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上官塚遺跡2026年09月09日 00:05

上官塚遺跡(じょうかんづかいせき)は熊本県嘉島町にある古墳時代の遺跡である。

概要

熊本県の中央部にあり、北を加勢川、南を緑川に囲まれる。縄文時代後期から平安時代前期にかけて、弥生時代の甕棺墓群、古墳、集落が検出された。弥生時代の甕棺墓群や5世紀前半に築造されたと考えられる古墳(SZ09)が確認されている。 出土品は出土品は嘉島町文化財センターおよび嘉島町上島収蔵庫に保管されている。

古墳

古墳は30基以上が確認されており、上官塚古墳群と名称がついている。すべて円墳であった。5世紀前半に築造されたと考えられるSZ09の周溝から、家形埴輪、囲形埴輪、円筒埴輪、壺形埴輪、朝顔形埴輪などが出土した。 古墳は横穴式石室と箱式石棺とがある。規模は径10mから30mを超えるものも。埴輪が出土している古墳がある。円筒埴輪は突帯が2条あり、間に円または逆三角の透かし穴がある。朝顔型埴輪は壺形埴輪と円筒埴輪を一体にしたものである。SZ09は周溝から出土した埴輪などから5世紀前半に築造されたと考えられている。

家形埴輪

家形埴輪は入母屋造りで家の壁に線刻の円文がある。円文の上には2本一組の縦方向の線刻があり、円文を2本の紐で吊り下げたようにもみえる。円文は、入口と窓を表現した正面側にのみ施されている。入口と窓は正面のみであるが、両者は同じようなサイズである。 囲形埴輪にも家形埴輪と同様の円文が施されているが、円文は入口を表現した正面側に限られる。円文の中心には、コンパスを用いたとみられる中心孔がある。家形埴輪は縦32.4cm、横43.2cm、高さ32.8cmである。家形埴輪と囲形埴輪が出土し、九州では両者が組み合わせて出土した例として2例目となる。家形埴輪と囲形埴輪は「発掘された日本列島2025」で紹介・展示された。

調査

遺構

弥生時代

  • 甕棺
  • 土壙墓

古墳時代

  • 古墳
  • 土壙墓
  • 木棺墓

遺物

縄文時代

  • 縄文土器(後~晩期)
  • 石器(石鏃、剥片など)

弥生時代

  • 弥生土器(中期~後期)
  • 石器(石斧、石鏃など)

古墳時代

  • 土師器・
  • 須恵器(中期)
  • 鉄器(刀子など)

展示

指定

アクセス等 

  • 名称  :上官塚遺跡
  • 所在地 :熊本県上益城郡嘉島町上島545
  • 交 通 :

参考文献

  1. 嘉島町教育委員会(2024)『上官塚古墳群 ; 上官塚遺跡』
  2. 嘉島町教育委員会(2024)『上官塚遺跡2(第54~57区)』

クリブラ・オルビタリア2026年09月08日 00:05

クリブラ・オルビタリア(くりぶらおるびたりあ)は「眼窩上壁(眼窩の天井部分)に小孔や網目状の変化がみられる骨病変」であり、眼窩(目の奥のくぼみ)の上壁に網目状の小孔ができる骨病変である。 原因は成長期の貧血や栄養・感染などとの関連が指摘されてきたが、原因は単一ではなく、現在も議論がある。成長期に受けた生理的ストレスを検討する際の指標の一つとして利用されている。人骨集団における出現頻度を比較することで、過去の集団の健康状態や生活環境を考える手がかりとなる。

概要

クリブラ・オルビタリア(cribra orbitalia)は人類学や古病理学で「ストレス・マーカー」として使われている。特に子ども時代の慢性的な貧血や栄養不良が原因とされている。 縄文人の健康状態や食生活、生活環境を読み解く手がかりになるとされている。

縄文時代と弥生時代との比較

水田稲作(米作り)が始まり食料生産が安定する一方、、人口の集中や衛生環境の変化、偏った食生活による新たな健康ストレスが生じたとされる。弥生時代には水田稲作の普及など生活環境が大きく変化したが、クリブラ・オルビタリアの出現率は一様に増加したわけではなく、地域・集団による差が大きい。

Hirata(1990)は縄文時代から現代までの出現頻度を明らかにし、江戸庶民が最も高頻度であったと明らかにした。古賀英也(2003)は縄文時代から現代までの682個の頭蓋骨を調査した。成人で比較すると、縄文時代では出現率15.8%、弥生時代では10.5%(古浦、島根県松江市)から28.6%(広田遺跡、鹿児島県)、古墳時代では11.7%(横穴墓)から28.6%(墳丘墓)、中世人で10.5%(吉母浜遺跡、山口県下関市)、近世人で2.4%(天福寺遺跡、福岡県福岡市)から17.8%(原田遺跡、福岡県嘉麻市)、現代人で35.4%であった。 ばらつきはあるが、縄文人や弥生人の栄養状態が現代人より低いわけではないことが示された。少なくともクリブラ・オルビタリアの出現頻度だけから、縄文人の栄養状態が現代人より悪かったとは判断できない。

南西諸島の場合

土肥直美(2007)は石垣島出土人骨の骨考古学的調査を行い、中近世の人骨では、クリブラ・オルビタリアの出現率が47.1%(17例中8例)と比較的高い結果を得た。南西諸島は小さな島のため、自然条件の変化に対応する事が難しく、凶作が多かったためと想定されている。

江戸時代の比較

江戸市中の一橋高校遺跡では成人頭蓋 102体中37体(36.3%)にクリブラ・オルビタリアが観察されており,高い人口密度による衛生状態の劣悪さが要因として報告されている(Hirata K.(1988))。江戸や地方の都市・村落から出土する人骨の調査から、当時の子どもたちは厳しい生育環境にあったことが示されている。

参考文献

  1. 古賀英也(2003)「西南日本古代人のストレスマーカー(2)クリブラ・オルビタリアとエナメル質減形成,及びハリス線を含めた三種のストレスマーカーの関連性」Anthropological Science(Japanese Series)111(1),pp.51-67
  2. 土肥直美(2007)「南西諸島出土人骨の骨考古学的調査」学研究費補助金研究成果報告書
  3. Hirata K.(1988) A contribution to the paleopathology of Cribra orbitalia in Japanese. 1. Cribra orbitalia in Edo Japanese. TheSt. Marianna Medical Journal, 16:pp.6-24.
  4. Hirata K.(1990)Secular trend and age distribution of cribra orbitalia in Japanese,Human Evolution5,pp.375-385
  5. Hirata K. (1995) Regional differences on environmental circumstances in Edo period from palaeopathological point of view. Anthropological Science, Vol.103, p.205.

海老名市温故館2026年09月07日 00:05

海老名市温故館(えびなしおんこかん)は神奈川県海老名市に所在する歴史系郷土資料館である。正式名称は「海老名市立郷土資料館『海老名市温故館』」である。

概要

大正7年に建てられた国の登録有形文化財(旧海老名村役場)の洋風建築を利用し、1階で相模国分寺跡や市内の出土品などの考古・歴史資料を展示する。1921年(大正10年)に相模国分寺跡の史跡指定に合わせて作られた「遺物陳列館」が前身である。遺物陳列館は、中山毎吉らによる相模国分寺跡保存活動を背景としており、これが温故館の前身となった。1982年(昭和57年)に資料館として開館した。神奈川県内に現存する最古の役場遺構とされる。2010年(平成22年)に移築工事を開始し、2011年(平成23年)3月に現在地への移築が完了した。 現在の基本展示は「1階=考古・歴史、2階=民俗資料」の展示構成である。 1階では旧石器時代の石器、縄文・弥生時代の土器、さらに相模国分寺の瓦や復元模型、秋葉山古墳群の出土品などを収蔵する。2階では明治・大正・昭和の時代に使われた農耕具や養蚕具、昔の生活用具など、当時の人々の暮らしや「衣・食・住」を知る資料民俗資料を展示する。「郡役所様式」建築の近代洋風建築の特徴を持つ。登録有形文化財としての建築的特徴は木造洋風庁舎であること、二階建寄棟造桟瓦葺で東側に切妻造の玄関ポーチがあること、外壁は下見板張であることなどである。 1988年(平成元年)度に「かながわの建築物100選」に選定された。相模国分寺跡に隣接する。

意義

温故館は2023年に国の登録有形文化財となり、海老名市の近代史を物語る建造物として文化的価値を持つ。

展示品

常設展示

旧石器時代の石器(石斧)や石鏃、縄文時代の勝坂式土器・弥生時代の土器、丸木弓、秋葉山古墳群の資料や小銅鐸、勾玉などの出土品、相模国分寺跡の復元模型(七重塔など)相模国分寺の模型や相模国分寺の寺院の屋根を彩っていた国分寺瓦(文字が刻まれた墨書瓦など)や遺物が展示される。 秋葉山古墳の出土品として、1号墳からは土器とともに鉄製のやじりが出土した。2号墳からは水銀朱の付いた片口鉢、3号墳からは水銀朱の付いた片口鉢や高杯などが出土し、常設展示される。

企画展示

企画展示では旧石器時代の約3万年前の「柏ケ谷長ヲサ遺跡」から出土したナイフ形石器、尖頭器、剥片、石斧、「河原口坊中遺跡」などから出土した、弥生時代の木製品・金属器である木製の臼や杵、梯子、鉄斧、小銅鐸が展示されることがある。上浜田古墳群第2号墳では、2014年に墳頂部から鉄剣片が偶然発見されたことを契機として発掘調査が行われ、鉄剣・鉄鏃・勾玉・管玉・ガラス玉などの副葬品が出土した。

指定

  • 国登録有形文化財(建造物)「海老名市温故館(旧海老名村役場)」
  • 2023年(令和5年)8月7日登録

アクセス等

  • 正式名称: 海老名市立郷土資料館「海老名市温故館」
  • 開館時間 :開館時間:9時~17時15分(最終入館16時45分
  • 所在地 :神奈川県海老名市国分南一丁目6番36号
  • 交通 :海老名駅から750m(徒歩14分)

秋葉山古墳群2026年09月06日 00:05

秋葉山古墳群(あきばやまこふんぐん)は神奈川県海老名市に所在する6基(6号墳は未調査)の古墳群である。

概要

神奈川県のほぼ中央に位置する座間丘陵の尾根に沿って継続的に築造された古墳群である。相模川から約2km東の標高75mから80mの丘陵頂部に立地する。 前方後円墳の形状から古い時代の様相を呈する古墳群であろうと推定されていた。 発掘調査により、3世紀後半から4世紀中頃にかけて継続的に築造された、古墳時代出現期の古墳群であることが明らかになった。 墳形は前方後円墳、前方後方墳、方墳の3種類がある。 土器は庄内式期では在地色が強かったが、布留式期には畿内色が強くなるという変遷がたどれる。押方みはる(2026)によれば「3号墳では墓坑上で土器、朱を使った祭祀、2号墳では朱、円筒形土製品、火を使った祭祀」が行われていたとする。 出土品は海老名市温故館で保管、展示される。

調査歴

1969年(昭和44年)に神奈川県教育委員会による測量調査が行われた。 第1次調査は1987年(昭和62年)神奈川県教育委員会により3号墳から5号墳の調査が行われた。 第2次調査では秋葉山古墳群遺跡調査団が結成され、1988年(昭和63年)4月20日から7月18日までの期間で第1から第4号墳の発掘調査を実施した。海老名市史編纂委員会による測量調査が1992年(平成4年)に行われた。その後は2003年(平成15年)の第12次調査まで断続的に調査が行われた。

各古墳の築造順と特徴

出土した土器から築造順は「3・4号墳 → 2号墳 → 1・5号墳」と判断されている。

第1号墳

第1号墳は前方後円墳で墳長は59m、後円部径は33m、後円部の高さは4.8m、前方部長さは26m、幅は14m、前方部の高さは2mである(海老名市教育委員会(2005)。周溝は存在していないが、前方部前面/南側に溝が確認されている。墳丘は地山を削って成形している。遺物は極めて少ないくびれ部から布留式期の完形小型丸底坩と鉄鏃、前方部から壺口縁部片が出土したのみである。2号墳に比べると前方部が長くなり、定型化した前方後円墳である。4世紀前半の築造とみられている(海老名市教育委員会(2005)。

第2号墳

3世紀末から4世紀初頭の前方後円墳である。墳長50.5m、後円部径33m、後円部高さ5m、前方部幅15m、前方部長18.9m、前方部高さ3mである。後円部の大きさに比べて前方部が短い。 周濠は見られないが、前方部の正面にのみ溝が掘られる。くびれ部を中心に、埴輪状の円筒形土製品や、水銀朱の付いた片口の鉢などの土器が出土した。

第3号墳

秋葉山古墳群では最も古いとみられており、3世紀後半の築造とみられている。前方後円形であるが、前方部は削平されて残っていない。現状では径40m程度の円墳状を呈するが、大正年間の中山毎吉の記録や古写真等によれば、前方部の存在が確認でき、かつては全長50m程度の前方後円形の墳丘と見られる。周溝内の各所から大型の壺が5個体以上出土した。胴部の球形化が進み、頸部が明確に屈曲する在来系の壺である。墳頂部から出土した高坏は元屋敷系であるが、脚部透かし孔を省略し、ハケ調整をそのまま残すなど在地化が進んでいるとされる。そのほか台付鉢が出土している。出土土器は、東海系の高杯が見られるものの全体としては在地色が強く、時期は弥生時代から古墳時代の移行期にあたる庄内式期に併行する時期とみられている。後円部側には、幅7.8mの周溝が確認されている。

第4号墳

2002年~2003年の発掘調査結果により、秋葉山古墳群では唯一の前方後方墳と判明した海老名市教育委員会(2004)。弥生時代の墳丘墓的要素が見られる。第3号墳築造の前後の時期と見られる。墳長は37.5m、全長は40m、後方部長24.8m、前方部長12.7mである(海老名市教育委員会(2004))。周溝は墳丘西側で幅4m、深さ0.4mが確認されているが、全周はしていないとみられている。出土遺物はほとんどないが、壺の破片が得られている。

第5号墳

5号墳は一辺訳20m、周溝含め約26mの方墳で、1号墳と同じ特徴をもった土器の小型丸底壺、小型器台がわずかに確認されている。4世紀前半頃の築造である。

評価

弥生時代の墳丘墓的要素を残す前方後方墳(第4号墳)や不整形な前方後円墳(第3号墳)から、整った形の前方後円墳(第2号墳・第1号墳)へと移り変わる様子を見ることができる。土器では庄内式期において在地色が強かったが、布留式期には畿内色が強くなるといった変遷がたどれるため、前方後円墳の出現期に集団間の交流の在り方に変化のあったことが示唆されると指摘されている。 葬送儀礼に使われたとみられる水銀朱(赤い顔料)や、全国的に類例のない円筒形土製品などが発見されている。南関東における出現期古墳のあり方や当時の社会を考える上で極めて重要な古墳群と評価されている。

築造時期

  • 古墳時代初頭(3世紀後半)から4世紀中頃

被葬者

展示

  • 海老名市温故館

指定

  • 2005年(平成17年)7月14日 国指定史跡

アクセス等 

  • 名称  :秋葉山古墳群
  • 所在地 :神奈川県海老名市上今泉4・5丁目にまたがる
  • 交 通 :相模鉄道相鉄本線 かしわ台駅 徒歩20分

参考文献

  1. 押方みはる(2026)「秋葉山古墳群と相模川流域の古墳時代を考える」
  2. 海老名市教育委員会(2002)『秋葉山古墳群第1・2・3号墳発掘調査報告書』海老名市教育委員会生涯学習部文化財課
  3. 海老名市教育委員会(2004)『秋葉山古墳群第3・4号墳発掘調査報告書』海老名市教育委員会生涯学習部文化財課
  4. 海老名市教育委員会(2005)「海老名市温故館特別展 1700年の時を経て、今ここに」
  5. 海老名市教育委員会(2006)『史跡秋葉山古墳群』改訂新版、海老名市教育委員会生涯学習部文化財課

浅間古墳2026年09月05日 00:05

浅間古墳(せんげんこふん)は静岡県富士市に所在する古墳時代前期後半(4世紀中頃)築造の前方後方墳である。後方部の墳頂に浅間神社の社殿が鎮座することから「浅間神社古墳」とも呼ばれる(大塚初重、小林三郎(1996))。

概要

4世紀前半ごろにつくられた、全長約90.8m(約91m)の東海地方で最大規模の前方後方墳である。1957年の国史跡指定以後、本格的な発掘調査は行われていなかったが、保存管理や活用に向けた本格的な発掘調査が2026年度から開始されている。

富士市は史跡の適切な保存管理と未来への活用のための基礎資料とするため、発掘調査を、令和8年度から令和12年度までの5か年をかけて行い、令和13年度には総括報告書を作成する予定とされた。1957年(昭和32年)に国の史跡に指定されている。

2020・2021年のレーザー測量によって、南側(海側)と北側(山側)で墳丘の高さが大きく異なり、海側から見た際に大きく見えるように築造されたことが確認されている。 被葬者には諸説があるが、被葬者には諸説があるが、富士市教育委員会(2025)は被葬者を『水上・陸上交通を掌握したスルガの王墓』とする。

調査歴

  • 1921年(大正10年)、『静岡県史蹟名勝誌』に前方後円墳で、埴輪が出土したと記載される。
  • 1930年(昭和5年)『静岡縣史』第1巻に全長97mの前方後円墳と記載された、
  • 1957年(昭和32年)内藤晃による初めての本格的な測量調査が行われ、全長103mの「前方後方墳」であると指摘し、葺石は存在し、埴輪は伴わないとされた、年代は古墳時代中期の初め頃と推定された。
  • 1997年(平成9年)、静岡大学人文学部考古学研究室による測量調査が実施され、墳長約90m 、後方部長約60m・後方部高約10m の前方後方墳( 後方部二段・前方部一段築成)とされた。平面形態は非対称形で、南側が大きく、前方部が比較的短く、古い形態を残したものとされ、古墳時代前期後半(4 世紀中頃)の築造と推定された。
  • 2019年、富士市教育委員会による、埋葬施設の有無・形状把握を目的とした地中レーダー探査を実施し、後方部に建てられた社殿の西側で地表から2.0 ~ 2.5mほどの深さに、内法長辺約7.4m、短辺約2.2m、幅1~3m程度の構造物に囲まれた竪穴系埋葬施設(もしくは粘土槨)が残存している可能性が示された(富士市市民部(2022))。
  • 2020~2021年、富士市教育委員会による空中レーザー測量が行われ、全長90.8mに復元し、後方部側面に平坦部(テラス部)の存在を指摘した。後方部二段、前方部一段築成の前方後方墳とした(富士市市民部(2022))。
  • 2026年(令和8年)7月20日からの発掘調査の目的の一つは、史跡指定地外に存在する可能性が高まった墳丘盛土・周溝などを確認し、古墳の範囲を確定することである。 またトレンチ調査で埋葬施設が存在すると推定される後方部墳頂付近から過去に採集されていた赤彩高坏について製作年代を分析し、古墳の築造年代は、4世紀中ごろ(古墳時代前期後葉)の可能性が高くなったと報道された(朝日新聞(2026))。
  • 4世紀後半~7世紀の富士山噴火による火山噴出物に覆われた葺石が確認されたと報道された(朝日新聞、2026年8月30日)。

築造時期

  • 古墳時代前期後半(4 世紀中頃)

被葬者

  • 駿河湾の水上・陸上交通を掌握したスルガの王墓

展示

指定

  • 1957年(昭和32年)7月1日 国指定史跡

アクセス等 

  • 名称  :浅間古墳
  • 所在地 :静岡県富士市増川624-1
  • 交 通 :JR東海道本線 吉原駅 バス 25分/岳南電車「神谷駅」1.4km(徒歩25分)

参考文献

  1. 大塚初重、小林三郎(1996)『古墳事典』東京堂出版
  2. 富士市教育委員会(2025)『国指定史跡 浅間古墳保存活用計画 概要版』富士市教育委員会
  3. 富士市市民部(2020)「空中レーザー測量実施」埋蔵文化財ニュース
  4. 富士市市民部(2022)「空中レーザー測量実施」埋蔵文化財ニュース
  5. 「4世紀古墳から富士山噴火噴出物」朝日新聞、2026年8月18日
  6. 富士市(2026)「国指定史跡浅間古墳の発掘調査を始めます」2026年8月17日
  7. 「4世紀の古墳の葺石が当時のまま発見」朝日新聞、2026年8月30日

帯広百年記念館2026年09月04日 00:05

帯広百年記念館(おびひろひゃくねんきねんかん)は北海道帯広市にある博物館と創造活動センターからなる複合施設である。

概要

旧帯広町が十勝監獄用地を購入し整備した公園である緑が丘公園の中にある博物館である。 緑ヶ丘公園には現在も十勝監獄石油庫が残っている。これは帯広市指定文化財で、明治33年築、帯広市に現存する最古の建造物である。 帯広百年記念館は十勝の自然や人と文化、アイヌ民族などを歴史的に紹介する。開拓期の十勝の自然や人々の生活ぶり、十勝の自然や人々の生活ぶり、農機具類の開発と改良から冷害問題、収穫物などを展示する。先史時代では旧石器、縄文、続縄文、擦文時代の資料を展示する。マンモスゾウの実物大模型が展示されている。分館の「百年記念館埋蔵文化財センター」では、市内の遺跡発掘調査で出土した土器・石器などを保管・公開・活用している。

開館

晩成社が1883年(明治16年)に、帯広へ入植してから100年目に当たる1982年(昭和57年)に開館した。晩晩成社は依田勉三らが結成した民間開拓団体で、1883年(明治16年)に帯広へ入植した。北海道内陸部における民間開拓の先駆的な事例となった。

意義

先史時代から晩成社による明治の開拓、近代農業の発展に至るまでの歩みを実物資料や模型で伝えているところに意義がある。 館内にはアイヌ民族文化情報センター「リウカ」が設置され、アイヌ民族の文化や歴史を学ぶことができる。十勝の自然を生態展示や剥製などを通じて紹介し、地域の自然環境への理解を深めている。創造活動センターや、分館である埋蔵文化財センターも備えた地域の文化・学習拠点となっている。

展示

第1展示室

  • 「イントロダクション」
    • 十勝平野に最初にすんだ人類が、マンモスを追うように北方から来たころを紹介する。
  • 「開拓の夜明けと発展」
  • 「十勝の自然」
  • 「十勝のくらし」 「十勝・農業王国の確立」

第2展示室

  • 「十勝のおいたち」
    • 海の底だった十勝が陸地になり、最初の人類が来る直前までを、化石や岩石などの資料で紹介する。
  • 「十勝の先史時代」
    • 旧石器、縄文、続縄文、擦文時代の順に発掘資料や分析データを紹介する。国重要文化財「北海道八千代A遺跡出土品」の土器・石器などを展示する。
  • 「十勝のアイヌ文化」

主な展示資料

  • 暁式土器(最古相) 薄手・無文で底面にホタテ貝の圧痕あり(帯広市大正6遺跡)
  • 国重要文化財「北海道八千代A遺跡出土品」の土器・石器などを展示する。
  • 石刃鏃文化の土器 三角形の型押文が施文される。(帯広市大正7遺跡)
  • 東釧路Ⅳ式 2ヵ所の頂部から短い貼付けが垂下する。(大正3遺跡)
  • モコト式土器 中央の土器が貼付けと押し引きが施文される。(若葉の森遺跡)
  • 宮本式土器 口縁部に沈線が施文される。(宮本遺跡)
  • 綱文式土器 太目の縄文が横走する。(八千代A遺跡)
  • 東釧路Ⅳ式 小型品。2種類の縄文が交互に施文される。(大正3遺跡)
  • 中茶路式 細い粘土ヒモの貼付け、細かい縄文が特徴。(大正7遺跡)
  • 石刃鏃文化の土器 波状口縁で、口縁に沈線と刺突文がある。(帯広市大正7遺跡)

指定

  • 平成30年10月31日 国指定重要文化財「北海道八千代A遺跡出土品」

アクセス等

  • 正式名称: 帯広百年記念館
  • 開館時間 : 常設展示室 9:00~17:00(入場は16:30まで)
  • 所在地 :〒080-0846 北海道帯広市緑ヶ丘2番地 緑ヶ丘公園内
  • 交通 :JR帯広駅からバスターミナル2番乗り場より(約15分)、拓殖バス:「南商または帯広の森・白樺学園線」から「緑ヶ丘6丁目」下車、徒歩8分

松岳山古墳2026年09月03日 00:05

松岳山古墳(まつおかやまこふん)は松岳山古墳は大阪府柏原市に所在する古墳時代前期(4世紀前半頃)の前方後円墳である。わが国最古の墓誌として国宝に指定されている『銅製船氏王後墓誌』が松岳山古墳群から出土したと伝えられることで知られている。

概要

大和川左岸の断崖上に築かれた前方後円墳である。 墳丘や石室には約500m東の芝山で産出するカンラン石玄武岩の板石が用いられている。石棺には香川県産と推定される柘榴石角閃石安山岩などが使用されている。 墳長は130m、後円部径は72m、後円部高さ16m、前方部幅は32m、前方部長さ56m、 前方部高さ5mである。岸本直文(2013)は、墳丘裾をもう少し大きく考え、墳丘長を約150mと復元している。前方部は2段築成以上、後円部は4段築成以上である。

円筒埴輪は円筒Ⅱ式とされる。円筒形の胴部にタタキ目や刷毛目が残り、2条から4条の突帯がめぐらされている。 墳丘の調査は1985年に前方部前面、1986年には墳丘南側の後円部・くびれ部・前方部が行われた。

松岳山古墳の後円部の石室は1878年に当時の堺県令の税所篤によって発掘され,その際に石棺内から管玉と石製品、棺外から鏡2、勾玉、管玉、刀剣片などが出土している。さらに1955年の大阪府教育委員会の調査の際に管玉や石製品などのほか、鏡破片、鍬形石片1点,石釧片27点以上、多数の刀剣,鉄鏃片,銅鏃のほか鉄鎌・鉄鍬などの農工具片などが採取された(白石太一郎(2003))。石室の主軸は北西向きで、内法は長さ約1.6m、幅約0.35m、床面は北西部に高く南東部に低くなっている。石棺の側石には、香川県産と推定される柘榴石角閃石安山岩や凝灰岩が使われた。

後円部墳頂には、板石を積み上げた竪穴式石室が築かれ、その内部に組合式の石棺が置かれていた。石棺は底石・側石・蓋石を組み合わせたもので、内面には朱が塗られている。組合式の石棺が置かれており、後の長持形石棺につながる形式と評価されている。 白石太一郎(2003)は、茶臼塚古墳は松岳山古墳の前方部前面の第1段(前方部の茶臼塚古墳に面する墳裾)に、約20mの間隔で築かれ、墳丘端を板石を垂直に積み上げる共通の手法が見られるとした。

松岳山古墳の意義

大和川と龍田道が交わる交通上の要地に位置することから、水運や陸上交通と関係する首長の墓と推定する見解がある。

交通と物流の要衝

大阪府柏原市にある古墳時代前期(4世紀前半頃)の全長130mの前方後円墳ある。大和と河内を結ぶ水路(大和川)と陸路(龍田道)の双方が交わる要地に立地する。

水運の監視

大和川水運を統括した首長の墓と推定する見解がある。

特異な構造

近隣の山で採れる板石を積み上げて墳丘や石室を造る。 大型の楕円筒埴輪が出土しており、長径70cm・短径40cm・高さ143cmの個体や、高さ158cmの個体がある。柏原市指定文化財の楕円筒埴輪は、楕円筒埴輪として日本最大とされる。

見どころ

①板石を積み上げた特異な墳丘構造、②後円部墳頂に残る石棺、③石棺の前後に立つ円孔をもつ巨大な立石、④大型楕円筒埴輪、が見どころである。

築造時期

  • 古墳時代前期

被葬者

  • 被葬者は不明

展示

  • 柏原市立歴史資料館で楕円筒埴輪や壺形土器、家形埴輪を所蔵(展示される場合もある)
  • 船氏王後墓誌は三井記念美術館所蔵

指定

  • 1922年(大正11年)3月8日 国の史跡指定

アクセス等 

  • 名称  :松岳山古墳
  • 所在地 :大阪府柏原市国分市場1-6-21
  • 交 通 :近鉄大阪線 河内国分駅から1.4km(徒歩21分)

参考文献

  1. 柏原市教育委員会(1987)『柏原市文化財概報1986-2:松岳山古墳墳丘範囲確認調査概報:1986年度』柏原市教育委員会
  2. 岸本直文(2013)「玉手山古墳群・松岳山古墳と河内政権論」百舌鳥・古市古墳群出現前夜(大阪府立近つ飛鳥博物館図録 60)
  3. 白石太一郎(2003)「考古学から見た聖俗二重首長制」国立歴史民俗博物館研究報告 第108集