十善の森古墳 ― 2026年01月24日 00:22
十善の森古墳(じゅうぜんのもりこふん)は福井県三方上中郡若狭町に所在する前方後円墳である。
概要
JR上中駅の西約700m、小浜線南側に位置し、墳丘南側には国道27号が走り、前方部は西方向を向く。「天徳寺古墳群」「上中古墳群」の古墳である。墳丘規模は、主軸長約68m、後円部径約46m、同高さ約9.6m、前方部幅約50m、同高さ約9mで、3段築成である。埴輪・葺石・周濠がある。前方部と後円部にそれぞれ横穴式石室を持つ。前方部と後円部の双方に横穴式石室を有する点は、被葬者構成や葬送儀礼の複雑さを示すものとして注目される。後円部石室は、全長6.45mを測る片袖式で、北部九州型とされる。北部九州型横穴式石室の採用は、若狭地域が日本海沿岸ルートを通じて九州・朝鮮半島と結びついていたことを示す。周濠の一部に石室へ向かうための陸橋跡がみえる。築造時期は出土遺物や石室構造から、5世紀後半から6世紀初頭と考えられている。
繋と横穴式石室
中司照世(1990)は、若狭地方の大首長墓は複数系列ではなく、城山古墳から西塚古墳・十善の森古墳、さらに上船塚・下船塚へと連続的に変遷した一系列であると推定している。また、十善の森古墳出土の馬具の繋金具は、出雲地方の上塩冶築山古墳出土品と製作技法が共通するとされ、日本海沿岸を通じた広域交流を示唆する。
調査
1954年(昭和29年)、1994-1995年(平成6年から平成7年)に行われた。前方部を西方向に向ける。出土品に方格規矩神獣鏡・装身具類・玉類・馬具類、加耶系の金銅製轡のほか百済系の金銅製冠・履やとんぼ玉がある。当時の若狭地方の豪族が渡来文化を受け入れていた事を示す。
考察
福井県若狭町に所在する十善の森古墳(出土遺物および横穴式石室の形態から6世紀初頭と推定される)は、百済系・伽耶系の金銅製冠・履、馬具、トンボ玉などが出土した天徳寺古墳群を代表する前方後円墳である。これらの渡来系威信財は、当時の若狭首長層が北部九州や越前を含む日本海沿岸ネットワークを通じ、百済・伽耶系文化と密接な関係を有していたことを示す重要な考古学的資料である。
問題となるのは、こうした対朝鮮半島交流がヤマト王権とどのような関係のもとで行われていたかという点である。すなわち、若狭の首長がヤマト王権とは一定の距離を保ちつつ独自に百済・伽耶と関係を構築していたのか、あるいは王権秩序の枠内で経済・外交活動を展開していたのかが論点となる。
十善の森古墳を含む若狭地域の有力古墳群の動向は、後の継体大王擁立期における日本海沿岸勢力の政治的存在感の高まりと時期的に重なっており、若狭地域の首長層がヤマト王権に対して一定の自律性を保持しつつ、対朝鮮半島交流を担う役割を果たしていた可能性を示唆する。
規模
- 形状 前方後円墳
- 築成 不明
- 墳長 68m
- 後円部径 径46m 高さ 9.6m
- 前方部 幅50m 高さ9m
外表施設
埴輪
- 円筒埴輪あり
葺石
- あり
遺構
遺物
- 馬具、
- 玉
指定
- 1978年(昭和53年)10月11日 国指定史跡
被葬者
築造時期
- 築造時期は古墳時代後期(6世紀初頭)と推定される。
展示
- 福井県立若狭歴史民俗資料館
アクセス等
- 名称:十善の森古墳
- 所在地:福井県三方上中郡若狭町天徳寺字森ノ下
- 交通:
参考文献
- 入江文敏(2011)「十善ノ森古墳の研究 (1)」『勝部明生先生喜寿記念論文集』勝部明生先生喜寿記念論文集刊行会
- 福井県立若狭歴史民俗資料館(1993)『上之塚古墳発掘調査概報』若狭歴民だより1993年7月
- 李恩碩(2016)「繋の復元による製作技法の考察」奈良文化財研究所学報第95冊、日韓文化財論集Ⅲ、pp.129-144
- 中司照世(1990)「北陸」『古墳時代の研究11』雄山閣
阿玉台貝塚 ― 2026年01月23日 00:48
阿玉台貝塚(あたまだいかいづか)は、千葉県香取市に所在する縄文時代中期の馬蹄形貝塚である。
概要
下総台地東縁部、黒部川(利根川水系)流域に発達した台地縁辺に立地し、河川の開析によって形成された大小の支谷が複雑に入り組む地形を呈する。縄文海進期には内湾・干潟環境へのアクセスに恵まれた立地であったと考えられる。
本遺跡は馬蹄形貝塚として知られ、貝層は主として台地斜面部に形成されている。斜面部では少なくとも5か所の貝層が確認されており、台地平坦部に居住域を設定し、周囲の斜面に反復的に貝殻や生活廃棄物を投棄した集落構造が推定される。
1894年(明治27年)には、東京帝国大学(現・東京大学)の八木奘三郎らによって発掘調査が実施され、多数の遺物が出土した。出土遺物には、縄文土器、石器、骨角器、土製品、貝輪などが含まれる。石器類としては磨製石斧や石鏃、骨角器としては釣針やヤス先などが確認されており、狩猟・漁撈・採集活動を基盤とする生業形態が復元される。
貝塚を構成する貝類は、ハマグリ、シオフキ、アサリなどの海産二枚貝を主体とする。また、スズキ・クロダイ・マダイなどの魚類、キジ・ワシ類などの鳥類、両生類(カエル)、哺乳類(イノシシ・シカ・イタチ)の骨が検出されており、多様な動物資源の利用がうかがえる。
本遺跡の最も重要な学術的意義は、東関東地方における縄文時代中期前葉の代表的土器型式である阿玉台式土器の標式遺跡である点にある。阿玉台式土器は、口縁部の肥厚・屈曲を基調とし、隆帯や刻目、押圧文などを組み合わせた装飾を特徴とする。また、胎土に雲母を含む点が注目されており、意図的な混和の可能性も指摘されている。
編年研究
昭和32年(1957)には、早稲田大学の西村正衛によって層位学的調査が行われ、阿玉台式土器の型式変遷が5段階に細分された。この成果は、関東地方における縄文時代中期土器編年研究の基礎をなす重要な研究として評価されている。
遺物
- 石器、
- 骨角器、
- 貝器
- 土製品
- 動物遺存体(貝(シオフキ+ハマグリ+アカニシ)
- 阿玉台式土器
- 縄文土器(下小野式、五領ヶ台式、阿玉台式、加曽利E式)
展示
考察
指定
- 1968年5月20日指定 - 国の史跡指定 「阿玉台貝塚」
アクセス等
- 名称 :阿玉台貝塚
- 所在地 :千葉県香取市阿玉台
- 交 通 :JR小見川駅 タクシー 15分
参考文献
- 西村正衛(1970)『千葉県小見川町阿玉台貝塚 早稲田大学教育学部学術研究第19号』
- 下村三四吉(1894)『下総阿玉台貝塚調査ノ概要』東京人類学会雑誌第9巻第94号
宝塚1号墳 ― 2026年01月22日 22:31
宝塚1号墳(たからづかいちごうふん)は三重県松阪市に所在する古墳時代の前方後円墳で、日本百名墳に選定されている。
概要
松阪市の市街地から南に3kmの丘陵上にある宝塚古墳は1号墳と2号墳がある。宝塚1号墳は伊勢平野最大の111mの規模である。伊勢地方で最大の前方後円墳である。前方部は東に向く。 松阪市市街地の南約3kmに位置する丘陵上には宝塚古墳群があり、1号墳と2号墳からなる。宝塚1号墳は全長約111mを測り、伊勢地方最大の前方後円墳である。前方部は東向き(やや南寄り)に開く。
前方部の付け根には、幅約18m・奥行約16mの舞台状の造り出しが設けられ、古墳本体とは土橋で連結されている。この造り出し周辺からは約140点に及ぶ埴輪が出土している。主体部(埋葬施設)は未発掘であり、その構造は明らかになっていない。
宝塚2号墳は5世紀前半頃に築造された帆立貝式前方後円墳で、壷形埴輪と円筒埴輪が一体化した朝顔形埴輪が出土している。宝塚1号墳に続く時期の築造と考えられ、同一首長系譜に属する可能性が指摘されている。
船形埴輪
宝塚古墳群では1999年から発掘調査が行われ、2000年には宝塚1号墳の造り出しから、船上に立飾を伴うものとして全国初、かつ国内最大規模の船形埴輪が出土した。この船形埴輪は、側面を板で補強した丸木舟系の準構造船を表現したもので、全長約140cm、円筒台を含めた高さ約94cm、最大幅約36cmを測る。
船形埴輪の船首・船尾は垂直に立ち上がり、複数の鰭状突起で装飾され、心葉形の隔壁板や線刻文様など、極めて写実的な造形が施されている。船体中央には、首長の権威を象徴する蓋・威杖2本・大刀を模した立飾が据えられており、被葬者の魂を乗せる葬送船を表現したものとする解釈が有力である。
この船形埴輪を含む「三重県宝塚一号墳出土埴輪」は、その造形的完成度と古墳時代の首長権力・葬送観念を示す点が高く評価され、2024年(令和6年)に国宝に指定された。
このほか、円筒埴輪、壷形埴輪、蓋埴輪、盾形埴輪、囲形埴輪、柵形埴輪、短甲形埴輪、家形埴輪など多様な埴輪が出土している。
規模(1号墳)
- 形状 前方後円墳
- 築成 後円部:3段
- 墳長 111m
- 後円部径 径75m 高11m
- 前方部 幅66m 長46m 高6.4m
- 外表施設 円筒埴輪 円筒・朝顔形
- 葺石 あり
遺構
遺物
- 底部穿孔二重口縁壺
- 埴輪棺
- 船形埴輪
- 囲形埴輪
- 家形埴輪
- 埴輪(円筒 楕円筒
- 壺形埴輪
- 蓋形埴輪
- 盾形埴輪
- 靱形埴輪
- 甲冑形埴輪
- 冠形埴輪
- 高杯形埴輪
- 家形埴輪
- 囲形埴輪
- 柱状
- 土製品(鳥笊高杯)
指定
- 2024年(令和6年)8月27日 三重県宝塚一号墳出土埴輪(278点)
- 1932年(昭和7)年 - 国史跡史跡
被葬者
築造時期
- 5世紀初頭
展示
- 松阪市文化財センター
アクセス等
- 名称:宝塚1号墳
- 所在地:三重県松阪市小黒田町ごけ山120-1
- 交通: 松阪駅 鈴の音バス 左回りバス 39分
参考文献
- 松阪市教育委員会(2000)『宝塚古墳発掘調査概要』。
姥山貝塚 ― 2026年01月22日 00:47
姥山貝塚(うばやまかいづか)姥山貝塚(うばやまかいづか)は、千葉県市川市に所在する縄文時代の貝塚であり、日本考古学史においてきわめて重要な位置を占める遺跡である。
概要
縄文時代中期から後期にかけて継続的に形成された馬蹄形貝塚で、規模は長径約130m、短径約120mに及ぶ。現在は国の史跡に指定され、「姥山貝塚公園」として保存・公開されている。なお、山武市に所在する「山武姥山貝塚」とは別遺跡である。*調査 慶応義塾大学により5回の調査が行われた。ハマグリを主体とし、アサリ、シオフキガイなど30種以上の貝のほか、土器、人骨なども多数出土している。人骨はl供1体、成人女性2体、成人男性2体の計5体が発掘され、貴重な資料となった。土器は阿玉台式、加曽利EI式、堀之内I式、加曽利BI式など縄文時代中期から後期の土器が発掘された。 現在までに竪穴住居跡39か所、人骨143体が検出されている。
調査の経過
本遺跡が考古学史上著名となった最大の契機は、1926年(大正15年)に東京帝国大学によって実施された発掘調査である。この調査において、縄文時代の竪穴住居跡が良好な保存状態で検出され、床面の掘り込みや柱配置といった構造が明瞭に確認された。これは、従来文献や推測に依る部分の大きかった竪穴住居像を、実証的に明らかにした最初期の事例として、日本考古学の住居研究に画期をもたらした。
この竪穴住居跡内からは、折り重なるような状態で5体の人骨が発見された。内訳は成人男性2体、成人女性2体、子ども1体とされ、同一住居内に複数個体が埋葬されていた点は、当時の埋葬観念や家族構成を考える上で大きな注目を集めた。長らくこれらは家族的集団と解釈されてきたが、近年、ミトコンドリアDNA分析が行われた結果、5体の間に母系の直接的血縁関係は確認されなかったことが報告されている(2024年3月「姥山貝塚の5体の人骨の謎に迫る」シンポジウム)。この成果は、縄文社会における居住単位や埋葬単位を再考する契機となり、研究史上の新たな転換点を示すものと評価されている。 その後、姥山貝塚では慶應義塾大学を中心として計5回にわたる調査が実施され、遺跡の全体像が次第に明らかにされてきた。これまでに竪穴住居跡39か所が確認されており、人骨は貝塚全体で計143体が検出されている。1926年に発見された5体の人骨が学史的に特に著名である一方、後続調査によって、姥山貝塚が長期間にわたり反復的に利用された大規模集落遺跡であることが裏付けられた。
考察
貝塚の内容は海棲貝類を主体とし、ハマグリを中心に、アサリ、シオフキガイなど30種以上の貝類が確認されている。これは縄文海進期以降の東京湾奥部の環境を反映するものであり、縄文時代の生業研究の重要資料になっている。土器については、阿玉台式、加曽利EⅠ式、堀之内Ⅰ式、加曽利BⅠ式など、縄文時代中期から後期にかけての型式が出土しており、遺跡の編年的位置づけを明確にしている。 松永 博司は、姥山遺跡の教材化の可能性を指摘しており、中学校社会の歴史教育に活用することができると実践例を提示した。
このように姥山貝塚は、①竪穴住居研究の出発点、②縄文人骨研究の基準資料、③貝塚・集落・埋葬の関係を考える総合的遺跡として、日本考古学の形成と発展を支えてきた遺跡である。同時に、近年の自然科学的分析によって、従来の理解が更新されつつある点においても、現在進行形の研究対象として重要性を保ち続けている。
遺構
- 土坑
- 住居
- 墓
遺物
- 縄文後期土器
- 敲石
- 貝殻
- 人骨
- 獣骨
- 鯨骨
展示
- 市川市考古博物館
考察
指定
- 1967年8月17日 国の史跡指定
アクセス等
- 名称 :姥山貝塚
- 所在地 :千葉県市川市柏井町1丁目1212
- 交 通 :JR武蔵野線船橋法典駅より市川市コミュニティバス(循環ルート右回り)にて、「姥山貝塚公園」下車 徒歩5分
参考文献
- 「縄文のあの5人、家族ではなかった?」朝日新聞、2024年3月7日
- 松永 博司()「博物館資料の効果的な活用方法と指導の汎用化をめざして」国立歴史民俗博物館、歴博の展示や資料を活用した授業実践例
日岡古墳 ― 2026年01月21日 00:02
日岡古墳(ひおかこふん)は福岡県うきは市にある古墳時代後期(6世紀後半)に築かれた前方後円墳である。若宮八幡宮の境内東側に位置し、九州を代表する装飾古墳の一つとして知られている。
概要
現在、前方部と後円部の上部は削られているが、墳丘の周囲には周濠がめぐっていたことが確認されている。後円部には単室構造の横穴式石室があり、奥壁には大きな石を立てた「鏡石」が据えられている。日岡古墳は、筑後川流域に勢力をもった有力者の墓とみられ、当時の社会や精神文化を知るうえで重要な遺跡である。
壁画
石室の内部には、赤・白・緑・青の顔料を用いた色彩豊かな壁画が描かれている。玄室の前壁・奥壁・左右の壁の全面に、大型の同心円文や連続三角文、蕨手文、X文といった幾何学文様のほか、靫(ゆぎ)・太刀・盾などの武具、船、馬、魚、獣などの図像が表されている。 これらの壁画は、被葬者の権威や信仰、死後の世界観を象徴するものと考えられている。 壁画系の装飾古墳では初期段階と見られる。
調査
1887年(明治20年)、坪井正五郎による発掘調査が行われ、石室内の装飾を発見した。
所感
装飾古墳の壁画は、カビの発生や温湿度管理、定期点検に要するコスト、見学者による損傷防止など、保存・管理上の課題が多い。多くの場合、自治体が管理主体となるため、継続的な予算措置が不可欠である。特に冬季には、外気と保存施設内部との温度差によって結露が生じやすく、この水分が石室内部の環境を悪化させ、カビ発生の要因となっている。
日岡古墳の壁画に描かれる同心円文は太陽を象徴すると解釈されることが多いが、複数描かれる理由については明確ではなく、霊的存在や権威表現などの諸説がある。連続三角文は鋸歯文と共通し、魔除けなどの呪術的意味をもつと考えられている。蕨手文はワラビの新芽を象徴し、再生や生命力を表す文様と解釈される。
また、靫・太刀・盾などの武具は被葬者の権威や武人的性格を示しており、船や馬は死後の世界への移動や他界観を象徴する図像と考えられている。これらの文様と図像が石室全面に描かれる日岡古墳の壁画は、古墳時代後期の死生観や精神文化を総合的に示す重要な資料である。
規模
- 形状 前方後円墳
- 築成 不明
- 墳長 74m
- 後円部径 径40m 高3.7m
- 前方部 幅35m 長35m 高3.8m(削平)
外表施設
円筒埴輪
- 円筒・朝顔形Ⅴ式
葺石
- あり
遺構
- 前方後円墳
- 横穴式石室
遺物
指定
- 昭和3年2月7日 国指定史跡
被葬者
- 筑後川流域に勢力をもつ有力
築造時期
- 古墳時代 後期中葉
展示
- 吉井歴史民俗資料館
アクセス等
- 名称:日岡古墳
- 所在地:福岡県うきは市吉井町若宮366-1
- 交通: JR「筑後吉井駅」から徒歩約20分
参考文献
- 犬塚将英・森井順之他(2015)「日岡古墳の保存施設内における温熱環境の調査」保存科学54,pp.27-35
小見真観寺古墳 ― 2026年01月20日 00:24
小見真観寺古墳(おみしんかんじこふん)は、埼玉県行田市にある古墳時代の前方後円墳である。日本百名墳に選出されている。
概要
1634年(寛永11年)、真観寺観音堂の創建の時、第1主体部(後円部石室)が露出し、発見された。埼玉県北部、星川西岸の加須低地の沖積地に南面する低い台地上に位置し、真観寺境内の本堂の背後に所在する古墳である。古墳の規模は墳長112m(102m説もある)、前方部高さ7m、後円部高さ7.6mの前方部を北西方向に向ける大型前方後円墳である。 墳長の違いは、測量時期や測定方法の違いによる差と推測される。 後円部南側に横穴式石室1基と、その北側の後円部中腹に石榔1基、2基の主体部がある。 行田市内で最後の前方後円墳とされる。築造時期は6世紀後半と考えられ、行田地域における前方後円墳築造の終末段階を示している。前方部が北西を向く点は、埼玉古墳群の主墳(丸墓山・稲荷山)とは異なる志向性を示している。秩父産の緑泥片岩による石室に巨大な石材を用い、玄門を一枚板をくり抜いてつくるなど、当地域では特異な構造である。
埋葬施設
埋葬施設は後円部と鞍部の2か所に設けられている。後円部には横穴式石室(第1主体部)が、鞍部には箱式石棺を主体とする埋葬施設(第2主体部)が存在する。石室は秩父産の緑泥片岩である。これは埼玉古墳群の多くの横穴式石室に共通する石材である。前室は奥行2.7m、幅2.2m、高さ2.1m、玄室は2.4m、幅2.2m、高さ2.1mである。
調査
1880年(明治13年)、狐が穴に逃げ込んだため鞍部にある石室が発見され、次いで発掘調査が行われ、金環(3)、圭頭大刀、頭椎大刀(2)、刀子、鉄鎌、桂甲小札、銅椀、有蓋脚付銅鏡、竪矧広板鋲留衝角付冑(甲冑)、須恵器などであり、出土品は東京国立博物館に保管される。 金環・東椎太刀・甲冑・銅椀などの出土は、被葬者が武人的性格を有する有力首長層であったことを示している。 発掘調査で周溝が確認され、その底付近から埴輪の破片が多数発掘された。埴輪の詳細な構成については不明な点が多い。
考察
6世紀末から7世紀にかけて、古墳が後世の寺院境内に取り込まれる事例は各地に認められる。例として弘法寺古墳(千葉県市川市、弘法寺境内、6世紀後半、)、正善寺古墳(栃木県足利市、正善寺境内、6世紀後半)、久野部1号墳(滋賀県野洲氏、円光寺境内、5世紀末から6世紀初頭)、姉崎妙経寺古墳群(千葉県、妙経寺境内、4世紀後半から7世紀後半)などがある。古墳は寺院に先立って造られたであろうが、寺院の境内に所在することにはメリットとデメリットがある。寺院境内に所在することにより、墳丘が大規模な破壊を免れてきた点は大きな利点である。一方で、信仰施設としての性格上、全面的な発掘調査が困難であること、既存建物が調査の制約となる点は大きな課題である。
規模
- 形状 前方後円墳
- 築成 前方部:2段、後円部:2段
- 墳長 112m
- 後円部径 径55m 高7.6m
- 前方部 幅48m 長57m 高7m
埴輪
- 円筒埴輪 円筒Ⅴ式
葺石
遺構
- 前方後円墳
- ①1号主体(後円部南側)
- ②2号主体(北側くびれ部後円部寄り)
遺物
- 金環3
- 圭頭大刀
- 頭椎大刀
- 鉄鏃 細身式
- 衝角付冑 竪矧広板鋲留衝角付冑
- 挂甲小札
- 刀子
- 鉄刀
- 銅鋺
- 蓋付高脚鋺
築造
- 6世紀末から7世紀初め (八世紀初頭説もある)-行田市内最後の前方後円
展示
- 東京国立博物館
考察
指定
- 1931年(昭和6年)3月30日 国の史跡指定
アクセス等
- 名称 :小見真観寺古墳
- 所在地 :埼玉県行田市小見1124-1
- 交 通 :秩父線武州荒木駅 徒歩 15分/行田市田駅市内循環バス 北東循環コース(右回り)15分 「小見武蔵橋」下車 徒歩 5分
参考文献
- 筑波大学歴史・人類学系(1991)「古墳測量調査報告書 Ⅰ」
本郷埴輪窯跡 ― 2026年01月19日 00:12
本郷埴輪窯跡(ほうごうはにわかまあと)は群馬県藤岡市に所在する古墳時代の埴輪窯跡である。
概要
群馬県は、古墳時代における埴輪生産の一大拠点として知られており、なかでも太田地域と藤岡地域の2地域が主要な生産地であった。藤岡地域では、神流川流域に位置する本郷埴輪窯跡と、鮎川流域の猿田埴輪窯跡の2地点が確認されている。
本郷埴輪窯跡は1906年(明治39年)に考古学者(東京帝国大学教授)の柴田常恵によって発見された。その後の発掘調査により、本遺跡は5世紀後半から6世紀末にかけて操業していたことが明らかとなっている。窯は登り窯形式で、前部(燃焼部)と後部(焼成室)からなる二室構造をもち、焼成室は約30度の傾斜をもつ筒状の構造である。これまでに30基以上の窯が検出されており、一つの古墳の専属窯にとどまらず、広域的な埴輪供給を担った大規模生産拠点であったと考えられている。本郷埴輪窯跡は、古墳時代における埴輪窯の構造や生産体制を具体的に示す重要な遺構である。現在は遺存状態の良かった1基が覆屋で覆われて保存されており、ガラス越しに見学が可能である。
群馬県内で埴輪を伴う古墳として最も早い例は、太田市の朝子塚古墳とされる。群馬県における埴輪の出現が近畿地方よりやや遅れた背景には、埴輪製作を担った土師部(はじべ)の成立や定着が相対的に遅れたことが一因と考えられている。土師部は、祭祀を担う場を中心として集住し、埴輪や土器の製作に従事した集団であった。
本郷埴輪窯跡の南約100メートルには、埴輪起源神話の主人公である野見宿禰を祭神とする土師神社が鎮座しており、後世において本地域が埴輪生産と結び付けて認識されてきたことをうかがわせる。また、藤岡地域の土を用いて製作された埴輪は、綿貫観音山古墳や洞山古墳群(伊勢崎市赤堀地区)などでも確認されている。本郷埴輪窯跡が東国における埴輪文化の展開に重要な役割を果たしていたことが示されている。
調査
1943年(昭和18年)、1944年(昭和19年)に群馬大学教授・尾崎喜左雄による発掘調査が行われ、2基の窯址が発掘調査された。窯跡では埴輪の馬、埴輪武器破片など各種の形象埴輪片が散乱していた。
考察
本郷埴輪窯跡から綿貫観音山古墳へ直接埴輪が供給されたと断定することはできないが、両者の道路距離は約9kmに及ぶ。また、洞山古墳群(伊勢崎市赤堀地区)に含まれる洞山古墳と本郷埴輪窯跡との距離は約20kmに達する。これらの事例は、埴輪が必ずしも古墳の近傍で製作されたとは限らず、一定の距離を隔てた生産拠点から供給されていた可能性を示している。
埴輪は中空で破損しやすい製品であることから、多数の埴輪を遠隔地へ運搬するには相当の労力と周到な計画が必要であったと考えられる。そのため、埴輪の搬送には道路や河川などの交通路が利用され、また製作・運搬・設置に関しては、首長層の統率のもとで組織的な労働動員が行われていた可能性が高い。こうした点から、本郷埴輪窯跡の存在は、古墳時代における埴輪生産が単なる地域的営みにとどまらず、広域的な政治的・社会的ネットワークのもとで展開していたことを示す一例として位置付けることができる。
遺跡
- 埴輪窯跡
遺物
- 人物埴輪
- 盾形埴輪
- 戈形埴輪
- 家形埴輪
- 太刀形埴輪
築造時期
- 5世紀後半
展示
- 現地保存
指定
- 1944年11月13日 国指定史跡、「本郷埴輪窯跡」
アクセス等
- 名称:本郷埴輪窯跡
- 所在地:群馬県藤岡市本郷字塚原304-1
- 交通:JR八高線「群馬藤岡駅」よりバス
参考文献
- 立正大学博物館(2019)「東国の埴輪と埴輪窯 展示図録」
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