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飛田給古墳群2026年08月27日 00:10

飛田給古墳群(とびたぎゅうふんぐん)は東京都調布市に所在する多摩川左岸の武蔵野台地南縁に形成された府中崖線周辺の段丘面に位置する古墳時代後期を中心に築造された古墳群である。

概要

調査・記録の時期や古墳の認定方法によって数え方に差があり、十数基から20基程度の古墳や地下式壙などが確認・推定されている。宅地化や道路整備によりその多くが消滅した。 飛田給古墳群は、飛田給地区の府中崖線周辺に分布する古墳群の総称である。調査・記録の経緯から、飛田給1号墳から5号墳のほか、桜塚古墳群として番号付けされた古墳が知られている。桜塚古墳群の一部には飛田給古墳群としての番号も対応しており、桜塚1号墳は飛田給6号墳、桜塚10号墳は飛田給12号墳にあたる。 飛田給1号から5号墳や桜塚古墳群などのうち、現在墳丘や基底部を確認できるのは「桜塚1号墳」と「桜塚10号墳(飛田給12号墳)」の2基だけである。多摩川左岸の段丘上にあり、河原石積みの横穴式石室などが発掘調査で確認されている。周辺には下石原古墳群や白糸台古墳群(府中市)がある。

調査

飛田給1号墳

1981年(昭和56年)に行われた調布市遺跡調査会による調査において周溝の約3分の1が検出され、未調査部分を含めて復元すると、北西部に陸橋部を持つ推定外径約21mの円墳である。

飛田給2号墳

1981年(昭和56年)に行われた調布市遺跡調査会による調査において周溝の一部が検出されており、その後の1995年(平成7年)の調査により未調査部分の周溝が検出され、直径18mの円墳とされた。

飛田給3号墳

周辺を通る古道「品川道」(府中から調布、狛江方面へ抜ける歴史的な古道で別名「いかだ道」「品川街道」ともいう)の敷地や近隣の建物の建設時に消滅した。1981年(昭和56年)に行われた調布市遺跡調査会による調査において周溝が検出され、北西部に周溝の一部が途切れた陸橋部が存在する外径19mの円墳であることが確認されている。

飛田給4号墳

1981年(昭和56年)に行われた調布市遺跡調査会による調査において周溝の一部が検出されている。土師器の壺形土器や高杯、用途不明の青銅製品は墳丘の主体部である河原石積横穴式石室の内部から出土した。共同住宅などの建設工事に伴う発掘調査で確認されたものであり、跡地は建物の敷地内となっており、地上にその原形や遺構は現在は確認できない。

飛田給5号墳

東京都調布市飛田給二丁目にあったが、現在は消滅して跡形もない古墳である。周溝の存在が確認されているが、墳丘規模や埋葬施設の詳細は明らかでない。

桜塚1号墳

桜塚1号墳は径13m、高2mである。墳丘上には祠(お堂)が祀られているものの、周辺は住宅地に囲まれている。飛田給古墳群で墳丘が現存する数少ない古墳の一つである。 所在地は東京都調布市飛田給2丁目8-11。京王線飛田給駅から南西に400m。(飛田給6号墳)。多摩地区所在古墳確認調査団(1995)によると「円墳。裾が大きく削平されている。墳丘に祠が祀られている。東西13m、南北12m。高さ2m。」と書かれる。

桜塚2号墳

飛田給古墳群を構成する消滅した円墳である。発掘調査により、直径約6メートル、高さ約1.5メートルの円墳と確認されている。河原石を積んだ横穴式石室が確認されている。

桜塚3号墳

飛田給古墳群(桜塚古墳群)を構成する墳丘径約24m、周溝を含む外径約30mの円墳である。刀子、金環、銀環、棗玉、ガラス小玉などの副葬品と人骨が出土した。

桜塚4号墳

東京都調布市飛田給2丁目にかつて存在した飛田給古墳群を構成する古墳である。1996年(平成8年)の共同住宅(社宅)建設に伴う発掘調査で河原石積横穴式石室などが検出されたが、現在は共同住宅などの建設により地表上の痕跡を失っている。

桜塚5号墳

桜塚5号墳は、東京都調布市飛田給2丁目にあった、現在は宅地化により消滅している飛田給古墳群(桜塚古墳群)の1つである。過去の調査で横穴式石室などが確認されている。桜塚古墳群の周辺には飛田給遺跡が所在し、縄文時代から古墳時代にかけての土器などが出土している。

その他の桜塚古墳

桜塚6号墳から9号墳についても古墳の存在が記録されているが、宅地化などによって消滅し、詳細が明らかでないものも多い。河原石積みの横穴式石室と推定されており、鉄鏃6点が出土した。

桜塚10号墳

1995年(平成7年)に行われた共同住宅建設のための調査により確認されている。かろうじて墳丘が残る貴重な2基のうちの1基である。7世紀中頃の円墳で、調査により河原石積みの横穴式石室基底部などが確認調査当時に残されていた。古墳墳丘の残存部分とされる高まりから、埋葬施設である河原石積横穴式石室が検出されており、石室から金環、玉類、鉄鏃等が出土した。

遺構

  • 古墳
  • 横穴式石室

遺物

  • 金環、
  • 玉類、
  • 鉄鏃

指定

築造年代

  • 7世紀頃(古墳時代後期)

展示

アクセス

  • 名称:飛田給古墳
  • 所在地:東京都調布市飛田給2丁目 付近
  • 交 通: 京王線「飛田給」駅下車 300m。

参考文献

  1. 多摩地区所在古墳確認調査団(1995)『多摩地区所在古墳 確認調査報告書』
  2. 調布市教育委員会・調布市遺跡調査会(1983)『調布市飛田給遺跡』
  3. 調布市史編集委員会(1990)『調布市史 上』(1990)

下布田古墳群2026年08月26日 00:05

下布田古墳群(しもふだこふんぐん)は東京都調布市にある古墳時代の古墳群である。

概要

東京都調布市布田六丁目の区画整理事業に伴う発掘調査で発見された。現在、原形をとどめる墳丘はない。下布田6号墳(狐塚古墳)では、2000年の調査時点で墳丘中央部に高さ約80cmの高まりが残されていた。下布田古墳群一帯は、かつて「布田九塚」と呼ばれ、戦前まで複数の墳丘が見られたとされる。 付近に「下布田遺跡」がある。府中市の白糸台古墳群から調布市の飛田給古墳群、下石原古墳群、上布田古墳群、下布田古墳群にかけて、古墳群が多摩川中流域左岸の段丘縁辺に連続して分布している。

下布田古墳群の位置付け

下布田古墳群は、多摩川中流域左岸の立川段丘崖線付近に分布する古墳群である。現在までに約20基の円墳が確認されており、調査された古墳からは5世紀前半頃から7世紀前半頃に及ぶ資料が確認されている。

周辺には、白糸台古墳群、飛田給古墳群、下石原古墳群、上布田古墳群などが分布しており、多摩川中流域左岸の段丘縁辺には古墳が集中している。下布田古墳群は、こうした多摩川中流域の古墳分布を考えるうえで重要な古墳群の一つである。

下布田古墳群では、比較的小規模な円墳に加え、墳丘径約44mの大型円墳である下布田6号墳が確認されている。このことは、古墳時代を通じた当地域の古墳築造の展開や、被葬者集団の変化を考えるうえでも重要である。

調査

1999年から2001年にかけて行われた発掘調査などにより、これまでに約20基の円墳が確認されている。このうち1999年から2001年の調査では、4号墳および6~13号墳の計9基が検出された。

下布田4号墳

下布田遺跡の東側にあり、周溝の西側から北側が調査された。推定される直径は26mである。築造年代を直接示す資料は出土しなかった。かつて「庚塚古墳」と呼ばれていた。

下布田6号墳

かつて「狐塚古墳」と呼ばれていた。昭和19年頃に照空隊陣地設営のため、大半が掘り崩されており、2000年(平成12年)の調査時点では、中央部分に80cm程の高まりを残すだけであった。下布田古墳群のなかでも最も新しい時期に築造された大型円墳で、墳丘径は約44mで、幅3.7~9mの周溝がめぐり、周溝を含めた外径は60.5mに達する。

主体部は一部のみが調査された。埋葬施設は半地下式の横穴式石室で、石室はほぼ真南に開口する。奥壁には凝灰岩質砂岩の切石を用い、側壁などは河原石で構築されている。石室全長は8.7m、玄室長は6.8mである。平面形は奥壁側に向かってやや広がる羽子板状を呈し、幅は奥壁側約2m、羨門側約1.45mである。 羨道部の側壁寄りからは、鉄製大刀3本、鍔1点、小刀1点、刀子1本、鉄鏃1本が出土した。このうち最長の大刀は全長94.5cm、刀身長79cmの直刀で、刀身には径約5mmの刃関孔が穿たれている。また、墓道からは須恵器や土師器が出土した。石室と出土遺物から7世紀前半の築造とみられる。 平成12年~13年の発掘調査で墳丘径約44m、周溝を含めた外径60.5mに達する都内最大規模の円墳と判明しており、重要な位置にある(調布市教育委員会(2021))。

下布田7号墳

東側の周溝を確認した。墳丘径は約17mである。

下布田8号墳

周溝の一部を確認した。墳丘径は約25mである。周溝から土師器杯3点、須恵器1点、須恵器甕2点、石製紡錘車1点が出土した。出土した須恵器は5世紀中頃から後半に比定される。

下布田9号墳

墳丘径は約22mである。周溝内から土師器の坩(つぼ状の器)1点、壺1点が出土した。周溝の底部では、大型の土師器壺を埋設し、その上部を脚部のない高坏で覆った埋設土器が確認された。

下布田10号墳

河原石で構築された横穴式石室と周溝の一部を確認した。石室は大きく破壊され、原形をとどめていなかった。墳丘径は約23mである。石室の構造から7世紀前半の築造とみられる。

下布田11号墳

墳丘径は約22mである。下布田遺跡から道路を挟んだ北側である。周溝内から5世紀前半の土師器坩1点が出土した。

下布田12号墳

墳丘径は約22mである。周溝の中から5世紀末から6世紀前半に比定される須恵器甕が出土した。

下布田13号墳

墳丘径は約13mである。周溝の上部から6世紀に比定される土師器杯が出土した。周溝の北西部にブリッジがある。

遺構

  • 古墳
  • 横穴式石室

遺物

  • 鉄製大刀3本
  • 鍔1点、
  • 小刀1点、
  • 刀子1本、鉄
  • 鏃1本、
  • 須恵器
  • 土師器
  • 土師器坩
  • 鉄製大刀
  • 小刀
  • 刀子
  • 鉄鏃
  • 須恵器甕
  • 石製紡錘車

指定

  • 2014年(平成30年)3月15日 東京都指定史跡 (下布田6号墳)

築造年代

  • 5世紀中頃から6世紀前半

展示

  • 調布市郷土博物館

アクセス

  • 名称:下布田古墳群
  • 所在地:東京都調布市布田六丁目53番1
  • 交 通: 京王線「布田」駅下車徒歩10分

参考文献

  1. 石森直吉『たづくりを巡りて』
  2. 調布市市史編集委員会(1990)『調布市史 上巻(原始から中世)』
  3. 調布市教育委員会(2021)『東京都指定史跡狐塚古墳 : 下布田6号墳』

五番田遺跡2026年08月25日 00:05

五番田遺跡(ごばんだいせき)は、新潟市江南区茅野山に所在する縄文時代から弥生時代にかけての遺跡である。砂丘下の埋没地形から発見され、縄文時代前期から弥生時代にかけての遺構・遺物が確認されている。

概要

2021年の試掘調査で発見された。地表から約2.5~3.3m掘り下げた砂丘下層から遺構・遺物が発見された。まとまって出土した石や当時の地形が確認されている。縄文時代から弥生時代にかけての遺構と遺物が発見されている。 遺構は

  1. ①縄文時代の建物1棟及び弥生時代の建物1棟が発見されている。
  2. ②人為的に集められたと見られる石10数か所が見つかった。
  3. ③当時の川跡が確認されている。
  4. ④縄文土器がまとまって配置されたとみられる遺構がある。

川跡

川跡の確認により、縄文時代から弥生時代にかけての遺跡周辺の地形や、水辺と砂丘との位置関係を復元する手掛かりが得られた。川跡(特に水気が残る低湿地)は空気に触れにくいため、通常の土壌では腐って消えてしまう木製品や植物の種、骨などが腐らずにそのまま残ることがある。川跡に積もった土の層(地層)や、そこに含まれる火山灰・土器の破片を分析するにより、「何百年前に川が干上がったか」「いつ洪水が起きてルートが変わったのか」といった自然環境の変化を調べることができる。

土器

2,000年前の「弥生土器」

ほぼ原形を留めた形の土器が発掘されている。この時期には水稲農耕が各地に広がっており、弥生土器は煮炊きや貯蔵など、日常生活のさまざまな用途に用いられた。

2,900年前の「縄文土器」

川跡や砂丘の調査において、「きれいに敷き詰められた状態」や、地面に「上下逆に置かれた状態」で見つかった土器がある。縄文土器には集中して配置されたものや逆位の状態で検出されたものがあり、その配置状況は、土器が単に廃棄されたものではなく、何らかの意図をもって置かれた可能性を考える上で注目される。祭祀的行為との関連を示す可能性が指摘される。 他の可能性として、墓(埋設土器)としての利用で、亡くなった幼児や子供の遺骨、または胎盤などを土器に入れ、蓋をするように「逆さま」にして土に埋める風習(再葬墓や埋設土器)が当時の日本各地で見られたことである。

5,500年前の「縄文土器」(縄文時代前期)

五番田遺跡で確認されている最も古い段階の土器で、縄文時代前期から晩期、さらに弥生時代に至る各時期の遺物が確認されており、長期間にわたって砂丘とその周辺環境が繰り返し利用されていたことを示している。

利用形態

建物が少なく、恒常的な居住を示す痕跡が限定的であることから、五番田遺跡は大規模な定住集落ではなく、周辺の集落から人々が訪れて一時的・季節的に利用した場所であった可能性が考えられている。縄文時代の人が主に活動したと考えられる範囲がほぼ判明する成果があった。弥生時代前期の土器も出土し、この時期にも遺跡周辺が人々によって利用されていたことが明らかになった。

遺跡の特徴

五番田遺跡の大きな特徴は、「まとまって出た石」が非常に多く見つかっている点である。これらは縄文時代晩期(約2900年前)の遺物と推測されている。五番田遺跡では、石がまとまって検出された地点が10数か所確認されている。これらがどのような目的で集められたのかは、石材の種類や配置状況、周辺の遺構との関係を含めて検討する必要があるが、人為的な集積である可能性が注目されている。 砂丘の下に埋没していた縄文時代前期から弥生時代に至る複数時期の活動痕跡が確認され、建物跡、石の集積、川跡、土器の特徴的な出土状況などから、人々と砂丘・水辺環境との関係を考えることができる

調査

遺構

  • 縄文時代の建物
  • 弥生時代の建物
  • 集石遺構

遺物

  • 弥生土器
  • 縄文土器

指定

時期

アクセス

  • 名称:五番田遺跡
  • 所在地:新潟市江南区茅野山 (亀田総合体育館付近)(国道403号沿い)
  • 交 通:JR「亀田駅」西口からバス(江南区区バスまたは住民バス「カナリア号」)で「アスパーク亀田」下車 徒歩

参考文献

  1. 新潟市文化財センター(2025)「新潟市遺跡発掘調査説明会2025」

久地伊屋之免古墳2026年08月24日 00:05

久地伊屋之免古墳(くじいやのめんこふん)は川崎市高津区久地にかつて存在した円墳である。

概要

JR南武線久地駅の南約350mに位置する台地の尾根先端で中腹の平坦面上にあった円墳である。1983年(昭和58年)から1984年(昭和59年)にかけて行われた久地伊屋之免遺跡の発掘調査で、3基の方形周溝墓などとともに確認された。南北径17m・東西径16m、高さ1.8~2.0mの円墳である。現在はマンション(溝の口北パークホームズ)建設のため消滅した。

埋葬施設は2基の木棺からなり、並列して設けられていた。第1主体部は全長7.8mに達する大型の木棺であった。第1主体部には割竹形木棺が用いられ、第2主体部には組合式木棺が用いられていた。 南側の第1主体部からは鉄鏃1、ガラス小玉9、玉類(棗玉1、勾玉1、管玉1)が出土した。第2主体部は組み合わせ式木棺であった。木棺外から検出された壺形土器には東海地方以西に分布する土器との共通性が指摘されている。

埋葬施設の構造や出土遺物などから、古墳の築造時期は4世紀第4四半期頃と推定されている。(久地伊屋之免遺跡発掘調査団編(1987))。

調査

アクセス

  • 名称:久地伊屋之免古墳
  • 所在地:神奈川県川崎市高津区久地4丁目18-10
  • 交通: JR南武線久地駅 徒歩6分

参考文献

  1. 相原精次(2000)『神奈川の古墳散歩』彩流社
  2. 吾妻考古学研究所編(2019)「久地伊屋之免遺跡第3地点:川崎市高津区:発掘調査報告書」
  3. 久地伊屋之免遺跡発掘調査団編(1987)『川崎市高津区久地伊屋之免遺跡』
  4. 村田文夫(1993)『古代の南武蔵―多摩川流域の考古学』有隣堂

ネコ塚古墳2026年08月23日 00:05

ネコ塚古墳(ねこづかこふん)は奈良県御所市室に所在する古墳時代中期(5世紀初頭から前半)の方墳である。

概要

ネコ塚古墳は奈良県御所市室のほぼ中央部、巨勢山丘陵の北側に広がる平坦部に位置する。 関川尚功(1989)は墳丘測量図を示して、高さ約10m、一辺70mほどと推定できるとした。墳頂を中心に採集された遺物には、鉄製刀剣類のほか、鉄鏃、衝角付冑に伴う三尾鉄、三角板革綴短甲、頸甲、円筒埴輪などの破片が検出されている(藤田(1985))。 明治時代に大規模な盗掘がみられ、墳頂部に結晶片岩が散乱する様子がある。梅原末治(1922)は、1881年(明治21年)ごろに発掘し、竪穴式石室が発見され、鉄器が出土したことを記している。埋葬施設に竪穴式石室を採用していたと考えられている。

測量平面図で見る限り、ネコ塚古墳は、その墳丘の約4割が室宮山古墳の周堤と重なる位置にあるとみられる(関川尚功(1989))。宮山古墳(室宮山古墳)の陪塚(大型古墳に付属して築造されたと考えられる古墳)と考えられている。

「ネコ塚」名称の由来

「ネコ塚」という名称の由来は明らかではないが、実際に猫が埋葬されていることに由来するものではなく、地元の伝承にちなむ名称と考えられている。古代の貴人の名に「根子(ねこ)」を含むものがみられること(『日本書紀』巻第十四、雄略紀など)から、これに由来するとの説もある。 「ネコ塚古墳」または「猫塚古墳」と呼ばれる古墳は各地にあり、奈良県五條市の五条猫塚古墳、香川県高松市の猫塚古墳、宮城県仙台市の猫塚古墳などがある。

2025年調査

2025年11月中旬から、御所市教育委員会は墳丘の外側2か所、計約110平方メートルを調査した。1か所では北東隅にあたる直角に近い外堤の一部が確認された。また、外堤の内側に巡らされた周濠も確認された。外堤を保護していたとみられる葺石や埴輪片も出土した(御所市教育委員会(2025))。

2025年12月、御所市教育委員会は第1次調査の成果を発表し、東側と北東側の2か所の調査区で周濠と外堤が確認されたことを明らかにした。北東側では外堤の隅部が確認され、外堤の幅は約15m、周濠の幅は約5mと推定された。また外堤の内側に巡らされていた周濠も新たに確認され、その幅は5メートル以上であった。 2025年12月の発表などで確認された内容から、外堤や周濠までを含めた規模は1辺が約100mに及ぶ可能性が指摘されている。

別の場所でも外堤や周濠が出土し、2カ所から外堤を保護していたとみられる多数の葺石や埴輪片も出土した。さらに。従来一辺70m前後と推定されていた墳丘規模について、「60m前後の可能性が出てきた」と発表されている(朝日新聞,2025/12/12)。 ネコ塚古墳が単独の方墳ではなく、室宮山古墳の周囲の施設と一体的な計画の中に置かれていた可能性を具体的に検討できるようになったとの見解が示されている。

葺石

  • あり

主体部

遺物

築造時期

  • 5世紀初頭(古墳時代中期)頃の築造と推定

指定

アクセス等

  • 名称:ネコ塚古墳
  • 所在地:奈良県御所市室字戌之花
  • 交通:近鉄近鉄御所駅→奈良交通バス五條方面行きで6分、宮戸橋下車、徒歩5分

参考文献

  1. 梅原末治(1922)「大和御所町附近の遺蹟」『歴史地理』第39巻第4号
  2. 【「ネコ塚古墳」の外堤出土、規模探る貴重な資料】産経新聞,2025/12/12
  3. 『「堀」が出土、豪族・葛城氏の墓か』朝日新聞,2025/12/12
  4. 御所市教育委員会(1999)「台風7号被害による室宮山古墳出土遣物」御所市文化財調査報告書第24集
  5. 御所市教育委員会(2025)「ネコ塚古墳(第1次調査) 現地説明会資料」、2025年12月14日
  6. 関川尚功(1989)「御所市室大墓古墳外堤」『奈良県遺跡調査概報1988年度
  7. 藤田和尊(1985)「位置と環境」『奈良県御所市室境谷10号墳発掘調査報告』(『御所市文化財調査報告』第4集

室宮山古墳2026年08月22日 00:05

室宮山古墳(むろみややまこふん)は奈良県御所市室に所在する古墳時代中期の前方後円墳である。国の史跡に指定されている。指定名称は「宮山古墳」で、「室の大墓」とも呼ばれる。

概要

奈良県御所市室のほぼ中央部、巨勢山丘陵の北側に広がる平坦部に位置し、主軸をほぼ東西にとって前方部を西に向ける。墳丘長238mとされる前方後円墳で、近年の御所市の説明では墳長245mとされる。奈良盆地西南部地域(葛城地域)において最大の規模である。規模に加え、長持形石棺、竪穴式石室、豊富な形象埴輪、複数の埋葬施設などから、大王墳に匹敵する規模・内容をもつと評価されている。被葬者は葛城襲津彦とする説が有力である。 大王墓級の古墳で石室や石棺を間近に見学できるのは、全国でも数少ない。

墳丘は3段築成で、外部施設として葺石、埴輪列の存在が確認されている。円筒埴輪・朝顔形埴輪(Ⅲ式)、形象埴輪靱・楯・短甲(三角板角綴形)・草摺・衣蓋、切妻造や寄棟造の家形埴輪、異形直弧文を線刻する埴輪が出土する。

埋葬施設

後円部墳頂に南北2つの埋葬施設がある。南側の埋葬施設は竜山石製の長持形石棺を内蔵する竪穴式石室で、激しい盗掘にあっていたが、銅鏡片、玉類、滑石製模造品、琴柱形石製品、甲冑・刀剣類などが出土した。 北側の埋葬施設は本格的な発掘調査が実施されていないが、竪穴式石室の天井石が露出しており、長持形石棺の存在も確認されている。北側石室周辺からは、朝鮮半島南部の伽耶地域で生産された船形・高坏形の陶質土器片が確認されており、石室内に副葬されたものと考えられている。

埴輪

大型家形埴輪は、南葛城地域の南郷遺跡群にある極楽寺ヒビキ遺跡の大型掘立柱建物と構造的な共通性をもつことから、首長の政治的空間を表現したものとする見方がある。竪穴式石室を方形に取り囲む埴輪列では冑と盾を組み合わせた埴輪、盾形、靫形、草摺形埴輪、大型家形埴輪(高さ121㎝)と高坏(たかつき)形埴輪が表面を外側に向けて配置されていた。家形埴輪は、朱彩された直弧文を施した四角い柱(四本の柱)の上に、入母屋造の屋根と鰹魚木(かつおぎ)を載せた高床式建物を模した、装飾的なデザインである。

調査

1950年の盗掘を契機として発掘調査が実施された。後円部墳頂に南北を挟んで2基の竪穴式石室が存在している。南石室について発掘調査が実施され、長持形石棺が置かれていた。周囲には靫形埴輪・盾形埴輪・短甲形埴輪やその他多彩な形象埴輪が方形に巡っている。

その前面南側には、切妻造や寄棟造の家形埴輪4棟が配置されていた。前方部にも2基の埋葬施設があり、前方部張出し部頂部にも粘土槨が確認されている。さらに前方部から11面の銅鏡や170点以上の玉類が出土した記録がある。

極楽寺ヒビキ遺跡との大型家形埴輪の関連

約3キロ離れた極楽寺ヒビキ遺跡で確認された大型掘立柱建物は、室宮山古墳出土の大型家形埴輪と柱の構造や柱間の表現に共通性が認められる。このことから、大型家形埴輪が実在した建物をモデルとして製作された可能性が指摘されており、当時の首長居館の構造を考えるうえでも重要な資料となっている。

伽耶系陶質土器出土の意味

室宮山古墳(宮山古墳)から出土した「伽耶系とされる陶質土器(特に船形陶質土器)」は、5世紀頃の日本(倭)と朝鮮半島南部・伽耶地域との深い外交・人的交流、および被葬者(強力な豪族・葛城氏)が持っていた対外海運・渡来人ネットワークを示唆する。伽耶系陶質土器は日本国内で焼かれた須恵器とは異なり、朝鮮半島の伽耶地域で製作され海を渡って持ち込まれた舶載品である。

船を表現した特殊な形態であることから、航海や海上交流との関係を指摘する見解もある。5世紀のヤマト王権と関係をもつ有力豪族「葛城氏(葛城襲津彦など)」の本拠地であり、葛城地域における対外交流の重要性を示す。

墳丘

  • 形状 前方後円墳
  • 築成 前方部:3段、後円部:3段
  • 墳長 238m
  • 後円部 径105m 高25m
  • 前方部 幅110m 長130m 高22m

外表施設

  • 円筒埴輪 円筒・朝顔形Ⅲ式
  • 形象埴輪
    • 靱・
    • 楯・
    • 短甲(三角板角綴形)・
    • 草摺・
    • 衣蓋、
    • 切妻造・
    • 四柱造、
    • 異形直弧文を線刻する埴輪

葺石

  • あり

主体部

  • 室・槨 ①竪穴式石槨②竪穴式石槨?③(伝)粘土槨?④粘土槨
  • 棺 ①長持形石棺②長持形石棺③木棺(型式不明)④割竹形木棺

遺物

  • 【鏡】中国:①神獣鏡10数片 ③11(型式不明)。
  • 【玉類】硬玉:
    • ①ⅱ硬玉棗玉5、
    • 碧玉:①碧玉勾玉2、
    • 滑石:①滑石管玉15、
    • メノウ:①ⅱメノウ勾玉3、
    • ①ガラス臼玉7
    • ①ガラス臼玉32
    • ③ガラス小玉約100。
  • 【石製模造品】
    • 琴柱形:、
    • 装身具:①ⅰ滑石製勾玉1、ⅱ滑石製勾玉58、①ⅲ臼玉75、
    • 滑石製勾玉564 ③滑石製勾玉29、
    • 農工具:①ⅲ刀子16、斧1、杵形1 
    • ③刀子 1、
    • その他:①ⅲ棒状2、石状2、異形1。
  • 【武器・刀剣類】鉄剣1 ⑤鉄刀破片出土(工事中に)。
  • 【武器・鏃】その他の鉄鏃:⑤型式・数量不明。
  • 【武具】革綴短甲:①ⅱ三角板1(細片で約1領分)、その他:⑤破片出土(工事中に)。-【農工具】農具:①斧1、工具:①ⅱ刀子3。
  • 【土師器】①数片。
  • 【その他】①銅器片1 漆塗製品。

築造時期

  • 5世紀初頭(古墳時代中期)頃の築造と推定

指定

  • 1921年(大正10年)3月3日 国指定史跡 「宮山古墳」

アクセス等

  • 名称:室宮山古墳
  • 所在地:〒639-2277 奈良県御所市室
  • 交通:近鉄近鉄御所駅→奈良交通バス五條方面行きで6分、宮戸橋下車、徒歩5分

参考文献

  1. 江上波夫(1993)『日本古代史辞典』大和書房
  2. 小笠原好彦(2019)『奈良の古代遺跡』吉川弘文館
  3. 御所市教育委員会(1996)「室宮山古墳範囲確認調査報告」
  4. 御所市教育委員会(1999)「室宮山古墳出土遺物」御所市文化財調査報告書第24集

飛鳥水落遺跡2026年08月21日 00:05

飛鳥水落遺跡(あすかみずおちいせき)は奈良県明日香村にある飛鳥時代の日本で最初に造られたとされる漏刻の遺構と考えられている。

概要

飛鳥水落遺跡は飛鳥盆地の南北の中央にあり、飛鳥川東岸の平地に位置し、飛鳥寺跡の北西、石神遺跡の南にあたる。方形基壇状遺構や総柱礎石建物、水利用施設が発見されている。

確認された遺構

  • (1)一辺約22.5m、高さ約1mの方形基壇状遺構が確認されている。
  • (2) 基壇上には柱間約11mの四間四方・総柱の礎石建物が建っていたと考えられている。
  • (3)基壇中央には台石が据えられ、その上に漆塗りの木箱を設置した痕跡が確認されている。
  • (4)木樋暗渠や、サイホン方式による給水に用いられたと考えられる銅管などの水利用施設が確認されている。
  • (5)小型水槽は内法37cm四方で、建物の北寄り中央に位置する。深さ1mで、建物内に口を開ける。水槽の東に貼石溝の下を抜けて建物中央に水を導く木樋と暗渠があり、その水をせき止める桝、木樋から水を汲み上げるための銅管がある。

推定

  • (1)『日本書紀』斉明天皇6年(660年)条には、中大兄皇子が初めて漏刻を造ったと記されており、水落遺跡はこの漏刻台の遺跡と考えられている。小型水槽は時刻目盛を刻んだ箭を浮かべる受水槽と見られている。『日本書紀』には660年の記事のほか、671年にも漏刻に関する記事がある。
  • (2)石神遺跡の南に位置する。漏刻とは水時計である。
  • (3)建物は楼閣状の構造で、漏刻を設置するとともに、上層で鐘などを鳴らして時刻を知らせた鐘楼として機能したと推定されている。律令制下の陰陽寮には漏刻博士2人と守辰丁20人が置かれ、漏刻の管理を担当した。
  • (4)水落遺跡の北にある石神遺跡から出土した「巳四」「午九」などの木簡も、水落遺跡との関係で注目される。これらは、後世の時刻制度にみられる時刻ごとの太鼓の打数と対応することから、時を知らせる打数を記した木簡と解釈する説がある。

調査

1972年(昭和47年)の第1次調査で遺構が確認され、1976年に国史跡に指定された。その後、1981~1985年の第2~6次調査などによって、遺跡の構造や水利用施設の詳細が明らかになった。周囲には掘立柱建物や塀、石敷き、長廊状建物なども確認されており、石神遺跡とともに7世紀の政治的・儀礼的空間を形成していたと考えられている。調査履歴は以下の通りである。

  1. 第1次調査:1972年10~12月
  2. 第2次調査:1981年9~12月
  3. 第3次調査:1982年10~12月 これ以後継続調査された。

遺構

  • 礎石遺物 1
  • 掘立柱建物 3
  • 塀 1
  • 漆塗木箱 2
  • 木樋暗渠 8
  • 枡状遺構 1
  • 小銅管 1
  • 堀込地業 1
  • 地中梁 1

遺物

  • 土師器
  • 須恵器
  • 鉄製品(鉄釘、六花形飾金具など)
  • 銅製品(銅釘、小銅管、大銅管など)
  • 木樋
  • 鋳造関係品

考察

展示

指定

  • 1976年(昭和51年)2月20日 - 国指定史跡
  • 1982年3月23日 追加指定

所在地等

  • 名称: 飛鳥水落遺跡
  • 所在地:奈良県高市郡明日香村大字飛鳥
  • 交通: 近鉄「橿原神宮前」駅東口または「飛鳥」駅より奈良交通明日香周遊バス乗車。「飛鳥」下車3分。

参考文献

  1. 独立行政法人国立文化財機構奈良文化財研究(1982)「史跡飛鳥水落遺跡」