博物館準備室が設置された。1980年(昭和55年)11月1日に大宮市立博物館として開館した。2001年(平成13年)5月1日、浦和市・大宮市・与野市の合併に伴い、さいたま市立博物館に改称した。

展示(公開の時期は限定される展示品がある)

展示スペースは地下1階の常設展示室と1階の特別展示にある。1階の特別展示室・企画展示室は春の企画展や秋の特別展、季節ごとの特別展示が開催されるときに使用される。 旧石器時代、縄文時代、弥生時代、古墳時代の発掘された出土品を展示する。時代ごとに展示ケースが分かれている。ここでは古代のうち旧石器時代から古墳時代までの展示を紹介する。

旧石器時代

石器や尖頭器(西大宮バイパスNo.4遺跡出土)、ナイフ形石器(同前)、角錐状石器(松木遺跡)などの出土品を展示する。西大宮バイパスNo.4遺跡の黒曜石は、長野県の和田峠や伊豆諸島の神津島が産地と判明している。

縄文時代

亀形土製品(複製)(東北原遺跡)は磨消縄文や三叉文、入組文が施され、彩色が見られる。みみずく形土偶は奈良瀬戸遺跡、小深作遺跡、国指定史跡・真福寺貝塚の出土品が展示されることがある。みみずく形土偶は顔の輪郭や目・口がデフォルメされており、鳥のミミズク(フクロウ)に似ているために名付けられた。

弥生時代

さいたま市域から出土した弥生時代の土器や鉄器、弥生時代の銅鏡・銅鏃(三崎台遺跡出土)、ガラス玉・鉄製鎌(土屋下遺跡出土)、井沼方遺跡方形周溝墓出土の鉄剣 1口、ガラス玉 12個などを展示する。

古墳時代

伝東宮下出土線刻画付人物埴輪は、顔や胸、腰などに線刻による絵や文様が描かれた人物埴輪である。さいたま市の指定有形文化財(考古資料)である。1頭のほぼ全体が復元された馬形埴輪(側ヶ谷戸11号墳出土)が展示されている。生出塚埴輪窯(埼玉県鴻巣市)で製作されたことが分かっている。

指定

  • 市指定有形文化財(考古資料) 「井沼方遺跡方形周溝墓出土品」

アクセス

  • 名称:さいたま市立博物館
  • 所在地:埼玉県さいたま市大宮区高鼻町2-1-2
  • 交 通:JR東日本大宮駅東口から徒歩約15分

参考文献

  1. さいたま市立博物 パンフレット