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蘇我日向2026年09月19日 00:10

蘇我日向(そがのひむか)は7世紀中頃の飛鳥時代に活動した蘇我氏の有力者である。蘇我氏の一族に属し、蘇我倉麻呂(雄当)の子とされ、蘇我馬子の孫にあたるとされる。

表記の問題

蘇我日向の名は史料によって『身狭』『身刺』『武蔵』などとも記されている。飛鳥時代の人物の「字(あざな)」は、本名(実名・諱)とは別につけられた成人としてのもう一つの呼び名(別名)である。 『日本書紀』(巻第廿五孝德)には「蘇我臣日向日向字身刺」(蘇我日向の別名は身刺である)と書かれるので、蘇我日向と蘇我身刺は同一人物と考えられる。また『上宮聖徳法王帝説』裏書には「曽我日向子臣、字は無耶志臣(武蔵臣)」と書かれるので、蘇我武蔵は蘇我日向の別名であったといえそうである。 身刺はムザシ(ミサシ)であり、「武蔵」の万葉仮名表記である。飛鳥時代の当時はヨミ(音)が合っていれば文字表記にはあまりこだわらない時代であった。後代になるが、万葉集にも同じ人物の異なる表記はよく見られる。

史料上の活動

皇極紀にみえる婚姻事件

『日本書紀』皇極天皇3年正月条は、中大兄皇子が蘇我倉山田麻呂の娘と婚姻する予定であったところ、身狭臣(日向)がその女性を娶ったと記す。結果として、その妹である遠智娘が代わって皇子に嫁ぎ、事態は収拾したと書かれる。

ただし、この逸話については後世の潤色や物語的要素が含まれる可能性が指摘されている。とくに、重大な不祥事にもかかわらず日向が処罰されたとの記録がない点は、記事の史実性や叙述意図を検討する際の論点となる。

大化五年の讒言事件

大化五年(649年)三月、蘇我日向は中大兄皇子に対して、父の蘇我倉山田麻呂が反乱を企てていると讒言したと『日本書紀』は伝える。

これを受けて倉山田麻呂は子の法師・赤猪らとともに山田寺へ退いたが、日向と大伴狛の軍勢に追われて自害した。その後、中大兄皇子は蘇我倉山田麻呂の無実を知ったと『日本書紀』は記している。

この事件の評価については複数の解釈が存在する。

  • 日向による虚偽の讒言とみる説
  • 中大兄皇子が政敵排除のために仕組んだ政治的策謀とする説
  • 蘇我氏内部の権力抗争とみる説

いずれも決定的な結論には至っておらず、古代政治史上の重要な論点の一つとなっている。

太宰帥任官をめぐる問題

倉山田麻呂事件の後、日向は筑紫大宰帥に任じられたとする伝承がある。『上宮聖徳法皇帝説』は、孝徳朝に日向が筑紫大宰帥となったことを伝える。『日本書紀』孝徳紀大化5年(649年)3月にも同様の記事がある。大宰帥任命が史実かは確認できないが、表面上は栄転だが、中央政界から遠ざける処遇とみる見解が『日本書紀』に記される。なお「筑紫太宰」の名称は『日本書紀』推古17年4月が初見である。

般若寺の建立

白雉五年(654年)、孝徳天皇の病気平癒を祈願して、蘇我日向が般若寺を建立したと伝えられる(東野治之(2013))。

この般若寺の所在地については以下の二説がある。

  • 福岡県筑紫野市の塔原廃寺(般若寺跡)
  • 奈良県香芝市の尼寺廃寺跡(般若尼寺)

もし般若寺を香芝市の尼寺廃寺跡に比定するなら、日向がこの時期に大和に所在していた可能性を考える必要があり、筑紫大宰帥として実際に赴任していたかという問題が生じる。

評価と研究上の位置づけ

蘇我日向は、蘇我氏本宗家の衰退後における一族内部の権力関係や、大化改新 前後の政治構造を考える上で重要な人物である。

しかし、その事績の多くは『日本書紀』など後代史料に依存しており、叙述の信憑性や政治的意図の介在について慎重な史料批判が必要とされる。とくに讒言事件や婚姻逸話は、史実・政治宣伝・物語的脚色が交錯する典型例とされ、古代史研究における未解決問題の一つである。

蘇我日向=蘇我氏内部抗争論 ―大化前後政治史における一族分裂の視点―

7世紀中葉のヤマト政権において、蘇我日向をめぐる一連の事件は、単なる個人の逸脱行為や讒言事件としてではなく、蘇我氏内部の権力抗争として再解釈する余地が大きい。本稿では、『日本書紀』記事の史料批判を踏まえ、蘇我氏の分裂と再編という観点から日向の行動を位置づける。

一 問題の所在

従来、蘇我日向は父 蘇我倉山田麻呂 を讒言によって死に追いやった人物として理解されてきた。しかし、この理解は『日本書紀』の叙述をほぼ無批判に受け入れたものであり、政治的文脈の検討が不十分である。

特に、大化五年(649年)の讒言事件は、結果として倉山田麻呂の自害と蘇我氏有力系統の没落をもたらしたが、その背後には一族内部の利害対立が存在した可能性がある。

二 蘇我氏の分裂構造

蘇我馬子 以来、蘇我氏は政権中枢を担う有力氏族であったが、乙巳の変(645年)以後、その権力は大きく揺らいだ。蘇我本宗家(蝦夷・入鹿系)は滅亡したものの、傍系の諸系統はなお政界に残存していた。

ここでは便宜的に倉山田麻呂を中心とする系統と日向を中心とする立場を区別して考える。ただし、史料上、『倉山田麻呂系』『日向系』という政治集団が確認できるわけではない。 蘇我日向が父を告発するという極端な行動は、単なる親子不和では説明し難く、むしろ一族内における政治的立場の対立を反映したものと考えられる。

三 讒言事件の再評価

『日本書紀』は、日向の讒言によって倉山田麻呂が無実のまま死に追いやられたと描く。しかし、この構図にはいくつかの疑問がある。

  • 第一に、讒言という重大な政治犯罪を犯したにもかかわらず、日向が処罰されていない点である。むしろ彼はその後、太宰帥に任じられている。
  • 第二に、この事件が結果として中枢権力の再編に資するものであった点である。すなわち、中大兄皇子にとっては、蘇我氏内部の有力者を排除する契機となっている。

これらの点から、

  • 日向単独の讒言 ではなく、
  • 政権中枢と結びついた政治的行動

とみるべき可能性が高い。

四 婚姻記事との連関

皇極三年条にみえる婚姻事件(中大兄皇子の婚約女性を日向が奪ったとする記事)も、単なる逸話としてではなく、一族内の婚姻関係をめぐる政治的競合として解釈しうる。

古代において婚姻は権力結合の重要手段であり、同族内であってもその配分は政治的意味を持つ。日向の行動は、婚姻ネットワークをめぐる主導権争いの一端とみることができる。 この伝承は『三国史記』巻6・文武王(上)』記載の金春秋に金庾信が姉を紹介しようとしたが、姉が断ったので妹が結婚したとする伝承と枠組みが類似する。 逸話自体は後世的脚色の可能性も高く、史実性については慎重な検討が必要である。

五 太宰帥任官の意味

倉山田麻呂事件の後、日向は筑紫大宰帥に任じられたと『日本書紀』に記されている。また、『上宮聖徳法王帝説』にも、孝徳朝に日向が筑紫大宰帥となったことが記されている。異なる史料に同様の記事がみえることから、日向の筑紫大宰帥任官は一定の史実性をもつ可能性がある。ただし、実際に筑紫へ赴任したかについては明らかではない。 事件後に蘇我日向が任じられたとされる太宰帥についても評価が分かれる。

  • 左遷(処罰的異動)
  • 栄転(対外拠点の重職)

いずれの解釈も可能であるが、もし日向が政権と協調的関係にあったとすれば、後者の可能性が高まる。

また、般若寺建立が大和国内であったとすれば、実際には九州赴任を伴わない名目的官職であった可能性もあり、政治的配慮としての任官とみる余地もある。

六 結論

以上の検討から、蘇我日向の行動は

  • 個人的逸脱や単純な裏切りではなく
  • 蘇我氏内部の権力再編過程における政治的行動

として理解することはできる。

すなわち、大化前後の政変は単なる「蘇我氏対反蘇我勢力」という二項対立というより、蘇我氏内部の政治的対立を背景としていた可能性を考える余地がある。

もっとも、蘇我日向の事績については『日本書紀』の記述に大きく依存しており、その叙述には勝者側の政治的意図が反映されている可能性が高い。したがって本問題は、史料批判を前提とした再検討を要する、古代政治史の重要課題の一つである。

参考文献

  1. 太田亮(1942)『姓氏家系大辞典』磯部甲陽堂
  2. 坂本太郎, 井上光貞,家永三郎,大野晋 (1994)『日本書紀』岩波書店
  3. 東野治之(2013)『上宮聖徳法皇帝説』岩波書店

亀塚古墳 (滋賀県)2026年09月18日 00:05

亀塚古墳 (滋賀県)(かめづかこふん)は滋賀県野洲市に所在する帆立貝式古墳である。築造時期は5世紀後葉~末、または5世紀末~6世紀初頭頃と考えられている。

概要

大岩山丘陵の北西に広がる大岩山丘陵の北西に広がる野洲川右岸の平野部に位置する。古くから土取り場となっており、墳丘の残存状況はよくない。国指定史跡「大岩山古墳群」のひとつである。大岩山古墳群には古冨波山古墳や冨波古墳なども含まれる。亀塚古墳と同時期に築造された古墳は天王山古墳(大岩山地区)・越前塚古墳(小篠地区)である。 原地区)

調査

2007年度調査

2007年度の調査で、円丘部の直径が約32メートルと判明し、周濠が発見された。全長は45メートル以上である。出土遺物は円筒埴輪や朝顔形埴輪、形象埴輪、須恵器などである。円筒埴輪は口径25~30cm、底径20㎝前後を測り、形態は基底部を含め4段前後のものに復元されている。5世紀後葉~末(または5世紀末~6世紀初頭)の築造とされている。 出土資料の一部は野洲市歴史民俗博物館(銅鐸博物館)で収蔵・展示されている。

2024年度調査

2024年の報道で、野洲市教育委員会は2024年9月6日、墳形が帆立貝形と判明したと発表した。亀塚古墳は平成19年度の発掘調査で前方後円墳または帆立貝式古墳とされていた。2024年の調査で円丘部の西側に長さ約15mの前方部をもつ帆立貝式古墳であることが判明した。幅4メートルほどの周濠も確認され、周濠からは円筒埴輪や形象埴輪などが出土した。また家形埴輪とみられる埴輪細片などが検出された。底部外面や突帯上面に平行タタキを施した個体が複数みられた。幅約3.6mの周濠を確認した。在地産と思われる埴輪などが出土していることから、野洲市教育委員会は、出土した埴輪などの特徴から、地域の首長層の墓とみている。。

遺構

  • 帆立貝式古墳
  • 周濠

遺物

  • 円筒埴輪
  • 家形埴輪
  • 盾形埴輪

展示

  • 野洲市歴史民俗博物館

考察

指定

  • 1941年(昭和16年)12月13日 大岩山古墳群として国指定史跡
  • 1985年(昭和60年)2月7日 亀塚古墳など6基を追加指定

アクセス等 

  • 名称  :亀塚古墳
  • 所在地 :滋賀県野洲市冨波字亀塚甲1437-1
  • 交 通 : JR琵琶湖線「野洲駅」北口から徒歩約29分

参考文献

  1. 「野洲の国史跡「大岩山古墳群」の亀塚古墳、帆立貝古墳と確定」『朝日新聞』2024年9月13日
  2. 滋賀県野洲市教育委員会(2025)「令和6年度 野洲市内遺跡発掘調査年報」野洲市教育委員会文化財保護課

富士山1号墳2026年09月17日 00:05

富士山1号墳(ふじやまいちごうふん)は三重県鈴鹿市に所在する古墳時代の帆立貝形古墳である。

概要

鈴鹿川下流域左岸の台地上に位置する。これまで調査で全長55.7m後円部径36メートル、高さ約6メートルの帆立貝形前方後円墳と判明している。西側のくびれ部に作り出しがつく。後円部は2段築成である。富士山古墳群を構成する古墳のひとつである。 過去の調査では、造出上面では南北2列の埴輪列が確認され、円筒埴輪・朝顔形埴輪・形象埴輪などが出土した。

造出上面では埴輪列が確認されているが、周濠などからも埴輪が出土している。円筒埴輪は、淡輪地域で確認される埴輪製作技法に由来する名称である「淡輪(たんのわ)技法」という特殊な製作技術が施されているのが特徴である。この技法は、現在の大阪府南部(泉州地域)の技術と関係が深い。

1号墳からは、百済・馬韓系とされる陶質土器(須恵器壺)が出土しており、朝鮮半島との交流を示す資料となっている。 古墳の構造や出土遺物から、5世紀後半に築造された古墳と判断されている。 被葬者は鈴鹿川下流域の5世紀後半における有力首長の墓と考えられている。

埋葬施設

埋葬施設は木棺を粘土で覆った粘土槨と判明した。粘土の形状などから、木棺は割竹形木棺と推定されているが、最終的な判断は今後の調査・検討を待つ必要がある。

2025年までの発掘調査で、約1,500年前のものとみられる珍しい形の鉄製冑「小札鋲留衝角付冑」が発見され、話題となった。 直径約20~25cm、高さ約15cmである。同時代の標準的な成人用冑と比較すると、全体の約3分の2程度の構成部材が残るとみられる。比較的良好な状態で出土した。

大規模な盗掘を受けていなかったとみられ、錆はあるものの、比較的良好な状態で残っていた。「小札」と呼ばれる縦約4cm×横約1cmの小さな長方形の鉄板を3-4mm程度の小さな鋲や革ひもで繋ぎ合わせて作られている(朝日新聞、2026年3月2日)。前面中央が尖り、船の先端(衝角)のような形をした独特の形状である。この型式の冑は古墳時代中期を通して製作されており、5世紀後半と考えている年代を裏付ける遺物の1つとなる。

調査

第1次調査(令和3年度)では造出、葺石・埴輪、2段築成墳丘、馬蹄形周溝が調査された。

2022年度(令和4年度)の第2次調査では古墳の造出部分の本格的な確認調査が実施され、その形状が南北約6メートル、東西約4.5メートルの長方形と判明した。

第3次調査(2023年度)では古墳の全長が55.7m(帆立貝形前方後円墳)であることが確定した。また墳丘の斜面を覆っていた葺石や洋服のボタンのような突起を持つ埴輪の破片が見つかった。

第4次調査(2024年度)では、築造当時のままで整然と並んだ状態の葺石が、崩落や持ち去りを免れた姿で発見された。後円部上段の直径が25.4m、テラス幅が約2.5mと判明した。 第5次調査(令和8年度)では墳頂部の地中レーダー探査が行われた。粘土槨を確認し冑が出土した(鈴鹿市文化スポーツ部文化財課(2026))。

遺構

  • 帆立貝形古墳
  • 周濠
  • 葺石
  • 円筒埴輪

遺物

  • 小札鋲留衝角付冑(鉄製)
  • 陶質土器

展示

  • 2026年3月14日~3月29日、鈴鹿市考古博物館「発掘された鈴鹿2025」で期間限定公開(現在終了)

指定

  • なし

アクセス等 

  • 名称  :富士山1号墳
  • 所在地 :三重県鈴鹿市国分町
  • 交 通 :

参考文献

  1. 鈴鹿市文化スポーツ部文化財課(2026)「富士山1号墳第5次発掘調査 現地説明会資料」
  2. 「1500年前の「珍しい形状」鉄カブト出土」朝日新聞、2026年3月2日
  3. 「冑の発見について」富士市定例記者会見資料、令和8年2月25日
  4. 「1500年前のかぶと発見」伊勢新聞、2026年2月26日

井上古墳群 (行方市)2026年09月16日 00:05

井上古墳群 (行方市)(いのうえこふんぐん)は茨城県行方市(旧・行方郡玉造町)に所在する古墳時代の古墳群である。1号墳から9号墳がある。1号墳は「山の神古墳」ともいう。

概要

茨城県の霞ヶ浦北西岸地域の台地上に所在する古墳群である。井上古墳群は、当初7基が確認され、その後の調査資料では8号墳・9号墳も記載されている。近隣には中世の居館跡である井上長者館跡(井上長者曲輪)が所在する。 1号墳は直径約30mの円墳、2号墳から6号墳までは円墳、7号墳は形状不明、8号墳は全長45mの前方後円墳、9号墳は直径25mの円墳である(玉造町遺跡調査会(2002))。近隣には中世の居館跡とされる「井上長者館跡(井上長者曲輪)」が所在する。付近の上山地区大峰遺跡から旧石器時代の石核や柳葉尖頭器が出上している。

井上古墳群1号墳

1号墳は2001年(平成13年)7月24日~8月7日に、宅地拡張造成および土砂崩れの危険回避を目的として調査された。調査のきっかけは2001年(平成13年)6月5日に土地所有者から土砂崩れの恐れがあり、また将来的には住宅の増築を計画しているため、掘削する旨の埋蔵文化財の所在の有無及びその取り扱いについての照会が玉造町教育委員会へ提出されたことによる。 調査の結果、従来は前方後円墳と考えられていたが、今回の調査の結果、直径30mの円墳でと確認された。井上古墳群第1号墳は、墳丘は築造時の約4分の1程度が残存していた。家屋が存在するため、全面的な調査はできなかった。出土した土師器甕・坏は5世紀末~6世紀初頭の所産とみられ、古墳の築造時期も6世紀初頭と推定されている。周壕は周壕は、上幅約3~5m、底部幅約1~2m、深さ約10~70cmと推定された(玉造町遺跡調査会(2002))。 遺物は古墳封土中、表土層、南側削平部分、西側の盛土などから円筒埴輪、土師器、小型甕(3分の1が残存する)、土製丸玉や、水鳥を表現したとみられる土製品片と思われる土製品片等が出土した。

井上古墳群4号墳

井上古墳群の北部に位置する。円筒埴輪5個体分の破片列を検出した。埴輪はすべて墳頂部から裾部へ向って倒壊した状態であった。配列間隔は約50~60cmで均一である。箱式石棺は調査以前に古墳から除去されていた。第4号墳から直刀、鹿角刀、刀子、管玉ならびに人骨が発見された。鹿角刀は直刀形式であり残存部は全長36cmである。鹿角刀は、古墳時代(5-6世紀頃)に作られた、鹿の角(鹿角)を柄や鞘などのパーツに用いた刀剣類およびその装具である。直刀形式とは刀身に反りがなくまっすぐに伸びた直線的な形状が特徴の上古刀である。管玉は11個発見された。円筒埴輪は、約2分の1~3分の2程度が残存するもの4個体を復元できた。

住居跡

1号墳の調査では、墳丘下から弥生時代の住居跡4軒、古墳時代の住居跡1軒が確認された。 1号住居からは杯、甕が出土した。甕はほぼ完形で口縁部が薄く赤彩されている。1号住居跡は隅丸方形で、南北5m、東西5mであった。3号住居は辺約4.5mの隅丸方形であった。焼土が検出された。

井上古墳群の意義

井上古墳群は常陸国風土記の舞台となった地域に位置しており、7世紀頃の地域の歴史や在地首長層の動向を知る上で重要な遺跡と見られている。

考察

4号墳出土の人骨は獨協医科大学の馬場教授のグループによって分析され、埋葬されたのは「井上古墳群第4号墳ではやや若い若年層|ではないかとされた。埋葬された者は首長か首長の子どもにあたる人物であった可能性が指摘されている(玉造町教育委員会(1986))。埴輪は4号墳だけで出土した。

遺構

  • 円墳(墳丘・周堀)
  1. 住居跡(弥生から古墳時代)

遺物

  • 円筒埴輪
  • 鳥状土製品
  • 人物埴輪腕
  • 土師器
  • 弥生式土器 - 杯、甕
  • 直刀
  • 鹿角刀
  • 刀子
  • 管玉

展示

考察

指定

アクセス等 

  • 名称  :井上古墳群
  • 所在地 :茨城県行方市井上2053-1ほか (1号墳)
  • 交 通 :

参考文献

  1. 玉造町遺跡調査会・玉造町教育委員会(2002)『井上古墳群第1号墳発掘調査報告書』玉造町教育委員会他
  2. 玉造町教育委員会(1986)『井上古墳群第4号墳発掘調査報告書』玉造町教育委員会

両宮山古墳2026年09月15日 00:39

両宮山古墳(りょうぐうざんこふん)は岡山県赤磐市に所在する古墳時代の前方後円墳である。

概要

標高100~300mの丘陵に囲まれた盆地状の平野部の西端に位置し、本宮高倉山の南東麓の扇状地の斜面に築造された。両宮山古墳群の中心となる古墳である。岡山県では造山古墳、作山古墳に次ぐ岡山県内で第3位の規模である。「吉備の三大古墳」の一つに数えられる。前方部を南東方向に向ける。墳丘は3段築成である。墳丘の主軸を斜面の方向に合わせている。 墳丘長は206m、後円部径116m、前方部長さ90m、前方部幅145mである。高さは25mである。 前方部と後円部のくびれ部両側に円形の造出しがある。両宮山古墳に付随する古墳と考えられる和田茶臼山古墳が内濠の外側に位置する。 埋葬施設は未調査である。出土遺物には弥生土器、土師器、須恵器、瓦などがある。これらには古墳築造時のものだけでなく、周濠が後世に利用されたことに伴う遺物も含まれる。

二重周濠

墳丘の周囲には内濠、中堤、外濠がめぐり、二重の周濠をもつことが確認されている。現在、内濠はため池として利用されている一方、外濠は埋没して水田などとなっている。外濠は、後円部側で幅約13m、前方部側で約20mと推定される。二重の周濠は吉備では例が少ない。二重周濠は、墓域の拡大や墳墓の荘厳化、墓域の隔絶などの意義が指摘されており、畿内の大王墓を中心にみられる。

埴輪

発掘調査では堆積土から埴輪片が出土しているが、墳裾や内濠などの調査では埴輪列を確認できず、2005年の報告書は「葺石・埴輪は伴わない」と判断している。このため、出土した埴輪片が両宮山古墳の築造時に設置されたものかどうかは明確ではない(岡山県赤磐市教育委員会(2005))。 両宮山古墳と和田茶臼山古墳には葺石・埴輪が見られず、南側の正免東古墳と森山古墳には葺石・埴輪が認められるという特異な状況が指摘されている。宇垣匡雅は、葺石・埴輪の設置が古墳構築の最終段階になされたと考え、「なんらかの特殊な事情が発生して通常どおりの葬送儀礼が実施されなかった」可能性を指摘している。墳丘は三段築成とされるが、岸本直文は段築が完成形として整えられていない点を重視し、工事が中途で停止した可能性を指摘している(岸本直文(2012))。

調査

1924(大正13)年に梅原末治氏によって学会誌で報じられた。第1次調査は2002年(平成14年)1~3月に行われた。第2次調査は平成15年1月に着手し同3月に終了した。第3次調査は平成17年1月に着手し、平成17年3月に終了した。第4次調査は平成25年から27年度にわたる3か年の発掘調査が行われた。第5次調査は平成27年1月14日から3月13日まで行われた。第6次調査は2015年(平成27年)12月1日から2016年(平成28年)2月29日まで行われた。第5・6次調査の成果をまとめた報告書が2018年(平成30年)に刊行された。

見所

後円部を山側、前方部を平野側に配し、斜面を利用して築造されており、平野部を一望できる位置にある。周囲の平野部から目立つ位置にある。墳丘の周りには今も水を湛える濠が残り、大規模な古墳でありながら、築造時の葺石や埴輪が確認されていない点が注目される。

遺構

  • 前方後円墳
  • 二重周濠
  • 三段築成
  • 中堤
  • 円形造出し

遺物

  • 弥生土器(高坏・壺・甕)、土師器、須恵器、瓦など
  • 土師器、
  • 須恵器、

展示

指定

  • 1927年(昭和2年)4月8日 国の史跡指定。
  • 1978年(昭和53年)2月8日 追加指定
  • 2006年(平成18年)1月26日 追加指定

アクセス等 

  • 名称  :両宮山古墳
  • 所在地 :岡山県赤磐市穂崎・和田
  • 交 通 :

参考文献

  1. 岡山県赤磐市教育委員会(2005)『赤磐市文化財調査報告1:両宮山古墳』岡山県赤磐市教育委員会
  2. 岡山県赤磐市教育委員会(2018)『赤磐市文化財調査報告12:両宮山古墳』岡山県赤磐市教育委員会
  3. 岡山県赤磐市教育委員会(2026)『赤磐市文化財調査報告14:史跡両宮山古墳墳丘裾保存整備工事報告書』岡山県赤磐市教育委員会
  4. 岸本直文(2012)「墳丘と周濠」『古墳時代(下)』講座日本の考古学8 青木書店

仲ツ山古墳2026年09月14日 00:05

仲ツ山古墳(なかつやまこふん)は大阪府藤井寺市に所在する古墳時代の前方後円墳である。「仲津山古墳」「仲津山陵」ともいう。

概要

全長290m、後円部径170m、高さ26.2m、前方部幅193m、高さ23.3mの前方後円墳である。 宮内庁により、『日本書紀』などで応神の皇后とされる仲姫命の陵墓「仲姫命陵古墳」に治定されている。 仲ツ山古墳はユネスコ世界文化遺産「百舌鳥・古市古墳群」の構成資産となっている。

古市古墳群では規模が2番目、全国では9番目の規模の古墳である。円筒埴輪の特徴から4世紀末葉の築造と考えられている。墳丘は三段築成である。くびれ部の両側に、壇状の施設である造出しがもうけられる。幅の狭く深い周濠の外側に、基底部で幅約45-50mに及ぶ幅の広い堤がめぐる。発掘調査により、墳丘の外堤外法面(斜面)に葺石が葺かれていたことが明らかになっている。周堤部分は周囲の土地よりも相当に高い位置になっている。周堤は国史跡となっている。

年代観の変遷

かつては、宮内庁が応神天皇の皇后である仲姫命の陵(仲津山陵)に治定していることや、古市古墳群における大王墓の系譜などから、5世紀前半頃の築造と考えられていた。 一方、円筒埴輪の形式・特徴を重視する編年研究では、津堂城山古墳に続く4世紀末葉頃に位置づける見解がある。 そうすると宮内庁が応神陵に治定している誉田御廟山古墳よりも、埴輪編年では仲ツ山古墳の方が古く位置づけられるため、両古墳の伝承上の関係と考古学的年代観との間に齟齬が生じている。王権のほかの有力大王の墓とする議論が行われている。

調査

発掘調査では円筒埴輪と葺石が発見された。

遺構

  • 前方後円墳
  • 周濠
  • 周堤

遺物

  • 円筒埴輪列
  • 葺石
  • 形象埴輪

展示

指定

  • 2019年(令和元年)7月6日 世界文化遺産へ登録「百舌鳥・古市古墳群」
  • 2021年 周堤が国の史跡(「仲姫命陵古墳周堤」)に指定

アクセス等 

  • 名称  :仲ツ山古墳
  • 所在地 :大阪府藤井寺市沢田4丁目
  • 交 通 :近鉄南大阪線・土師ノ里駅から南西へ約300m

参考文献

  1. 宮内庁(2022)「仲姫命 仲津山稜駐車場整備に伴う立会調査」『書陵部紀要』第73号

井出丸山古墳2026年09月13日 00:05

井出丸山古墳(いでまるやまこふん)は静岡県沼津市井出に所在する古墳時代後期の円墳である。愛鷹山南麓の、井出古墳群と石川古墳群との間に広がる尾根の先端、標高約42mに位置する。墳丘は径10~15mで、横穴式石室をもつ。平成4年の発掘調査で、全長6m、幅1m、高さ1mの無袖式横穴式石室が確認された。石室からは須恵器、耳環、切子玉、管玉、ガラス玉、刀、鉄鏃などが出土した。築造年代は6世紀後半と推定されている。

概要

愛鷹山の南の井出古墳群と石川古墳群との間に広がる尾根の先端、標高約42mに所在する径10~15mの円墳である。茶畑の改良工事に伴って天井石が抜き取られた状態で発見された。

調査

平成4年の発掘調査で、一部墳丘が壊されていたものの、全長約6m、幅約1m、高さ約1mの無袖式横穴式石室が見つかった。石室の奥と手前の2か所に盗掘などによる掘り起こしの跡があり、一部の副葬品は失われていた。石室内からは、須恵器、耳環、切子玉、管玉、ガラス玉、刀、鉄鏃などが出土した。石室は開口している。 築造年代は6世紀後半とされている。被葬者は特定されていないが、副葬品などから、この地域の有力者の墓と考えられている。

遺構

  • 円墳
  • 無袖式横穴式石室

遺物

  • 須恵器、
  • 耳環、
  • 切子玉
  • 管玉
  • ガラス玉
  • 鉄鏃

展示

考察

指定

アクセス等 

  • 名称  :井出丸山古墳
  • 所在地 :静岡県沼津市井出字堀込
  • 交 通 :富士急バス 西井出バス停 下車

参考文献

  1. 沼津市教育委員会(1994)『大谷津遺跡・井出丸山古墳発掘調査報告書』沼津市文化財調査報告書第55集