Bing

殉葬2023年09月27日 00:31

殉葬(じゅんそう)は首長の死に際して近親者や配下の者が主人の死に際して命を絶つことである。

概要

考古学的には殉葬や殉死を確認した例はない。ほとんどの場合は、日本の土壌は酸性であるため、甕棺にでも入っていない限り、埋められた人骨はなくなってしまう。殉葬の事実が仮にあったとしても証拠が現在まで残る可能性はない。中国では、秦の始皇帝の遺体を墓に入れる時、子供のない宮女は、すべて一緒に埋葬された.とされる。

魏志倭人伝

  • 卑弥呼以て死す。大いに冢を作る。径百余歩、徇葬する者、奴婢百余人。
  • (大意)卑弥呼が死んで径100余歩の大きな墓を作った。奴婢100余人が殉葬された。

日本書紀 巻第六 垂仁天皇

  • (原文 )廿八年冬十月丙寅朔庚午、天皇母弟倭彥命薨。十一月丙申朔丁酉、葬倭彥命于身狹桃花鳥坂。於是、集近習者、悉生而埋立於陵域、數日不死、晝夜泣吟、遂死而爛臰之、犬烏聚噉焉。天皇聞此泣吟之聲、心有悲傷、詔群卿曰「夫以生所愛令殉亡者、是甚傷矣。其雖古風之、非良何從。自今以後、議之止殉。」
  • (大意)11月2日、倭彦命を身狹の桃花鳥坂に葬った。近習者を集めて、全員を生きながら、墓の域に埋めて立たせた。何日か経っても死なないでいて、昼も夜も泣きうめいていたが、ついに死んで朽ちて腐てた。犬・カラスが集まって、それらを食べた。天皇はこの泣きうめく声を聞き、悲しく思った。それで天皇は群卿に言った。 「生きているときに仕えていたからといって、死んで殉死させるのは、痛々しいことだ。古い風習といっても、良くないものに従うことはない。これからは、よく話し合って殉死するのは止めようではないか」

参考文献

  1. 鏡山猛(1946)「日本古代殉葬に就いての一考察 (一)」史淵 35,pp.63-100

仿製鏡2023年09月27日 08:44

仿製鏡(ぼうせいきょう)は中国鏡を模倣製造して製作した倭国製の鏡である。 倭鏡とも言われる。

概要

倭国の弥生時代、古墳時代の鏡が質量ともに優れている。弥生時代の仿製鏡は、前漢鏡を模倣した朝鮮半島経由の鏡を模したもので、品質は劣る。古墳時代には神獣鏡や内行花文鏡,画像鏡などが作られた。 森下章司(1991)は文様の外側の部分にあたる外区文様が時間の指標として有効であることを示し、倣製鏡の編年を組立てた。系列の大きな交代の2つの変化点を見出した。鏡のもつ意味自体が変化したと考えられると主張した。

舶載鏡

中国からもたらされた鏡は舶載鏡という。舶載とは外国から船に積んで運んだという意味である。

魏志倭人伝

  • (原文)特賜汝紺地句文錦三匹 細班華罽五張 白絹五十匹 金八兩 五尺刀二口 銅鏡百枚 真珠 鉛丹各五十斤 皆裝封付難升米 牛利 還到録受  悉可以示汝國中人 使知國家哀汝 故鄭重賜汝好物也
  • (大意)(景初2年(西暦238年)12月詔書に曰く)とくに汝の紺地句文の錦3匹、細班華の罽5張、白絹50匹、金8両、5尺の刀2振、銅鏡100枚、真珠と鉛丹おのおの50斤ずつを下賜し、みな箱に入れ封印して難升米と牛利に託し、持ち帰って目録とともに汝に授けさせる。これらのすべては、それを汝の国のうちの者たちに示して、朝廷が汝らに深く心を注いでいることを知らしめんがためのもので、それゆえことさらに鄭重に汝に良き品々を下賜するのである。
  • (原文)正始元年 太守弓遵遺建中校尉梯儁等 奉詔書印綬詣倭國 拜假倭王 并齎詔賜金帛 錦 罽 刀 鏡 采物 倭王因使上表答謝恩詔
  • (大意)正始元年(西暦240年)、太守の弓遵が中校尉の梯儁らを遺わし、倭國に詣りて詔書・印綬を奉じ倭王に拜假した。また、金帛・錦・罽・刀・鏡・采物をもたらした。倭王は謝恩の上表文を詔した。

参考文献

  1. 森下章司(1991)「古墳時代仿製鏡の変遷とそ の特質」史林74 (6),pp.773-815

舎人2023年09月27日 23:39

舎人(とねり)は天皇や皇族などに近侍し、雑用にたずさわった下級官僚である。

概要

ヤマト王権時代にすでにあった役職と考えられている。

有馬皇子の従者の舎人

蘇我赤兄の裏切りにより有馬皇子が謀反の罪で逮捕された時、舎人の新田部米麻呂が従っていた。有間皇子は絞首となり、新田部米麻呂は鹽屋連鯯魚とともに、藤白坂で斬られた。守君大石と坂合部薬は流罪となった。後の「律」では、絞首より、斬の方が罪は重い。なぜ従者の2名が斬(打ち首)ちなったのか、また有馬皇子と謀反を相談した蘇我赤兄に何のお咎めもないのはなぜか、など不審な点が多い。赤兄の背後にいる中大兄皇子による陰謀説は可能性がある。 なお新田部米麻呂は新田部末麻呂と同じ。

日本書紀

  • (原文 巻第廿六 齊明天皇四年 十一月)舍人新田部米麻呂、從焉。於是、皇太子親問有間皇子曰、何故謀反。答曰、天與赤兄知、吾全不解。
  • (大意)舍人の新田部米麻呂は有馬皇子に従った。皇太子は有馬皇子になぜ謀反したのかと問う。王子はこれに答えて、「天と蘇我赤兄が知っているでしょう、私は知らない」と答えた。

参考文献

  1. 森下章司(1991)「古墳時代仿製鏡の変遷とそ の特質」史林74 (6),pp.773-815