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珠玉 ― 2026年10月07日 00:05

珠玉のイメージ図

珠玉(しゅぎょく)とは、本来、海から産する真珠などの「珠」と、山から産する宝玉などの「玉」を合わせた語である。また、転じて、美しく優れたもの、特に優れた詩文や作品などを意味する。

概要

「珠」は真珠であり「玉」は、ヒスイ・碧玉・水晶・瑪瑙などの石材やガラスなどを加工して作った玉製品を指す場合があり、勾玉・管玉・丸玉などの装身具として用いられたほか、祭祀との関係が指摘されるものもある。 「珠玉」という語は本来、海から産する真珠と、山から産する宝玉を対比した語である。一方、考古学では、弥生時代から古墳時代にかけて製作・使用された勾玉・管玉・丸玉などを総称して「玉類」と呼ぶ。「珠玉」と「玉類」は同義ではない点に注意が必要である。

弥生時代

弥生時代には、ヒスイ・碧玉・緑色凝灰岩・水晶・瑪瑙などの石材やガラスを素材として、勾玉・管玉・丸玉などの玉類が製作された。 『魏志倭人伝』には、倭の産物として「真珠」と「青玉」が挙げられている。 碧玉・ヒスイ・水晶・ガラスなどを素材として作られた管玉・勾玉・丸玉などは、弥生時代の代表的な玉類であり、装身具として身につけられたほか、首長層と考えられる人物の墓からまとまって出土する例などから、社会的地位や権威と関わる品であったと考えられている。 弥生時代の玉作では、碧玉や緑色凝灰岩を素材とした管玉の製作が盛んに行われた地域があり、各地で勾玉・管玉・丸玉など多様な玉類が製作された。 出雲玉作跡(島根県)など、各地に専門的な玉作りの工房跡などの生産地が存在していた。青谷上寺地遺跡(鳥取県)からも玉類や玉作関連資料が出土している。 佐渡の「新穂玉作遺跡」と「下畑玉作遺跡」では弥生時代中期後半から玉作りが行われ、ヒスイや碧玉(青玉石)、鉄石英(赤玉石)などを素材として、勾玉・管玉・角玉・三角玉などが製作された。 なお、『魏志倭人伝』にみえる「青玉」が何を指すかについては諸説があり、碧玉などに比定する説もある。

使用方法

玉類は装身具として身につけられたほか、特定の人物の墓からまとまって出土することから、社会的地位や権威を示す品であったと考えられている。また、集落や墓などから特殊な状況で出土する玉類については、祭祀との関係が指摘される場合もある。

他の用法

現代では「珠玉」は、美しいもの、優れたものをほめる意味でも用いられる。特に詩文や文学作品などについて、「珠玉の作品」「珠玉の短編」などと表現する。

玉作の工程

玉作では、原石の採取・選別、荒割、形割、成形、研磨、穿孔などの工程が行われた。遺跡によっては原石や未製品、石鋸、砥石、石針などの玉作関連資料がまとまって出土しており、玉類が特定の場所で集中的に製作されていたことがわかる。

管玉の製作技法(例)

  • 施溝分割(せこうぶんかつ)は 石鋸などで原石に溝を入れ、その溝に沿って打撃を加えて分割する方法。
  • 成形・研磨: 砥石などを用いて角を削り、所定の形状に成形するとともに表面を研磨する。
  • 穿孔:石針などを用いて穿孔する。玉の両端から穿孔を進める方法も用いられ、直径約2mmの細い管玉に直径約1mmの孔をあけるなど、高度な加工技術が必要とされた。

玉作遺跡・出土例

石川県小松市の八日市地方遺跡では、弥生時代の玉作に関する原石・未製品・工具などが出土している。なかでも碧玉製管玉では、直径約2mmの管玉に加工した石材に、太さ約0.7mmのメノウ製石針で直径約1mmの孔を穿つという、極めて精密な加工が行われていたことがわかる。 新穂玉作遺跡(佐渡市下新穂・上新穂)は竹ノ花・桂林・平田・城ノ畠の4つの遺跡の総称である。佐渡では弥生時代中期後半から玉作りが行われ、とくに新穂玉作遺跡では弥生時代後期を中心とする玉作工房が確認されている。下畑玉作遺跡(佐渡市畑野)は国中平野の低地帯にある弥生時代の玉作遺跡で、新潟県指定史跡となっている。

参考文献

  1. 河村好光(2010)『倭の玉器 玉つくりと倭国の時代』青木書店
  2. 古代歴史文化協議会編(2018)『玉-古代を至宝彩る-』ハーベスト出版

天寿国繡帳 ― 2026年10月06日 14:33

天寿国繡帳(てんじゅこくしゅうちょう)は、奈良県斑鳩町の中宮寺にある現存する日本最古級の刺繍作品である。「天寿国曼荼羅繍帳」とも呼ばれる。

概要

『上宮聖徳法王帝説』(以下、「帝説」という)によれば、622年(推古30年)の聖徳太子没後、その死を悲しんだ妃の橘大郎女の発願を受けて制作されたとされる。宮中の女官の采女たちが刺繍を実施し、天寿国の様子を表す図像や亀形の図像、文字などを刺繍した。 繍帳は二帳よりなり、そこには百体の亀が表され、それぞれの甲に4文字ずつ、計400文字の銘文が刺繍されていたとされる。 繡帳の銘文は帝説に伝えられる文章によって、その内容をほぼ復元することができる。下絵を描いた者は東漢末賢、高麗加西溢、漢奴加己利、制作を監修したのは椋部秦久麻とされる。現在残る天寿国繡帳残闕は、飛鳥時代の原本断片と鎌倉時代の模本断片が混在する形で仕立てられている。 中宮寺本堂に安置されているものは複製であり、実物は奈良国立博物館に寄託されている。

天寿国とは

大橋一章(1987)によれば、天寿国の語は仏教経典にはみえないとする。『帝説』では天寿国は「太子が往生した国」とされるため、仏教的な来世・浄土として理解されてきた。ただし、天寿国が具体的にどの浄土を指すかについては定説がない。大橋一章(1987)は、極楽浄土、霊山浄土、兜率天浄土、浄瑠璃浄土、弥勒浄土、補陀洛浄土などの諸説を整理し、無量寿国、すなわち阿弥陀の浄土とする説が最も妥当と論じている。

極楽浄土説は定円の『太子曼荼羅講式』(初出は建治元年(1275年))に「無量寿国」(西方極楽浄土)と解釈した(大橋一章(1987))。飛鳥時代には阿弥陀・無量寿仏に関する思想が伝来していたことから、阿弥陀の無量寿国との関連を想定することは可能である。

平子鐸嶺(1913)は天寿国を随の造阿弥陀仏像記(千仏山霊巌寺磨崖)の記載から阿弥陀仏(無量寿仏)の無量寿国とした。霊山浄土は大屋徳城(1928)が唱えた説であり、法隆寺金堂の釈迦三尊像の光背銘に太子が薨去したときは「往きて浄土に登り」と書かれる。この浄土を、釈迦(釈迦牟尼仏)が『法華経』などを説いたとされるインドの霊鷲山に結びつける説である。

家永三郎(1970)は『維摩経義疏』(太子作とされる)に「無量寿教」を引用していることから厩戸皇子が無量寿国往生の思想を知っていた可能性を指摘した。大橋一章(1987)は天寿国は無量寿国説が最も妥当と論じた。

銘文の大意

銘文の前半には、欽明から用明・推古らを経て、厩戸に至る系譜が記されている。621年(推古29年)に孔部間人母王(穴穂部間人皇女)が亡くなり、翌622年(推古30年)に厩戸皇子も亡くなった。多至波奈大女郎(橘大郎女)はこれを悲しみ嘆き、太子は「世間は虚仮なり、唯だ仏是真なり」(世間は虚仮(こけ)である。仏だけが真実である)」と推古大王(母方の叔母)に語った。太子は天寿国に往生したが、その様子は見えない。橘大郎女は太子が往生した天寿国を図に表して冥福を祈りたいと述べた。推古大王はもっともなことと思い、采女らに命じて天寿国繡帳を作らせたとされる。

天寿国繡帳のサイズ

史料の記述

文保本『聖徳太子伝記』(文保年間(1317~1318年))によると、文保2年(1318年)頃に、建治元年作の新曼荼羅は中宮寺金堂の柱間三間にわたって幕のように張り渡されていたとされる。

発掘調査

昭和38年に当時の中宮寺跡(現在位置から東に400mから500m)の発掘が行われ、金堂は間口五間、奥行四間、柱間2.6mであった。

大橋一章の推定

大橋一章(1995)は発掘結果と文保本『聖徳太子伝記』の記載から金堂の「柱間三間」は約7.8mとなり、中宮寺では幅約4m、縦2mの繡帳2帳を横方向につなげていたと推定した。

現存サイズ

現存サイズは縦88.8cm、横82.7cmであるため、現存品は、当初の繡帳のごく一部にあたると考えられる。

画像の意味

天寿国繡帳は聖徳太子が往生したと考えられた「天寿国」の様子を視覚化したものである。日本に現存する作品として、来世の世界を視覚的に表した最古級の作例の一つである。月と兎の図像は、中国・東アジアに伝わる月兎や不老不死の観念との関連が指摘されている。飛鳥時代の男女の人物像が表され、当時の衣服や髪型をうかがうことができる。これらは天寿国に往生した人々を表したものと考えられている。人物表現や服装には、朝鮮半島を含む東アジアの美術との関連が指摘されている。さらに仏殿・楼閣、仏像、読経する僧などが表されており、仏教的な来世観を示すものと考えられている。

天寿国繡帳の意義

第一に、日本最古級の刺繍作品であり、飛鳥時代の染織・刺繍技術を知る重要な遺品であること。また、622年(推古30年)、聖徳太子の死去を悲しんだ妃の橘大郎女の発願により、女官の采女たちが制作したと伝えられること。

第二に、百体の亀の甲に刺繍された計400文字の銘文が、制作の経緯や当時の背景を知る重要な手がかりとなっていること。

第三に、日本最古の月兎図とされること。

指定

  • 1952年3月29日 国宝指定(名称:天寿国繡帳残闕)

参考文献

  1. 家永三郎(1970)『上宮聖徳法王帝説の研究 増訂版』三省堂
  2. 大橋一章(1995)『天寿国繍帳の研究』吉川弘文館
  3. 大橋一章(1987)『聖徳太子への鎮魂:天寿国繍帳残照』同朋舎出版
  4. 東野治之校訂(1941)『上宮聖徳法王帝説』岩波書店
  5. 大屋徳城(1928)「天寿国繍張攷」『宗教研究』新第5巻第5号
  6. 平子鐸嶺(1913)『補校上宮聖徳法王帝説證注』丙午出版社
  7. 文化庁編(2020)『発掘された日本列島』共同通信社
  8. 義江明子(1989)「天寿国繍帳銘系譜の一考察--出自論と王権論の接点」『日本史研究』、 日本史研究会編 (325), p1-18

古宮古墳 (大分市) ― 2026年10月05日 00:05

古宮古墳 (大分市)(ふるみやこふん)は大分県大分市に所在する7世紀中頃から後半ごろに築造された方墳である。

概要

大分市中心部を流れる二級河川の住吉川(上流では毘沙門川と呼ばれる)によって開析された丘陵の南側斜面中腹(標高53m) の傾斜地に位置する。巨大な凝灰岩を刳り抜いた横口式の石槨(石棺式石室)を主体部とする。 九州で唯一の横口式石棺式石室とされている。墳丘の南東側に向かって横口式石槨(石棺式石室)が開口する。

南北約12.5m、東西約12mの方墳である。築造年代は石室の形態などから7世紀中頃~後半と考えられる。墳丘の規模には唐代の尺度(唐大尺)との対応や、『大化薄葬令』にみえる身分階級ごとの墳墓規定との関連が指摘されている。

また、古墳は丘陵の先端部に立地し、背後の丘陵を玄武、前方の開けた空間を朱雀、左右の地形を青龍・白虎に見立てる、中国の陰陽五行・四神思想を背景とした地勢選定との関係が指摘されている(大分市教育委員会 (1993))。現地説明版には「冬は寒風を遮り、夏は涼しい気をたたえる土地」と記される。

朝鮮半島では、百済武寧王陵のある扶余の陵山里古墳群が同様の立地とされる。 史跡指定を受けて昭和60年、61年に土地は公有化された。 石室の特徴から大和政権と深く関わっていた人物と推測されており、『日本書紀』に壬申の乱(672年)で活躍したとされる大分君恵尺との伝承がある。

調査

大正14 年頃に大分県史跡名勝天然記念物調査会が『大分市内における特異の古墳』と報告した。 1980年度(昭和55 年度)、1981年度(昭和56 年度)にわたり大分市教育委員会により古宮古墳の発掘調査が実施され、直方体の巨大な凝灰岩を剖リ抜いた石室部と羨道部からなる横口構造の石榔式石室をもつ終末期古墳と判明している。1982年(昭和57年)に発掘調査の報告書が刊行された。

平成4 年12 月21日~平成5 年2 月25 日にかけて未確認部分のトレンチ調査を実施した。トレンチ調査により墳丘盛土は黄褐色土層と暗黄褐色土層が締められて交互に盛土されていることが判明した。墳丘南側は人為的に掘リ込まれた地業がみられ、後世の開墾によって削られたと推定されている。石室主体部は東西幅約2.6mである。溝遺構は北で幅4.5m 、深さ0.5m 、東で5.6m 、深さ0.2m を測る。

遺物は古くから石室が開口して盗掘・破壊を受けていたため、副葬品や遺物はほとんど残っていなかった。遺物として須恵器の小破片が出土しているが、古墳に伴うものかどうか明確でないものもある。

見所

巨大な凝灰岩をくりぬいて作られた「横口式石棺式石室」が最大の見どころである。高松塚古墳と共通する石槨式石室をもつ。この石棺式石室は、7世紀中頃前後に畿内でみられる形式と共通する(畿内の中級豪族のあいだで流行したとの見解がある)。

南に川を望み、北側に丘陵を背負う立地から、中国の風水思想との関連を指摘する見解がある(大分市教育委員会 1993)ことを現地で確認できる。

遺構

  • 方墳
  • 横口式石槨

遺物

  • 須恵器片

展示

  • なし

指定

  • 文化財指定:1983年(昭和58年)05月11日 国指定史跡

アクセス等 

  • 名称  :古宮古墳
  • 所在地 : 大分県大分市季の坂1丁目5−11
  • 交 通 : 直線距離で約1.4km、徒歩で約32分/JR大分駅から大分交通の青葉台行(青葉台線)で「季の坂入口」下車徒歩5分。

参考文献

  1. 大分市教育委員会(1993)『国指定史跡 古宮古墳』大分市教育委員会
  2. 大分市教育委員会(1996)『国指定史跡古宮古墳保存修理事業報告書』大分市教育委員会

並木貝塚(さいたま市) ― 2026年10月04日 00:05

並木貝塚(さいたま市)(なみきかいづか)は埼玉県さいたま市に所在する、縄文時代早期から前期を中心に、後期・晩期および弥生時代にかけての遺構・遺物が確認されている貝塚である。

概要

JR大宮駅から西に約2kmに位置する。大宮台地の日進・与野支台の縁辺に位置する。北から南側に向かって緩やかに低くなる。

調査

2024年調査では縄文時代早期(茅山式)・前期(黒浜式)を中心に、後・晩期や弥生時代にわたる遺物が出土した。 2025年の第4次調査では、縄文時代晩期の竪穴住居跡3軒、土坑15基、竪穴状建物跡1基、ピット37基などが検出された。縄文時代の土器は、縄文晩期中葉の安行3c式・3d式土器であった。土坑から大型の台付鉢形土器、深鉢形土器のほか注口土器が出土した。一部の土坑については、土壙墓の可能性が指摘されている。ピットから半完形の深鉢形土器、石鏃、敲石、土偶の手が出土した。2号土坑は他の土坑より深い。5号土坑は土器が集積していた。14、15土坑からは大型土器が出土した。18号土坑から台付鉢が出土した。19号土坑からは、東北地方の土器との関連が指摘される注口土器が出土した。縄文時代後期以降の遺構は今回初めて検出できた。

指定

  • なし

所在地等

  • 名称: 並木貝塚
  • 所在地:埼玉県さいたま市大宮区三橋2丁目
  • 交通: JR大宮駅から西に約2km

参考文献

  1. さいたま市教育委員会(2003)「東裏遺跡(第6次調査)・円正寺遺跡(第4次調査)・附島遺跡(第3・4次調査)・並木貝塚(第1次調査)・宿宮前遺跡(第3・4次調査)」さいたま市教育委員会
  2. さいたま市教育委員会(2004)「椚谷遺跡(第12・14次調査)・並木貝塚(第2次調査)・浄寺坊遺跡(第2次調査)・東宮下原口遺跡」さいたま市教育委員会
  3. さいたま市遺跡調査会編(2024)「並木貝塚遺跡(第3次)」さいたま市遺跡調査会報告書 ; 第249集
  4. さいたま市教育委員会(2026)「さいたま市内遺跡発掘調査成果発表会」発表要旨

鉢伏山西峰古墳 ― 2026年10月03日 00:05

鉢伏山西峰古墳(はちぶせやまにしみねこふん)は大阪府羽曳野市に所在する飛鳥時代に築かれた方墳である。

概要

鉢伏山(標高211.5m)から西に延びる尾根上、標高約135mの地点に位置する。埋葬施設は横口式石槨で、石槨部は石英安山岩の岩盤を刳り貫いて造られ、天井部には別の切石を用いている。横口式石槨は、石材を用いて棺を納める石槨を造り、その一端に出入口を設けた終末期古墳の埋葬施設である。前室の床には凝灰岩の切石が敷かれている。石槨部の前方に前室を設け、その前方に羨道が付設されている。羨道部分はかなり破壊されていた。石槨部は、内法長さ約2.7m、幅約0.8m、高さ0.7mである。出土した主な遺物は、土師器、須恵器、塼などであり、石槨は早い時代から開口していたため、棺や副葬品はほとんど残っていなかった。出土した須恵器などはその特徴から7世紀半ば頃(飛鳥時代)と見られている。塼(せん)は粘土を焼成して作った板状・煉瓦状の製品である。古代には建築物の基壇・壁などのほか、寺院の床面などにも用いられた。

漆喰の使用

鉢伏山西峰古墳では石槨部の壁面の一部に、白色の上塗り材である漆喰が塗られていた痕跡が残っている。天井石などの接合部にも用いられている。横穴式石室でも古墳時代後期の石室に漆喰が用いられた。石と石の隙間を目地詰めし、壁面全体に塗って平滑な下地を作るために用いられた。気密性を高める効果もあった。漆喰は高松塚古墳やキトラ古墳でも使われている。

横口式石槨と横穴式石室との違い

横穴式石室は玄室・羨道などから構成され、複数回の埋葬を想定したものが多い。横口式石槨は石槨を中心とする小規模な埋葬施設であり、終末期古墳に多く見られる。 白石太一郎は石棺系横口式石槨を3つに分類している。鉢伏山西峰古墳の石槨は観音塚古墳やお亀石古墳と同じ1類とされている(白石太一郎(2018))。

調査

1993年(平成5年)に発掘調査が実施され、墳丘は二段に築かれた方墳で、東辺約12m、西辺約20mを測ることが判明した。また二段に築かれた墳丘と、前室・羨道を伴う横口式石槨の構造が明らかになった。

鉢伏山西峰古墳の意義

発掘調査により全容が明らかになった、精巧な横口式石槨を持つ飛鳥時代(7世紀中葉)の貴重な終末期古墳である。当時の高度な石工技術や葬送儀礼を示す。

見所

標高約135メートルの尾根上にあるため、大阪平野や古市古墳群、日本遺産「竹内街道」を眼下に見下ろすことができるビューポイントとなっている。精巧な切り石で造られた飛鳥時代の横口式石槨も見所である。

遺構

  • 横口式石槨

遺物

  • 土師器、
  • 須恵器
  • 塼

展示

  • なし

指定

  • 文化財指定:なし

アクセス等 

  • 名称  :鉢伏山西峰古墳
  • 所在地 :大阪府羽曳野市駒ヶ谷(はびきの中央霊園内)
  • 交 通 : 近鉄南大阪線「駒ヶ谷駅」から徒歩約30分(約1.8km)

参考文献

  1. 岸本直文(2016)「わたしたちの文化財 鉢伏山西峰古墳」『大阪歴史学会・ヒストリア』第254号、pp.155-161
  2. 白石太一郎(2018)『古墳の被葬者を推理する』中央公論新社
  3. 羽曳野市教育委員会(1998)『河内飛鳥と終末期古墳:横口式石槨の謎』吉川弘文館

大中の湖南遺跡 ― 2026年10月02日 00:05

大中の湖南遺跡(だいなかのこみなみいせき)は滋賀県近江八幡市にある弥生時代中期初頭を中心とする複合遺跡である。

概要

琵琶湖の東岸にあり、昭和39年以後に行なわれた干拓事業によって発見された弥生時代中期初頭の集落遺跡である。住居・大溝にともなう水田地域があり、矢板や杭によって畦畔が設けられる。土器片・石器・貨弊などが出土した。水田地域と住居地域の境の両側辺に杭をならべて打込み護岸とした幅約7mの溝が設けられ、灌漑・排水の機能を持つとともに、集落を区画する環濠的な役割を果たしていたと考えられている。弥生時代中ごろの広大な水田跡や集落跡が見つかっている。住居跡や大溝に伴う広大な水田地域が広がり、矢板や杭を使って畦畔が設けられている場所もあった。水田は大砂州、小砂州の間の低湿地に方形や不定形な形となっている。大溝の中から、鍬や鋤といった大量の各種農耕具(木器類)や土器が見つかっており、当時の稲作・農耕の様子を具体的にしることができる。確認された水田跡の面積は、大砂州と小砂州の間の低湿地において約6,300㎡や約9,200㎡などの区画(全体として約1.5万㎡規模)が検出されている。水田跡や用水路跡などを含む遺跡全体の指定区域面積は約12万平方メートル(12万㎡)に及ぶ。 遺跡は県立農業大学校の南側に「大中の湖南遺跡」として現地保存されている。

調査

1964年から3年間発掘調査が行われた。弥生時代中期の水田跡と棚列、住居跡、灌漑・排水用水路と矢板列、そして多くの木製農具・工具類とその未完成品、稲の穂束やそれを穂摘みした石包丁が検出された。弥生時代後期の登呂遺跡の農耕集落より一段階古い時期であり、登呂遺跡に先行する時期の水田農耕集落の構造を知ることができる。住居とその南に広がる水田との間に幅7メートルの灌漑・排水用水路が延長 500mにわたっており、その両岸は、幅25センチメートル、長さ85センチメートルの矢板で護岸されていた。大中の人々は、畔や柵で区画された水田を、2戸ずつ3組、計6戸30人から40人前後がグループをつくり共同耕作し、グループが数組集った集落を形成していたと推定されている。農耕具だけでなく、舟や櫂、漁撈具、貝塚なども確認されており、水辺の環境を利用した漁撈・採集も行われていたことがうかがえる。その頃の稲作や灌漑技術は未発達であったため、水田は自然を利用した沼や湿地を中心として営まれていたと考えられている。

管玉製作

管玉の原石から形割品、未製品まで、製作工程を示す資料が出土している。「大中の湖技法」と呼ばれる管玉製作技法が確認された。

独鈷石

田井中洋介(1997)は発掘調査報告に記載はないが、近江風土記の丘展示図録に掲載されていると指摘した。独鈷石はほぼ完形であり、中央のくびれ部が太いこと、体部が屈折していることから、後藤分類B-(8)型と指摘した。

意義

服部遺跡のような小規模な「ミニ水田(小区画)」ではなく、比較的大きな区画(大区画水田)が作られていたことがわかる。静岡県の登呂遺跡などと並ぶ、日本の古代稲作・水田研究における極めて重要な遺跡である。

遺構

  • 住居跡
  • 水田跡
  • 灌漑・排水用水路
  • 矢板列・杭列
  • 柵列
  • 橋脚
  • 小貝塚
  • 弥生土器
  • 石器・石製農耕具
  • 石包丁
  • 木製農耕具・工具
  • 木製漁撈具
  • 舟・櫂
  • 管玉製作関連資料
  • 貝類・動物遺存体
  • 銅鏃

指定

  • 1973年4月14日 - 国指定史跡に指定

展示

  • 安土城考古博物館

アクセス

  • 名称:大中の湖南遺跡
  • 所在地:滋賀県近江八幡市安土町大中
  • 交通:安土駅から約3kmから7km(徒歩では約30分から50分)

参考文献

  1. 市川三次(1989)「滋賀県大中の湖南遺跡出土遺物の種同定および古環境復元基礎調査報告」山梨県立女子短期大学紀要、第22号
  2. 近藤滋(1976)「大中の湖南遺跡」文化財教室シリーズ3、滋賀県文化財保護協会
  3. 坂梨咲子(2002)「安土町大中の湖南遺跡の調査について」『滋賀文化財だより』通巻277号
  4. 滋賀県教育委員会(1967)『滋賀県文化財調査概要5:大中の湖南遺跡調査概要』滋賀県教育委員会
  5. 田井中洋介(1997)「弥生社会からみた独鈷石」滋賀県文化財保護協会紀要第10号
  6. 辻川哲郞(2002)「大中の湖南遺跡出土土錘について」滋賀県文化財保護協会紀要第15号

中原第4号墳 ― 2026年10月01日 00:05

中原第4号墳(なかはらだいよんごうふん)は静岡県富士市伝法に所在した古墳時代後期の円墳である。

概要

古墳時代中期末頃から8世紀にかけて形成された古墳群である伝法古墳群を構成する古墳の一つである。静岡県富士市に所在する古墳時代後期(6世紀)の直径約11mの小規模円墳である。 広見公園の南西、伝法沢川東岸に位置していた。 規模の割に豊富な副葬品の武器、馬具、土器が見られる。 中原第4号墳の特徴を佐藤祐樹(2018)は次のように規定する。

  1. ①6世紀後半、東駿河地域で横穴式石室を最初に取り入れた古墳である。
  2. ②石室が盗掘を受けておらず、埋葬時の状況をよく残していたこと(埋葬状況の把握)
  3. ③豊富な副葬品から、そこから被葬者の位置づけを把握できること。

埋葬施設の規模からすると、鉄鏃の出土量は突出している。

発掘調査

中原第4号墳は平成4年に発見され、発掘調査が行われた。 未盗掘の無袖形横穴式石室内および周溝内から、玉類、刀剣、鉄鏃、農工具、鍛冶具などの生産用具、馬具、用途不明鉄製品、須恵器、土師器、円筒埴輪、朝顔形埴輪、壺形埴輪など、多種多様な遺物が出土した。石室の大きさは全長約4.6m、幅は約1.1mである。

被葬者像

石室内の状況や出土遺物から、少なくとも3回の埋葬が行われたと考えられている。複数の馬具が出土しており、馬匹生産・騎馬活動との関わりが推定される。100本を超える鉄鏃は被葬者の武人的な性格が見られ、象嵌装大刀などから、広域的な交流や畿内王権との関係が推定される。鉄鏃の形態には東駿河の一般的なものに加えて西日本の特定地域に分布するものが含まれ、広域的な交流を示唆する。 古墳時代後期には副葬されることが少ない鍬、鋤先、鎌、鑿などの農工具や、東海地方では稀有な遺物である鉄器生産に不可欠な鍛冶具(鉄鉗)、服飾生産に関係する針などが珍しい。鉄鉗は2016年の調査報告では東海地方唯一の出土例とされる。 被葬者については、渡来人を含む土木開発・手工業の技術者集団を率い、古代富士地域の開発に関わった有力者であった可能性が指摘されている。

考察

なぜこのような小さな古墳なのに副葬品が多量に出土したのであろうか。複数回の埋葬に伴って副葬品が納められた。盗掘がなかったことが要因として挙げられている。中原第4号墳のリーダー等の居住地はどこであったか。被葬者やその集団の居住地については、周辺の集落遺跡との関係を検討する必要があり、近隣の中桁・中ノ坪遺跡などが候補として考えられる。

規模

  • 形状 円墳
  • 直径 11m

遺物

  • 埴輪(円筒埴輪・朝顔形埴輪・壺形埴輪)

築造時期

  • 古墳時代後期(6世紀)

展示

  • 富士山かぐや姫ミュージアム(富士市立博物館) 中原第4号墳出土品を展示

指定

  • 2021年12月24日 静岡県指定有形文化財(考古資料)「中原第4号墳出土遺物一括」

アクセス等 

  • 名称  :中原第4号墳
  • 所在地 :静岡県富士市伝法
  • 交 通 :新富士駅から直線距離で4.6km、東海道線富士駅から直線距離3.98km。

参考文献

  1. 菱田哲郎(2018)「6・7世紀の手工業生産と地域の編成」平成29年度中原第4号墳出土品指定文化財紀年シンポジウム
  2. 佐藤祐樹(2018)「中原第4号墳の調査成果と古墳時代の富士」平成29年度中原第4号墳出土品指定文化財紀年シンポジウム
  3. 和田達也(2017)「中原4号墳出土須恵器の様相」平成29年度中原第4号墳出土品指定文化財紀年シンポジウム
  4. 富士市(2017)「伝法中原第4号墳出土品が市指定文化財へ」埋蔵文化財ニュース2017年3月
  5. 富士市(2021)「中原第4号墳 静岡県指定文化財へ」埋蔵文化財ニュース2021年12月