木製仮面 ― 2026年10月29日 00:05
木製仮面(もくせいかめん)は日本の弥生時代末期から古墳時代にかけて製作された、木材を加工して顔の形に表現した祭祀関連遺物である。目や口に開口部を設けたり、鼻や眉を立体的・線刻的に表現したりするものがある。出土例は少なく、正確な用途や使用方法については明らかになっていない。
概要
日本列島では、弥生時代末期から古墳時代前期にかけての木製仮面が、纒向遺跡(奈良県桜井市)や西岩田遺跡(大阪府東大阪市)などから出土している。また、奈良県桜井市の大福遺跡からは、仮面の可能性が指摘される仮面状木製品が出土している。
これらの資料は、農具などの日常用具を転用したものを含み、古代の祭祀や儀礼のあり方を考えるうえで重要である。一方、兵庫県神戸市の宅原遺跡からは、古墳時代末期に属する木彫仮面が出土しており、弥生時代末期から古墳時代前期の資料とは時期を区別して扱う必要がある。
木製仮面の用途は確定していないが、農耕儀礼や祭祀に用いられた可能性が指摘されている。弥生時代の土器には、仮面を着けた人物と解釈される図像が描かれた例もあり、当時の儀礼を考えるための参考資料となる。
用途と製作方法
木製仮面の具体的な使用方法は明らかになっていない。出土状況や形状から、祭祀の際に手で持ったり、一定の場所に掲げたりするなどの使用方法が考えられている。すべての資料が顔に直接装着するために作られたとは限らない。
纒向遺跡の木製仮面は、農具の鍬の身を転用したものである。こうした事例から、農耕に関係する道具を祭祀具に転用した可能性が考えられている。農耕儀礼や豊作祈願との関係も指摘されているが、特定の儀礼に使用されたと断定することはできない。
木製仮面の研究では、形状、開口部の加工方法、材質、顔面表現、出土状況などを比較することが重要である。纒向遺跡と西岩田遺跡の資料については、目の加工方法に共通点が指摘されており、当時の祭祀具の製作技術や地域間交流を考える手がかりとなっている。
出土例
- 大福遺跡(奈良県桜井市)
- 大福遺跡第28次調査では、2世紀後半ごろとされる仮面状木製品が出土した。素材はコウヤマキで、縦約23.4cm、最大幅約7cm、厚さ約5mmである。全体の約4割が残存し、目を表す穴や、ひもを通した可能性のある穴が認められる。
- 纒向遺跡の木製仮面と目の加工方法などに共通点があることから、仮面である可能性が指摘されている。ただし、残存状態などから仮面と断定できないとする研究上の留保があり、「仮面状木製品」として扱うのが適切である。
- 纒向遺跡(奈良県桜井市)
- 纒向遺跡太田地区の太田池土坑から、古墳時代前期初頭、3世紀前半ごろの木製仮面が出土した。長さ約26cm、幅約21.6cm、厚さ約0.6cmで、アカガシ亜属の木材を用いて製作されている。鍬の身を転用したもので、鼻の部分の隆起や鼻孔、三日月形の眉の線刻が特徴であり、眉の周囲には赤色顔料が残っていた。
- 出土した土坑は素掘り井戸と推定され、木製仮面のほか、木製鎌柄、木製盾、土器などが確認されている。これらの遺物は、当時の祭祀のあり方を考えるうえで重要である。
- 木製仮面を含む「纒向遺跡太田池土坑出土品」は、2022年3月25日に奈良県指定有形文化財となった。指定対象は木製仮面1点だけではなく、木製鎌柄1点、木製盾1点、土器20点を含む計23点である。
- 西岩田遺跡(大阪府東大阪市)
- 西岩田遺跡では、弥生時代末期から古墳時代初頭にかけての木製仮面が出土した。2020~2021年の発掘調査で確認され、2023年に公表された資料である。素材はスギで、長さ約30cm、幅約18cm、厚さは最大約2cmである。
- 両目と口に相当する3つの穴があり、中央付近の隆起で鼻を表現している。右側の一部は欠損しているが、顔の形状をおおむね把握できる状態で出土した。右耳付近には小孔が認められる。
- 比較的厚みがあり、重量も約300gあることから、顔に直接装着するよりも、手で持ったり、何らかの場所に固定したりして使用した可能性が考えられている。周囲からは炭化した鍬などの木製品も出土しており、農耕儀礼との関係が検討されている。ただし、具体的な使用方法は確定していない。
- 宅原遺跡(兵庫県神戸市)
- 宅原遺跡からは、古墳時代末期に属する木彫仮面が出土している。纒向遺跡や西岩田遺跡の木製仮面とは時期が異なるため、日本列島における木製仮面の展開を考える際には、年代や形態、出土状況を区別して比較する必要がある。
縄文時代の土製仮面との比較
木製仮面とは別に、縄文時代には土製仮面が出土している。品川欣也(2013)は、縄文時代後期の土製仮面の出土例が北・東日本に多く、太平洋側に偏る傾向があることを指摘している。また、縄文時代の土製仮面については、葬送だけでなく、集落や居住域での祭祀に用いられた可能性も検討されている。
ただし、土製仮面と木製仮面では、素材や製作技法、出土状況が異なる。縄文時代の土製仮面の使用方法を、そのまま弥生時代以降の木製仮面に当てはめることはできない。両者の比較は、仮面を用いた祭祀の多様性を検討するための参考となる。
世界の仮面文化
世界各地には、祭祀、儀礼、舞踊などに仮面を用いる文化がある。インドネシアの仮面舞踊劇トペンや、アフリカの諸地域における仮面儀礼などは、仮面の社会的・宗教的役割を考えるための比較資料となる。
佐々木重洋(2000)は、カメルーンのエジャガム族に関する仮面儀礼などを通じて、仮面と儀礼、社会との関係を論じている。こうした人類学的研究は、日本列島の木製仮面の用途を検討するうえでも参考となる。ただし、地域や時代によって仮面の意味や使用方法は異なるため、直接的な同一視は避ける必要がある。
文化財指定
- 指定名称: 纒向遺跡太田池土坑出土品
- 指定区分: 奈良県指定有形文化財
- 指定年月日: 2022年3月25日
- 主な内容: 木製仮面1点、木製鎌柄1点、木製盾1点、土器20点
参考文献
- 「3世紀初めの木製仮面、大阪の遺跡から出土」朝日新聞, 2023年4月24日
- 「国内最古の木製仮面?-2世紀後半纏向出現前」奈良新聞, 2013年5月31日
- 「木製仮面が出土した纒向遺跡」桜井市立埋蔵文化財センター
- 「3世紀前半の木製仮面、大阪の遺跡で出土」産経新聞, 2023年5月11日
- 池田進(2003)「縄文時代の土製仮面に見られる歪みの造形」関西大学社会学部紀要34
- 佐々木重洋(2000)『仮面パフォーマンスの人類学アフリカ、豹の森の仮面文化と近代』
- 品川欣也(2013)「縄文時代の仮面祭祀」明治大学文学研究科 学術研究報告会要旨資料集
- 比留間絢香(2018)「土製仮面の基礎的研究」『溯航』第36号,pp.47-56
関行丸古墳 ― 2026年10月28日 00:05
関行丸古墳(せきぎょうまるこふん)は佐賀県佐賀市久保泉町に所在する古墳時代の前方後円墳である。
概要
標高約1,055mの脊振山地の南麓に広がる、標高40m余りの微高地上に位置する。西側を巨勢川(こせがわ)の上流が南下し、川に沿って妙楽寺の谷が北西方向へ伸びる。全長55mの前方後円墳(西南向き)である。後円部は直径35m、高さ4.5m、前方部は長さ20m、幅13m、高さ1mの規模である。墳丘は前方部が1段、後円部が2段に築かれている(佐賀県教育庁社会教育課(1958))。葺石・埴輪などの外部施設は認められない。
調査
発掘調査は1957年(昭和32年)5月3日から15日まで、佐賀県教育委員会と九州大学考古学資料室により行われた。未盗掘の状態で発見された貴重な古墳である。
埋葬施設
埋葬施設は初期の横穴式石室で、内部には板状の仕切石によって3つの屍床が設けられている。石室の規模は長さ4.35m(奥壁から手前の入口(羨門・羨道部)まで)、幅2.8m、 高さ2.65mである。奥壁に2枚、左右に3枚の巨石を腰石とする。後円部の西側に石室の入口がある。石室内に赤色顔料が塗布されている。石室は平面羽子板形で、墳丘のくびれ部に向かって開口する。
石室内には、石障によって区画された3つの屍床が設けられている。第1屍床は北側、第2・第3屍床は西側に位置する。石室内からは複数(5体)の人骨が出土しており、複数人が埋葬されたことが確認されている。屍床ごとに出土遺物の構成が異なることも、本古墳の埋葬状況を考えるうえで注目される。屍床ごとの人骨の構成には違いがあり、複数回の埋葬が行われたことがうかがえる。 各屍床の構築順序については、発掘調査報告書の記述に基づいて説明するため、第1屍床と第2屍床が逆転する。
第2屍床(奥壁に接する位置)
最初に構築されたとみられ、奥壁に平行して設置される。若年者(1体以上)の人骨が出土した。副葬品は珠文鏡(径7.3cm)、金銅製冠片、貝輪、刀子、尖頭工具などが出土した。
第1屍床(北壁側)
第2屍床に隣接し、側壁(北側)に沿って造られたと見られる。 副葬品は方格規矩鏡(径10.1cm)、歩揺・魚形を伴う金銅製装飾具などが出土した。
第3屍床(第2屍床に接する位置)
第2屍床や第1屍床に接続する形で最後に増設されたと見られる。 副葬品は変形文鏡、珠文鏡、勾玉・管玉などの玉類、貝輪、武器・工具類などが出土した。
副葬品
副葬品として鏡4面(方格規矩鏡1・珠文鏡2・変形文鏡1)、装身具(金銅製冠帽(1)、金銅製冠帽破片、金銅製半筒形装飾具(2)、金銅製細環(1)、貝輪)、玉類(硬玉勾玉(1)、碧玉管玉(12)・ガラス管玉(1)、ガラス小玉(約800)、水晶製棗玉(1))、武器(鉄鏃(4))、馬具(鉸具13・鋲留金具31・辻金具6・木心鉄張鎧金具2)、農工具等(鹿角柄刀子8・鹿角柄尖頭工具1)、その他(三環鈴)が出土した(佐賀県教育庁社会教育課(1958))。 また、石室の前半部から馬具類が、羨道の閉塞石(近く)からは大型の三環鈴が出土した。埋葬施設内の位置によって副葬品の構成に違いがみられる。
築造年代
関行丸古墳は、古墳時代後期の初頭にあたる5世紀末~6世紀初頭頃に築造されたと考えられている。
古墳が作られた時代背景
古墳時代後期の時代背景が見られる。
朝鮮半島との緊密な外交と文化流入
関行丸古墳からは三環鈴や金銅製装飾具などが出土している。三環鈴は朝鮮半島に起源を持つ馬具または装身具と推定されており、これらの遺物は、当時の北部九州と朝鮮半島との交流を考えるうえで重要である。
「横穴式石室」の導入と追葬の始まり
関行丸古墳は、初期の横穴式石室を採用した古墳である。石室内には3つの屍床が設けられ、計5体の人骨が確認されている。この構造と埋葬状況は、複数人を埋葬する方法や追葬のあり方を考えるうえで重要である。
首長層の勢力変化と前方後円墳の小型化
関行丸古墳は全長55mの前方後円墳で、前方部は後円部に比べて低い。墳丘の規模だけでなく、初期の横穴式石室や、鏡・馬具・金銅製装飾具などの副葬品にも特色がある。こうした要素を、同時期の北部九州の古墳と比較することで、地域首長層の葬送習俗や対外交流を考えることができる。
見所
銅製半筒形装飾具1双1具は、金銅板を半筒形に加工し、歩揺や魚形の飾りを取り付けた装飾具である。長さ14.9cmで髪飾りとして用いられた可能性があり、美豆良に沿わせて縦に装着したとする復元案もある。類例として藤ノ木古墳などの出土品が知られる。
銅製半筒形装飾具は佐賀県立博物館に収蔵されている。金銅製半筒形装飾具や三環鈴などが紹介されているが、展示状況は事前に確認する必要がある。類例として国宝・藤ノ木古墳などの出土例があり、2本一組で用いられる。
三環鈴は、3個の銅鈴を環状につないだ遺物で、馬具または装身具と考えられている。朝鮮半島に起源を持つとされ、関行丸古墳の副葬品にみられる対外交流の一端を示している。
遺構
- 前方後円墳
遺物
- 鏡4面
- 玉類
- 武器
- 馬具
- 農工具等
展示
- 佐賀県立美術館・博物館で展示
指定
- 文化財指定:昭和48年4月23日 佐賀県重要文化財 「関行丸古墳出土遺物」
- 972年3月29日 佐賀県史跡に指定
アクセス等
- 名称 :関行丸古墳
- 所在地 : 佐賀県佐賀市久保泉町大字川久保
- 交 通 : 長崎本線神埼駅から5.8km/JR佐賀駅東側「佐賀駅バスセンター」「運転免許センター」バス停下車徒歩15分
参考文献
- 佐賀県教育庁社会教育課(1958)『佐賀県文化財調査報告書7:佐賀市関行丸古墳』佐賀県教育委員会
- 白井克也(1993a)「北部九州の朝鮮半島系装身具」第34回埋蔵文化財研究集会
水子貝塚 ― 2026年10月27日 01:03
水子貝塚(みずこかいづか)は、玉県富士見市に所在する縄文時代前期の貝塚・集落跡である。76か所の小貝塚が環状に分布することを特徴とし、1969年(昭和44年)に国の史跡に指定された。
概要
埼玉県富士見市の荒川低地南辺に位置する台地上に立地する、縄文時代前期(約5,500~6,500年前)の貝塚である。縄文海進期に形成された貝塚で、直径約160mの範囲に76か所の小貝塚が環状に分布する。小貝塚の数について、文化庁の解説では約50か所とされる一方、富士見市教育委員会(2024)では76か所が示されている。地点貝塚の分布と竪穴住居跡との関係を示す点で、縄文時代前期の集落研究に重要な資料である。 貝層は主として淡水産のヤマトシジミからなり、ハマグリ、サルボウ、カキなども確認されている。
発掘調査
- 1894年(明治27年)10月25日、遺跡探索を趣味としていた元棚倉藩主の阿部正功が当地を訪れ、水子貝塚を発見した。その記録は『東京人類学会雑誌』第10巻第106号に紹介された。
- 1937年(昭和12年)、酒詰仲男は安部立郎の報告した地名表から水子貝塚を再認識した。翌1938年(昭和13年)12月、和島誠一らとともに発掘調査を行い、貝層を伴う竪穴住居跡2か所を調査した(第1次調査)。この調査では、16か所の地点貝塚が馬蹄形に分布する状況が確認された。
- 1939年(昭和14年)10月には、第2次調査が行われ、最大の地点貝塚に伴う竪穴住居跡を中心に発掘された。江坂輝彌は1950年の論文で「水子式土器」という土器型式名を提唱した。
- 1967年(昭和42年)1月の第3次調査では、前期黒浜式の竪穴住居跡1軒、諸磯b式の竪穴住居跡1軒などが確認された。これらの調査を通じて、小貝塚が環状に分布する集落の構造が明らかになった。*環状集落としての価値 貝塚の分布と竪穴住居跡との関係から、当時の集落の形態を推定できる。水子貝塚の最大の特徴は、直径約160mの大きなドーナツ状(環状)の広場を囲むように、76カ所もの小規模な貝塚(地点貝塚)が並んでいる点である。多くの小貝塚がな環状に整然と並んで検出された例は全国的にも珍しい。
竪穴住居跡と貝塚の関係
発掘調査では、小貝塚の貝層の下から竪穴住居跡が確認されている。廃絶した住居の跡地に貝類などが廃棄され、小貝塚が形成されたと考えられている。小貝塚が環状に分布することは、貝塚形成当時の集落の構造を考えるうえで重要である。 環状に並ぶ小貝塚や、貝塚を伴わない住居跡なども含めると、この場所には長期間にわたって累計100軒以上の竪穴住居が建てられていたと推測されている。住居跡の累計数と、同時期に居住していた住居数は区別する必要がある。同時に存在していたのは5から10軒(数十人規模)程度とみらるが、縄文海進(温暖化で海面が上昇し、近くまで海が迫っていた現象)の恩恵を受けながら、このエリアの中心的な拠点集落として長い間、機能していた。
土器と人骨
煤けた土器が見つかり、煮炊きに使われた土器と推定する見解もある。第15号住居跡の柱穴から、骨の鑑定により、手足を折り曲げた屈葬の姿勢をとる30から40代の女性人骨と、生後1年ほどの若い雄犬の全身骨格の形で埋葬がみつかった(富士見市教育委員会(1995)、富士見市教育委員会(1995))。縄文時代前期の埋葬形態を伺える希少な事例として学術的価値があると評価されている(富士見市教育委員会(1995))。
遺跡公園
国指定史跡の保存と活用を目的に整備され、1994年(平成6年)6月に「縄文ふれあい広場 水子貝塚公園」として開園した。園内には復元竪穴住居や縄文の森などが整備され、隣接する水子貝塚資料館と一体となって、縄文時代の集落や貝塚について学べる野外博物館的施設となっている。
遺構
- 貝塚
- 竪穴住居
遺物
- 縄文土器
- 石器
- 玦状耳飾
- 軽石製品
- 鮫歯製垂飾(サメの歯を用いた垂飾)
- 犬牙製垂飾(「犬の牙を用いた垂飾)
- 埋葬人骨
関連施設
- 水子貝塚公園(資料館)
考察
指定
- 969年(昭和44年)9月9日、国の史跡に指定
アクセス等
- 名称 :水子貝塚
- 所在地 :埼玉県富士見市大字水子2003番地1
- 交 通 :東武東上線みずほ台駅東口 徒歩 20分/1.2km
参考文献
- 江坂輝彌(1950)「縄文式文化について」歴史評論、歴史科学協議会編 4 (5),pp.84-95
- 江坂輝彌(1951)「縄文式文化について」歴史評論、歴史科学協議会編 5 (4),pp.83-95
- 早坂廣人、大屋道則(2007)「富士見市内出士石製品の鉱物分析」研究紀要、埼玉県埋蔵文化財調査事業団,pp.71-80
- 富士見市教育委員会(1995)『富士見市文化財報告46:水子貝塚 』富士見市教育委員会
- 富士見市教育委員会(2024)「史跡水子貝塚整備基本計画」
曽我遺跡 (奈良県) ― 2026年10月26日 00:05
曽我遺跡 (奈良県)(そがいせき)は奈良県橿原市曽我町に所在する遺跡で、古墳時代の大規模な玉造り集落として知られる。国道24号橿原バイパスの建設に伴う発掘調査で確認され、滑石・碧玉・緑色凝灰岩・琥珀・水晶などの原石、玉類の完成品・未製品、製作に用いた工具など、多量の遺物が出土した。古墳時代の玉生産と流通、各地の石材産地や大和の政治勢力との関係を考えるうえで重要な遺跡である。
概要
曽我遺跡は1981年から1982年にかけて発掘調査(第1次調査)され、調査範囲は国道の路線敷内の幅30m、長さ400mの12000平方メートルの面積である(橿原市編(1987))。 中央に沼を挟んで南北330mの規模の遺跡と判明している。遺跡全体の東西の確定幅を示した数値は公表されていない。5世紀後半から6世紀前半までの期間に営まれた玉造り集落遺跡が著名である。
発掘調査
第1次調査
曽我遺跡からは、玉類の原石(滑石、碧玉、緑色凝灰岩、琥珀、水晶など)、完成品・未製品、玉を研磨するための砥石、穿孔に用いた木製舞錐など、玉造りに関わる多量の遺物が出土している。整理・報告された遺物の総数は約820万点、総重量は約2.7トンにのぼる。また、勾玉・管玉類の完成品だけでも約1,300万個に達したと報告されている(奈良県立橿原考古学研究所(1989))。これらの出土資料は、曽我遺跡で大規模な玉生産が行われていたことを示している。 後述のように、大和王権直属の生産拠点だったとする見解が示されている。これは複数の根拠に基づく研究上の解釈となる。
第10次調査
曽我遺跡 第10次調査(2024から2025年実施)では北西部から3棟の掘立柱建物が検出された(奈良県立橿原考古学研究所(2025))。工房・集落の西端を区切る流路と、その外側で墓域が確認された。第10次調査の主な検出遺構は、流路2条、古墳3基、土坑3基、溝7条などである。
発掘された建物
総建物数(棟数)については、一概に「何棟」という確定的な数字は公表されていない。古墳時代中期までは玉造り工房は竪穴建物を使用していた。後期後半からは工房は掘立柱建物に移行した。5世紀頃には、それまで産地周辺で行われていた玉作りが、大和王権の中枢である曽我遺跡へと集約された。王権が玉の生産・流通を直接コントロールし、威信財や交易品として活用した背景に、出雲の資源と技術力があった(廣瀬時習(2026))。
玉生産の痕跡
玉造り工房の認定では、原石、未製品、加工時に生じた剥片・チップ、研磨用の砥石、穿孔に用いた工具などの出土状況を総合的に検討する。これらの遺物が製作工程を示す組み合わせで出土することは、当該地点で玉類の加工・生産が行われていたことを判断する重要な根拠となる。
出雲との関係
曽我遺跡では、碧玉をはじめとする各地の石材を用いた玉類の生産が行われていた。碧玉の産地として知られる島根県松江市玉湯町の花仙山と曽我遺跡との関係は、古墳時代の原材料の流通や玉生産の地域間交流を考えるうえで重要である。
近畿中央部における中期前半の玉生産については、出雲花仙山産と考えられる碧玉を用いていることから、出雲との関係性が指摘されている。島根県松江市玉湯町の花仙山などで採れる「出雲石(緑色の碧玉)」や瑪瑙(めのう)などの原石が、曽我遺跡へと大量に持ち込まれ、勾玉や管玉などの製品に加工されていた(古代歴史文化協議会編(2018))。 中期後葉には花仙山産碧玉を用いた片面穿孔の「出雲規格」の管玉が広く普及する。この管玉は、出雲の玉生産と倭王権直轄の玉生産と指摘される曽我遺跡に限りみられる(廣瀬時習(2026))ことから、ここでも出雲の玉生産との密接な関係がうかがえる。 これらの石材や製作技法の共通性は、曽我遺跡と出雲の玉生産との間に何らかの関係があったことを考える手がかりとなる。ただし、その関係が原材料の流通、技術の伝播、工人の移動、生産組織の連携のいずれによるものかについては、出土資料と製作技法を踏まえた検討が必要である。
倭王権直轄の玉生産の根拠
第一に桁違いの「玉生産の大量生産」である。完成品の勾玉や管玉などの玉類だけで約1,300万個、製作途中の未製品や工具(木製舞錐や砥石など)を含めると約1,000万点(総重量約2.7トン)にのぼる遺物が出土したこと。第二に日本各地からの「広域的な原石・石材の集約」がされていること。北陸地方の緑色凝灰岩、山陰地方(出雲)の碧玉、和歌山(紀ノ川流域)の滑石が全体の95%を占める。さらに、新潟県糸魚川の翡翠(ヒスイ)、岩手県久慈の琥珀(コハク)、千葉県の石材、水晶、瑪瑙なども運び込まれていた。これほど多種多様な遠方の特産石材を安定して一箇所に運ぶルートを確保できたことは、列島規模の支配権を持っていた倭王権(大王)以外には考えにくいこと。第三に水陸交通の要衝という「官営工房に適した立地」であること。遺跡は当時の東西の幹線道路である「横大路」と、大和川を通じて大阪湾(難波)へと繋がる「曽我川」が交差する交通の要衝に位置する。第四に職能集団「忌部氏(いんべうじ)」との深い関係がある。曽我遺跡のすぐ南側には、忌部氏の祖神を祀る「天太玉命神社(太玉命神社)」が鎮座する。忌部氏は、古代文献において王権の祭祀に関わる氏族として伝えられ、出雲の玉作りとの関係も記されている。このような文献上の伝承と、曽我遺跡の大規模な玉生産、周辺の地名・神社の分布から、玉生産における忌部氏の関与を推定する説がある(地名・神社・文献史料に基づく仮説となる)。曽我遺跡の収束時期と忌部氏の制度化(6世紀中頃)のタイミングの一致も挙げられている。ただし、曽我遺跡の生産活動を忌部氏が直接統括していたかどうかは、考古学的資料と文献史料の双方から検討すべき課題である。
遺構
- 竪穴建物
- 掘立柱建物
- 井戸・土坑・溝など
遺物
- 玉類の原石
- 玉類の完成品・未製品
- 石材の剥片・加工屑
- 砥石
- 木製舞錐などの製作工具
文化財指定
- 国・県・市の指定文化財としての指定は確認できない
展示
- 奈良県立橿原考古学研究所附属博物館
- 水晶や琥珀、碧玉で作られた勾玉、管玉、丸玉などの完成品・未製品、工具類を展示
アクセス等
- 名称:曽我遺跡
- 所在地:奈良県橿原市曽我町
- 交通:近鉄真菅駅の南西約100m
参考文献
- 橿原市編(1987)『橿原市史』橿原市
- 奈良県立橿原考古学研究所編(1989)『曽我遺跡』奈良県教育委員会(奈良県史跡名勝天然記念物調査報告第55冊。遺構・土器編、玉類集計表篇)
- 奈良県立橿原考古学研究所(2025)「奈良県遺跡調査概報 曽我遺跡第10次」『奈良県遺跡調査概報2020~2024年度』橿原考古学研究所
- 古代歴史文化協議会編(2018)『玉-古代を彩る至宝-』ハーベスト出版
- 廣瀬時習(2026)『玉からみた弥生・古墳時代の社会』雄山閣
千塔山遺跡 ― 2026年10月25日 23:49
千塔山遺跡(せんどやまいせき)は佐賀県三養基郡基山町に所在する、弥生時代の環濠集落を中心とする遺跡である。発掘調査では、古墳や中世墳墓なども確認されている。
概要
佐賀県三養基郡基山町大字宮浦字宿の標高50mの丘陵に位置する。発掘調査では、弥生時代中期から後期・終末期にかけての集落の変遷を検討できる資料が得られた。
調査
1976年(昭和51年)に発掘調査が実施され、約40棟の竪穴住居跡などが確認された。
時期ごとの住居群の変化
弥生時代中期
千塔山遺跡では、弥生時代中期から集落としての営みが本格化する。この時期の住居群は、丘陵地の地形に合わせて徐々に形成されていった。貯蔵穴を伴う住居群が台地中央部に環状に分布していた。 弥生時代中期段階の溝は、後期にみられる計画的で大規模な環濠とは規模や性格が異なり、排水や集落の境界を示す機能を担っていた可能性が指摘されている(藤原新也 1997)。
弥生時代後期前半から中頃
後期に入ると、本格的な環濠が掘削される。丘陵頂上部の平坦面を囲むように、一辺が70メートル前後の方形に近い平面形の環濠が形成される。 特徴は、環濠の内側と外側で住居や建物の配置が明確に区別されていたことである。環濠内では竪穴住居跡7~8軒のほか、倉庫と推定される掘立柱建物跡7棟が確認されている。 環濠の外側は3か所のエリアに分かれて、それぞれ竪穴住居跡群が見つかっている。
弥生時代後期後半
弥生時代の終わり頃(後期後半)になると、発掘調査では約40棟の竪穴住居跡が確認された。住居跡の総数については、資料によって56基とする記載もある。後期後半には環濠が拡大し、住居群は環濠の内外に4群に分かれて分布した。倉庫とみられる掘立柱建物は、環濠内に限って確認されている。 丘陵頂上部の平坦面を囲むように、一辺が70メートル前後の方形に近い平面形の環濠が形成されていたとされる(豊津町史編纂委員会編(1998))。環濠の断面は「V」字形や「U」字形を呈している。環濠は、集落の区画や防御に関わる施設であったと考えられる。ただし、その具体的な機能については、集落の立地や環濠の構造、内部の建物配置などを踏まえて検討する必要がある。 豊津町史編纂委員会編(1998)は、環濠内外の住居群の配置から、同一集団内でも環濠の内側に居住する人々と、外側に居住する人々とが存在したことを指摘している。環濠内外で住居や建物の配置に違いが認められることから、集落内部における空間利用や集団構成の差を示す可能性が指摘されている。 後期の竪穴住居跡から鉄鏃、環濠から青銅製鋤先、斧、鋤先、鎌などが出土した。そのほか弥生土器、砥石、石庖丁、石鏃、鉄器、石器などが出土した。 住居群に暮らす人々から指導者が登場し、周辺の低地での水田開発や、鉄器・青銅器といった利器の管理を行っていたとの指摘がある。
青銅製鋤鋤先
青銅製鋤先は計7点出土しており、内訳は住居跡から4点、溝跡から2点、用途不明遺構から1点である。このうち2点は完形品で、他は破損している。刃の部分は長く使用されたことを示す痕跡が残る。完形品の大きさは、長さが7.1cmと7.6cm、取り付け部分の幅は各8.8cmと9.0cmである。 弥生時代の農耕具や金属器の使用を考えるうえで重要な資料である。
遺構
- 環濠
- 断面V字形・U字形の溝
- 竪穴住居跡
- 掘立柱建物跡
- 箱式石棺墓
- 石蓋土壙墓
- 土壙墓
遺物
- 青銅製鋤先
- 弥生土器
- 砥石
- 石庖丁
- 石鏃
- 鉄器
- その他の石器
文化財指定
- 佐賀県指定重要文化財「千塔山遺跡出土青銅鋤先」
- 指定日:昭和61年(1986年)3月19日
展示
- 基山町立図書館の郷土資料コーナー
- (旧基山町立図書館・歴史民俗資料館は、2018年に建物が解体された。)
アクセス等
- 名称:千塔山遺跡
- 所在地:佐賀県三養基郡基山町大字宮浦
- 交通:JR鹿児島本線・基山駅
参考文献
- 基山町遺跡発掘調査団(1978)『千塔山遺跡―弥生環溝集落・古墳・中世墳墓の調査―』基山町文化財調査報告書第3集。
- 中島直幸(1978)「弥生時代の環濠について」『千塔山遺跡」
- 豊津町史編纂委員会編(1998)『豊津町史 上巻』豊津町(231~232ページ)
- 藤原新也(1997)「弥生時代環濠・環溝集落の再検討」『集成 考古学5 縄文・弥生時代の集落と社会』
堀之内貝塚 ― 2026年10月23日 00:05
堀之内貝塚(ほりのうちかいづか)は千葉県市川市堀之内に所在する、縄文時代後期から晩期にかけての貝塚を伴う集落遺跡である。堀之内式土器の標式遺跡として知られ、縄文時代の土器編年や集落・生業の研究において重要な遺跡である。
概要
堀之内貝塚は、関東平野を流れる江戸川の東方、南北に長い台地の先端部に位置する。貝層は台地の縁辺部に沿って馬蹄形ないしU字形に分布し、東西約225m、南北約120mに及ぶ。貝層の内側には東西に細長い平坦な広場がある。
本貝塚は、縄文時代後期から晩期にかけて形成された遺跡であり、縄文時代後期前半の土器編年を考えるうえで重要な堀之内式土器の標式遺跡として知られる。堀之内式土器は一般に堀之内1式・2式に細分され、文様構成、器形、施文技法などの特徴によって区別される。
東方約400mには、縄文時代中期末から後期前葉にかけての権現原貝塚がある。両遺跡は近接しており、周辺地域における集落の展開や相互関係を考えるうえで注目される。
南側の谷津に位置する道免き谷津遺跡では、台地直下の低湿地から木組遺構や流路が検出され、木組遺構の周辺からトチの種皮片が多量に出土した。これらは、トチの実の水さらしなど、食用加工に関わる施設であった可能性が指摘されている。堀之内貝塚の集落と周辺の低地利用との関係を考えるうえで重要な遺跡である。
貝塚の東側には市立市川考古博物館があり、周辺の考古資料について学ぶことができる。*調査 調査 1904年(明治37年)10月16日、東京人類学会による発掘調査が行われた。出土品などが学会誌で紹介されたことで、本貝塚は広く知られるようになった。
1954年(昭和29年)には、日本人類学会創立70周年記念事業の一環として、早稲田大学・慶應義塾大学・明治大学による発掘調査が行われ、貝塚の測量図が作成された。この調査では竪穴建物跡6軒、人骨13体が確認されたとされる。
その後も調査が行われ、貝層、竪穴建物跡、埋葬人骨、土器、土製品、獣骨などが確認されている。調査成果は、集落の構造、埋葬習俗、食料資源の利用などを復元するための重要な資料となっている。
生業と自然環境
貝塚からは、ハマグリ、イボキサゴなどの貝類をはじめ、魚類や獣類などの動物遺存体が出土している。これらの資料は、当時の人々が水産資源や陸上動物を利用していたことを示している。
貝類の組成には時期による違いがみられ、後期前半にはハマグリやイボキサゴ、晩期にはハマグリやオキシジミなどが主体となったとされる。こうした変化には、海水面や沿岸環境の変化、採集場所や利用対象の変化など、複数の要因が関係している可能性がある。
貝塚の特徴
- ① 貝塚の内側に広場があること
- 貝層の内側には東西に細長い平坦な広場があり、貝塚の分布と集落内部の空間構成を考えるうえで注目される。
- ②貝塚の形成時期と集落の継続期間
- 貝層下からは縄文時代後期初頭の住居跡が検出されており、貝塚の形成以前からの土地利用を考える手がかりとなっている。
- ③貝塚の考古学史上の意義 本貝塚は、堀之内式土器の標式遺跡として縄文土器の編年研究に重要な役割を果たしてきた。また、貝類・魚類・獣類などの動物遺存体や埋葬人骨は、縄文時代後期から晩期にかけての生業や埋葬習俗を考える資料となる。
考察
堀之内貝塚は、縄文時代後期から晩期にかけての集落と生業を考えるうえで重要な遺跡である。とくに、堀之内式土器の標式遺跡として、縄文土器の型式分類と編年研究に大きな意義をもつ。
また、貝層に含まれる貝類・魚類・獣類などの動物遺存体や埋葬人骨は、当時の食料資源の利用、自然環境、埋葬習俗を復元するための資料となる。さらに、道免き谷津遺跡の木組遺構とトチの種皮片は、台地上の集落と谷津の低地利用がどのように結びついていたかを考える手がかりとなる。
本貝塚は、土器編年の標式遺跡としての学史的価値に加え、縄文時代後期から晩期にかけての集落構造、食料獲得、植物資源の加工利用を総合的に検討できる点でも重要である。
遺構
- 馬蹄形ないしU字形に分布する貝層
- 竪穴建物跡
- 埋葬人骨に関係する遺構
- 貝層内側の平坦地
遺物
- 縄文土器
- 称名寺式
- 掘之内1式
- 堀之内2式
- 加曽利B1式
- 安行2式
- 安行3a式
- 安行3c式
- 大洞B式
- 大洞C式+大洞C1式)
- ミニチュア土器
- 土偶
- 土版
- 有孔土製円盤
- 土製耳飾
- 有溝土錘
- 石鏃
- 磨製石斧
- 打製石斧
- 浮子凹石
- 磨石
- 冠状石製品
- 硬玉製大珠
- 貝輪
- 骨製針
- 牙錘
- 鹿角製ソケット
- 動物遺存体
- 貝 - ウミニナ、イボキサゴ、ハマグリ)
- 魚類
- ドチザメ
- イワシ
- ボラ
- マアジ
- スズキ
- へダイ
- クロダイ
- マフグ
- コチウシノシタ)
- ウミガメ
- 獣骨
- キジ
- イノシシ
- ニホンジカ
- アナグマ
- ニホンイヌ
- ノウサギ
- アカネズミ
- サル
指定
- 1964年(昭和39年) 国指定史跡
- 1967年(昭和42年) 追加指定
- 1972年(昭和47年) 追加指定
展示
- 市立市川考古博物館
アクセス等
- 名称:堀之内貝塚
- 所在地:千葉県市川市堀之内2丁目15番
- 交通:北総線北国分駅から徒歩約10分
- 関連施設:市立市川考古博物館
参考文献
- 阿部芳郎(1988)「堀之内2式型式基礎論考」貝塚博物館紀要 15,pp.7-20
- 後藤守一(1957)「堀之内貝塚の発掘調査」『人類学雑誌』65巻5号。
- 市川市教育委員会・市川市文化財課による堀之内貝塚の解説・調査資料。
- 市立市川考古博物館編(1992)『堀之内貝塚資料図譜』市立市川考古博物館研究調査報告 第5冊
- 文化庁「国指定文化財等データベース」堀之内貝塚。
- 堀越正行(2011)「堀之内貝塚南側斜面について」市史研究いちかわ 2,pp.57-66
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