Bing
PVアクセスランキング にほんブログ村

古墳2023年05月09日 23:43

古墳'(こふん,Ancient Tomb)は3世紀から7世紀にかけて築造された土を高く盛り上げた墳丘をもつ古代の墓である。

概要

古墳は日本だけでなく、韓国・中国など東アジアで政治的権力をもつ者の墓として築造されていた。弥生時代に造られた大型の墳墓は、「墳丘墓」といい、古墳とは区別されている(;参考文献1)。また奈良時代の墓は「墳墓」という。天皇陵に指定されている古墳へは立ち入り制限されているため、科学的調査が行われていない。ただし、明治期に当時の政治的理由から天皇陵を早急に指定した事もあり、埋葬者が天皇ではないという可能性が高いと言われる古墳も多く存在している。

初期大王墓の継承展開

白石氏によると、大和政権初期の大王墓は、 ①箸墓古墳(3世紀後半) ②→西殿塚古墳(3世紀後半) ③→桜井茶臼山古墳(4世紀初頭) ④→メスリ山古墳(4世紀初頭) ⑤→行燈山古墳(4世紀前半) ⑥→渋谷向山古墳(4世紀後半) と継承されたと考えられている(参考文献,白石(2013))。

海外の古墳

中国や朝鮮にも古墳がある。朝鮮の新羅の慶州ではほとんどが土を盛った円墳である。

弥生時代

弥生時代には「方形周溝墓」や「円形周溝墓」が弥生時代前期(紀元前三世紀以前)に登場した。山陰地方では「四隅突出型墳丘墓」が二世紀以降に作られた。ほぼ同時期に岡山県で作られた「楯築弥生墳丘墓」は規模が大きく、全長は80mある。

纏向石塚墳丘墓は三世紀初頭の築造であるが、全長96mと規模が大きく、円形墓に突出部がついた前方後円形である。またホケノ山古墳は径56mの円丘に突出部があり、全長80mである。

古墳時代

前方後円墳が登場する三世紀半ば以降を「古墳時代」とする考えが主流とされる(参考文献1)。古墳時代は約400年間続いた。最初期の前方後円墳は「箸墓古墳」である。墓による身分の序列化が広域化した時期とされる。前方後円墳、前方後方墳円墳方墳と形と大きさにより政治的身分が表された。

前方後円墳の被葬者は地域の首長をとりまとめる大首長である。最大級の古墳は前方後円墳である。古墳時代の前半部は、魏志倭人伝に書かれているような、各地の首長(国)たちが同盟関係で結ばれた連合体であったとされる。

最後の大型前方後円墳は奈良県橿原市の五条野丸山古墳である。全長318mと奈良盆地では最大の古墳である。

交易

古墳時代の遺跡からは、弥生時代の遺跡も含め、ローマンガラスなどが見つかっており、当時として、かなりの広範囲な世界的交易が行われていたことが示唆されている。正倉院の宝物にもシルクロードを経由したイランからの招来品がリストされている。中国や韓半島からの招来品も多い。遠方からの交易を示唆す出土品は多数発掘されている。古代における人々の移動は再評価すべきであろう。

形状パターン

  1. 円墳
  2. 方墳
  3. 前方後円墳
  4. 前方後方墳
  5. 双方中円墳
  6. 双方中方墳
  7. 帆立貝式古墳
  8. 四隅突出墳
  9. 双円墳
  10. 双方墳
  11. 八角墳
  12. 六角墳
  13. 上円下方墳
  14. 長方形墳
  15. 横穴墓
  16. 地下式墓

参考文献

  1. 古谷毅監修(2017)『古墳時代 美術図鑑』平凡社
  2. 白石太一郎(2013) 『古墳からみた倭国の形成と展開(日本歴史 私の最新講義)』敬文社、pp.181-186。

春秋二倍暦説2023年05月10日 23:16

春秋二倍暦説


春秋二倍暦説 (しゅんじゅうにばいれきせつ)は日本の古代においては春夏、秋冬の半年を各々1年と数える暦とされ、現代の1年は当時は2年となっていたという説である。 「二倍年暦説」、「一年二歳暦」、「春秋暦」とも言われる。


概要
文帝に命じられて[[裴松之:裴松之]]は三国時代の歴史書『三国志』の「注」を西暦429年に作成した(裴松之注『三国志』)。その中に「魏志東夷伝倭人条」が含まれる。そこに「その俗、正歳四節を知らず。ただ春耕秋収を計って年紀と為す(其俗不知正歳四節但計春耕秋収爲年紀)」と書かれている。これは倭人は正月も知らず、四季も知らない、春に耕し、秋に収穫することで年数を数えているという意味である。これを、春の耕作と秋の収穫をそれぞれ1サイクルとして、今の半年を一年として数えていたと解釈する説である。

春秋二倍暦説への反論(その1)
これには反論がある。すなわち「魏志東夷伝倭人条」の「その俗、正歳四節を知らず。ただ春耕秋収を計って年紀と為す」の意味は「春に耕し秋に収穫することをもって(合計)一年としている」と解釈できるからである。春から秋にかけて別の年になる(改元する)とは書かれていない。したがって、春の耕作と秋の収穫が年の初めであるという解釈はできない。 半年暦、春秋二倍暦は根拠のない説となる。
別の論拠を上げる。仮に春秋二倍暦説が正しいとするならば、ある年は春夏だけ(1月から6月)の出来事だけを書き、次の年は秋冬の出来事(7月から12月)だけを記載していなければならない。しかし下記の表に示す通り、『日本書紀』の記事はそのようには書かれていないことが分かる。したがって、春秋二倍暦説は成り立たないといえる。

古代の春夏秋冬 『日本書紀』の記載から古代の四季と月とは次のように対応している。

                   
季節
1月
2月
3月
4月
5月
6月
7月
8月
9月
10月
11月
12月

春秋二倍暦説への反論(その2)
春秋二倍暦説が正しいとすれば『日本書紀』の記載には2年連続で同じ季節は現れないことになる。しかし『日本書紀』にはそのような規則性は見られない。例をあげよう。 以下のように、応神元年と応神2年の両方に春の記事がある。また応神13年と応神14年の両方に春の記事がある。また応神39年から応神41年の3年連続で春の記事がみられる。 春秋二倍暦説が正しいとすると、連続年で同じ季節は現れないから、このような記述にはならない。 2年連続または3年連続で同じ季節が現れることから、日本書紀の記述のおいて春秋二倍暦説は成立しないと考えられる。

応神紀の季節記載例

                
大王 季節
応神 1年 1月
応神 2年 3月
応神 13年 3月
応神 14年 3月
応神 39年 2月
応神 40年 1月
応神 41年 2月

応神紀のは春しか記載がないので、他の季節の記載例をみておく。そこで雄略紀を参照する。 表のように雄略4年には春と秋が同じ年に登場する。2倍歴ならあり得ない事である。
雄略紀の季節記載例                    
大王 季節
雄略 1年 31月
雄略 2年 7月
雄略 2年 10月
雄略 3年 4月
雄略 4年 2月
雄略 4年 8月
雄略 5年 2月
雄略 5年 4月
雄略 5年 7月

百濟記事との比較
応神紀に百濟記事との対応ができる記述が2か所ある。応神25年記事に百済の腆支王(日本書紀では「直支王」という)が薨去したとの記事がある。これは西暦414年である。 日本書紀の干支では294年であるからちょうど120年の違いがある。これは知られている2運の年代遡求である。また応神3年には百済の辰斯王が即位した記事がある。これは西暦で385年である。 応神3年は日本書紀の干支では272年である。百済を基準とした年数の差は113年である。 すなわち応神25年と応神3年と百済歴とは西暦で7年しかずれていない。「二倍年暦説」が正しければ、ここに44年のズレがなければならない。よって「二倍年暦説」は成立しないことは明らかである。

倭国における暦の採用
『日本書紀』に暦の文字が初めて登場するのは欽明十四年(553年)六月、暦博士を交代で来るようにとの記事である(原文:別勅「醫博士・易博士・曆博士等、宜依番上下。今上件色人、正當相代年月、宜付還使相代」)。しかし、このとき始めて倭国に渡来したとは読めないので、その前に暦博士が来ていた可能性もある。で翌年、欽明天皇十五年(554年)二月、求めに応じて百済から暦博士 固徳王保孫らが来日した(原文:別奉勅、貢易博士施德王道良・曆博士固德王保孫・醫博士奈率王有㥄陀・採藥師施德潘量豐・固德丁有陀・樂人施德三斤・季德己麻次・季德進奴・對德進陀。皆、依請代之。)。推古天皇十年(602年)十月、百済の僧観勒が来日し、暦本などを献上し陽胡史の祖玉陳が暦法を習い、大友村主高聡が天文・遁甲を習ったとされる。(『政事要略』(1002年)中の「儒伝に云う」には推古天皇十二年(604年)正月朔、始めて暦日を用いたとされるが、後代資料なので信憑性は薄い)。暦法を習ったと書かれるので、それ以前には暦法をマスターしていなかったと理解できる。 このとき百濟から伝わったのは、元嘉暦とみられる。それ以前は春耕秋収の自然の摂理によって、1年の経過は知っていた。暦法の公式の採用は持統天皇4年(690年)11月に、「勅を奉りて始めて元嘉暦と儀鳳暦とを行ふ」と書かれるところである。『三代実録』貞観三年六月条には持統四年十二月に元嘉暦を使用開始し、次いで儀鳳暦を用いたと書かれる。『日本書紀』の持統十一年八月条と『続日本紀』文武元年(持統十一年)八月条とで朔日干支が異なるのは、『書紀』が元嘉暦を採用し、『続日本紀』が儀鳳暦を採用したことの証明となっている(坂本太郎他(1994)の注)。

参考文献
1.倉西裕子(2003) 『日本書紀の真実 紀年論を解く』講談社
2.宝賀寿男(2006)『「神武東征」の原像』青垣出版
3.高城修三(2000)『紀年を解読する 古事記・日本書紀の真実』ミネルヴァ書房
4.貝田禎造(1985)『古代天皇長寿の謎 日本書紀の暦を解く』六興出版
5. 坂本太郎,井上光貞,家永三郎,大野晋(1994)『日本書紀』岩波書店

対馬国2023年05月12日 16:35

対馬国(つしまこく)は現在の対馬である。東シナ海と日本海の接続部にある対馬海峡に浮かぶ島である。

概要

魏志倭人伝に記載される国のひとつで、狗邪韓国から海を渡ったところにあるとされる。魏志倭人伝の対馬国の記述は簡潔であるが、正確な記述である。「水行」は海沿いの航路を意味し、「渡海」は広い海を渡ることを言う。大官の卑狗と副官の卑奴母離は邪馬台国から派遣された現地の指導者である。対馬国に王がいるかは記載がない。李氏朝鮮時代の『海東諸国記』の記述とほぼ同じである。 魏志倭人伝の版により対馬国の表記が異なっている。紹熙本では「對海國」、紹興本では「對馬國」とする。「魏略逸文」では「対馬国」となっている。紹熙本の表記は誤植と推測される。 対馬国は倭国の1国として登場し、邪馬台国に服属していると記される。位置は博多から120km、壱岐から70km、金海から50kmである。

大意

狗邪韓国から海を渡り千余里で対馬国に至る。その長官を卑狗(ひこ)といい、副官を卑奴母離(ひなもり)という。周囲は400里ほどの離れ小島である。土地の山は険しく、深い森林がある。道路は鳥や獣が通る道のようである。戸数は千余戸ほどである。良田は少ない、海産物を食べて自活し、船に乗って南北から米を仕入れる。(注)市糴は米などの穀物を売買することである。

原文

  • 始度一海千餘里 至對馬國 其大官曰卑狗 副曰卑奴母離 所居絶㠀 
  • 方可四百餘里 土地山險 多深林 道路如禽鹿徑 有千餘戸 無良田 
  • 食海物自活 乗船南北市糴 

弥生時代

弥生中期では浅茅湾一帯に遺跡が分布する。箱式石棺墓が多い。朝鮮半島からもたらされた青銅器が数多く出土する。また北部九州の青銅器の出土も多い。

国邑はどこか

対馬国の国邑に相当する遺跡は長い間分からなかった。しかし三根遺跡において大規模な集落遺跡が始めて発見された。三根遺跡山辺区は対馬西岸の三根湾に注ぐ三根川流域にあって、広さ約4万平方メートル。対馬市教委はこれまでに7000から8000平方メートルを発掘調査した。その結果、100以上の柱穴と、高床建物跡3,4棟分、竪穴住居跡2棟分が出土した。また弥生土器や古墳時代の三根遺跡において大規模な集落遺跡が始めて発見された。三根遺跡の山辺区は対馬西岸の三根湾に注ぐ三根川流域にあって、広さ約4万平方メートル。対馬市教委はこれまでに7000から8000平方メートルを発掘調査した。その結果、100以上の柱穴と、高床建物跡3,4棟分、竪穴住居跡2棟分が出土した。また弥生土器や古墳時代の須恵器、朝鮮系の土器などの破片1万点以上と鉄製釣り針や袋状鉄斧が出土した。弥生から古墳にかけての集落遺跡とみられている。 さらに対馬市峰町大久保の「ヌルヘノ 口 遺跡」からは弥生から古墳時代前期とみられる土器片が複数出土した。別の場所から同時代に朝鮮半島北部で作られたとみられる「 楽浪系土器」の破片1点と、朝鮮半島南部で作られたとみられる「 三韓土器」の破片1点が見つかっている(参考文献1)。

王墓

西谷氏は対馬国の王墓として、下ガヤノキ遺跡を候補に挙げている。「下ガヤノキ遺跡F地点」の箱式石棺の中から弥生後期前半の内行花文鏡2面、年代形式不明の鏡2面が出土している。これらの遺物は石棺墓の副葬品であった可能性が高いとされ、そうした場合は石棺墓が王墓と示唆される。

対馬の主要な遺跡

古墳

  • 根曽古墳群
  • 朝日山古墳
  • 出居塚古墳

参考文献

  1. 「対馬のヌルヘノ口遺跡から土器片」読売新聞、2022年11月3日
  2. 西谷正(2014)「邪馬台国周辺諸国の実像」歴史読本、KADOKAWA

塔の首遺跡2023年05月12日 16:48

塔の首遺跡(とうのくびいせき)は対馬北端の長崎県対馬市上対馬町にある弥生時代後期の墳墓群である。

概要

対馬市の上古里川の西、比田勝港の北東、西泊湾を望む岬上の丘陵の稜線上に所在する稜線上に存在する箱式石棺群である。箱式石棺内に広形銅矛を副葬することは、他の遺跡には見られない特徴である。対馬を代表する有力者の埋葬施設である。

調査

1971年長崎県教育委員会の委嘱で上対馬町教育委員会・長崎県教育委員会・別府大学・長崎大学・九州大学による調査が行われた。第1号石棺はすでに大部分が消滅していた。 第2号石棺は箱式石棺で厚い砂岩板石で築いている。内法で長さ1.5m、北幅0.45m、南幅03mである。 第3号石棺は、砂岩の板石材を多用し、両側壁に銅釧7(左腕4、右腕3)のほか、広鋒銅鉾6が分けて置かれ、別に頭部に土器1、多数のガラス製小玉管玉が副葬されており広鋒銅鉾は時期確定の資料となった。広形銅矛が弥生後期前半には出現していたこと、対馬では広形銅矛を副葬する場合もあったこと、さらに弥生土器と朝鮮半島系土器との年代比較が可能になったことなど、注目すべき重要な副葬品である。敷石を配して整美な形態をとる。 第4号石棺は、最高所にある箱式石棺である。稜線に直交し、内法の長さ1.95m、幅0.45mである。

遺構

箱式石棺墓5基が確認されている。2,3,4号の石棺墓以外はほとんどが破壊されている。

出土遺物

九州大学に保管されている。朝鮮半島系の遺物と、北九州系の遺物が共伴して出土する。

第2号石棺

  • 銅釧1 - 正円に近い径7.3cm、幅0.7cm
  • 水晶棗玉1
  • ガラス玉1400点以上
  • 土器3(足元に副葬)
    • 灰白色の硬い焼きの楽浪・帯方郡系陶質の把手付壺1点
    • 小型甕 1点
    • 赤焼土器 1点

第3号石棺

  • 銅釧 - 楽浪郡の製品、左腕4点、右腕3点
  • 広形銅矛2点 – 奴国産
  • 小壺 – 頭部
  • ガラス製小玉 8000点以上
  • 管玉
  • 歯冠 7点、20歳代女性を埋葬か。
  • 銅矛 – 第1号は長さ89.1cmと長大、第2号は83.8cm。奴国産か。

第4号箱式石棺墓 – 板石組、内法で長さ1.95m、幅0.45m。

  • 方格規矩鏡 1面
  • 鉄斧 1点
  • ガラス製小玉
  • 土器 - 弥生後期前半から中頃のもの、軟質の漢式土器を伴う。

第5号箱式石棺墓

  • 大型壺 1点 -弥生時代後期後半のもの

指定

  • 1977年に国指定史跡に指定。

アクセス等

  • 名称: 塔の首遺跡
  • 所在地:長崎県対馬市上対馬町古里
  • 交通: 対馬空港から車で約2時間10分/比田勝港から徒歩約5分。

参考文献

  1. 大塚初重(1995)「日本古代遺跡辞典」吉川弘文館

ガヤノキ遺跡2023年05月12日 19:51

ガヤノキ遺跡(がやのきいせき)は長崎県対馬市峰町にある弥生時代から古墳時代にかけての遺跡である。現在は「下ガヤノキ遺跡」という。

概要

対馬市三根集落の中心部に位置しており、その存在は古くから知られていた。三根には弥生時代中期から後期にかけて墳墓遺跡が多く、当時の対馬の中心地と言われる。 遺跡は箱式石棺と積石塚からなる。出土遺物は金属器を中心として多彩であり、弥生時代から古墳時代にかけての対馬の墳墓の特徴がみられる。 時期は弥生時代の中期後半から古墳時代後期に及び、墳墓(6基)や埋納遺構(2基)の合計8遺構が確認されている。北部九州の弥生土器と、伽耶系の金海式土器(漢式土器)が共伴するのが対馬の特徴である。現在、長崎県立美術博物館に所蔵される広形銅戈は1927年(昭和2年)道路開発に伴い中広銅矛とともに発見された。

調査

  • 1932年(昭和7年)、中山平次郎氏による調査、
  • 1948年(昭和23年)、東亜考古学会による調査
  • 1994年(平成6年)、九州大学考古学研究室による調査

遺物

1994年(平成六年)丘陵の南麓で石棺が発掘された。

  • 弥生土器(甕)
  • 漢式土器
  • 前漢鏡
  • 鉄剣
  • 鉄刀
  • 鉄斧
  • 鍔(つば)形銅器・
  • 金銅釧(くしろ)・
  • 碧玉製の管玉・土器
  • 中広形銅矛・
  • 銅剣・
  • 石剣
  • 銅戈
  • 管玉
  • ガラス小玉・

アクセス等

  • 名称:ガヤノキ遺跡
  • 所在地:対馬市峰町三根ガヤノキ
  • 交通:

参考文献

石上神宮2023年05月12日 20:19

石上神宮(いそのかみじんぐう)は奈良県天理市にある神社である。

概要

日本最古の神社の一つとされる。物部氏の総氏神である。 崇神天皇7年、勅命により物部氏の祖 伊香色雄命が、石上布留高庭(現在地)に武甕雷神(たけみかづちのかみ)を祀り、石上大神と称えたのが創建とされる。日本書紀崇神7年8月に伊香色雄命を神班物者とする記事がある。物部の八十平瓮を祭神としたところ国内の疫病が収まったという。我が国の霊剣は草薙剣を除いて当宮に祀られることになっている。

祭神

  • 布都御魂大神:神剣「韴霊(ふつのみたま)」に宿る霊威を称え布都御魂大神という。佐土(さじ)布都神とも いい、神代に武甕雷神がおびていた霊剣であり、平国之剣(くにむけのたち)ともいわれる。天璽十種瑞宝(あまつしるしとくさのみづのたから)に宿る霊威を称えるとも言われる。天璽十種瑞宝は、饒速日命が天津神から授けられた十種の神宝をいう。

宝物

  • 七支刀
    • 国宝。古代の遺品で、社伝では「六叉鉾」 と称されていた。現在は刀身に記された銘文により「七支刀」と称する。『日本書紀』に百済から献上された「七枝刀」と考えられている。
  • 鉄盾
    • 重要文化財。神庫に「日の御盾」と称して収蔵されてきた伝世品で、2面ある。1面は東京国立博物館に委託されている。製作年代は、5世紀後半と推定される。
  • 色々威腹巻
    • 重要文化財。腹巻は行動性を重視した形式の甲で、当神宮のものは白・紫・紅・萌黄という鮮やかな色の糸でつづり合わせている。足利尊氏が奉納したものと伝えられる。奈良国立博物館に委託されている。
  • 硬玉勾玉
    • 重要文化財。濃緑または淡緑の翡翠を加工した勾玉で合計11個. 古墳時代前期の副葬品に見られる勾玉と類似する。
  • 碧玉管玉
    • 重要文化財。合計で293個。古墳時代前期。
  • 琴柱形石製品
    • 重要文化財。
  • 弧状管玉
    • 重要文化財。乳灰色の硬玉で作られた弦月状の管玉
  • 硬玉棗玉
    • 重要文化財。軟玉製で、合計で9個あり、紋様の有無・緑色の濃淡など多様。
  • 環頭大刀柄頭
    • 重要文化財。環形の装飾をした大刀の柄頭
  • 銅鏃
    • 重要文化財。古式の柳葉形のやじりで、長さは7.2cm、良質の白銅製。
  • 銅境
    • 重要文化財。草花文鏡と萩菊双雀鏡の2面。作されたのは平安時代後期と推定
  • 金銅垂飾品
    • 2個の環を直角に組み合わせてその上に小さな環をとりつけたもの。長さ4.6cm、
  • 金銅鐶
    • 重要文化財。銅製を鍍金したものが2個、銅製を鍍銀したものが1個の計3個。

建築

  • 拝殿
    • 国宝。拝殿としては現存最古。建築様式は鎌倉時代初期の建立。白河天皇が、当神宮の鎮魂祭のために、永保元年(1081年)に宮中の神嘉殿を寄進したとされる。入母屋造、檜皮葺。
  • 本殿
    • 明治43年から大正2年にかけて神剣「韴霊」を奉安するために本殿を建立する。
  • 楼門
    • 重要文化財。鎌倉時代末期、第96代後醍醐天皇、文保2年(1318年)に建立されたと伝わる。
  • 摂社 出雲建雄神社拝殿
    • 国宝。元は内山永久寺の鎮守の住吉社の拝殿を大正3年に現在地に移築。内山永久寺は鳥羽天皇の永久年間(1113~18)に創建された大寺院。
  • 神庫
    • 禁足地の南西の隅に建っている二戸前の校倉造の建物。現在の神庫は嘉永4年(1851)に再建されたもの。

アクセス等

  • 名称:石上神宮
  • 拝観料:無料
  • 拝観時間:御門内での参拝は日の出より日没まで
  • 所在地:〒632-0014 天理市布留町384
  • 交通:JR天理駅より天理市コミュニティバス「いちょう号」(東部線)下山田系統 「石上神宮前」バス停下車、徒歩10分

参考文献

国宝2023年05月12日 21:19

国宝(こくほう,National Treasures/National heritage)は日本国内にある建造物、美術工芸品、文書などの文化財のうち、世界文化から見て価値が高く、類まれな日本国民の宝として国が指定したものをいう。

概要

日本の制度

1950年以前は古社寺保存法および国宝保存法によって指定されていた(旧国宝)。1950年(昭和25年)8月施行の「文化財保護法」(昭和25年5月30日法律第214号)により規定されるのが現行の国宝(新国宝)である。 国宝は重要文化財の1種である。旧国宝はいったん重要文化財と見なし、その中からより価値の高い文化財を選んで、改めて国宝として指定した。

国宝の指定

(文化財保護法第27条1項により、文部科学大臣は、有形文化財のうち重要なものを重要文化財に指定することができる。さらに重要文化財のうち、世界文化の見地から価値の高いもので、たぐいない国民の宝たるものを国宝に指定することができる(文化財保護法第27条2項)。国宝の指定は文化審議会の文化財分科会の審議・議決答申を受けて文部科学大臣が指定し(文化財保護法第153条)、官報に告示される(文化財保護法第28条)。

国宝の指定件数

2022年(令和4年)2月1日現在で国宝は1,130件である。 国宝指定の内訳

国宝の指定解除

国宝が「価値を失つた場合その他特殊の事由がある」ときは、国宝の指定を解除できることとされている(文化財保護法第29条第1項)。しかし国宝(新国宝)に指定された物件のうち、重要文化財に「格下げ」された例は1件もない。

修理勧告・命令

文化庁長官は、国宝がき損している場合、保存のため必要があると認めるときは、所有者又は管理団体に対し、修理に関して命令又は勧告ができる(文化財保護法第37条第1項)。勧告または命令によって修理を行うときは、全部又は一部を国庫負担とすることができる(文化財保護法第37条第3項)。命令に従わない時は、国が自ら修理を行い、又は滅失、き損若しくは盗難の防止の措置取ることが出来、修理又は措置をおこなう管理者を文化庁職員の中から任命する。

売却の申し出

国宝を含む重要文化財を有償で譲渡しようとする者は、譲渡の相手方、予定対価の額等書面で、文化庁長官に国に対する売渡しの申出をしなければならない。

輸出の禁止

法的には、国宝は重要文化財の一種である。保存や修繕に関する国の補助金は重要文化財と変わらない。国宝・重要文化財指定物件及び重要美術品等認定物件は,文化財保護法及び関係法令により,原則として海外への輸出(持ち出し)は禁止されている(文化竿保護法第44条)。

古美術品輸出鑑査証明

貴重な国民の財産である文化財が誤って海外に流出することを防ぐため,古美術品を海外に輸出しようとする際には,古美術品輸出鑑査証明を受ける。輸出鑑査証明の有効期間は一年である。

+海外の国宝制度

文化財の輸出規制はフランス、イタリア、中国、韓国などで規定があり、輸出を原則禁止している。その対象は,フランスは「国宝」及び歴史的記念物に指定された文化財,イタリアでは「文化的動産」や法律上特定された文化財,中国では「貴重な文化財等」である。いずれの国も例外規定として展覧会などの特別な目的に限って一時的な持ち出しを認めている。

韓国の国宝

大韓民国の文化遺産保護制度の一つ。大韓民国文化財保護法によって定められた文化財を指す。1962年に文化財保護法が制定され、1962年12月20日に116点の文化財が「大韓民国指定国宝」(대한민국의 국보)に指定された。その後、順次、新たな文化財が追加指定された。 朝鮮総督府において当時、朝鮮の文化財の中に保存する価値があると選定したものに、連続番号を付与し、朝鮮の宝物、古跡、名勝、天然記念物などを指定して管理を開始したことが始まりである。 指定番号1番はソウル崇礼門(ソウル崇禮門)である。

英国

英国のNational heritageは国家的に重要であるとして政府機関によって登録された遺産である文化財である。400のモニュメントや建造物が登録されている。ストーンヘンジのような考古学遺跡から、アイアンブリッジなどの産業遺産に至る広範囲にわたる建造物を扱っている。 National Treasuresは英国では、女優のJudi Denchやコメディアン・小説家のStephen Fryを指すようだ。英国にはNational Treasuresという題のTVドラマがあった。

フランス

歴史的記念物に関する法律

第14条【指定動産物】(抄) 1.本来の意味での動産(meubles)であれ,不動産定着物(immeubles par destination)であれ,動産物(objets mobiliers)は,その保存が歴史的,芸術的,科学的,又は技術的観点から見て公益性を有するならば,省令(arrêté ministériel)によって指定することができる。 第15条【指定手続】(抄) 1.動産物の指定は,その動産物が国家,県,市町村,又は公共施設に属する場合は文化担当の国務大臣(ministre d’Etat)の行政決定(arrêté)によってなされる。指定は関係者(intéressés)に通知される。

流通制限を受ける製品及び警察・憲兵・税関の業務補完性に関する法律

公共及びフランスの博物館のコレクションに属する財物、並びに歴史的、芸術的又は考古学的観点から国家遺産にとって重大な価値を有する他の財物同様に、記念物に関する法律又は古文書に関する法律を適用して登録された財物は、国宝と看做される。