Bing

古墳2023年05月09日 23:43

古墳'(こふん,Ancient Tomb)は3世紀から7世紀にかけて築造された土を高く盛り上げた墳丘をもつ古代の墓である。

概要

古墳は日本だけでなく、韓国・中国など東アジアで政治的権力をもつ者の墓として築造されていた。弥生時代に造られた大型の墳墓は、「墳丘墓」といい、古墳とは区別されている(;参考文献1)。また奈良時代の墓は「墳墓」という。天皇陵に指定されている古墳へは立ち入り制限されているため、科学的調査が行われていない。ただし、明治期に当時の政治的理由から天皇陵を早急に指定した事もあり、埋葬者が天皇ではないという可能性が高いと言われる古墳も多く存在している。

初期大王墓の継承展開

白石氏によると、大和政権初期の大王墓は、 ①箸墓古墳(3世紀後半) ②→西殿塚古墳(3世紀後半) ③→桜井茶臼山古墳(4世紀初頭) ④→メスリ山古墳(4世紀初頭) ⑤→行燈山古墳(4世紀前半) ⑥→渋谷向山古墳(4世紀後半) と継承されたと考えられている(参考文献,白石(2013))。

海外の古墳

中国や朝鮮にも古墳がある。朝鮮の新羅の慶州ではほとんどが土を盛った円墳である。

弥生時代

弥生時代には「方形周溝墓」や「円形周溝墓」が弥生時代前期(紀元前三世紀以前)に登場した。山陰地方では「四隅突出型墳丘墓」が二世紀以降に作られた。ほぼ同時期に岡山県で作られた「楯築弥生墳丘墓」は規模が大きく、全長は80mある。

纏向石塚墳丘墓は三世紀初頭の築造であるが、全長96mと規模が大きく、円形墓に突出部がついた前方後円形である。またホケノ山古墳は径56mの円丘に突出部があり、全長80mである。

古墳時代

前方後円墳が登場する三世紀半ば以降を「古墳時代」とする考えが主流とされる(参考文献1)。古墳時代は約400年間続いた。最初期の前方後円墳は「箸墓古墳」である。墓による身分の序列化が広域化した時期とされる。前方後円墳、前方後方墳円墳方墳と形と大きさにより政治的身分が表された。

前方後円墳の被葬者は地域の首長をとりまとめる大首長である。最大級の古墳は前方後円墳である。古墳時代の前半部は、魏志倭人伝に書かれているような、各地の首長(国)たちが同盟関係で結ばれた連合体であったとされる。

最後の大型前方後円墳は奈良県橿原市の五条野丸山古墳である。全長318mと奈良盆地では最大の古墳である。

交易

古墳時代の遺跡からは、弥生時代の遺跡も含め、ローマンガラスなどが見つかっており、当時として、かなりの広範囲な世界的交易が行われていたことが示唆されている。正倉院の宝物にもシルクロードを経由したイランからの招来品がリストされている。中国や韓半島からの招来品も多い。遠方からの交易を示唆す出土品は多数発掘されている。古代における人々の移動は再評価すべきであろう。

形状パターン

  1. 円墳
  2. 方墳
  3. 前方後円墳
  4. 前方後方墳
  5. 双方中円墳
  6. 双方中方墳
  7. 帆立貝式古墳
  8. 四隅突出墳
  9. 双円墳
  10. 双方墳
  11. 八角墳
  12. 六角墳
  13. 上円下方墳
  14. 長方形墳
  15. 横穴墓
  16. 地下式墓

参考文献

  1. 古谷毅監修(2017)『古墳時代 美術図鑑』平凡社
  2. 白石太一郎(2013) 『古墳からみた倭国の形成と展開(日本歴史 私の最新講義)』敬文社、pp.181-186。

聖徳太子2023年05月09日 23:48

''聖徳太子'(しょうとくたいし,574年-622年)は飛鳥時代皇親とされる。

概要

 「聖徳太子」は後世の尊称であり、日本書紀・古事記には「聖徳太子」とは書かれない。

史料では「廐戸皇子」「豐聰耳聖徳」「豐聰耳法大王」「法主王」(ここまで「書紀」)、「厩戸豊聡耳聖徳法王」「聖王」「「厩戸豊聡耳命」「上宮王」「東宮聖徳王」「上宮聖徳法王」(ここまで「帝説」)と書かれる。古事記には「上宮之厩戸豐聰耳命」と書かれる。 聖徳太子には様々な「謎」がある。

事績

文献において「廐戸皇子」に以下の事跡が挙げられている。

  • 物部守屋との戦いで神仏に請願し勝利した(史料4)。
  • 四天王寺を建立した。(史料4)
  • 冠位十二階を制定した。(史料10)
  • 十七条憲法を作成した。
  • 遣隋使を中国に派遣した。
  • 『天皇記』『国記』などの史書を編纂した。
  • 『三経義疏』を執筆した。

聖徳太子架空論

そこで聖徳太子には実在論と非実在論とがある。非実在論では「聖徳太子」は後世の創作との見解であるが、非実在論においても「廐戸皇子」は実在したとみている。 どこまでが後世の創作であり、どこまでが実在した「廐戸皇子」の事跡かを吟味する必要がある。

聖徳太子の誕生

574年(敏達3年)、父・用明天皇(橘豊日天皇)と母・穴穂部間人女王との間に生まれた(史料1、史料3、史料4)とされる。父母については、『日本書紀』と『上宮聖徳法王帝説』とで一致する。母・穴穂部間人女王は父の異母妹である。 生年は史料2に記載される。日本書紀に生年の記載はないが、上宮聖徳法王帝説記載の甲午年とすれば、敏達3年(甲午年)の574年となる。

「聖徳太子」名の疑問

坂本(1979)は「廐戸」を実名とみる。当時は、①生まれた土地、②ゆかりある人物、③乳母の氏名などからつける慣習であっとする(坂本(1979))。坂本は『上宮太子拾遺記』(鎌倉時代、僧法空)に「橘寺東南の辺り相承田地の文書に、今に廐戸の号あり」から生誕地から名がついたと考えるほかない、とする(坂本(1979))。

官位十二階

日本書紀603年に官位十二階(史料10)制度の創設が書かれる。その順は、「大德・小德・大仁・小仁・大禮・小禮・大信・小信・大義・小義・大智・小智」である。一方、隋書倭国伝600年の条に「大徳・小徳・大仁・小仁・大義・小義・大禮・小禮・大智・小智・大信・小信」の順で記載されている。大禮・小禮と大義・小義の順が入れ替わっている。大信・小信を倭国では上位に置いた。 順番が違う理由は、中国では徳を最初に置いて、以下は仁・義・礼・智・信の「五常の徳目」に合わせたと思われる。 当時は隋書倭国伝であったものを日本書紀編纂の段階で入れ変えた可能性がある。 冠位の制は、百済の官位制を中心として高句麗の制を参照してつくられたとする見解が有力であり、厩戸皇子の独創とする旧説は誤りとされる。理由は冠の授与者は、643年(皇極2)蘇我蝦夷がその子の蘇我入鹿に紫冠を授けたとの記事があり蘇我氏は授与者の側に立っていた。

聖徳太子非実在論

非実在論の提唱者は大山誠一である。その根拠は聖徳太子の確実な存在を示す史料が皆無であるというものである。すなわち大山誠一は厩戸王は存在したが、冠位十二階と遣隋使派遣の2つ以外の事跡は全くの虚構であるとした。

憲法十七条

津田左右吉は、憲法十七条の内容は次の点で推古12年にはふさわしくないと主張した。

  1. 国司はこの時代に存在しない。7世紀末頃以降であろう。
  2. 中央集権制度・官僚制度の政治理念は大化の改新以降のものである。
  3. 憲法十七条に中国古典の引用が多い。
  4. 一般の官人はまだ文字を使用していなかった。(識字率の問題)
  5. 当時の倭国の知識水準とはかけ離れた記述になっている。
  • 憲法十七条には数十種類の中国の古典が引用されている。具体的には『礼記』『詩経』『論語』『孟子』『文選』などである。記述のスタイルは奈良時代の『日本書紀』や『続日本紀』の表現に似ている。例として第一条の「以和為貴」は『礼記』儒行編の「礼之以和為貴」あるいは『論語』学而編の「礼之用和為貴」を踏まえて書かれている。
  • 『隋書』「倭国伝」の記事は、600年を第1回とする数回の遣隋使がもたらした情報に基づいており、当時の日本の様子をよく伝えている。それによれば、文字や記録は日常的な政治の場では、まだ使用されておらず、当時の日本の為政者は中国思想の理解はほとんどなかった。そうすると推古12年(604年)の内容ではないとする。

上宮記

三経義疏

大山は特に『勝鬘経義疏』について藤枝晃の研究を重視する。中国北朝から隋代に至る勝鬘経に注釈書10点の中で敦煌出土の『勝鬘経義疏本義』と聖徳太子撰の『勝鬘経義疏』とは7割が同文であるとされ、同系統の注釈書であった。聖徳太子撰の『勝鬘経義疏』は中国北朝の成立と判断された。また『法華経義疏』と『維摩教義疏』は隋代から初唐段階の成立とする研究がある。三経義疏が中国で編纂されたものである。761年(;;天平宝字5年)の『東院資材帳』には『法華経義疏』について「律師行信覓求奉納者」と書かれる。行信は聖徳太子遺愛の品として宝物を法隆寺に献納しており、『法華経義疏』はそのひとつであった。 三経義疏は718年(;養老2年)の道慈や735年(;天平7年)の玄昉が持ち込んだ可能性があるとした(大山誠一(1999))。

元興寺露盤銘

天寿国繡帳

聖徳太子の死後まもなく多至波奈大郎女が推古大王に依頼して刺繍にしてもらって製作されたのが天寿国繡帳とされていた。しかし推古朝で製作されたとするには、次の疑問点がある。すなわち天寿国繡帳は奈良時代以降の製作と大山ははみる(大山誠一(2005))。

  • 当時においてまだ使われていない天皇号が使われている。
    • 「斯帰斯麻宮治天下天皇」「しきしまのすめらみこと」=欽明天皇)
  • 和風諡号が使われている。
    • 「阿米久爾意斯波留支比里爾波乃弥己等」(あめくにおしはるきひろにわのみこと、天国排開広庭天皇=欽明天皇)。古事記、日本書紀以前の使用例がない。
  • 儀鳳暦が使用されている。
  • 儀鳳暦は690年(持統4年)から採用された暦である。穴穂部間人女王の亡くなった日付の干支を「歳在辛巳十二月廿一癸酉」とし、太子の没年月日は「明年<壬午>二月廿二日甲戌」と記される。これは儀鳳暦により記されている(金沢英之(2001))。
    • 法隆寺資材帳に記載されていない
    • 747年(天平19年)の法隆寺資材帳には天寿国繡帳が記載されていない。したがってそれ以降の製作と見られる。

四天王寺

『日本書紀』には推古元年(593年)に四天王寺の造立が開始されたと書かれる(史料9)。 大山は「四天王寺は摂津の渡来系の豪族・難波吉士の氏寺で、建立年代は考古学的には650年頃とされており、本来の寺名は荒陵寺(あらはかでら)であり、四天王寺の名称は早くとも天武朝以降である」としている(大山誠一(1999))。難波の四天王寺は当初、玉造の東の岸に作られたとされる。玉造は現在の大阪城付近とされるが、寺域は未確認である。推古31年に新羅から贈られた舎利、金塔、觀頂幡などを四天王寺に収めたとする記事がある(史料9)。

聖徳太子実在論

反論は何名かの研究者が行っているが、田中英道の研究がある。しかし、あまり緻密な反論ではない。

憲法十七条

田中英道はそのまま飛鳥時代の文書そのままではないが、その存在を虚構ととらえることができないとする。苦しい反論といえる(田中英道(2004))。

三経義疏

田中英道は『勝鬘経義疏』の原本は6世紀半ばのものを取っていること、中国で作られたにしては漢文の誤りが多いため結論はでていないとする(田中英道(2004))。田中英道は法隆寺から宮内庁に渡った『法華義疏』は多くの学者により聖徳太子自筆とされており、書体・文体とも7世紀のものとする(田中英道(2004))。

天寿国繡帳

天寿国繡帳の縫い糸は、赤・黄・緑・淡縹・紺・白からなり、縫い糸の剥落はほとんど見られない。強い撚糸と豊富な配色の手法は6,7世紀の金鈴塚古墳出土の糸、法隆寺献納宝物の「幡垂飾」「繡仏」などの古い染織品と共通する。「返し縫い」の手法は飛鳥時代の染色の特色があると田中英道は主張する(大橋一章(1995))。飛鳥時代は高麗尺が使われたが、それは1尺35.5cmであり、天寿国繡帳の上下幅と一致する(田中英道(2004))。天寿国繡帳の鐘撞堂に袴の上に褶(ひらみ)をつけており、これは隋や唐の壁画ではなくなる。よって飛鳥時代以前のものであるとする(同前)。 しかし、天寿国繡帳の寸法は縦88.8cm、横82.7cmとされるので、主張とは合わない。

四天王寺

四天王寺は最初から現在地(難波)であったとの説と3km北の玉造村から後の時代に移転したとの説(聖徳太子伝暦)がある。難波で発掘調査があり、伽藍配置は南大門、中門、五重塔、金堂、講堂が直線状にならぶ四天王寺式であったとされる。 ただ瓦の製造造営開始)は620年ころのものと判明している。「廐戸皇子」が亡くなる直前であるため、日本書紀の記載とは合わないことになる。


史料1

  • 「日本書紀」巻第廿一 用明元年元年春正月
  • (大意) 用明元年1月、穴穗部間人皇女を皇后とし、4人の男子が生まれた。長男は廐戸皇子という、またの名を豐耳聰聖德、あるいは豐聰耳法大王、法主王という。
  • (原文) 元年春正月壬子朔、立穴穗部間人皇女爲皇后、是生四男、其一曰廐戸皇子更名豐耳聰聖德、或名豐聰耳法大王、或云法主王

史料2

  • 上宮聖徳法王帝説(帝説)
  • 上宮聖徳法王、又法主王という。甲午年に産まれ、壬午年二月二十ニ日に薨逝する也。(まれて四十九年。小治田宮に東宮となる也。墓は川内志奈我岡也)

史料3

  • 橘豊日命(用明)は間人穴太部王(穴穂部間人皇女)を皇后とし、上宮之厩戸豐聰耳命を産んだ、
  • (原文) 又娶庶妹間人穴太部王、生御子、上宮之厩戸豐聰耳命、次久米王、次植栗王、次茨田王。

史料4

  • 上宮聖徳法王帝説(帝説)
  • 伊波礼池辺双槻宮に天の下治ろしめしし橘豊日天皇、庶妹、穴穂部間人王を娶りて大后となし生める児、厩戸豊聡耳聖徳法王。

史料5

  • 日本書紀 第廿一 用明2年秋七月、(書紀)
  • (大意)587年、蘇我馬子諸皇子・群臣とともには物部守屋を攻めたが、守屋木の上から矢を射たので苦戦した。厩戸皇子は「このままでは負ける」として木を切って四天王像を作って頭に乗せ、勝ったら護世四王を立て塔を建てると祈願した。蘇我馬子も戦勝すれば寺を建て三宝を伝える」と請願した。加護によって物部守屋を打ち破ることができたとして、摂津国に四天王寺を建て、蘇我馬子は飛鳥に法興寺を建てた。
  • (;原文) 是時、廐戸皇子、束髮於額古俗、年少兒年十五六間束髮於額。十七八間分爲角子、今亦爲之而隨軍後、自忖度曰「將無見敗、非願難成。」乃斮取白膠木、疾作四天王像、置於頂髮而發誓言白膠木、此云農利泥「今若使我勝敵、必當奉爲護世四王起立寺塔。」蘇我馬子大臣、又發誓言「凡諸天王・大神王等、助衞於我使獲利益、願當奉爲諸天與大神王、起立寺塔流通三寶。」誓已嚴種種兵、而進討伐。爰有迹見首赤檮、射墮大連於枝下而誅大連幷其子等。由是、大連之軍忽然自敗、合軍悉被皁衣、馳獵廣瀬勾原而散之。是役、大連兒息與眷屬、或有逃匿葦原改姓換名者、或有逃亡不知所向者。時人相謂曰「蘇我大臣之妻、是物部守屋大連之妹也。大臣妄用妻計而殺大連矣。」平亂之後、於攝津國造四天王寺。分大連奴半與宅、爲大寺奴田庄。以田一萬頃、賜迹見首赤檮。蘇我大臣、亦依本願、於飛鳥地起法興寺。

史料6

  • 「日本書紀」巻第廿二 推古元年春(書紀)
    • (大意)
    • (原文)元年春正月壬寅朔丙辰、以佛舍利置于法興寺刹柱礎中、丁巳建刹柱。夏四月庚午朔己卯、立厩戸豐聰耳皇子爲皇太子、仍錄攝政、以萬機悉委焉。橘豐日天皇第二子也、母皇后曰穴穗部間人皇女。皇后、懷姙開胎之日、巡行禁中監察諸司、至于馬官、乃當廐戸而不勞忽産之。生而能言、有聖智。及壯、一聞十人訴以勿失能辨、兼知未然。且習內教於高麗僧慧慈、學外典於博士覺哿、並悉達矣。父天皇愛之令居宮南上殿、故稱其名謂上宮廐戸豐聰耳太子。

史料7

  • 「日本書紀」巻第廿二 推古元年夏四月(書紀)
    • (;原文)夏四月庚午朔己卯、立厩戸豐聰耳皇子爲皇太子、仍錄攝政、以萬機悉委焉。橘豐日天皇第二子也、母皇后曰穴穗部間人皇女。皇后、懷姙開胎之日、巡行禁中監察諸司、至于馬官、乃當廐戸而不勞忽産之。生而能言、有聖智。及壯、一聞十人訴以勿失能辨、兼知未然。且習內教於高麗僧慧慈、學外典於博士覺哿、並悉達矣。父天皇愛之令居宮南上殿、故稱其名謂上宮廐戸豐聰耳太子。

史料8

  • 上宮聖徳法王帝説(帝説)

史料9 四天王寺

  • 「日本書紀」日本書紀巻第廿二 推古元年秋九月(書紀)
    • (;大意)推古元年9月、四天王寺を難波に造立開始した。
    • (;原文) 秋九月、改葬橘豐日天皇於河內磯長陵。是歲、始造四天王寺於難波荒陵。是年也、太歲癸丑。
  • 「日本書紀」日本書紀巻第廿二 孝德四年二月壬子朔
    • (;大意)阿部内麻呂は四天王寺に仏像四駆を迎え、靈鷲山に象を祀った。
    • (;原文)阿倍大臣、請四衆於四天王寺迎佛像四軀、使坐于塔內、造靈鷲山像、累積鼓爲之。
  • 「日本書紀」日本書紀巻第廿二 推古卅一年秋七月
    • (;原文)卅一年秋七月、新羅遣大使奈末智洗爾、任那遣達率奈末智、並來朝。仍貢佛像一具及金塔幷舍利、且大觀頂幡一具・小幡十二條。卽佛像居於葛野秦寺、以餘舍利金塔觀頂幡等皆納于四天王寺。

史料10 官位十二階

  • 「日本書紀」日本書紀巻第廿二 推古十一年十二月戊辰朔壬申
    • (大意)603年、初めて官位制を作った。大德・小德・大仁・小仁・大禮・小禮・大信・小信・大義・小義・大智・小智の十二階で、官位ごとに決まった色の絁を縫い付けた。翌年、正月に官位を授けた。
    • (原文)十二月戊辰朔壬申、始行冠位。大德・小德・大仁・小仁・大禮・小禮・大信・小信・大義・小義・大智・小智、幷十二階。並以當色絁縫之、頂撮總如囊而着緣焉。唯、元日着髻花。十二年春正月戊戌朔、始賜冠位於諸臣、各有差。

史料11 隋書倭国伝

  • (大意)官に12階の序列がある。大徳・小徳・大仁・小仁・大義・小義・大禮・小禮・大智・小智・大信・小信の順である。定員はない。
  • (原文)内官有十二等一曰大徳次小徳次大仁次小仁次大義次小義次大禮次小禮次大智次小智次大信次小信員無定數

参考文献

  1. 坂本太郎,井上光貞,家永三郎,大野晋 (1994)『日本書紀』岩波書店
  2. 東野治之校注(2013) 『上宮聖徳法王帝説』岩波書店
  3. 坂本太郎(1979)『聖徳太子』吉川弘文館
  4. 金沢英之(2001)『天寿国繍帳銘の成立年代について--儀鳳暦による計算結果から』国語と国文学78 (11),東京大学国語国文学会編,pp.33-42
  5. 大山誠一(2005)『聖徳太子と日本人』角川書店
  6. 大山誠一(1999)『聖徳太子の誕生』吉川弘文館
  7. 大山誠一編(;2014)『聖徳太子の真実』平凡社
  8. 藤枝晃(1976)「勝鬘経義疏 解説」『日本思想大系 2』岩波書店
  9. 石原道博編訳(1985))『新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝』〈中国正史日本伝(1)〉岩波書店
  10. 田中英道(2004)『聖徳太子虚構説を排す』PHP研究所
  11. 大橋一章(1995)『天寿国繡帳の研究』吉川弘文館

春秋二倍暦説2023年05月10日 23:16

春秋二倍暦説


春秋二倍暦説 (しゅんじゅうにばいれきせつ)は日本の古代においては春夏、秋冬の半年を各々1年と数える暦とされ、現代の1年は当時は2年となっていたという説である。 「二倍年暦説」、「一年二歳暦」、「春秋暦」とも言われる。


概要
文帝に命じられて[[裴松之:裴松之]]は三国時代の歴史書『三国志』の「注」を西暦429年に作成した(裴松之注『三国志』)。その中に「魏志東夷伝倭人条」が含まれる。そこに「その俗、正歳四節を知らず。ただ春耕秋収を計って年紀と為す(其俗不知正歳四節但計春耕秋収爲年紀)」と書かれている。これは倭人は正月も知らず、四季も知らない、春に耕し、秋に収穫することで年数を数えているという意味である。これを、春の耕作と秋の収穫をそれぞれ1サイクルとして、今の半年を一年として数えていたと解釈する説である。

春秋二倍暦説への反論(その1)
これには反論がある。すなわち「魏志東夷伝倭人条」の「その俗、正歳四節を知らず。ただ春耕秋収を計って年紀と為す」の意味は「春に耕し秋に収穫することをもって(合計)一年としている」と解釈できるからである。春から秋にかけて別の年になる(改元する)とは書かれていない。したがって、春の耕作と秋の収穫が年の初めであるという解釈はできない。 半年暦、春秋二倍暦は根拠のない説となる。
別の論拠を上げる。仮に春秋二倍暦説が正しいとするならば、ある年は春夏だけ(1月から6月)の出来事だけを書き、次の年は秋冬の出来事(7月から12月)だけを記載していなければならない。しかし下記の表に示す通り、『日本書紀』の記事はそのようには書かれていないことが分かる。したがって、春秋二倍暦説は成り立たないといえる。

古代の春夏秋冬 『日本書紀』の記載から古代の四季と月とは次のように対応している。

                   
季節
1月
2月
3月
4月
5月
6月
7月
8月
9月
10月
11月
12月

春秋二倍暦説への反論(その2)
春秋二倍暦説が正しいとすれば『日本書紀』の記載には2年連続で同じ季節は現れないことになる。しかし『日本書紀』にはそのような規則性は見られない。例をあげよう。 以下のように、応神元年と応神2年の両方に春の記事がある。また応神13年と応神14年の両方に春の記事がある。また応神39年から応神41年の3年連続で春の記事がみられる。 春秋二倍暦説が正しいとすると、連続年で同じ季節は現れないから、このような記述にはならない。 2年連続または3年連続で同じ季節が現れることから、日本書紀の記述のおいて春秋二倍暦説は成立しないと考えられる。

応神紀の季節記載例

                
大王 季節
応神 1年 1月
応神 2年 3月
応神 13年 3月
応神 14年 3月
応神 39年 2月
応神 40年 1月
応神 41年 2月

応神紀のは春しか記載がないので、他の季節の記載例をみておく。そこで雄略紀を参照する。 表のように雄略4年には春と秋が同じ年に登場する。2倍歴ならあり得ない事である。
雄略紀の季節記載例                    
大王 季節
雄略 1年 31月
雄略 2年 7月
雄略 2年 10月
雄略 3年 4月
雄略 4年 2月
雄略 4年 8月
雄略 5年 2月
雄略 5年 4月
雄略 5年 7月

百濟記事との比較
応神紀に百濟記事との対応ができる記述が2か所ある。応神25年記事に百済の腆支王(日本書紀では「直支王」という)が薨去したとの記事がある。これは西暦414年である。 日本書紀の干支では294年であるからちょうど120年の違いがある。これは知られている2運の年代遡求である。また応神3年には百済の辰斯王が即位した記事がある。これは西暦で385年である。 応神3年は日本書紀の干支では272年である。百済を基準とした年数の差は113年である。 すなわち応神25年と応神3年と百済歴とは西暦で7年しかずれていない。「二倍年暦説」が正しければ、ここに44年のズレがなければならない。よって「二倍年暦説」は成立しないことは明らかである。

倭国における暦の採用
『日本書紀』に暦の文字が初めて登場するのは欽明十四年(553年)六月、暦博士を交代で来るようにとの記事である(原文:別勅「醫博士・易博士・曆博士等、宜依番上下。今上件色人、正當相代年月、宜付還使相代」)。しかし、このとき始めて倭国に渡来したとは読めないので、その前に暦博士が来ていた可能性もある。で翌年、欽明天皇十五年(554年)二月、求めに応じて百済から暦博士 固徳王保孫らが来日した(原文:別奉勅、貢易博士施德王道良・曆博士固德王保孫・醫博士奈率王有㥄陀・採藥師施德潘量豐・固德丁有陀・樂人施德三斤・季德己麻次・季德進奴・對德進陀。皆、依請代之。)。推古天皇十年(602年)十月、百済の僧観勒が来日し、暦本などを献上し陽胡史の祖玉陳が暦法を習い、大友村主高聡が天文・遁甲を習ったとされる。(『政事要略』(1002年)中の「儒伝に云う」には推古天皇十二年(604年)正月朔、始めて暦日を用いたとされるが、後代資料なので信憑性は薄い)。暦法を習ったと書かれるので、それ以前には暦法をマスターしていなかったと理解できる。 このとき百濟から伝わったのは、元嘉暦とみられる。それ以前は春耕秋収の自然の摂理によって、1年の経過は知っていた。暦法の公式の採用は持統天皇4年(690年)11月に、「勅を奉りて始めて元嘉暦と儀鳳暦とを行ふ」と書かれるところである。『三代実録』貞観三年六月条には持統四年十二月に元嘉暦を使用開始し、次いで儀鳳暦を用いたと書かれる。『日本書紀』の持統十一年八月条と『続日本紀』文武元年(持統十一年)八月条とで朔日干支が異なるのは、『書紀』が元嘉暦を採用し、『続日本紀』が儀鳳暦を採用したことの証明となっている(坂本太郎他(1994)の注)。

参考文献
1.倉西裕子(2003) 『日本書紀の真実 紀年論を解く』講談社
2.宝賀寿男(2006)『「神武東征」の原像』青垣出版
3.高城修三(2000)『紀年を解読する 古事記・日本書紀の真実』ミネルヴァ書房
4.貝田禎造(1985)『古代天皇長寿の謎 日本書紀の暦を解く』六興出版
5. 坂本太郎,井上光貞,家永三郎,大野晋(1994)『日本書紀』岩波書店

武寧王2023年05月11日 21:42

武寧王(ぶねいおう、무령왕/무녕왕、462年 - 523年)は百済の第25代王である。

概要

在位は501年から523年。『三国史記』百済本紀・武寧王紀では牟大王(東城王)の第二子とされている。東城王が高官の加に殺害された後をうけて即位したとする。40歳であった。『三国史記』百済本紀・聖王紀によれば諱を斯摩とする。武霊王が生まれたとされる島の洞窟に説話が伝わる。 日本書紀によれば蓋鹵王の子とされる。諱は日本書紀の記述「嶋」と読みが一致する。しかし史料間で親が異なっている。武寧王陵の発掘の結果、武寧王が東城王や三斤王より年齢が高いことが明らかになっており、現在は『日本書紀』の記録の方が正しいと考えられている。 武寧王は中国「梁」から「寧東大将軍」の爵号を贈られ、百済の全盛期を築いた。

武寧王の生誕

武寧王の生年は武寧王陵墓誌から462年とされている。『日本書紀』では雄略6年(462年)であり、生年は一致している。百済は蓋鹵王の8年である。

  • (『日本書紀』大意)雄略5年6月、加須利君(蓋鹵王)が云うように、妊婦は筑紫の各羅嶋(佐賀県可唐島と言われる)で子を産んだ。名付けて嶋君という。船で国に返した。これが後の武寧王である。
  • (『日本書紀』原文 雄略五年) 六月丙戌朔、孕婦果如加須利君言、於筑紫各羅嶋産兒、仍名此兒曰嶋君。於是軍君、卽以一船送嶋君於國、是爲武寧王。

即位の事情

  • (『日本書紀』大意)百済の末多王(第24代国王、東城王)は百姓に暴虐を働いたため、百濟の国人は王を排除して、嶋王を王に立て武寧王が即位した。
  • (『日本書紀』原文 武烈) 四年夏四月、是歲、百濟末多王無道、暴虐百姓。國人遂除而立嶋王、是爲武寧王。

死去

  • 継体17年(523年)5月、百済の武寧王が死去した。継体18年(524年)1月、聖明王が即位した。
  • (『日本書紀』原文 継体)十七年夏五月、百濟國王武寧薨。十八年春正月、百濟太子明卽位。

武寧王陵

金銀で作られた多様な装身具、金銅製飾履、青銅鏡、中国製陶磁器など4,600点におよぶ多くの遺物が出土した。墓誌石の碑文から、被葬者は百済第25代国王武寧王とその王妃と特定された。三国時代の王陵の中で唯一被葬者が明らかになった墓である。公州宋山里古墳群の一つである武寧王陵は1971年7月、宋山里6号墳の排水工事の際に偶然発見された。武寧王陵と宋山里6号墳は中国南朝の影響を受けて作られた磚築墳でアーチ型の天井をなす石室と羨道を備えた構造である。塼という煉瓦を積み上げた「塼築墓」形式で、煉瓦の紋様から副葬品の種類や配置まで、中国の南朝・梁の形式を完全に踏襲している。

倭国との関り

武寧王と王妃の木棺は、コウヤマキ(高野槙)という日本の九州にしか自生しない木材で作られていた。また『日本書紀』には武寧王(斯麻王)は倭国の佐賀県唐津市加唐島で生まれたと記されている。武寧王陵の副葬品には銅鏡や環頭太刀、翡翠の勾玉など日本との交流を示す数多くの品があった。

参考文献

  1. 太田亮(1942)『姓氏家系大辞典』磯部甲陽堂
  2. 坂本太郎, 井上光貞,家永三郎,大野晋 (1994)『日本書紀』岩波書店
  3. 金元竜2979()『武寧王陵』近藤出版社

臼玉2023年05月11日 22:11

臼玉(うすだま)は細い管を直径より短く切った小玉である。

概要

細い管を輪切りにした形の玉である。臼のような形状である。 滑石製で祭祀用として大量に出土する例が多い。 稲生遺跡ではほとんどの竪穴建物の埋土から臼玉が出土しており、各住居において玉を使った祭祀が行われていたとみられる。 駒沢祭祀遺跡では祭祀遺構である4か所の土器集積遺構のすべてから出土し、特に出土量の多い1号址では900個以上を出土した。

出土例

  • 臼玉 - 三重県伊勢市宇治舘町皇大神宮境内出土
  • 臼玉 - 稲生遺跡
  • 臼玉 - 駒沢祭祀遺跡
    • 滑石でつくられた直径5mm前後、厚さ3mm前後の小さな玉
  • 臼玉 - 中原第1号墳
  • 臼玉 - 城泉遺跡
    • 土坑(穴)の土の中から臼玉が5点出土した。子持勾玉が見つかったのと同じ層位(上層)で出土しており、子持勾玉と一緒にマツリで使われたと考えられる。

参考文献

  1. 大塚初重(1996)『古墳辞典』東京堂出版

対馬国2023年05月12日 16:35

対馬国(つしまこく)は現在の対馬である。東シナ海と日本海の接続部にある対馬海峡に浮かぶ島である。

概要

魏志倭人伝に記載される国のひとつで、狗邪韓国から海を渡ったところにあるとされる。魏志倭人伝の対馬国の記述は簡潔であるが、正確な記述である。「水行」は海沿いの航路を意味し、「渡海」は広い海を渡ることを言う。大官の卑狗と副官の卑奴母離は邪馬台国から派遣された現地の指導者である。対馬国に王がいるかは記載がない。李氏朝鮮時代の『海東諸国記』の記述とほぼ同じである。 魏志倭人伝の版により対馬国の表記が異なっている。紹熙本では「對海國」、紹興本では「對馬國」とする。「魏略逸文」では「対馬国」となっている。紹熙本の表記は誤植と推測される。 対馬国は倭国の1国として登場し、邪馬台国に服属していると記される。位置は博多から120km、壱岐から70km、金海から50kmである。

大意

狗邪韓国から海を渡り千余里で対馬国に至る。その長官を卑狗(ひこ)といい、副官を卑奴母離(ひなもり)という。周囲は400里ほどの離れ小島である。土地の山は険しく、深い森林がある。道路は鳥や獣が通る道のようである。戸数は千余戸ほどである。良田は少ない、海産物を食べて自活し、船に乗って南北から米を仕入れる。(注)市糴は米などの穀物を売買することである。

原文

  • 始度一海千餘里 至對馬國 其大官曰卑狗 副曰卑奴母離 所居絶㠀 
  • 方可四百餘里 土地山險 多深林 道路如禽鹿徑 有千餘戸 無良田 
  • 食海物自活 乗船南北市糴 

弥生時代

弥生中期では浅茅湾一帯に遺跡が分布する。箱式石棺墓が多い。朝鮮半島からもたらされた青銅器が数多く出土する。また北部九州の青銅器の出土も多い。

国邑はどこか

対馬国の国邑に相当する遺跡は長い間分からなかった。しかし三根遺跡において大規模な集落遺跡が始めて発見された。三根遺跡山辺区は対馬西岸の三根湾に注ぐ三根川流域にあって、広さ約4万平方メートル。対馬市教委はこれまでに7000から8000平方メートルを発掘調査した。その結果、100以上の柱穴と、高床建物跡3,4棟分、竪穴住居跡2棟分が出土した。また弥生土器や古墳時代の三根遺跡において大規模な集落遺跡が始めて発見された。三根遺跡の山辺区は対馬西岸の三根湾に注ぐ三根川流域にあって、広さ約4万平方メートル。対馬市教委はこれまでに7000から8000平方メートルを発掘調査した。その結果、100以上の柱穴と、高床建物跡3,4棟分、竪穴住居跡2棟分が出土した。また弥生土器や古墳時代の須恵器、朝鮮系の土器などの破片1万点以上と鉄製釣り針や袋状鉄斧が出土した。弥生から古墳にかけての集落遺跡とみられている。 さらに対馬市峰町大久保の「ヌルヘノ 口 遺跡」からは弥生から古墳時代前期とみられる土器片が複数出土した。別の場所から同時代に朝鮮半島北部で作られたとみられる「 楽浪系土器」の破片1点と、朝鮮半島南部で作られたとみられる「 三韓土器」の破片1点が見つかっている(参考文献1)。

王墓

西谷氏は対馬国の王墓として、下ガヤノキ遺跡を候補に挙げている。「下ガヤノキ遺跡F地点」の箱式石棺の中から弥生後期前半の内行花文鏡2面、年代形式不明の鏡2面が出土している。これらの遺物は石棺墓の副葬品であった可能性が高いとされ、そうした場合は石棺墓が王墓と示唆される。

対馬の主要な遺跡

古墳

  • 根曽古墳群
  • 朝日山古墳
  • 出居塚古墳

参考文献

  1. 「対馬のヌルヘノ口遺跡から土器片」読売新聞、2022年11月3日
  2. 西谷正(2014)「邪馬台国周辺諸国の実像」歴史読本、KADOKAWA

塔の首遺跡2023年05月12日 16:48

塔の首遺跡(とうのくびいせき)は対馬北端の長崎県対馬市上対馬町にある弥生時代後期の墳墓群である。

概要

対馬市の上古里川の西、比田勝港の北東、西泊湾を望む岬上の丘陵の稜線上に所在する稜線上に存在する箱式石棺群である。箱式石棺内に広形銅矛を副葬することは、他の遺跡には見られない特徴である。対馬を代表する有力者の埋葬施設である。

調査

1971年長崎県教育委員会の委嘱で上対馬町教育委員会・長崎県教育委員会・別府大学・長崎大学・九州大学による調査が行われた。第1号石棺はすでに大部分が消滅していた。 第2号石棺は箱式石棺で厚い砂岩板石で築いている。内法で長さ1.5m、北幅0.45m、南幅03mである。 第3号石棺は、砂岩の板石材を多用し、両側壁に銅釧7(左腕4、右腕3)のほか、広鋒銅鉾6が分けて置かれ、別に頭部に土器1、多数のガラス製小玉管玉が副葬されており広鋒銅鉾は時期確定の資料となった。広形銅矛が弥生後期前半には出現していたこと、対馬では広形銅矛を副葬する場合もあったこと、さらに弥生土器と朝鮮半島系土器との年代比較が可能になったことなど、注目すべき重要な副葬品である。敷石を配して整美な形態をとる。 第4号石棺は、最高所にある箱式石棺である。稜線に直交し、内法の長さ1.95m、幅0.45mである。

遺構

箱式石棺墓5基が確認されている。2,3,4号の石棺墓以外はほとんどが破壊されている。

出土遺物

九州大学に保管されている。朝鮮半島系の遺物と、北九州系の遺物が共伴して出土する。

第2号石棺

  • 銅釧1 - 正円に近い径7.3cm、幅0.7cm
  • 水晶棗玉1
  • ガラス玉1400点以上
  • 土器3(足元に副葬)
    • 灰白色の硬い焼きの楽浪・帯方郡系陶質の把手付壺1点
    • 小型甕 1点
    • 赤焼土器 1点

第3号石棺

  • 銅釧 - 楽浪郡の製品、左腕4点、右腕3点
  • 広形銅矛2点 – 奴国産
  • 小壺 – 頭部
  • ガラス製小玉 8000点以上
  • 管玉
  • 歯冠 7点、20歳代女性を埋葬か。
  • 銅矛 – 第1号は長さ89.1cmと長大、第2号は83.8cm。奴国産か。

第4号箱式石棺墓 – 板石組、内法で長さ1.95m、幅0.45m。

  • 方格規矩鏡 1面
  • 鉄斧 1点
  • ガラス製小玉
  • 土器 - 弥生後期前半から中頃のもの、軟質の漢式土器を伴う。

第5号箱式石棺墓

  • 大型壺 1点 -弥生時代後期後半のもの

指定

  • 1977年に国指定史跡に指定。

アクセス等

  • 名称: 塔の首遺跡
  • 所在地:長崎県対馬市上対馬町古里
  • 交通: 対馬空港から車で約2時間10分/比田勝港から徒歩約5分。

参考文献

  1. 大塚初重(1995)「日本古代遺跡辞典」吉川弘文館