蜷川式胤 ― 2023年05月28日 14:35
蜷川式胤(にながわのりたね,1835年6月18日 - 1882年8月21日)は、明治初期の官僚、内務省博物館掛である。
概要
京都東寺の坊官・蜷川子賢の長男として京都八条大宮に生まれる。幼名与三郎。明治2年5月、太政官制度調査掛となる。7月制度局調査係を拝命。同月18日、権少史。9月29日少史となる。1871年(明治4年)外務省の外務大録として編輯課付となる。1872年、文部省博物局御用兼務を兼務して、八等出仕。同年11月、御用書類下調掛。 明治4年7月・8月には「町田久成、内田正雄らと常設の博物館を建議するも、時期尚早とされた。9月田中芳男と図り、九段坂上招魂社で小博覧会を開き、大学南校の博物標本、理科機械などを陳列した。」「博物館を常設にする上申を上げて認められ、東京博物館として実現した。」 明治5年、近畿地方の社寺宝物検査に従事した。その際正倉院宝物調査の記録を残した。壬申検査は、文部省から派遣された町田久成を総責任者として、内田正雄、蜷川式胤らの太政官職員、町田らが自費で随行させた絵師・柏木貨一郎や写真師・横山松三郎らとともにと宝物の記録を作成した。1877年1月、病を理由に退職し、1882年(明治15年)8月21日、没した。享年47歳。
宝物盗難
「壬申検査古器物目録」は東京国立博物館に原本が所蔵されている。記録では次があった。 紅牙撥鏤尺8枚 紺牙撥鏤尺2枚(緑も青も区別が明確ではない) 白牙尺2枚 未造了白牙尺2枚 染牙撥鏤尺1枚(色不明) 牙尺4枚 白木尺1枚 水牛尺1枚 明治15年にも正倉院の御物が調査され、その時の公式目録である「正倉院棚別目録」には 紅牙撥鏤尺6枚(2枚減) 緑(紺)牙撥鏤尺2枚 白牙尺4枚(未造了のものと牙尺を含めて8枚から4枚減) 染牙撥鏤尺0枚(1枚減) とあり、6枚が失われていた。 明治5年、町田久成を団長とする全国社寺調査団が正倉院を調査した。蜷川式胤は1875年(明治8年)の奈良博覧会のために、再び正倉院へ出張した折、蜷川式胤は紅牙撥鏤尺2枚、緑牙撥鏤尺1枚、白牙尺4枚の合計7枚を無断で持ち出し、自宅の蔵に隠したとされる。蜷川式胤の死後の売立て目録に正倉院の宝物が見つかり、しかも2000年には蜷川家の人物から「蜷川家の蔵に撥鏤尺があり、正倉院にお返ししたい」と申し出があったという。 蜷川式胤は、明治15年8月にコレラで急死したとされるが、これは正倉院の宝物が再調査された年であり、撥鏤尺が紛失したことが判明している。明治15年の調査で宝物の亡失の事実が知られ、その責任をとって蜷川は自殺し、町田は仏門に入ったと由水常雄は考えている。
蜷川式胤調査資料
いずれも東京国立博物館蔵である。
- 重要文化財 壬申検査社寺宝物図集 町田久成・内田正雄・蜷川式胤等調成 明治5年(1872)
- 東大寺献物帳(模本) 蜷川式胤写 明治8年(1875)
- 重要文化財 旧江戸城写真帖 蜷川式胤編 明治4年(1871)
参考文献
- 奈良国立博物館(2008)『正倉院展60回の歩み』奈良国立博物館
- 東京国立博物館(1981)『特別展 正倉院宝物』東京国立博物館
- 由水常雄(2006)『天皇のものさし』、麗澤大学出版会
- 奈良県(1987)『青山四方にめぐれる国 : 奈良県誕生物語』奈良県
- 和田萃,幡鎌一弘,谷山正道,山上豊,安田 次郎(2010)『奈良県の歴史』(県史29)山川出版社
by 南畝 [古代史人物団体] [コメント(0)|トラックバック(0)]
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