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迎日冷水碑2023年11月26日 22:12

迎日冷水碑/出典:韓国金石文総合画像情報システム

迎日冷水碑(ヨンイルネスピ,영일냉수비l)は503年に建立された新羅で最古の古碑である。

概要

1989年に大韓民国慶尚北道迎日郡(現在は浦項市と合併)神光面冷水里で発見された石碑である。「道路工事現場で昔の碑石が出てきたという申告を受け、国立慶州文化財研究所に移し分析した結果、新羅古碑石であることを確認した」とされる。高さ67cm、幅72cm、厚さ25~30cmの台形状である。大韓民国の国宝第264号(迎日冷水里新羅碑)に指定されている。 花崗岩を一部加工して前面・裏面・上面に文字を刻んだ特殊な形の古碑であり、前面12列152文字、裏面7列59文字、上面5列20文字などともに231文字がほぼ鮮明に残る。陰刻されている。新羅王が葛文王をはじめとする中央の貴族の合議により、冷水という土地の近くにあ財産に関する紛争を丸く収めたという内容である。

年代

碑文記載の癸未年は503年または563年であるが、碑石の官職名が561年に建てられた昌寧真興王拓境碑に出てくる官職名よりさらに古いので503年(智證王4年)が妥当である。

新羅王

新羅王は「智証麻立干」であるが、『三国遺事』では智哲老王・智訂麻立干と記載される。新羅の第22代の王(在位:500年 - 514年)であり、姓は金、諱は智大路、または智度路、智哲老。碑文では、「至都盧葛文王」と記載される。智証王は500年に王として即位したが3年後の503年に葛文王を称している点が注目される。斯羅は当時の新羅の国名であるが、503年に「新羅」を正式な国号としたので切り替わりの時期である。至都蘆は智証の異表記である。

原文

(表面)

  • 斯羅喙斯夫智王乃智王此二王教用珍而
  • 麻村節居利爲證尓令其得財教耳
  • 癸未年九月廿五日沙喙至都盧葛文
  • 王□徳智阿干支子宿智居伐干支
  • 喙尓夫智壹干支只心智居伐干支
  • 本波頭腹智干支斯彼暮斯智干
  • 支此七王等共論教用前世二王教
  • 爲證尓取財物盡令節居利
  • 得之教耳別教節居利若先
  • 死後令其第兒斯奴得此財
  • 教耳別教末鄒斯申支
  • 此二人後莫更道此財

(裏面)

  • 若更道者教其重罪耳
  • 典事人沙喙壹夫
  • 智奈麻到盧弗須仇
  • □喙耽須道使心公
  • 喙沙夫那斯利沙喙
  • 蘇那支此七人□所白了
  • 事殺牛抜誥故記

上面

  • 村主臾支干
  • 支須支壹
  • 今智此二人世中
  • 了事
  • 故記

大意

斯羅の斯夫智王と乃智王が麻村節居利という人物の財産所有を認めた。 503年9月25日、至都盧葛文王(智証麻立干)以下中央の六部出身の高位官僚の7人(徳智阿干支、本波頭腹智干支、宿智居伐干支、喙尓夫智壹干支、只心智居伐干支、支斯彼暮斯智干支)が以前になされた二王の決定事項を再確認しながら麻村節居利が死んだ後、弟兒斯奴が財産を相続することと、末鄒・斯申支はこの財産には関与しないことを決定した。中央から派遣された官僚7人が上級官僚7人の決定事項を執行しながら牛を殺して天に報告する儀式を行い、宣告した事実を記録した。

問題点

国王だけでなく会議に出席する全メンバー7人を王と呼んでいることが挙げられる。当時の新羅は豪族の連合政権であった。集団のメンバーは「七王」と呼ばれており、全員が王であった。

アクセス情報

  • 名称:迎日冷水碑
  • 所在地:慶尙北道 浦項市 神光面 冷水里 山78-3
  • 交通:

参考文献

  1. 李成市(2000)『東アジア文化圏の形成』、山川出版社
  2. 武田幸男編(2000)『朝鮮史』、山川出版社
  3. 鈴木秀夫(1989)「動向と展望-最近発見の韓国の古代四碑について」『国史学』139
  4. 木村誠(1992)「朝鮮における古代国家の形成」『新版古代の日本 アジアから見た古代日本』角川書店
  5. 迎日冷水碑釈文一覧,立教大学

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